夕礼拝

墓場から家へ

「墓場から家へ」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第30編1-3節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第5章1-20節
・ 讃美歌:37、356

<男の状況>
 本日、共に聞く聖書箇所には、主イエスが一人の悪霊に取り憑かれた人を救われた出来事が語られています。

 この一人の男は、「レギオン」、「大勢」という名前の、汚れた霊に支配されていました。
 この汚れた霊は、男を暴れさせ、家族や友人から男を引き離しました。
 強力な力に支配された男は、鎖や足枷で縛られても、それを引きちぎり、砕いてしまった、とあります。かつては、この激しい力で、人を攻撃したのかも知れません。危険を感じた周囲の人々が、彼の身動きを取れないようにしたのでしょう。しかし、それも無駄でした。
 誰も手が付けられなくなり、彼は、人々と共に生きることが出来なくなりました。
 そのために、墓場を、住まいとしていた、とあります。
 ここで言う墓場というのは、日本のような、地面に掘られた穴に石で蓋をするようなお墓とは違って、岩などに横穴を掘ったもので、雨露をしのぐことが出来たのです。
 しかし、墓場は死人を葬る場所です。人の生活から、切り離された所です。人が最も恐怖を抱く「死」が満ちていて、自分から最も遠ざけたい場所です。
 汚れた霊の力によって、人との関係を築けなくなったこの人は、家族からも、友人からも離れて生きるしかありませんでした。彼は、共同体から切り離され、死んだも同然でした。彼は墓場で、一人で叫び、その行き場のない破壊的な力を自分に向けて、石で自分を打ちたたいていた、とあります。

<汚れた霊の支配とは>
 この男の状況を分析して、これはある精神病だったではないかと言う人がいます。しかし、そのようなことを説明しても意味がないし、聖書はそのようなことを伝えたいのではありません。
 ここでは汚れた霊の、つまり、人を神から引き離そうとする力の、人間に対する圧倒的な強さが示されています。この汚れた霊の名である「レギオン」とはローマの軍隊を表わす言葉で、5000~6000人ほどで構成された部隊のことを言うそうです。
 そのようなとんでもない数の汚れた力が、一人の人間の中に入っていたのです。その力は、2000匹もの豚に乗り移って、溺死させたという様子を見ても、どれほど凶暴で、破壊的な強い力であったのかが分かります。このような力に、一人の人間が太刀打ちできるはずがありません。単純に考えれば、一人対5000人で戦うようなものです。一人の人が5000人の兵士に勝てるはずがありません。
 人は、そのような悪い恐ろしいものに、自分を明け渡してしまい、支配されることがあります。その圧倒的な支配によって、人は、神に対して、そして周囲の人々に対して、罪を犯すことがあるのです。

 わたしたち人間は、神に造られました。ですから、わたしたちは、神のものであり、いつも神のご支配のもとにいることが、最も平安で、最も自由なはずなのです。
 しかし、わたしたちが「神から離れようとするとき」、神を中心に歩むべき人生を、自分中心に歩もうとする時、わたしたちは罪に支配され、いとも簡単に、神以外のものに、自分を委ねてしまいます。
 マルコの7章21~22節には、人間の心から出てくる「悪い思い」のリストが載っています。それはみだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口(あっこう)、傲慢、無分別…
 わたしたちの中に、悪意がひとかけらもないと、言えるでしょうか。妬みや傲慢とは無縁だと言えるでしょうか。人は、神から離れた一瞬の隙に、これらの悪いものの圧倒的な力に支配され、引きずりまわされ、人も、自分もボロボロに傷つけ、滅びへと向かってしまうのです。
 この男は、ある特別な不幸な人なのではありません。わたしたちも神から離れてしまったとき、自己中心に生き、心に悪い思いが出て来る時、この男のように、いつのまにか自分でも思いもよらない圧倒的な力に支配され、滅びへと向かってしまうかも知れないのです。

<主イエスの支配>
 主イエスは、そのような圧倒的な力に支配されてしまった男に、ご自分の意志で会いに来られました。この男がいた場所は「ゲラサ人の地方」であったと書かれています。ここは、ユダヤ人である主イエスや弟子たちにとっては、異国の地でした。
 そこへ、先週お読みした4章35節にあったように、主イエスが「向こう岸へ渡ろう」と言って、弟子たちを強いて舟にのせ、嵐の中の湖を渡り、この地へやってこられたのです。この汚れた霊に支配された、異邦人の一人の男と出会うために、救うために、主イエスは、来て下さったのです。

 5章6節に、男は主イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し大声で叫んだ、とあります。汚れた霊は、主イエスが、5000人の兵士の力を持つ自分たちよりも、強い方であると知っていました。しかし、ひれ伏したのは、決して礼拝したのではなく、ただ自分たちの身を守ろうとしただけです。汚れた霊は、叫びます。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
 かまわないでくれ。わたしと関わらないでくれ。それが汚れた霊の願いです。
 神から、主イエスから、離れることを願うのです。しかも、これは、取り憑いた人をも、自分たちと共に主イエスから引き離す、汚れた霊にとっては格好の願いであり、目的です。人を神から引き離し、罪を犯させるのが、悪霊、汚れた霊の働きだからです。

 しかし、主イエスは、汚れた霊がこの人を支配し続けることを、お許しになりませんでした。主イエスは、「汚れた霊、この人から出ていけ。」と命じられます。
 主イエスは汚れた霊に名前を尋ねます。古代では、悪霊の名前を知ることは、悪霊を支配することであるとされていました。
 主イエスの前で「レギオン」と自分の正体を名乗ったこの汚れた霊は、名を告げた時点で主イエスに降参した、支配されたと言えるのです。
 それでも、自分たちを地方から追い出さないでくれ、と言って、豚に乗り移ることを願い、2000匹もの豚を滅ぼしていきました。救われた男は、もし主イエスと出会わなければ、2000匹もの豚を死に追いやる、レギオンの破滅的な力によって、必ず死に至っていたでしょう。

 ここでは、そのレギオンを退ける、主イエスの圧倒的な支配と、神の子の権威が、力強く示されています。主イエスは、汚れた霊の支配から、この男を神のご支配のもとに取り返し、ご自分のものとなさったのです。
 それは主イエスがずっと宣べ伝えておられることでした。「神の国は近づいた」「神のご支配が実現する」。それはまさに、主イエスご自身によって実現するのです。

 すべてを支配されるこの方だけが、わたしたちの主であると、聖書は告げています。
 多くのものに心を奪われ、誘惑され、罪に支配されるわたしたちです。
 しかし、主イエスは、わたしたちを救いに来て下さり、ご自分のものとして下さいます。神の子であるこのお方が、すべての人を罪から解放するために、人となって来て下さり、十字架の死によって、その命を代償として、わたしたちを買い取り、神のものとして下さったのです。そしてこの救いは、イスラエルの民だけでなく、ゲラサの男が救われたように、異邦人にも、世界のすべての人にも及ぶ救いである、ということが示されています。
 ですから、わたしたちも、この方の救いを信じるなら、この方の恵みに支配していただくなら、もはや罪の支配のもとにはいません。十字架による救いの御業は成し遂げられました。そして復活し、今も生きておられる主イエスが、ゲラサの一人の男のために来て下さったように、わたしたち一人一人のもとに来られ、出会い、罪から救い出して下さるのです。

<町の人々>  
 そして、これは、一人の男だけの話ではありません。  
 もう一つ注目すべきは、町や村の人々です。かつては、この男と共に生活をしていた共同体の人々です。恐らく、男の様子に恐怖し、嫌悪し、自分たちを守るために、男を鎖で縛ったり、足枷をはめたりした人々です。しかし彼らを、一概に悪い、冷たい人々だと言うことは出来ないでしょう。汚れた霊に取りつかれていた男の暴力は、自分や、大切な家族や、友人にも危害を及ぼす可能性があったのです。  
 墓場に行った男の叫ぶ声は、夜な夜な近隣の町や村まで聞こえてきたかも知れません。それは大変恐ろしく感じるものだったのではないでしょうか。  

 その町や村の人々に、飼っていた豚を2000匹も失った豚飼いたちが、起こった出来事を知らせにいきました。豚飼いたちも自分たちの生活の糧を失って、パニックだったに違いありません。この人たちからしたら、迷惑極まりない話なのです。彼らは人々に、男に起こったことと、死んだ多くの豚のことを伝えました。  

 話を聞いた人々は、出来事を確かめにやってきました。かつて暴れ狂っていた男。おそらく体は、自分で傷つけた傷で、血だらけでボロボロだったでしょう。しかし、彼は今その体を服で包み、静かに主イエスのそばで座っているのです。彼らはその横の湖に、溺れ死んだ豚の大群を見たかも知れません。
 人々は、その様子を見て、男が良くなった、正気になった、と喜んだのではありませんでした。「恐ろしくなった」と書かれているのです。人々は目で見て、耳で聞いて、事実を確認し、恐ろしくなり、主イエスに「出て行ってもらいたい」と願ったのです。  

 これは、他の聖書箇所に書かれている主イエスの病人の癒しと対照的です。その多くは、病気を癒してもらいたい人々が主イエスを追いかけてきて、殺到しています。
 しかしここでは、主イエスに、恐ろしいので、自分たちから離れて欲しいと願う。自分たちが住んでいる地方から、出て行ってくれと言う。それはまるで、「かまわないでくれ」と叫んだ悪霊と同じようではないでしょうか。  

 病人の癒しの場面では、主イエスのもとへ病人を連れてくる人は、子どもの親であったり、友人であったり、大切な人を何とか癒して欲しいという、愛と切実な願いを持って、主イエスのもとへやってきました。
 しかし、この男は、家族からも友人からも遠ざけられ、墓場に放置され、孤独の中にいた人でした。主イエスは、そのような人もお見捨てにならず、見つけ出し、救い出して下さったのです。
 しかし、この男との関わりを断っていた町や村の人々は、この男の回復を、共同体への復帰を、もはや共に喜ぶことが出来ませんでした。ただ、男と豚の奇怪な出来事に、自分たちの想像を超えた出来事に、恐怖を感じただけだったのです。
 わたしたちはここにも、自分のことしか考えられず、隣人を愛することが出来ない、人の深い罪の姿を見るのではないでしょうか。そして、それは自分の姿であるかも知れません。

 成り行きを見ていた人たちは、やってきた町や村の人々に、「悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った」とあります。
 一人の男が悪霊から解放された出来事と、2000匹の豚が失われた出来事。人のことと、豚のことが一緒に知らされています。豚飼いからすれば、男のことよりも、むしろ豚の出来事の方が、自分の生活に関わる重要なことだったのかも知れません。
 そして、主イエスにその地方から出て行ってもらいたいと言い出した。救われた男は、一体どのような思いで、この主イエスと人々のやり取りを見ていたのでしょうか。

<家に帰りなさい>
 主イエスは、人々が願ったように、その地方を離れるために舟に乗られました。
 その時、「悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った」と書かれています。
 救われた喜びのあまりに、そう願ったのかも知れません。しかし、それだけではないように思うのです。この人からすれば、自分を助けて下さった方が、人々に恐れられ、厄介払いのように、出て行ってもらいたいと言われている。町や村の人々は、主イエスも、自分も受け入れていない。誰も、汚れた霊からの解放を、共に喜んでくれてはいない。
 男は、もう主イエスのもとにしか、自分の居場所はないと、感じたのではないでしょうか。  

 しかし、主イエスは、男がご自分と一緒に来ることを、お許しになりませんでした。
 主イエスは、こう言われました。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことを、ことごとく知らせなさい。」
 墓場に住んでいた男に、家に帰りなさい、と言われる。彼を足枷や鎖で縛り、遠ざけた人々に、主イエスがなさったことを、知らせなさい、と言われるのです。

 どうして主イエスは、一緒に行くことを許して下さらなかったのでしょうか。
 他の箇所では、弟子たちは家族を置いて、家を捨てて、主イエスに従ってきているのです。それに、むしろこの人にすれば、家を捨てるより、家に帰ることの方が、辛く心苦しいことであったかも知れません。
 また、男の家族からすれば、この男はこれまで死んだも同然だったのです。汚れた霊に取りつかれ、恐ろしい力で暴れ、たくさんの人に迷惑をかけた。そして墓場という気持ち悪い所に住んでいた。しかも人々の話しでは、汚れた霊を追い出してもらう時に、豚を2000匹も死なせたという。家族にしても、男が帰ってくることに、困惑も、恐れもあったのではないでしょうか。

 しかし、主イエスは、救われた男を、家族へのもとへ帰されます。ただ帰すのではありません。「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことを、ことごとく知らせなさい」という使命を与え、男のなすべきことを命じられたのです。神の救いの知らせを告げるために、家族のところへ行きなさい、というのです。ご自分の許から、彼の家へと派遣されたのです。

 男は主イエスに従いました。共に旅をして付いて行く、という形ではありませんが、主イエスのご命令に従うという形で、この男は主イエスにまことに従い、主イエスと共に歩んでいくことになるのです。
 男は、主イエスに、単純に一緒に行くことを断られたのではありません。男は主イエスのもとに本当の居場所を得たからこそ、主イエスによって送り出されるのです。これからいつでも、この男が帰るべきところは、主イエスの御許です。男はそのことが、よく分かったのではないでしょうか。
 そして男は送り出され、主にあって新しい生き方をし、主にあって人々との新しい人間関係を築いていくことが出来るのです。主イエスは破れてしまった男の人間関係も回復させようとなさいます。主イエスに「かまわないでほしい」と願った人々のためにも、主イエスはこの男を遣わされます。救われた男の存在そのものが、主イエスの力を、神のご支配を指し示す存在となるのです。

<派遣、宣教>
 男は家族を、友人を、人々を主イエスのもとへ招くために、家へ帰り、そして町や村へと向かいます。それは男にとって厳しい歩みかも知れません。しかし、主イエスの救いは、この男一人に留まろうとしないのです。
 主イエスの恵みは救われた一人の人から家族へ、隣人へ、そしてその地方へと広がっていきます。主イエスの救いの出来事が伝えられ、受け止められた時、敵のようだった人々は、主にあって、まことに兄弟姉妹となることができるのです。
 この汚れた霊から救われた男は、身内だけでなく、ことごとくデカポリス地方という広い範囲の地域で、主イエスのご命令以上に、人々に主イエスの出来事を宣べ伝えた、と語られています。  
 男は、行動は主イエスとは共にしませんでしたが、弟子たちと同じように、確かに主イエスの恵みを携え、主イエスと一緒に歩む者、従う者とされたのです。

 わたしたちも、罪と死に縛りつけられ、自分ではどうすることも出来ないところに、主イエスが来て下さいました。そして、この方がわたしたちを解放し、罪も死も打ち破り、十字架と復活の出来事によって、わたしたちを救い出して下さったのです。
 主イエスのもとに居場所を与えられた者は、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と命じられます。
 まずは、最も近い隣人へ、家へ、友人へ、神様の憐れみを、救いをことごとく知らせるために、主イエスは遣わして下さるのです。
 わたしたちは、主イエスのもとにまことの居場所を持つからこそ、そこからそれぞれの与えられた場所へ遣わされて、救われた自分自身を、主イエスの恵みの証しとしていくことができるのです。

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