夕礼拝

野人サムソン

「野人サムソン」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:士師記 第14章1-20節
・ 新約聖書:ヘブライ人への手紙 第11章32-40節
・ 讃美歌:19、355

個人的英雄サムソン
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書士師記からみ言葉に聞いていますが、本日から二回にわたって、サムソンという士師の物語を読みます。士師とは、イスラエルがまだ王国になる前、十二の部族のゆるやかな連合体だった時代に、敵に脅かされて危機に陥った時に神によって立てられ、敵と戦って国を守った英雄たちです。サムソンはその士師たちの中でもおそらく最もよく知られている人です。次回に取り上げますが、16章にある「サムソンとデリラ」の話は昔から歌劇や映画の題材となってきました。とても有名なサムソンですが、彼は士師たちの中でかなり特殊な人物です。士師記においてこれまで私たちが読んできた、ギデオンとかエフタという士師たちは、イスラエルの軍勢を率いて、その指揮官として敵と戦っています。しかしサムソンは軍勢を率いたことはありません。彼の働きは全く彼一人での個人的なものです。だから彼は国の指導者と言うよりも、個人的英雄です。士師という言葉は元々は「裁く」という言葉から来ており、それゆえに「さばきづかさ」と訳されたことがあります。民を指導する者という意味があるわけですが、その意味ではサムソンは士師とは言えないかもしれません。15章の最後の20節に「彼はペリシテ人の時代に、二十年間、士師としてイスラエルを裁いた」とありますが、そういう事実はどこにも語られていませんし、13-16章に語られているサムソンの姿と一致しません。ですからこの一文は、士師記をまとめた人が、サムソンを士師の一人として位置づけるために入れたものでしょう。サムソンは士師の本来の意味をはるかに超える個人的英雄なのです。

ペリシテ人との戦い
 今読んだ15章20節にあったように、サムソンが生きた時代は「ペリシテ人の時代」でした。もっと正確に言うと、先程朗読した14章の4節の終りにあったように「当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していた」ということです。イスラエルの民は、ペリシテ人という他民族に支配され、圧迫されていたのです。サムソンの生涯はこのペリシテ人との戦いの生涯でした。そしてイスラエルとペリシテ人の戦いはサムソンの時代で終わったのではありません。士師記の次の時代のことを語っているのはサムエル記ですが、そこにおいてもイスラエルは常にペリシテ人に脅かされ、戦いが繰り返されています。イスラエルに王が立てられたのも、ペリシテ人との戦いのためだったと言うことができます。また、後に王となるダビデが、まだ少年だった時に、ペリシテ軍の大男ゴリアトと一騎打ちをして倒したという話は有名です。そのようにイスラエルとペリシテとの戦いは長い間続いたのです。その最初に位置しているのがサムソンです。サムソンの個人的な戦いによって、イスラエルとペリシテとの、その後の長年の戦いの火蓋が切られたのです。そのようなサムソンの位置づけが13章5節に語られています。サムソンの誕生を予告した主の御使いが「彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう」と言いました。これは直訳すると「彼はペリシテ人の手からイスラエルを救い始めるだろう」となります。サムソンはイスラエルの人々をペリシテ人の支配から解放する戦いの先駆けとして神によって立てられ、用いられたのです。
 ところでペリシテ人とはどの辺りにいた民なのでしょうか。聖書の後ろの付録の地図の3.「カナンへの定住」を見ていただきますと、左下の地中海沿岸にペリシテとあります。「パレスチナ」という言葉はこのペリシテから来たものです。ペリシテの北に「ダン」というイスラエルの十二部族の一つの名があります。サムソンはこのダン族の生まれです。そして14章にはティムナ、アシュケロンというペリシテの地名が出て来ます。このあたりがサムソンの物語の舞台です。

ナジル人サムソン
 さていよいよサムソンの人となりを見て行きますが、彼の最大の特徴は人並み外れた怪力です。14章5節以下にその代表的なエピソードがあります。若い獅子を素手で引き裂いたというのです。そういう尋常でない力を彼は持っていました。それは主なる神が与えて下さったものでした。6節に「そのとき主の霊が激しく彼に降った」とあることがそれを示しています。彼の怪力は、彼の肉体に元々備わっていたのではなくて、主なる神からの霊によって発揮されたのです。彼がその霊を受けるようになった事情は、13章の彼の出生の話において示されています。13章の2-5節を読んでおきます。「その名をマノアという一人の男がいた。彼はダンの氏族に属し、ツォルアの出身であった。彼の妻は不妊の女で、子を産んだことがなかった。主の御使いが彼女に現れて言った。『あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。だが、身ごもって男の子を産むであろう。今後、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないように気をつけよ。あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。』」。サムソンの両親には長いこと子どもが生まれなかったのです。イスラエルにおいては、子どもが与えられないことは、神の恵み、祝福が与えられていない、ということを意味していました。その苦しみの中にあった父マノアに主の御使いが現れて、男の子の誕生を告げたのです。それは神が彼ら夫婦に恵みを、祝福を回復して下さるという知らせでしたが、同時に御使いは、生まれて来る子供は神が特別な働きのために選び、お用いになる人となるのだ、ということを告げました。サムソンは生まれる前から神に選ばれ、神のものとされていたのです。そのことを表しているのが「ナジル人」という言葉です。やはり聖書の付録の中にある「用語解説」によって「ナジル人」を見てみるとこのように語られています。「特別な誓願によって『神にささげられ、聖別された人』の意。その誓願の継続中は、酒を断ち、頭髪を刈らず、死体に触れなかった。しかし中にはサムソン、預言者サムエルのように、母親によって神にささげられ、生涯ナジル人とされた者もいる。(以下略)」。このようにナジル人は通常は自分の意志によってある期間誓願を立てて生活することを言うのですが、サムソンは、御使いの指示によって、生まれる前から神にささげられ、聖別された人だったのです。神ご自身が彼をナジル人として選び、ご自分のものとなさったのです。そこに彼の怪力の秘密がありました。ナジル人はその印として髪の毛を切りません。この後の16章のサムソンとデリラの話では、髪の毛を切られたことによってサムソンの怪力は失われ、捕われの身となっています。だからサムソンの力はその髪の毛に宿っていたと思われがちですが、実は、髪の毛が問題なのではなくて、それによって示されている神との関係、ナジル人であることが彼の力の源だったのです。

野人サムソン
 サムソンはこのように神によって聖別され、素晴しい怪力という賜物を与えられた人でしたが、その性格と言うか生き方はかなり八方破れです。彼は、腕力はめっぽう強かったけれど、美しい女性には弱かった。本日の14章にも、ティムナのペリシテ人の娘に一目惚れしてどうしても結婚すると言い張り、妻としたその女の泣き落としによって大事な謎の答えを教えてしまって裏切られる、ということが語られています。これは16章におけるデリラとの話の予告編のようなもので、結局同じようなパターンが繰り返されるのです。つまりサムソンは、私たちが神によって聖別された人ということで思い描くイメージとはほど遠い人です。また、この女との結婚式に招いたペリシテ人の三十人の客に謎掛けをして、麻の衣三十着、着替えの衣三十着を賭け、妻が答えをリークしたために賭けに敗れると、アシュケロンに住む三十人の無関係のペリシテ人を打ち殺してその衣を奪って賭けの相手に渡したのです。全くもってむちゃくちゃです。このような彼のどこに、神に聖別された者の姿などあるだろうかと思います。そしてこのことをきっかけにして15章では、仕返しが仕返しを生み、ついにはサムソンが一人でペリシテ人千人を打ち殺した、ということが語られています。このようにサムソンはとんでもない暴れ者です。人間の常識や倫理的規範によるコントロールが効かず、何をしでかすか分からない人です。そういう意味で彼は野人です。その野人サムソンが神に聖別されたナジル人であり、士師だった、それがこの物語のポイントです。主なる神はこのサムソンを、ご自分の民イスラエルをペリシテ人の支配から解放するという役割のために選び、お用いになったのです。しかし人間にはその神のみ心が分かりません。そのことが語られているのが14章の3、4節です。サムソンがペリシテの女と結婚したいと言い出した時、両親は「お前の兄弟の娘や同族の中に、女がいないとでも言うのか。無割礼のペリシテ人の中から妻を迎えようとは」と言って嘆きました。無割礼の、つまり神の民でない、しかも今自分たちを苦しめ、圧迫しているペリシテ人を妻にするなんて、とんでもないことです。サムソンを生まれる前から神にささげられたナジル人として大切に育てて来た両親にとっては、息子に対して抱いていた期待が裏切られた、という思いだったでしょう。しかし4節にはこう語られています。「父母にはこれが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった」。サムソンがペリシテの女にぞっこんになり、結婚したいと言い出したのは、実は主なる神のご計画だったのです。「手がかり」と訳されている言葉は「機会、好機」という意味です。つまり神が、イスラエルを苦しめているペリシテ人に一撃を加え、イスラエルを解放する救いのみ業を始めるための機会としてサムソンの結婚を用いようとしておられたのです。ちなみに以前の口語訳聖書ではここは「サムソンはペリシテびとを攻めようと、おりをうかがっていたからである」となっていました。サムソンがペリシテ人を攻める機会を伺っており、そのためにこの女と結婚しようとした、という訳になっていたのです。しかしこの「おりを伺う」「手がかりを求める」の主語である「彼」とは、文法的に言ってそのすぐ前の「主」であると考えるべきですから、やはり新共同訳のように、主なる神ご自身がおりを伺っていたと考えるべきです。サムソン自身は純粋に惚れた女と結婚しようとしたのです。そこに、主のご計画があったのです。両親が理解できなかったのはサムソンの思いではなくて、サムソン自身も気づかずにいた主なる神のご計画だったのです。

神の不思議なご計画
 そのことは、13章において、サムソンの両親が、男の子の誕生を告げた主の御使いに名前を尋ねたということにおいて語られていたことと繋がります。13章18節において、名前を尋ねられた御使いは、「なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議と言う」と答えています。この御使いの答えは、「不思議」という自分の名を明かしたということではなくて、「私の名はあなたの理解を超えている。それはあなたにはわからない不思議なのだ」という意味でしょう。御使いに名を尋ねるというのは、主なる神のみ心をはっきりと知りたいという思いの現れです。それに対して御使いは、「主なる神は不思議なみ業をなさる。人間はそのみ心、ご計画を理解し、はっきりと知ることはできない」と答えたのです。野人サムソンが選ばれ、士師として用いられたことは、サムソン自身も、両親も分からない、主なる神の不思議なご計画によるみ業です。神は、人間の思いや常識をはるかに超えた驚くべきご計画によって、ご自分の民を導いて下さり、救いのみ業を前進させて下さるのです。

信仰者サムソン
 本日共に読まれた新約聖書の箇所、ヘブライ人への手紙第11章の32節に、サムソンの名前が、信仰によって大いなる働きを与えられた人の一人としてあげられています。サムソンも、ダビデやサムエルや預言者たちと同じように、主なる神を信じる信仰によって生きたのだと言われているのです。このことは、信仰によって生きるとはどういうことかを私たちに考えさせます。いわゆる信心深い、敬虔な、品行方正で柔和な生活を送ること、人に対する思いやりややさしさをもって生きることが信仰によって生きることではないのです。そういう規準で測るなら、サムソンは信仰によって生きた人とはとても言えません。彼は野人であり、信仰者とはこういうものだと私たちが思っている常識には全く収まらない存在です。しかし聖書は、旧約において彼を士師の一人として位置づけ、新約において彼を信仰によって生きた人の一人として記念しているのです。つまり、主なる神を信じて生きるとは、ある特定の生活様式を身に着けるとか、ある共通の考え方に立つということとは違うのです。そういうこととは全く別に、主なる神と出会い、その選びと召しを受けて神と共に、神に用いられて生きること、それが信仰をもって生きることです。そしてその神の選びと召しはまことに不思議な、私たちには分からない仕方で与えられるのです。私たちには分からない、知ることのできないみ業を、主は不思議な仕方で、私たちにはとうてい考えられないような人を用いてなさるのです。私たちの感覚や常識ではとうてい信仰を持って生きた人とは思えないサムソンが、主の選びと召しを受けており、士師として、信仰によって生きる者として立てられ、用いられているのです。 更にまさったご計画
 ヘブライ人への手紙第11章の39節にはこうあります。「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした」。ここに並べられている旧約聖書における信仰者たち、サムソンもその一人とされているわけですが、彼らは、信仰のゆえに神に認められていながらも、約束されたものを手に入れてはいなかったのです。「約束されたもの」とは、神による救いの完成です。旧約聖書の信仰者たちは、神による救いの完成の約束を与えられ、そこへと向かってこの世の旅路を歩んだのです。しかし彼らはその目的地に到達することはなく、その途上で地上の生涯を終えました。サムソンもまさに、イスラエルの民をペリシテ人の手から解き放つという神による救いみ業の先駆けとして立てられ、主に与えられた力を用いて暴れ回りましたが、その救いの完成を見ることなく、次回16章において読みますが、悲劇的な最期を遂げたのです。このように、これらの信仰者たちの歩みは未完に終わったのです。しかし次の40節にはこう語られています。「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」。救いの完成を見ることなく、未完に終わった彼らの歩みが、完全な状態に達する、救いの完成を与えられる、そのために神は更にまさったものを計画して下さったのです。そのご計画が実現することにおいて、未完のままで終わった彼等旧約の信仰者たちも完全な状態に達することができるのです。この更にまさった計画は、神が「私たちのために」計画して下さったものです。それは、神の独り子イエス・キリストによる救いのご計画です。神の独り子であられる主イエス・キリストが人間となってこの世に来て下さり、私たちの罪を全て引き受けて十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪が赦され、神との新しい良い交わりが与えられる、そしてその主イエスを父なる神が復活させて下さることによって、死の力が打ち破られ、私たちにも復活と永遠の命への約束が与えられる、神はこの「更にまさった救い」を私たちのために計画して下さり、独り子イエス・キリストの十字架の死と復活においてそれを実現して下さったのです。サムソンら旧約聖書の信仰者たちの未完に終わった歩みは、このキリストによる救いのご計画の実現においてこそ完成に至るものだったのです。

破れのある私たちも
 神の独り子が人間となり、しかも王侯貴族としてではなく最も貧しい人の一人としてこの世を歩み、そして自らは何の罪もないのに十字架の死刑に処せられる、そのことによって罪ある人間のための神の救いのみ業が実現するというのは、野人サムソンが神によって聖別され、み業のために用いられたことよりも、ある意味ではもっとずっと不思議な、驚くべき出来事だと言えるでしょう。サムソンの物語に語られているみ業よりも、更にまさった、更に不思議な救いのみ業を、神は主イエス・キリストにおいて私たちのために成し遂げて下さったのです。この更にまさったみ業の中で生かされ、歩んでいくのがキリストを信じる信仰者です。信仰をもって生きている私たちの歩みにも、振り返って見るならば様々な罪があり、弱さがあり、欠けがあり、破れがあります。サムソンの生き方は八方破れだと申しましたが、それほど派手ではないとしても、私たちの生き方だって、四方八方に破れがあるのです。しかし、野人サムソンを選び、召してみ業のために用いて下さり、神と共に生きる者として下さった主なる神が、独り子イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しと永遠の命の約束を私たちに与えて下さっています。私たちは、この神によって選ばれ、召されて信仰を与えられており、み業のために用いられているのです。それは私たちが信心深い、品行方正な人間だからではありません。自分がどんな人間であっても、どんなに破れをかかえていたとしても、神が自分を選んで下さり、召して下さり、用いて下さり、神と共に生きる者として下さる、そして主イエス・キリストの十字架と復活による救いの完成に至らせて下さる、サムソンの物語はそのことを私たちに告げ示しているのです。

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