主日礼拝

来て、見なさい

「来て、見なさい」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第44章1-8節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第1章43-51節
・ 讃美歌:22、183、432

ユダヤからガリラヤへ  
 二週間間が空きましたが、前回ヨハネによる福音書からみ言葉に聞いた11月4日の説教において、ヨハネによる福音書と他の三つの福音書との語り方の違いについてお話ししました。ヨハネ福音書は、出来事を時間的経緯に従って描くのではなくて、その根本的な意味を象徴的に語る、という手法を用いています。そういう語り方の違いから、ヨハネ福音書と他の三つの福音書の間にはいろいろな違いが生じているのです。前回読んだ35節以下に語られている、主イエスの最初の弟子の話もそうでした。他の福音書では、ペトロとアンデレの兄弟が最初に弟子となったとされていますが、ヨハネにおいては、アンデレともう一人名前の分からない人が先ず弟子となり、アンデレに導かれてペトロが弟子となっています。それだけではありません。ヨハネ福音書では、アンデレたちは元々洗礼者ヨハネの弟子だったと語られているのです。ヨハネが主イエスのことを「見よ、神の小羊だ」と語ったのを聞いて彼らは主イエスに従って行ったのです。ヨハネの活動の場所はユダヤの荒れ野でしたから、そこに主イエスもおられて、最初の弟子がそこで誕生したということになります。他の福音書においては、主イエスの活動が始まったのはガリラヤ地方です。この点も、ヨハネと他の福音書の大きな違いなのです。  
 本日読む1章43節以下の冒頭の43節には「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに」とあります。主イエスがユダヤからガリラヤへと移動したことがここに語られているのです。ヨハネ福音書において主イエスはこのように、ユダヤとガリラヤの間を行ったり来たりしておられます。他の福音書では、ガリラヤで活動しておられた主イエスが、最後にユダヤへ、その中心であるエルサレムに行ってそこで十字架につけられたとされていますから、ここにも違いがあります。本日の箇所の「ガリラヤへ行こうとしたときに」というのは、隣の町に行こうとしたような感じですが、ユダヤとガリラヤとはかなり離れているし、その間にはサマリアがあって、すぐに移動できるような距離ではありません。ヨハネは、ユダヤが舞台である話と、ガリラヤが舞台である話、さらにはサマリアが舞台である話もありますが、それらを、距離的なことは気にせずに配置しているように思われます。本日の話は、ガリラヤが舞台である最初の話ということになります。  
 ここには、主イエスがフィリポに出会って「わたしに従いなさい」と声をかけ、彼が弟子となったことが語られています。44節には「フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった」とあります。ベトサイダはガリラヤ湖畔の町です。前回のところで弟子になったアンデレとペトロの兄弟も、このフィリポも、ベトサイダ出身だったと言われているのです。他の福音書では彼らの町は同じガリラヤ湖畔のカファルナウムとされていて、なお違いがありますが、いずれにせよ本日の話はガリラヤを舞台としていることがこれらのことによって示されているのです。

フィリポの伝道  
 主イエスが「わたしに従いなさい」と声をかけただけでフィリポが弟子になったことを私たちは不思議に思いますが、前回も申しましたように、ヨハネは事柄の本質を象徴的に語っているのです。主イエスの弟子、つまり信仰者になるとは、主イエスが出会って下さり、「わたしに従いなさい」と招いて下さり、それによって私たちが主イエスに従う者となる、ということです。そのことは主イエスの「わたしに従いなさい」という語りかけによってこそ起るのであって、私たちの決意や信仰心などによって起るわけではないし、また私たちの側の事情によって主の召しが妨げられてしまうこともないのです。  
 しかし本日の箇所の中心は、フィリポが弟子になったことではありません。弟子となったフィリポが、ナタナエルという人と出会い、語りかけ、その結果ナタナエルが主イエスの弟子となったことが、本日の箇所のメインイベントなのです。前回の箇所においても、アンデレが自分の兄弟ペトロに会って語りかけ、その結果ペトロが主イエスの弟子となったことが語られていました。主イエスの弟子、信仰者となった人が、自分の出会った人に主イエスのことを証しし、それによってその人も主イエスの弟子、信仰者となった、という出来事が繰り返し語られているのです。これらのことによってヨハネ福音書は、主イエスを信じる信仰がどのように広まっていくのかを語っています。一人の信仰者が、他の人に語り掛け、その結果その人も信仰者となる、キリスト教信仰はそのようにして広まっていったのです。つまり、信仰者一人ひとりが伝道をしていくのだということです。主イエスに従う弟子、信仰者となった者は、自分の出会う人たちに、主イエスのことを証しし、その人も主イエスを信じるようになるためのきっかけとなることを求められているのです。その模範がこのフィリポなのです。

教会の伝道  
 フィリポは知り合いのナタナエルに出会って、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と語りました。「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方」それは旧約聖書に約束されている救い主のことです。フィリポは「私たちは、神が約束して下さっていた救い主に出会った」と語ったのです。ここで彼が「わたしたちは」と言っていることに注目したいと思います。フィリポがナタナエルに語っているのですから、「わたしは」の方が相応しいのに、「わたしたちは」と言っているのです。そのことは前回の箇所でアンデレがペトロに会って語った言葉も同じでした。彼は「わたしたちはメシアに出会った」と言ったのです。この「わたしたちは」が意味しているのは、救い主イエス・キリストに出会ったという証しは、信仰者個人の体験であると共に、主イエスを信じる人々の群れ全体の、つまり教会の体験であるということです。信仰者は、自分が救い主イエス・キリストと出会ったことを他の人に証しし、伝道するのですが、それは個人的な業と言うよりも教会の証し、伝道なのです。私たちは、教会の一員として、教会の信仰を証しし、伝道するのです。つまりヨハネはここに、現在の自分たちの教会の伝道の有様を描き出しているのです。

ナザレから何か良いものが出るだろうか  
 フィリポは、自分の出会った救い主は、「ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と語りました。ナザレはガリラヤの町です。主イエスはそこでお育ちになったので、「ナザレの人」と呼ばれているのです。この話の舞台がガリラヤであることの理由がそこに示されています。ガリラヤの町ナザレの人であるイエスのことを、ガリラヤの人であるフィリポが、ガリラヤにおいて、恐らく同じガリラヤの人であるナタナエルに、この人こそ神が約束して下さった救い主だ、と証ししたのです。  
 その証しを聞いたナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言いました。これはフィリポの証し、伝道の言葉に対して、そんなことは信じられない、という否定的な反応です。主イエスを信じた信仰者が、出会う人に主イエスのことを証しするときに、このような否定的な反応に直面するのです。ヨハネ福音書が書かれた当時の教会もそうだったし、私たちも同じでしょう。  
 「ナザレから何か良いものが出るだろうか」というナタナエルの言葉の意味は、第一には、聖書には、救い主がナザレから出るという預言は語られていない、だからナザレの人であるイエスが救い主であるはずはない、ということでしょう。救い主はどのように現れる、ということについての聖書の知識が、フィリポの証しを信じることを妨げているのです。しかしそこにはもう一つの思いがあるのではないかと思います。ガリラヤの人であるナタナエルは、ナザレという町をよく知っているのです。ナザレなど特に立派な町ではない、あのナザレから救い主が出るはずはない、と彼は思ったのではないでしょうか。これは、知識に基づく判断とは違う、もっと感覚的なものです。人は、知識に基づく理性的な判断によっても、また素朴な感覚においても、イエスが救い主である、という私たちの、教会の証しを信じることはないのです。「そんなことはあり得ない、信じられない」と反発を覚えるのです。私たちは、出会う人に主イエスこそ救い主だと証しをすることを求められています。しかしその証しには、このような否定的な反応が返ってくるのだということを知っていなければなりません。私たちがしっかり主イエスを証しすれば、それによって人が主イエスを信じるようになる、というわけではないのです。

来て、見なさい  
 それでは、証し、伝道などしても仕方がないということか、というとそうではありません。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」という否定的な反応が返って来る、そこからが大事なのです。この反発を受けてフィリポは、「私の証しはこれこれの理由で真実なのだ」とナタナエルを必死に説得しようとはしませんでした。あるいは、「私の言うことが信じられないのか」と怒ったのでもありませんでした。また、否定されたことにショックを受けて、傷ついてすごすごと引き下がったのでもありませんでした。彼は「来て、見なさい」と言ったのです。  
 「来て、見なさい」。それは、「私と一緒にイエスのところに来て、そして自分の目で見て確かめなさい」ということです。彼は、主イエスこそ救い主だということを、ナタナエルと議論して、説得して納得させようとはしていません。イエスが本当に救い主なのかどうか、あなたが自分の目で見て判断したらいい、そのために、先ずは一緒に来てごらん、と言ったのです。このフィリポの姿こそが伝道の模範です。フィリポはこのようにして、ナタナエルが主イエスのもとに来て、信仰者となるためのきっかけを作ったのです。私たちも、主イエスを証しし、伝道していくために私たちのなすべきこともこのことです。人を説得して主イエスを信じる者とする、などということが求められているのではありません。そんなことは私たちにはできません。しかし「来て、見なさい」と言って人を教会の礼拝へと、礼拝へと誘うことは、私たちの誰にでもできることです。フィリポのこの模範に従って私たちも伝道していきたいのです。  
 私たちが「来て、見なさい」と誘うことによって伝道するのは、それなら私たちにも出来るからではありません。むしろそれは伝道の本質に根ざしたことです。主イエスを救い主と信じる信仰は、本人が主イエスと出会うことによってしか起り得ないのです。人からいくら勧められ、説得されても、それで主イエスを信じることは起りません。自分自身が主イエスと出会う体験をしなければ、信仰者は生まれないのです。だから私たちの伝道はいつでも、その人が主イエスと出会うための機会を提供することでしかないのです。後は主イエスご自身が、聖霊のお働きによってみ業を行って下さることを信じて、委ねるしかないのです。だから伝道は常に「来て、見なさい」と言うことなのです。

来なさい。そうすれば分かる  
 さらにこのことは、前回の箇所の39節における主イエスのみ言葉を土台としています。アンデレともう一人の人が、「先生、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねたのに対して主イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」とお答えになりました。「どこに泊まっておられるのですか」というのは、宿泊場所を聞いているのではなくて、主イエスとはどなたであるか、その本質を問う問いなのだということを前回申しました。その問いに対する主イエスの答えは「来なさい。そうすれば分かる」だったのです。このお言葉も、「来て、見なさい」と同じ、「来る」と「見る」という二つの動詞から成っています。「見なさい」という命令形ではなくて、この場合には「見るであろう」という未来形になっています。つまり「来なさい、そうすればあなたがたは見る、つまり分かる」と主イエスは言われたのです。  
 この主イエスのお言葉には深い意味があります。主イエスは、「私のもとに来なさい。そうすれば私はあなたと出会う、そしてあなたは私のことを知り、信じることができるようになる」と宣言しておられるのです。キリスト信者となった者たちは、主イエスのこの宣言の通りに、主イエスのもとに来て、主イエスと出会い、信仰を与えられたのです。つまり「来なさい。そうすれば分かる」という主イエスのみ言葉が信仰者一人ひとりに実現したのです。だから信仰者は、今度は他の人に、「来て、見なさい」と言うことができるのです。「来て、見なさい」は、「私にはうまく説明できないけど、教会に来れば牧師がうまく説明してくれるからもっとよく分かるよ」ということではありません。「主イエスご自身が、『来なさい。そうすれば分かる』と呼んで下さったことによって私は主イエスのもとに来た、そして主イエスと出会い、信じる者となった。だからあなたも、主イエスのもとに来なさい。そうすれば主イエスがあなたとも出会って下さる。そしてあなたは、主イエスこそ救い主であられることが分かるようになる。そのようにしてしか、主イエスを信じる信仰を得る道はない」ということなのです。

既に自分のことを知っておられる主イエス  
 フィリポの「来て、見なさい」という誘いによってナタナエルは主イエスのもとに来ました。すると47節にはこうあります。「イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。『見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない』」。このお言葉は、主イエスがナタナエルのことを既に知っておられたことを示しています。それは、元々知り合いだったということではありません。ナタナエルはこれに対して「どうしてわたしを知っておられるのですか」と驚きをもって答えています。つまりナタナエルはこの時初めて主イエスに会ったのです。しかし主イエスは、既に彼のことを知っておられました。主イエスが、「わたしは、あなたがフィリポから話かけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」とおっしゃったことも、主イエスが既に彼のことを見つめておられたことを示しています。主イエスとの出会いにおいて私たちはこういうことを体験します。「来て、見なさい」という誘いを受けて、自分の意志で主イエスのところに来たのだと思っていたけれども、実はその前から主イエスが自分を知っていて下さり、見つめていて下さり、招いて下さっていたことを知らされるのです。

まことのイスラエル人  
 しかも主イエスはここでナタナエルのことを「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」とおっしゃいました。それはナタナエルが特に立派な、信仰深いイスラエル人だ、ということではありません。「まことの、偽りのないイスラエル人」とは、主なる神が選び、ご自分の民として召しておられる人ということです。そしてそれは、血筋におけるイスラエル人、つまりユダヤ人ということではなくて、神がお遣わしになった独り子である救い主イエス・キリストを信じ、主イエスに従って生きていく人でもあります。つまり主イエスはナタナエルが主イエスの弟子となり、信仰者として生きていくことを予告しておられるのです。言い替えれば、ナタナエルは、自分自身もこの時まだ知らなかった本当の自分、主イエスに招かれ、従い、共に歩む信仰者としての、つまりまことのイスラエル人、まことの神の民である自分の姿を示されたのです。

信仰の告白  
ナタナエルは、このように自分を既に知っておられ、見つめ、招いて下さっていた救い主イエス・キリストと出会って、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言いました。主イエスこそ神の子であり、神の民イスラエルの王であられるという信仰の告白をしたのです。この告白によって彼は、「まことの、偽りのないイスラエル人」として生き始めました。神の独り子主イエスを神の子、イスラエルの王と信じる者こそがまことのイスラエル人なのです。大事なことは、彼がこのように信仰を言い表したのでまことのイスラエル人になったのではない、ということです。主イエスが、「あなたはまことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と宣言して下さったことが先なのです。つまり主イエスによる選び、召し、招きが先ずあって、その中で私たちの信仰の告白が与えられるのです。そのようにして私たちは、主イエスを信じる信仰者となり、まことの神の民であり新しいイスラエルである教会に加えられるのです。

もっと偉大なこと  
 ナタナエルがこの時この信仰の告白をしたのは、一度も会ったことのない主イエスが自分のことを知っておられ、フィリポに語りかけられる前にいちじくの木の下にいたことをお見通しだったことに驚いたからでした。その彼に主イエスは、「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」とおっしゃいました。主イエスと出会い、信じる者となる時に、私たちはそれなりに大きな体験をします。主イエスが既に自分のことを知っておられ、見つめておられ、招いて下さっていたことに驚き、この方こそ神の子、救い主だと信じるのです。しかし、そのようにして主イエスの弟子となり、信仰をもって主イエスと共に生きていく中で、私たちは、もっと偉大なことを見ることになります。信仰を与えられた時の、主イエスとの出会いの体験は私たちにとって印象深い大きなことですが、しかし、教会に連なる者となり、礼拝においてみ言葉を聞き、主イエスと共に生きていく中で私たちは、それよりもはるかに偉大なことを体験していくのです。主イエスによる救いの恵みが、信仰者となった最初の頃には思っていなかったほどにに大きく、深く、広いものであることが分かっていくのです。それは、自分の罪が、始めに感じていたよりもはるかに深く大きいことに気づかされていくということでもあります。恵みの偉大さが分かっていくにつれ、罪の大きさも見えて来て、それによって救いの恵みの偉大さがさらに示され、喜びと感謝が深まっていくのです。

主イエスのもとで見ること  
 もっと偉大なことをあなたは見ることになる。それを主イエスは「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と言い換えておられます。創世記第28章のヤコブの見た夢の話がその土台となっています。ヤコブは自分の罪の結果、故郷を離れて逃げていかなければなりませんでした。その不安に満ちた寄る辺ない旅の途上で彼は、天と地との間にかかる階段を天使たちが昇り降りするという夢を見たのです。それは天と地、神と人間とをつなぐ階段です。目覚めたヤコブは「ここは神の家、天の門だ」と言いました。主イエスを信じる信仰者がその信仰の旅路の中で見ることになるのは、天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りすることです。人の子とは主イエスです。主イエスこそ、天の門であり、天と地、神と人間をつなぐ階段であることを私たちは見るのです。主イエスは、独り子であられる神が天から降って人間となった方です。そして十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪の赦しを成し遂げ、復活して天に昇ったことによって私たちにも復活の命、永遠の命を約束して下さいました。主イエスにおいて、神が人となって私たちを救って下さることと、その救いにあずかった私たちが神の子とされ、天の父のもとで永遠の命を与えられることが実現するのです。私たちが主イエスのもとに来て、そこで見るのは、この主イエスによる偉大な救いのみ業です。それゆえに私たちは、あなたも主イエスのもとに来て、その救いのみ業を見なさい、と人々に語りかけていくことができるのです。

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