聖書とヘボン

日本語聖書翻訳にかけた宣教師たちの思い

「聖書を日本語に翻訳するということが、
わたしどもの最重要な事業であると、
わたしどもすべての者が感じております」

横浜指路教会所蔵

聖書の翻訳が最も重要な仕事

ヘボンは、幕末から明治にかけて日本で活躍したアメリカ合衆国の医師で宣教師でした。ヘボン式ローマ字の考案者として知られた人です。ヘボンは1859年10月に来日してから1892年10月に帰国するまでの33年間、横浜に在住し宣教医として働きました。ヘボンは来日して以来、聖書和訳が最も重要な事業と考えていました。ヘボン書簡によると、「聖書を日本語に翻訳するということが、わたしどもの最重要な事業であると、わたしどもすべての者が感じております」と述べています。
そこで、どのようにしてヘボンは聖書を翻訳したのでしょうか。まず、聖書和訳をするには、日本語の習得と共に標準的な日本語を獲得し、それを聖書和訳に生かしていきたいと考え、その基礎作業として『和英語林集成』の編纂に取り掛かりました。当時、外国語を日本語に訳すとき、言葉が定まっていませんでしたので、翻訳の基礎固めとして辞書の制作が重要な仕事になったのです。1867年、この辞書の出版が完成します。以後、この辞書は何版も出版され、最後は丸善に版権を譲り渡しました。  ※ヘボンの正式名:ジェームス・カーティス・ヘップバーン(James Curtis Hepburn)聖書翻訳の流れ

日本において宣教師たちが伝道する時に、何を媒介にしてキリスト教と結びついたのだろうか。そこでは聖書が重要な働きをしました。日本における聖書翻訳においては、S.R.ブラウンとヘボンの貢献が大きく、二人は聖書を日本人にもたらすことを最大の目的としていました。旧新約聖書の全巻が翻訳されたのは、1888(明治21)年のことで、新約聖書の翻訳委員長はS.R.ブラウン、旧約聖書の翻訳委員長はヘボンでありました。今日までの聖書翻訳の流れをみますと、共同訳の聖書を目指しているのが分かります。聖書翻訳の流れは次の通りであります。

ギュツラフ1837年 『約翰福音之傳』『約翰上中下』

S.W.ウィリアムズ訳 『馬太福音書』1840年頃

ベッテルハイム 4福音書1852年 琉球語で翻訳

ゴーブル『摩太福音書』1871年

『志無也久世無志與(しんやくぜんしょ)』1879年8月翻訳完成
平仮名でつくられた翻訳

『 新約全書 』1879年11月翻訳完成 木版17分冊 明治元訳
ヘボン、S・R・ブラウン、D・C・グリーンの3人で翻訳
標準語の文語体で翻訳

『 旧約全書 』1888(明治21)年2月3日 木版28分冊、明治元訳
各教派代表の宣教師が集まって翻訳 標準語の文語体で翻訳

『改訳 新約聖書』1917(大正6)年 大正訳
日本人が中心となって新約聖書翻訳、旧約は翻訳できず

『新約聖書』口語1954年
『旧約聖書』口語1955年
『新約聖書 共同訳』1978年
『聖書 聖書協会共同訳』2018年12月

※『 新約全書 』と『 旧約全書 』の翻訳は、宣教師が中心となって編纂された。 両方の翻訳に携わったのはヘボン一人であった。旧約は1888年に翻訳が完成、 1955年に口語訳が完成するまで文語体の聖書が使われた。2018年12月に新しい翻訳が出版された。

『和英語林集成』と聖書和訳

モリソン号事件:
ヘボンは1841年7月シンガポールに入港、ギュツラフ訳『約翰福音之伝』(ヨハネ伝)に出会いました。1832年日本の遠州灘で米の輸送船宝順丸が遭難、漂流すること14カ月、岩吉、久吉、音吉の3人だけが助かり、カナダのシャーロット島に漂着しました。ギュツラフがこの3人を使って聖書和訳を行ない、1837年に『約翰福音之傳』と『約翰上中下』を出版しました。
当時の翻訳された聖書をみると、『神天聖書』とメドファースト(Medhurst, Walter Henry)の字彙しかなく、キリシタン訳の存在も知らず。この『神天聖書』は、1823年モリソン(Morison, Robert)が同じロンドン宣教会のミルン(Milne, William)の協力で刊行。1834年モリソンの死後、メドファ―スト、ギュツラフ、ブリッジマン(Bridgman, Elijah Coleman)などが改訂しました。
その後、沖縄で伝道していたベッテルハイムが琉球語で4つの福音書を翻訳しました。

ギュツラフ訳『約翰福音之傳(よはねふくいんのでん)』 東京神学大学図書館所蔵

ベッテルハイム訳 『路加(るか)傳福音書(ふくいんしょ)』 東京神学大学図書館所蔵

『和英語林集成』の出版

さてヘボンの『和英語林集成』は、幕末から明治にかけて各分野に大きな影響を与えた辞書となり、「後続の辞書の規範」となりました。この辞書は19世紀の代表的な辞書と言われています。
『和英語林集成』を出版するにあたって、当時日本には木版刷りはありましたが、活版印刷を営む会社はありませんでした。ヘボン夫妻は岸田吟香と一緒に上海に赴き、ウィリアム・ガンブルが営む美華書館で出版をしました。その時、横浜でウォルシュ・ホール商会のウォルシュが辞書の印刷出版に必要な一切の資金を立て替えてくれました。
この辞書を作成するにあたり参照したのは、メドハーストが1830年にバタビヤで出版した『英和和英字彙』と1603年にイエズス会宣教師が出版した『日葡辞書』でありました。しかし、その大部分はヘボンが出会った人々から得た生きた言葉を丹念に集めて編纂したものであったのです。1861年春からヘボンは来日早々施療を始め、毎日訪れる患者と会話をし、膨大な数の言葉を集め、その意味を把握し、日本の本を読みこみ、英語に置き換え辞書を編纂したのです。また最近の研究では、木村一氏が『雅俗幼学新書』(森楓齋編纂、1855年)をヘボンが参考にしたことを明らかにしています。

ヘボン著『和英語林集成』1867年初版 明治学院大学図書館所蔵

漢訳聖書からの翻訳

ヘボンは来日の際、ミッションに預けていたギュツラフが訳した『約翰福音之傳』(1837年翻訳)を取り戻し、日本語を集中的に勉強しました。ヘボンが最初に手掛けた翻訳は漢訳聖書からの転訳でありました。ヘボンは、ギリシャ語の新約聖書を参照しつつ、まずは日本語の教師にも読める中国語聖書からの翻訳が現実的であると考えました。中国語の聖書は、ブリッジマン・カルバートソン訳の『新約聖書』だったという。ヘボンはマルコ伝、ヨハネ伝、創世記及び出エジプト記の一部を訳出し、S.R.ブラウンもほとんど同じ箇所を翻訳、その意味で彼らは個人訳ではなく、共同訳の聖書を志向しているのが分かります。
聖書が大衆に広く読まれるためには、分かりやすい文章で書かれた聖書が必要でありました。漢訳聖書は、一部の武士や知識階級しか読めなかったので、平易な標準語による日本語訳聖書の出版が望まれていたのです。しかも1873年2月まで禁教下であったので、秘密裏に出版を進めるしかありませんでした。翻訳の作業において第一に困難な問題は、日本語が定まっていなかったことです。武士の言葉、町人の言葉、男、女の言葉など、また文体も漢字にするか、仮名にするか、文語体にするか、口語体にするかという問題がありました。第二に聖書に出てくる専門用語をどう訳すかという問題がありました。

共同訳聖書
宣教師会議で共同訳聖書翻訳決まる

ヘボンはかつて中国伝道で出会い、同時期に来日したS.R.ブラウンと共に平易な標準語による日本語訳聖書の必要性を感じていました。
1872年3月10日、日本人による最初のプロテスタント教会である日本基督公会(横浜海岸教会)が横浜でJ.H.バラを仮牧師として創立されました。そして同年9月、S.R.ブラウン等が日本に在住する宣教師に声をかけ、横浜居留地39番のヘボン邸において宣教師会議が開かれました。バプテスト派はゴーブルが帰米して参加できず、米国監督派(米国聖公会)のウィリアムズとモリスは出席せず、メソジスト派は来日していなかったのです。集まった教派は、米国長老派、米国オランダ改革派、会衆派と言われる組合派などでした。この会議で3つのことが決まりました。①聖書翻訳の共同委員制、②教派によらざる神学校の開設、③無教派主義による教会形成、他に讃美歌についても協議されました。聖書翻訳の面では、共同訳聖書が決まり教派を越えての和訳聖書に取り組むことが決定されたのであります。

新約聖書 分冊出版、全部で17冊

共同訳による聖書翻訳が実際にスタートしたのは、1874年3月からでした。委員長はS.R.ブラウン、委員にはヘボン、D.C.グリーン、聖公会からC.M.ウィリアムズ、G.E.エンサー、米国・メソジスト監督教会からR.S.マクレー、米国・バプテスト教会からN.ブラウンが指名されました。しかし、ウィリアムズとE.エンサーは、代わってパイパー、ライトが参加。翻訳委員社中が動き始めて間もなく、パイパー、ライトも、さらにマクレーも委員を辞任、またN.ブラウンは、バプテスト派独自の聖書翻訳を進めることから一年半後に辞任しました。
結局ヘボン、S.R.ブラウン、D.C.グリーンの3人が訳業に従事、補助的援助者として、奥野昌綱、松山高吉、高橋五郎が与えられ、翻訳事業の会議はS.R.ブラウン邸に集まり翻訳作業を行いました。新約聖書全体の翻訳が終わったのは、1879(明治12)年11月3日のことで、翌年の4月19日東京の新栄橋教会(現新栄教会)で完成祝賀会が行われました。

聖書翻訳委員社中訳:新約聖書の明治元訳
右上『新約聖書路加傳(るかでん)』、右下『新約聖書馬太傳(またいでん)』
左上『新約聖書以弗所(えぺそ)書、腓立比(ぴりぴ)書』、左下『新約聖書約翰(よはね)黙示録(もくしろく)』
明治学院大学図書館所蔵

N.ブラウン訳の新約聖書

独自の翻訳を進めていたN.ブラウン訳の新約聖書は、共同訳聖書より3カ月早く1879年8月のことでありました。この聖書は仮名表記による平易な文字で記述され、全国民が共通に平等に使用できることを目的としていました。その点では、ジェームズ欽定訳を標準とするヘボンたちの訳とは違って、N. ブラウンの翻訳は原典主義に基づき、平仮名主義を主張するものでありました。

ネイサン・ブラウン訳 現代仮名字体版 復刻版 『志無也久世無志與』(しんやくぜんしょ)1880年 岡部一興提供

その聖書は『志無也久世無志與』(しんやくぜんしょ)と言う表題で、バプテスト派が所有する印刷所で作成された活版印刷の聖書でありました。それに対し、ヘボンたちの共同訳聖書は和綴じ本で、当時日本で一般的に行われていた版木による木版刷りでありました。共同訳聖書は、翻訳に従って分冊発行されたのです。1876年の『路加伝』(ルカ伝)から分冊発行されて、1880年4月『約翰黙示録』(よはねもくしろく)が最後に発行されて、17分冊の新約聖書の出版となりました。

旧約聖書とヘボン 一般の宣教師の協力によって遂行

1876年10月、東京に在留する各派の宣教師が築地に集まり、聖書翻訳について協議し、東京翻訳委員として13人が選ばれました。しかし、この委員会はその費用を大英国外国聖書会社、スコットランド聖書会社が負担するもので、教派的に偏ったところもあったので、東京翻訳委員会は解散されました。
その後アメリカン・ボード・ミッションの提案により、1878年5月に新たに宣教師会議が開かれました。旧約聖書の翻訳については、一般の宣教師の協力によって遂行されるべきこととし、各ミッションから1名ずつ選ばれて、常置委員会が発足しました。そのメンバーは委員長がJ.C.ヘボン、N.ブラウン、J.H.クインビー、G.カクラン、S.R.ブラウン、W.B.ライト、H.ワデル、J.ゴーブル、F.クレッカー、R.S.マクレー、D.C.グリーン、J.パイパーの12人となりました。

旧約聖書 分冊出版全部で28冊

旧約聖書も翻訳され出すと、随時分冊出版の形を取りました。洋仮綴じの形を取って、1882年に「約拿哈基馬拉基合本」(ヨナ、ハガイ、マラキ)が出版されて以来、1887年に「雅歌耶利米亜哀歌」(ガカ、エレミア、アイカ)が出版されるまで、28分冊に分けて随時発行されました。1888(明治21)年2月3日東京築地の新栄橋教会にて完成祝賀会が行われました。新約聖書の翻訳委員が決まってから実に15年の歳月が経過し、新約と旧約聖書の両方に携わったのはヘボンただ一人でありました。それらの翻訳の作業において、聖書翻訳をトータルにみた場合、ヘボンがどのくらい聖書を翻訳したかをみると、驚くべきことが明らかになったのです。新約聖書27巻と旧約聖書39巻合わせて66巻のうち、新約聖書の6割以上、旧約聖書の4割ほどがヘボンによって訳されました。
以上の分析を通して、ヘボンが係わった聖書翻訳は、日本人の補助者たちが言語に十分な知識を備えていない時代にどのようにして理想とする共同訳聖書が編纂されたのか。また今後の課題としては、ヘボンたちが翻訳した聖書がどのようにして翻訳されたのかという聖書和訳そのものの研究が必要かと思われます。

聖書翻訳委員会訳 旧約聖書
『撤母耳(イザヤ)前書』、『以西結(エゼキエル)書』、『箴言』、『利未(レビ)記』、『士師記路得(ルツ)記』など。
明治学院大学図書館所蔵

聖書翻訳委員会訳『舊約全書』
1888(明治21)年 発行所 米国聖書会社
横浜指路教会所蔵

舊新約聖書 明治三十七年三月三十一日発行 横浜指路教会所蔵
発行者 ヘンリー・ルミス 印刷者 村岡平吉
発行所 米国聖書書会社  印刷所 福音印刷合資会社

横浜指路教会所蔵

なお、ホームページ掲載に当たっては次の論文を参考にした。
岡部一興「聖書和訳とヘボン」『明治学院大学キリスト教研究所紀要第48号』2016年12月
横浜指路教会教会史委員会執筆責任者 岡部一興

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