夕礼拝

だから、恐れるな

「だから、恐れるな」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第30章15-18節
・ 新約聖書: マタイによる福音書第10章26-33節
・ 讃美歌 : 432、447

恐れるな
 本日は共にマタイによる福音書の第10章26節から33節までをお読みします。マタイ福音書第 10章では、主イエスが十二人の弟子たちを選び、伝道へと派遣される際の教えが述べられています。
主イエスによって伝道へと遣わされる弟子たちに、主イエスは「恐れてはならない」と語りかけられます。これは弟子たちを勇気づけていることになります。前回お読みしました、本日の箇所の前の部分「迫害を予告する」という箇所ではこのようにあります。16節「わたしはあなたがたを遣わす。それは狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」と主イエスはおっしゃっています。弟子たちを派遣するということはまるで、「狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」と言うのです。狼の群れの中に送られる羊は、食べられてしまいます。そのように、弟子たちも、「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」と17節で言っています。また、そのことによって兄弟、親子の間にも不和が起り、すべての人に憎まれるという事態が起ると言っています。遣わされる弟子たちはそのような苦しみを受けるのです。けれども主イエスは弟子たちにそのような苦しみの中で「恐れるな」と言われます。

受け入れ、告白する
 主イエスが十二人の弟子たちを選び、この世へと派遣をされます。このことは、二千年前の十二人の弟子たちのみのこととして言っているのではありません。主イエスの「恐れるな」とはこの私たちに語りかけられている励ましです。主イエス・キリストを信じ、キリストの体なる教会の一員となって生きる私たち一人一人に語られていることです。私たちも一人一人、主イエスに選ばれ、この世へと遣わされていく存在です。本日の箇所の終わりにはこのようにあります。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」とあります。ここでの「人々の前で自分をわたし、即ち主イエスの仲間であると言い表すか、それとも主イエスを「知らない」と言うのか、どちらなのかということが問われております。この問いかけは弟子たちに対する問いではありません。教会の者たち、つまり私たちに対する問いであります。「人々の前で、自分はイエス・キリストの仲間であると言い表すのか、「知らない」というのかどちらでしょうか。この部分は以前の口語訳聖書では、「人の前でわたしを受け入れる」と訳されておりました。主イエス・キリストの仲間であるとは、私たちが主イエスを受け入れるかどうか、ということが問われているのです。この言葉の元の言葉は「同じ言葉を語る」ということです。主イエス・キリストの仲間であるとは、主イエスを受け入れ、主イエスと同じ言葉を語るということなのです。主イエスの語ることに同意をして、イエスを自分の救い主として受け入れ、そのことを言い表す、告白をするのです。この言葉は単独では「告白をする」と訳されます。この「告白をする」とは、主イエス・キリストを信じという信仰の決断をして、それを人々の前で言い表すことなのです。そして、私たちがそのように主イエスを救い主と信じ、告白をするのなら、主イエスもまた私たちのことを「仲間である」と言い表して下さるのです。

人の前で
 この告白は「人々の前で」なされるものです。人の前ではなく、人から隠れたところで信仰者として生きるということはありません。主イエス・キリストを救い主として信じ、受け入れ、人々の前で「自分は主イエス・キリストを信じる者である」と告白をすることが主イエスによって求められています。
それは、教会の礼拝の中で信仰を告白して洗礼を受けるということです。健康上の理由で礼拝の場に集えないということがあっても、何人かの人々が集まり、その場で小さな礼拝を守り、その人々の前で洗礼式が行われます。教会において信仰を告白し、洗礼を受けてキリスト者になった私たちは、教会の外でも、それは人々の前で、この世における様々な交わりにおける関係の中で「自分は救い主イエス・キリストを信じ、キリスト者である」ということを言い表していくのです。私たちはそれぞれが生きている場所へ遣わされています。それぞれの場で、「自分は救い主イエス・キリストを信じ、キリスト者である」と言い表すことが伝道です。自分がキリスト者であるということを言い荒らすことが伝道の第一歩です。そのことを人々の前で明らかにし、言い表すことです。伝道は何か自分の力や立派な行い、優しさを示すものではありません。自分の信じて主イエスを指し示すことです。それぞれが遣わされ場において、主イエス・キリストを告白することです。自分は、主イエスを信じ、その救いにあずかって生きているということを公にすることです。伝道はもちろん、人間がすることではありません。伝道は神様がなさる御業です。その神様の大いなる御業に私たちが用いられるということです。主イエスは、私達がまず、人々の前で自分がキリスト者であるということを言い表すことを求めておられます。
 主イエスは弟子たちにもそのことを求めました。人々の前で主イエスを告白しょうとする時に、恐れを覚えます。弟子たちにとっては「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」という迫害への恐れでした。そのような迫害は、教会の歴史の中では色々な形で繰り返されてきました。現代の私たちの生活では、主イエス・キリストを信じることを言い表しても、そのような迫害を受けることはありません。しかし、そのような形での迫害ということはないけれども、現在の社会においても、別の形でやはりあります。主イエスを信じる信仰を人々の前で言い表していくことには、このような様々な形での恐れがあります。その私たちに対して主イエスは、「恐れるな」と語っておられるのです。
 本日与えられているマタイ福音書第10章24節以下において、主イエス・キリストは繰り返しその言葉を語っておられます。まず26節に、「人々を恐れてはならない」とあります。また28節に、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」とあります。そして31節にも「だから、恐れるな」とあります。三度繰り返して「恐れるな」と語りかけられているのです。この「恐れるな」とは主イエスの励まして下さる御言葉です。

まだ隠されている
 26節には、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」とあります。ここでの「覆われているもの、隠されているもの」とは次の27節にある、「わたしが暗闇であなたがたに言うこと、耳打ちされたこと」ということです。それは具体的には、「天の国は近づいた」という主イエス・キリストの福音です。主イエスにおいて、神の国、神様の恵みのご支配が始まっている、という知らせです。その主イエス・キリストの福音は、今は「覆われているもの、隠されているもの」なのです。それは、主イエスご自身が、他の人と何の違いもない一人の人間として地上を歩んでおられるからです。主イエスを見た当時の人々も主イエスを一人の人間として見ていました。主イエスはご自分が救い主であられることは隠されていたのです。
 私たちは、聖書の御言葉を通して、教会の教えによって主イエス・キリストのことを知ります。しかしその主イエスがまことの神の子であり、救い主であることは、証明できるようなことではなく、信仰によって受け止めるしかないことです。誰が見てもはっきりとわかることではないのです。そのように主イエス・キリストの福音は、多くの人には覆われ、隠されているのです。キリスト者とはその隠された真実を示されたのです。その真実を多くの人々に知らせることが私たちに与えられている使命です。
 しかし、それは簡単なことではありません。「そんなことは信じられない」「目に見える証拠を見せろ」と言われます、私たちは苦しみ、たじろぎます。26節の主イエスの「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」とは、この覆われているもの、隠されているものは、必ずあらわになり、はっきりと知られる時が来るという約束の言葉です。

主の再臨を待ち望む
 それはいつでしょうか。私たちには分かりません。主イエス・キリストがもう一度この世においでになり、この世が終わる終末の時です。その時には、今は覆われ、隠されている、主イエスこそ神の子、救い主であられることが、誰の目にも明らかになり、神様のご支配が完成するのです。その時が必ず来る。だから、恐れないで、キリストの福音を宣べ伝え続けなさいと言われているのです。次の28節にはもう一つ新たに「恐れるな」とあります。それは「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。とあります。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者ども」とは私たちがこの世で出会い、恐れる人間たちのことです。その人間たちによって、体が殺されてしまうかもしれない、そういう恐れの中に私たちはあります。主イエスはそのような現実があることをはっきりとお語りになります。体は殺されてしまうかもしれない。そのような現実はあるかもしれないというのです。しかし、主イエスは「魂まで殺すことはできない者どもを恐れるな」と言います。ここでは「体と魂」ということが語られております。しかし、ここで人間は肉体と魂とからなり、肉体は滅びても、魂だけは生き続けるということではありません。

恐れるべき方
 人間は体を殺すことができるかもしれないが、魂にまでは及ばないのです。しかし、神様の力は、体のみではなく、魂にまで及ぶのだ、ということです。その場合の魂とは、私たちの一番中心の本質の部分を指していると言えます。人間の力はそこにまでは及びません。しかし神様の力はそこに及ぶのです。それなら、本当に恐れるべきなのはどちらか、それがここでの問いです。本当に恐れるべきなのは、魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方です。
ところが私たちは、その本当に恐れなければならない方を恐れずに、人間ばかりを恐れているのではないか。つまり私たちは、恐れる相手を間違えているのではないか。本当に恐れるべき方を見つめよ、それが28節の教えなのです。

あなたがたの父
 主イエスは本当に恐れるべき方である神様を見ことを私たちに求めておられます。29節以下にはこうあります。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。主イエスは「あなたがたの父」とはどのようなお方であるのかということを示しております。天地の全てを造られ、そして支配され、私たちの体も魂も地獄で滅ぼす力を持った方です。そのお方こそが本当に恐れるべき方であるというのです。主イエスはその方こそ「あなたがたの父」であられると言われます。天の父は、私たちの髪の毛一本までも残らず数えておられます。それほどまでに私たちのことを愛して下さっています。そこまで大事にして下さっているのです。本当に恐れるべき方は愛に満ちた父なる神です。この天の父を見出すことによって、私たちは人への恐れから解放されます。私たちが主イエスを信じる者として生きようとすることに敵対し、それを妨害し、揶揄し、恐れを抱かせる全ての人間の力、また私たち自身の心の中にあって、神様の前に跪くことを躊躇させるプライド、それらの全てにまさる天の父なる神の愛が自分に注がれていることを知るからです。

伝道の必要なところへ
 私たちはどうしたら、天の父なる神様の愛を知り、その下で生きるようになるでしょうか。それは主イエス・キリストの弟子として生きることを通してです。主イエスを信じ、その信仰を人々の前で言い表し、主イエスに従い、また主イエスによって遣わされていくことの中でこそ、「一羽の雀さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」という主の御言葉を聞くのです。天の父の恵みを受ける時、私たちの歩みは全ての苦しみも悲しみも不安から解放されるということではありません。主イエスに遣わされて歩む私たちは、狼の群れに送り込まれた羊のような存在です。「わたしの名のために、すべての人に憎まれる」という苦しみを受けることもあります。伝道の使命を与えられて、恐れや不安がなくなるということはあり得ません。魂を殺すことはできない人間たちによって、体は殺されてしまうことも起るのです。そういう様々な苦しみを私たちも味わいます。主イエスのご支配が覆われている間は、つまり主イエスの再臨と世の終わりまでの間は、信仰者の歩みはそのような苦難に満ちています。主イエスを救い主と信じ、人々の前で言い表す歩みは決して容易な道ではありません。キリスト者の存在そのものが人々の躓きとなる場合もあります。主の御言葉を伝える伝道の歩みには恐れはつきものです。しかし、恐れのないところに伝道の必要はありません。主イエスは私たちを選び、この日も礼拝へ来ることを許されました。私たちが遣わされるのは、それぞれの持ち場です。それは伝道の必要なところです。私たちがどうしても、恐れを覚え、不安に満たされなくてはならないところです。主イエスの派遣の御言葉を前にして、私たちもまた恐れを覚えずにはおられません。主イエスは「恐れるな」と語られます。主の励ましに支えられ、主に遣わされ、一週間の旅路へと向かって行くものとなりましょう。

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