夕礼拝

外からの光、内なる光

「外からの光、内なる光」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; イザヤ書、第50章 4節-11節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第11章 33節-36節
・ 讃美歌 ; 54、55

 
1 (外からの光) 
しるしを求めて群がり集まってきた群衆に向かって、主は厳しくおっしゃいました、「今の時代の者たちはよこしまだ」(29節)。この時代に生きている者たちは邪悪であり、悪い心に充ち満ちている、とお叱りになったのです。群衆は、自分たちは純粋な思いで、主イエスを求めて集まってきている、そう思っていたかもしれない。けれども、主イエスは人々の心の奥底にあるものが何であるのかを厳しく問題にされたのです。外見だけを見るならば、熱心に主を求めて集ってきている人々であるかもしれない。しかし彼らがお目当てにしていたのは、あっと驚くような「しるし」を主イエスが見せてくれることだったのです。神が本当に神であるかどうか、そのことを人間である彼らが、自分たちで判定しようとした。そしてこれだけのことをしたらお前を神と認めてやろうじゃないか、と言わんばかりに自分の基準を掲げようとした。そういう心を主は厳しく斥けられたのです。  けれどもそれは、群衆をもう二度と寄せ付けまいとして投げつけたお言葉ではありませんでした。そうではない。むしろ本当にこの人たちを招くためにこそ、まず必要であったお叱りであったのです。その後に来るのは主イエスの招きの言葉です。「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」(33節)。この主イエスの御言葉は、家の中に入ってくる人があることを前提としています。家の中に入ってきて欲しいのです。だからこそ、入って来た人が、明々とともる光を目の当たりにできるように、燭台の上に高々と光を掲げるのだ、とおっしゃっている。入ってきてほしいのです、主イエスは。神の家の中に入ってきて欲しい。そしてこの光そのものである主イエスご自身と、本当の意味で出会って欲しいのです。光を高く掲げて、訪ねてくる人は今か今かと心待ちにしている、それがこのともし火の姿です。
 かつて私がバングラデシュを訪れていた時は、しょっちゅう停電がありました。夜の礼拝を守っている時にも、すぐに電気の供給が止まって、部屋は真っ暗闇になってしまいます。ですから懐中電灯やガスランプが必需品でした。部屋が真っ暗闇になった時、懐中電灯が置かれるのは机の上です。またガスランプが掲げられるのは、その部屋の一番高い場所でした。部屋全体を明るく照らし出すために、一番目立つ、部屋全体を見渡せる場所に明かりがともされるのです。主イエスは、20節でこうおっしゃっておられます、「しかし、わたしは神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。主イエスはおっしゃいます。「わたしは、また神の国は、公然と、誰の目にも分かるはっきりとした形で、私たちのもとにやってきているのだ、ともし火は、誰の目にも明らかなように、高々と掲げられているのだ、わたしはそのような者としてここに来ているのだ」。私たちは、既にこのともし火が灯っている神の家に招き入れられています。そこで主イエスというともし火をまのあたりにしているのです。光は公然と、この世の中で光り輝いています。燭台の上に灯され、この世の中に高々と掲げられているのです。そうやって神の家に入ってきているのが私たちです。

2 (内なる光)
 ところがここに、もう一つのともし火が出てまいります。それは、わたしたちの体のともし火である、「目」です。目は、外の世界の明るさを感じ取り、それを体の中に取り入れます。外の世界の情報を、目は感じ取り、それを自分の内側に伝えるのです。また逆に、目は「心の窓」だとも言われます。気持ちが充実していれば、その人の目の色にもそれが現れます。喜びや楽しさを、目の様子が語るのです。心の中がうち沈んでいれば、目もうつろで、生き生きとした力を失ってしまいます。いわば、外の世界と自分の内側の世界とを結びつけているのが目という器官なのです。
 この心の窓である目を通して光が入ってきた時、その光は体の中に入ってくる。そしてどうなるのかというと、そこで消えてしまうのではない。見えなくなってしまうのではない。そうではなく、そこで光を放ち続けて、体の中で光となり続けるのであります。「内側にある光」、「内なる光」として体の中に住み、輝き続けるのです。そうしますと、ここには二種類の光が登場しているといってよいでしょう。一つは入ってくる人に光が見えるようにと燭台の上に掲げられたともし火、つまり「外からの光」、もう一つはこの外から光を受け入れて、体の中にお迎えするための「目」というともし火、さらには目を通じて中に入ってきて住んでくださる光、すなわち「内なる光」です。
 「外からの光」は照り輝いています。その光が私たちの中に入ってきて、私たちの中に住んでくださり、「内なる光」となってくださる。主はご自身についてこのようにお語りになっておられるのではないでしょうか。この福音書が語る主イエスの誕生の出来事は、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちの上に、主の栄光が現れて、あたりを巡り照らしたことを伝えています。また洗礼者ヨハネの父親であるザカリアは、主イエスについてこう預言しています、「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(1:78-79)。主イエスは私たちの外からやってきます。そしてこの世にともし火となって光り輝いてくださる。神の家に招き入れ、そこで光を目の当たりにさせてくださる。そして今度は私たちの中に入ってこられ、私たちの内なる光となり、私たちを内側から明るく照らしてくださろうとしておられるのです。

3 (澄んだ目と濁った目)
 ところが、ここに問題が生じます。せっかく外からの光がやって来ているのに、その光を受け入れるところの「目」が澄み切った目でなければ、その光が私たちの中に入ってくることは妨げられてしまうのです。「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」(35節)、それが主イエスの私たちに対する警告です。この「調べなさい」という言葉は、「気をつけなさい」、「注意を払いなさい」、「目を注ぎなさい」とも訳すことのできる言葉です。私たちの目が、澄んだ目で光を受け入れているのか、それとも濁った目で、せっかく入ってこようとしている光を受けつけなくなってしまっているのか、どちらであるのかによって、私たちの体の中、心のありようが全く変わってくるのです。  実はこの「澄んでいる」とか、「濁っている」という言葉は、私たちの御言葉の聴き方と深く関わる言葉です。「目が澄んでいる」という時の、この「澄んでいる」という言葉は、「単純である」、「簡素である」、「誠実である」という意味の言葉です。それは御言葉をただひたすらに待ち望み、ほかに何を求めるのでもない、この御言葉を聴き、それによって養われ、生かされる歩みに徹する姿勢です。御言葉に対して単純であり、簡素であるとはそういうことです。そうではないでしょうか。私たちは毎週のようにここに集まり、讃美を捧げ、御言葉に聴き、祈りを捧げ、礼拝をしている。それはある面から見るならば、変わり映えのしない十年一日のごとき営みであるかもしれない。何の趣向を凝らしているわけでもない、季節ごとにいろいろな飾り付けがなされるわけでもない。月ごとに目新しい項目が礼拝順序に入ってくるわけでもない。まことに単純で、簡素な礼拝であります。カトリックに比べてプロテスタントはそういう面がもともと強い上に、私たちが受け継いでいる改革派教会の信仰の伝統では、なおさらこのことが意識されているといってよいでしょう。
けれども私たちは知っているのです。その単純さ、簡素さ、あるいは一途さといってもよい中に、実に測り知れない豊かさが秘められているということを。それは他の何の豊かさでもない。ただ御言葉の豊かさです。この御言葉の持つ光です。それは決して先週と同じ話、この前と同じ響きではない。同じ主イエス・キリストを証ししつつ、それをまた違う響きの中で、新しい音が奏でられる中で、主イエスとお会いできる幸いです。今日も新しく主イエスと出会うことができる幸いです。御言葉の力そのものに触れる時、私たちの信仰が、私たちの礼拝が、マンネリ化するはずがありません!そのためにこそ、本当に必要でない、余計なものは敢えて捨てていくのであります。他の光、他の音が、御言葉の光、御言葉の響きを濁らせてしまうことのないように、余計なものは取り外していくのです。

 これとは逆に、「濁っている」という言葉は、「邪悪な」、「悪意に満ちた」、「よこしまな」、「病んでいる」といった意味の言葉です。主イエスが「今の時代の者たちはよこしまだ」と叫ばれた時、今の時代は目が濁っている時代、光を受け入れることを拒む時代だと叫ばれたのです。目が濁っているということは、先ほどの「単純さ」、「簡素さ」との対比で言えば、余計なものが間にいっぱい入ってきているということになります。まことの光が見えなくなるほどに、余計な人間の光が割り込んできて、目を本当の光を見分けることのできない、濁ったものにしてしまっているのです。

4 (その松明の明かりを消せ!)
 先ほど読まれた旧約聖書、イザヤ書50章の11節で、神はこう語りかけておられます、「見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし 松明を掲げている。 行け、自分の火の光に頼って 自分で燃やす松明によって。 わたしの手がこのことをお前たちに定めた。 お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう」。御言葉の放つ光、世の光である主イエスへの一筋の心に生ききることのできない私たちの姿がここに描き出されています。まるで主イエスという光では心許ないとでもいうかのように、自分の富を築こうとし、自分の名を上げることを望み、自分の名声が高まることを期待する。御言葉にのみ頼ることでは足りないかのように思い、星占いやテレビの「今日の運勢」コーナーにも心傾ける。神に向かい合うときにも、「しるし」を示してみろ、と迫ってしまう。そこに神はお語りになるのです。「お前たちのうちにいるであろうか 主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。 闇の中を歩くときも 光のないときも 主の御名に信頼し、その神を支えとする者が」(10節)。
 現代は光が溢れている時代です。夜も光が消えません。特にこの横浜の町などは眠らぬ町です。私の住んでいる部屋からは、夜通しビルの明かりやネオンサインが見渡せます。夜中でも人々がにぎやかに話しながら通りを歩いている声が聞こえてきます。どこにでも光が溢れ、音がたえまなく聞こえてくるのです。そういう生活の中で私たちはともすると、自分の中にもそれなりの光があるんじゃないか、自分で燃やし、掲げることのできる松明を持っているんじゃないか、そういう錯覚に陥ってしまうのではないでしょうか。自分の光を灯さなければ、と躍起になっているのが私たちの毎日です。そこで他の人が掲げる光と争い、互いに傷つけ合い、自らも疲れ果てています。自分の光に頼って歩む者は苦悩の内に横たわるであろう、と主なる神がおっしゃったとおりであります。だからこそ、自分の中に実は何の光もなかった、自分の中は真っ暗闇だったということに気づかされた時のショックは大きいのです。心を病んでいる方が病院で命を絶とうとするのは、夜ではなく明け方が多いと聞きます。当直の人もその時間帯には注意を払います。それは患者の方が、明るくなり始めた世界と自分の中にある暗闇の深さとの間に激しい落差を痛感する時だからです。

5 (外から来て、私たちの中に住んでくださる光の主)
 あなたの目が澄んでいるのか、濁っているのか、よくよく注意しなさい、と言われれば、私たちの目は濁りきっていると言わざるを得ません。いろいろな自分の光を持ち出してきて、自分の松明の明かりを掲げようとします。そういう思いに繰り返しとらわれます。主イエスを、その御言葉を心から受け入れる、一筋の心に生ききることができません。  しかし主イエスはそのような私たちのためにこそ、十字架にお架かりになったのです。私たちがそれなりに明るいと思っていた自分の内側が実は真っ暗闇だったと思い知らされ、苦悩の内に横たわっていた時、初めて「外からの光」がやって来るのが見えるのです。そして自分の目を濁らせていた余計な光が消し去られ、ただ主イエスのみが、その御言葉のみが、うち開かれて光を放つのです。そしてその光が私たちの中に入ってきて、私たちの中に住んでくださる。私たちを内側から治め、影響を与え続けてくださる。「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」(36節)。ここにおいて、ともし火が外から私たちの全身を照らす光と、内側から私たちの全身を明るくする光が一つの同じ光、主イエスご自身であり、御言葉の光であることが明らかにされるのです。  今日の箇所に至るまでには、御言葉に聴く心について再三語られておりました。「むしろ幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人である」(28節)。また、南の国の女王は、ソロモンが受けた神の知恵の言葉を聞きに来たのだし、ニネベの人々はヨナの説教を聞いて悔い改めたのであります。私たちもまた、主イエスの十字架によって、心の濁りを取り除かれ、澄んだ目で、御言葉の前にひれ伏す心を今与えられているのです。その現実にふさわしく歩むように招かれているのです。復活の主が弟子たちに現れた時のことをルカはこう語ります、「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい』」(24:45-49)。この父なる神が約束された高い所からの力こそが聖霊であり、この聖霊によって私たちは心の目の濁りを除かれて、御言葉の前に膝を折る心が与えられるのです。主イエスが祈りについて教えてくださったその最後にお語りになったのも、このことでした。「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(11:13)。
 私たちが待ち望むべきはこの御言葉の光であり、聖霊は心の目の濁りを取り除き、ただ御言葉のみを、純粋に、単純に、一途に聴く心を私たちの内に形づくってくださる。この導きの中で、私たちは今日も主のみ姿を目の当たりにさせていただけるのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、心の目が鈍く、自らの余計な光によって曇らされている私どもをどうぞ憐れんでください。御霊を注いでください。私たちが自分で掲げようとする、くすんだ光をむしり取り、あなたの御言葉の光のみを輝き渡らせてください。あなたの御言葉のみを慕い求める澄んだ目を、私どものうちに形づくってください。外からの光であるあなたをどうか心の中にお迎えすることができますように。そしてあなたが私どもの内なる光となって住んでくださり、私どもを内から治めてください。この御言葉のご支配を、今から与る聖餐の食卓を通して、心の底から味わいかみしめることを得させてください。 御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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