夕礼拝

安息日の主

「安息日の主」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; イザヤ 45:14-25
・ 新約聖書; ルカによる福音書 13:10-17

 
1 会堂で教える主イエス 
 ある安息日に、主イエスは会堂で教えておられました。ここに出てまいります会堂というのはユダヤ教の会堂であります。当時はこういう会堂と呼ばれる建物が各地に建っていて、人びとはそこで礼拝を捧げていたのです。そこでは会堂長と呼ばれる人が礼拝をつかさどり、適当な人に祈りと聖書朗読、また勧めの言葉を語ることを求めて、それによって礼拝が行われていたようです。特に誰が御言葉を語る、ということがはっきりと定まっていたわけでもないらしい。主イエスもまた、安息日にはこの会堂に入り、礼拝を守られた。礼拝の中で主ご自身が聖書を朗読し、またお語りになるということもあったのです。
 ただ今読まれましたのは、このルカ福音書の中で、主イエスが会堂において教えておられる場面を描いている箇所としましては最後のところにあたります。この後、ルカ福音書の中では、主が会堂で教えておられる場面は出てまいりません。では逆に、最初に会堂で教えておられる主のお姿が語られるのはどこか。それは主が公のご生涯を始められた一番初めなのです。この福音書の第4章です。荒れ野で悪魔からの誘惑を受け、これに打ち勝ち、主はガリラヤで伝道を始められます。お育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとして立たれた、とあります。そこで渡された、預言者イザヤの巻物を朗読されたのです。イザヤ書61章の御言葉であります。「主の霊がわたしの上におられる。 貧しい人に福音を次げ知らせるために、 主がわたしに油を注がれたからである。 主がわたしを遣わされたのは、 捕らわれている人に解放を、 目の見えない人に視力の回復を告げ、 圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである」(4:18‐19)。この預言の言葉を読まれた主は、続けてこう宣言されたのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)。

2 今日、実現した
 主イエスが「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とおっしゃった。そこから私たちの礼拝も始まっているのではないでしょうか。私たちはこの礼拝に生きるたびごとに、この主イエスの宣言を新しく聴き取るのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」、と。過去においてそうだった、というのでも、将来実現する時が来るかもしれない、というのでもない。誰かほかの人について当てはまることが言われているのでもない。まさにこの私の身において、今日神の言葉が実現している、礼拝の只中でそういうことが起こっている。主イエスが私たちのところに来てくださったということは、ずっと待ちわびてきた救い主が、今私たちのところに来てくださったということです。このお方が語り、働いておられるということは、神が今ここで語り、働いていてくださるということなのです。神自らが預言の言葉を読み、その実現を宣言される。これ以上の慰め、これ以上の喜びはないのです。

3 病の霊に取りつかれた女
 この日、会堂で教えておられる主イエスが気づかれたのは、18年もの長きにわたって、病の霊に取りつかれていた女性でした。聖書の登場人物と出会っていつも思わされますのは、そこに出てくる多くの人たちが、重荷を背負って生きてきた、その苦しみの年月の途方もない長さです。皆12年とか、18年、あるいは38年といった長い間にわたって、人知れず悩み苦しみを身に負って生きています。あるひとつの重荷を背負ってしまうことになったがために、そのことにとらわれてしまい、他の何も見えなくなってしまうことが起こるのです。この女性の場合、その重荷は病の霊に取りつかれ、腰が曲がってしまったまま、どうしても伸ばすことができなくなってしまったことでした。おそらくは背骨の骨が柔らかくなってしまうことによって背筋がまっすぐに伸ばせなくなってしまう病気であったのだろうと考えられています。実に18年もの間、この女性はこの病に苦しめ続けられてきたのです。腰が曲がってしまうということによって、この女性が背負い込んだ重荷は大変なものであったと思います。腰が曲がっていることによってお腹にかかる負担も大きく、内臓の調子だって悪くなっていたであろうと思います。また腰の曲がったその姿を醜いとし、蔑んで見る人もきっといたでしょう。この女性自身、自分がそんな姿になってしまったことを受け入れられずに長いこと苦しんできたに違いないのです。まだ若い年齢だったとしたら、いっそうのこと、恥ずかしく、つらいことであったでしょう。心の押しつぶされるような思いで、まわりの人がじろじろと見る、その視線に耐えていたことであろうと思います。しかしこの女性は安息日に、とにもかくにもこの会堂に来ていたのであります。あるいはもはや家族からも見捨てられ、この会堂でいつも過ごしていたのかも分からない。いずれにしましても安息日ごとにここで礼拝を守っていたのでしょう。あまり人目につかない隅っこの方で、隠れるようにして礼拝を守っていたのでしょう。神の憐れみを求め、神の救いを祈り求めつつ、ひっそりとこの18年間、耐え忍びつつ、歩んできたのです。
 主イエスは御言葉を語りながら、この女性に目を留められました。そしてこの女性を見て、呼び寄せたのです。人の目につかないように、うずくまるようにして隅に体を丸めながら、しかしじっと主のお語りになる御言葉に耳を傾けていたであろうこの女性は、この主の招きの言葉によって、人々の真ん中に立たされたのであります。女性はどんなにかびっくりしたであろうと思います。ここで使われている「呼び寄せる」という言葉は、「招く」、「語りかける」という意味を持つ言葉です。文字通りには、「相手に向かって声を発する」という意味です。私は思います。この女性は確かに安息日にこの会堂で礼拝を守っていた。神の憐れみを祈り求めていた。けれども心のどこかでは、自分はもう駄目なんじゃないか。癒されることもないのではないか。今までと同じ毎日が続いていくだけなのではないか。半ばあきらめたような気持ちになっていたのではないか。礼拝の中でも、今語られていることが、まさにこの自分の身の上に起きることなのだとはとても思えない。御言葉が告げることと、自分自身の現実との間に、大きな開き、克服できない大きな溝が横たわっている、そんな思いになっていたのではないでしょうか。だから時には説教の言葉もうつろに響いているばかりということもあったであろうと思うのです。

4 婦人よ、病気は治った
そんな時、女性をはっと我に返らせ、今ここに始まっている恵みのご支配に目を開かせる言葉が、彼女のもとに届いたのであります。それが主イエスの招きの言葉、隅にうずくまっていた者を呼び寄せる招きの言葉なのです。ご自分のもとへと女性を呼び寄せた主イエスは宣言されました。「婦人よ、病気は治った」(12節)。ある国の翻訳に従うなら、ここはこうも訳せます。「婦人よ、あなたは既に病気から自由になっている」。さらに文語訳ではこう訳されておりました。「女よ、なんぢは病より解かれたり」。すでに済んでいることとして語られているのです。この女性の苦しみは過去のものとなっているのです。主はおっしゃいます。「もはやあの病の霊はあなたを苦しめることはない。すべての苦しみと悩みはもはや終わっている。あなたは既に自由となっており、あなたをとらえ苦しめていたものからは解き放たれているのだ。あなたは自らの病の中で、そのあまりにも長きにわたる悩み苦しみの中で、今まさに始まっている神の恵みのご支配が見えなくなっていた。神の憐れみの確かさに疑いを抱いていた。もう駄目なんじゃないかとあきらめかけていた。しかし安心しなさい。私が来たのだ。ここに来て、あなたに語りかけている。あなたをわたしのもとに招き、立ち上がらせるために、わたしはここに来たのだ」。
 この語りかけの中で、主は、女性の上に手を置かれるのです。既にこの女性の中に与えられている自由、この女性の中に息づき始めている神の恵みのご支配に、彼女自身が気づくように促されるのです。自分の中に始まっている神のご支配に、素直に従って生き始めるように手を置いて、力を注いでくださるのです。
 女性は自分の中に既に始まっている神の恵みのご支配を、主イエスの支えの中で素直に受け入れることができた時、たちどころに腰がまっすぐになったのです。そして彼女は神を賛美し始めたのです。それはこの女性の中に起こった真実の礼拝の回復だ、そう言うこともできると思います。もはや遠くでうつろに聞こえている説教の言葉ではない。今、ここで、この私を生かし、支え、立ち上がらせる言葉、それが主イエスの言葉なのです。「まっすぐになる」という言葉は「建て直す」という意味をも持っています。まさに彼女は御言葉の光の中で、自らの人生を建て直すことができたのです。女性が受けたのと同じ、この御言葉に招かれて、私たちも主の日の礼拝ごとに、今ここで神の恵みのご支配が自らのうちにも既に始まっていることを喜ぶのです。

5 会堂長の憤り
 ところがこの出来事を一緒になって喜ぶことができない、むしろ快く思わない人がいました。こともあろうに、と言うべきでしょうか、礼拝を司る立場にあった会堂長であります。この人は腹を立て、憤ったのです。いったいなぜでしょうか。この日が安息日であったからです。働いてはならない、休むべき日であったからです。この出来事を起こされたのは主イエスご自身です。別に女性が癒してほしいと、主イエスの前に進み出たわけでもありません。すべては先立ち導く主の御業の中で起こったのです。しかし会堂長は直接面と向かって主イエスを非難することがはばかられたのでしょう。主イエスではなく、群衆に向かって言いました、「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」(14節)。安息日に人を癒すこと、また癒してほしいと願い出るような行為は、安息日に仕事をしてはならないという、神の戒めを破ることになると言っているのです。彼は、主イエスに扇動された群衆が、礼拝の秩序を乱すことを恐れたのかもしれません。あるいは神の定めがないがしろにされた出来事が、自分の責任の下にある礼拝の中で起こったでことが分かったら、後で自分が上司から責められると恐れたのかもしれません。そこで慌てて群衆をこのように戒めることで、実際に癒しの業を行われた主イエスご自身をも間接的に非難しているのです。
 主イエスは厳しいお言葉をもってこの会堂長の非難にお応えになりました。「偽善者たちよ」、と。「偽善者たち」と複数形で言われています。主はここで会堂長一人だけではない、会堂長に代表される律法学者やファリサイ派と呼ばれる人々、神の戒めを用いて、人を判断し評価し、裁くための道具として使っている人々全体を問題にしておられるのです。この会堂長、あるいはこの人に代表される律法学者たちの「偽善」はどこにあるのでしょうか。彼らが教えていた律法に拠れば、牛やろばを飼い葉おけから解いて、水を飲ませに引いていくことは許容されていたらしいのです。いろいろな律法解釈が実際にはあったようですけれども、安息日ではあっても、牛やろばを引いていって水を飲ませることが許されていたことは大いにあり得ることだと思います。なぜなら、そもそもこの安息日を定めている十戒の中に、こういう定めが出てくるからです。「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(出エジプト20:8-10)。そもそも安息日というのは、自分だけが休めればそれで事足れり、という日ではないのです。息子も、娘も、男女の奴隷であっても、さらには家畜さえも、旅人であっても、皆同じように与かるべき神の祝福、それが神の安息だと言っているのです。それゆえに会堂長たちは安息日であっても、牛やろばを水のみ場に連れて行くことをよしとしていた。安息日は自分だけよければそれですむものではない。まわりの人々、生き物すべてと共に与かることが目指されていなければならない。そのことをよくわきまえていたはずなのです。

6 主イエスの問いかけ
 そこで主イエスは問われるのです。家畜でさえもそうであるとするならば、この女性が今まっすぐに立ち上がることができるようになったことを、どうして一緒に喜べないのか。一人の女性が心までも固くなって御言葉を聴くことが難しくなっていた時に、主の招きによって新しく立ち直ることができた。その人生を建て直すことができた。真実の礼拝を取り戻すことができた。一方で家畜が安息に与かることができるようにという心配りを教えるあなたたちが、なぜ他方では、それにも勝るに違いないこの女性の新しい歩みを、不愉快に思ってしまうのか。家畜の一日の渇きにさえ、配慮できるはずのあなたたちがなぜ、18年もの長きにわたって曲がった腰に苦しめられ続けてきた女性の癒しを、共に喜べないのか。あなたたちがこの女性と礼拝をする群れとして共に歩んできたのならば、女性の苦しみを理解し、共に祈る歩みを続けてきていたならば、この人が癒された時、会堂には皆の喜びが満ち溢れたはずではないのか。そうでないのは、表面では神の戒めを尊んでいるように見えながら、心の奥底では自分の好き嫌いに支配されているからではないのか。律法の権威を担う者としてのプライドで動かされていることにはならないのか。家畜を縄目から解くことは知っていながら、どうして苦しみから解き放たれた女性を、なおサタンの束縛に引き戻そうとするようなことをするのか。わたしが解いたものを再び繋ぎとめようとするのか。そこにあなたの偽善があるのではないか。律法によって教えていることと、思っていること、実際にしていることとの間に分裂があるのではないか。まさにイザヤが預言したように、捕らわれている人が解放を告げられ、主の恵みの年が目の前で告げられているのに、どうしてそのことを見ようとしないのか。そのことを見ずしてあなたたちが捧げている礼拝とは一体何なのか。これが主からの問いかけなのです。
 この女性も「アブラハムの娘」なのです。アブラハムから始まる神の民の一員なのです。神が選び、招き、祝福と平安に、神の安息に与からせようと欲しておられる、その一人に違いないのです。「安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」。ここに主イエスの御心、すなわち神の御心が表れています。「やるべき」と訳されている言葉は、「そうなるのが当然だ」、「それが神の望んでおられることだ」という意味の言葉です。神のご決断、神のご意志、神が強くそう願っておいでになることを現す言葉なのです。共に神の安息に与かること、それこそが神の御心なのであり、神のご意志なのです。安息日が目指すところです。そこを受け止めないで、律法が人を裁き、主の恵みから遠ざけるための道具になり果てるとき、主はまことの神の安息のために立ち上がって、歪められた律法の理解と戦われるのです。

7 安息日の主
 私たちはこの会堂長たちの姿を、なにか自分とは関係のない、主イエスにしかられた悪い人たちだ、などと他人事のように見てはならないと思います。なぜなら私たちもまた、しばしば自分のことのみに思いが向いてしまい、共に礼拝を守る他の人たちに思い及ばなくなるからです。かつては失われていた「アブラハムの子」であったところを、主に呼び出だしていただき、癒していただき、立ち上がらせていただいたことを、忘れてしまうからです。そうして共に神の安息へと招かれているはずのまわりの人について、そのよしあしを論じたり、心の中で裁いたり、さげすんだりし始めることがあるからです。その時私たちは、せっかく罪から解き放っていただいた自分自身を、再び罪のくびきのもとに繋ぐようなことをしているのではないでしょうか。せっかくいただいている神の恵みを無駄にして、神の安息から自らを遠ざけていることになるのではないでしょうか。
 預言者イザヤはそのような者は結局自分を偶像にしてしまっているのだと言ってこう預言しました。「偶像を造る者は辱めの中を行き 皆共に恥を受け、辱められる」(45:16)。あの会堂長が恥じ入ったようにです。癒していただかなくてはならないのは、この女性と喜びを分かち合うことのできない私たちの頑なな心なのです。しかしこれもまた主の招きです。主の招きは、この会堂長にも向けられていることを私は信じています。「偽善者よ」とお叱りになることによって、主はしかし、私たちの中にある悪霊を追い払い、私たちを立つべき恵みの中へと引き戻してくださるのです。あの女性と同じ癒しと祝福に私たちも招かれています。「安息日にはいけない」のではない。むしろこのような癒し、新しくされることが起こることこそ、主の日、安息日にふさわしいことなのです。そのようにして会堂長、また私たちも失いかけていた真実の礼拝を、主ご自身が取り戻してくださるのです。主イエスは私たちを、歪められた律法の理解、人の救いを喜べない、自分の栄光ばかりを追い求める心から救い出すために、十字架にかかって死んでくださいました。その主の身代わりの死によって、自分へのこだわりから解き放たれ、神の恵みに打ち開かれ、共に礼拝を守る隣の人に心を開かれているのが私たちです。主の復活の命に与かって、神と隣人との交わりに生きる、新しい歩みに生き始めているのが私たちなのです。そのような神の民の一員とされているのが私たちなのです。礼拝は、この恵みの中へと新しく解き放ってくださる主の招きの御声を聴く時です。主が戦い取ってくださる真実な礼拝に与からせていただき、神の安息にすべての神の民と共に与かるときなのです。
 その時、イザヤの預言が実現するのです。「地の果てのすべての人々よ わたしを仰いで、救いを得よ。 わたしは神、ほかにはいない。 わたしは自分にかけて誓う。 わたしの口から恵みの言葉が出されたならば その言葉は決して取り消されない。 わたしの前に、すべての膝はかがみ すべての舌は誓いを立て 恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。 主に対して怒りを燃やした者はことごとく 主に服し、恥を受ける。 イスラエルの子孫はすべて 主によって、正しい者とされて誇る」。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、心萎えはて、あなたの御声を聴くことができなくなっているとき、どうかあなたが戦い取ってくださっている真実な礼拝の中に、再び立たせてください。そこで今既に私共の中に始まっているあなたの恵みのご支配に気づかせてください。そしてあなたに招かれた私共が、あなたが備えてくださっている安息日の祝福と平安に、ともどもに与かることができますように。一人の人があなたの御言葉によって立ち直る時、天の上であふれる喜びを、私共もまた主のからだなる教会において、分かち合うことができますように。そのような神の安息にともに与かるために、互いに覚えあい、とりなし祈りあう神の民を、ここに築きあげてくださいますように。
 安息日の主なる御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

関連記事

TOP