夕礼拝

恵みの年の到来

「恵みの年の到来」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; イザヤ書、第61章 1節-4節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第3章 21節-22節
・ 讃美歌 ; 275、431、78

 
序 新しい年が始まりました。皆さんはどんな年末年始を過ごされたでしょうか。私も父親の郷里の長野に帰って、家族・親戚と共に年越しをしてまいりました。家族や親戚が故郷に集まって共に過ごすことができるのは、まことに恵み深く、幸せなことだという思いを新たにしてまいりました。けれどもこの間、神学校の学生寮に連絡を取る機会があった私は、さまざまな事情から、年末も帰省せずに、あるいは帰省できずに、寮で過ごしている神学生たちがいることを改めて知らされました。帰省しても自分のいる場所がないという人もいますし、家族の理解を得られない中で、神学校での学びをしているため、帰るに帰れないという人もきっといるのではないかと思います。そのようなことを思い巡らしていると、主イエスが故郷のナザレで人々に受け入れられなかった出来事に、思いが導かれていきました。

1 主イエスが洗礼をお受けになり、悪魔の誘惑に打ち勝って、ガリラヤで伝道を始められた後、主は故郷のナザレに来られました。ナザレの地は、主が30歳ころまでお育ちになった場所であります。ガリラヤのナザレでお育ちになった主について、福音書は語っています、「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」(2:40)、「両親に仕えてお暮らしになった」(2:51)、「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(2:52)。主はこの故郷ナザレで、神の恵みに包まれて、まことの人として、健やかに、また、たくましくお育ちになったのでした。このナザレに帰ってこられた主はいつものように、安息日にユダヤ教の会堂に入り、聖書―これはわたしたちの言葉で言うと旧約聖書でありますが―この聖書を朗読しようとされます。当時は聖書を誰が朗読するかということは必ずしもはっきりと定められていたことではなかったようですから、主イエスもたびたび聖書朗読を担当することがあったのでしょう。そこで主イエスは預言者イザヤの巻物を渡されます。そこには預言者イザヤに代表される旧約の伝統が表現されています。代々の預言者たちが指し示してきたメシアを待ち望む思いが込められています。
 主イエスがお開きなった時、示されたのはイザヤ書61章の御言葉でした。福音書はその箇所をこのように引用しています、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。イスラエルでは、王や祭司が、就任式の時に油をその頭に注がれる伝統がありました。このようにして「油を注がれた者」のことを「メシア」と呼んでいたのです。後にこの「油を注がれた者」は、正しい治世をもって国を治める理想的な王を意味するようになり、さらには神の決定的な救いをもたらす「救い主」を意味するようになったのです。主イエスがイザヤの巻物を手渡されたというのは、この「油注がれた者」、「メシア」、「救い主」を待ち望む代々の民の思いをこのお方が受けとめ、お引き受けになったということです。
私はこの年末に帰省した際、NHKの「映像の20世紀」という番組を見ました。そこには、打ち続く戦火によって難民が世界の各地に大量に生まれる様が描かれていました。ベトナムやカンボジア、インドやシベリア、ポーランドやユーゴスラヴィア、世界の各地で、想像できないほどの悲惨な出来事が起こり、たくさんの難民が生まれてきましたし、今も生まれています。またその中で多くの独裁者たちも生まれてきました。ドイツのヒトラー、ソヴィエトのレーニン、カンボジアのポル・ポト、ルーマニアのチャウシェスク、イラクのフセインなどです。その下で怖れと不安に悩まされ、飢えや寒さ、生命の脅かしに苦しめられてきた人々がどれだけいることでしょうか。20世紀ひとつとってみてもそうであるなら、いったいこれまでの人類の歴史が味わってきた苦しみはどれほどのものでしょうか。それだけではありません。先ごろイランで起きた巨大地震のように、自然が引き起こす災害も、途方もない苦しみと痛みを、この世界にもたらすのです。一人一人の小さな努力も吹き飛ばされるかに思えるような圧倒的に悲惨な出来事を目の当たりにする時、わたしたちはそこで自分の無力を思い知らされます。いったい誰がこの人類の歴史の重荷に耐え切れると言うのでしょうか。ここで私たちは、もはや救いは人類の外から与えられなければどうしようもないことを思い知らされるのです。メシアを待ち望む思いが生まれるのです。
主がイザヤの巻物をお受け取りになったのは、このお方がメシアとして、この世界と歴史の中で悩み苦しみ、喘いでいる人間の嘆き、救い主を待ち望む思いを受けとめてくださったということです。そして不安と絶望の最中で「主の恵みの年」を告げ知らせてくださるということです。なぜなら、このお方こそが、代々の預言者たちが民衆を代表して待ち望み、そのために涙し、祈り、願い、叫び求め続けてきたお方にほかならないからです。聖霊による神からの派遣を深く受けとめ、「油を注がれた方」、救い主として今ここに来てくださったのです。

2 このイザヤの書を読んで席に着かれた主イエスに、会堂にいるすべての人の目が注がれました。人々はそれまでに聞いた聖書朗読とは違う何かをこの時感じたのではないでしょうか。そしてこのイザヤの預言についての解き明かしを主イエスに求めたのではないでしょうか。
 そこで主がこの預言の言葉について解き明かしを始められます。その第一声は驚くべき言葉でした、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)。今こそ、貧しい人に福音が告げ知らされ、捕らわれている人には解放が、目の見えない人には視力の回復が告げられ、圧迫されている人は自由にされる時だというのです。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント6:2)だと告げられているのです。主イエスがここにおられ、主イエスの口から直接御言葉が語られる時、預言の成就、実現がここに起こっているというのです。代々の預言者が待ち望み、世界の民が求め続けてきた救い主が今目の前に立っておられ、ご自身からその恵みを語ってくださっているのです。
 けれども大事なことは、この恵みの言葉は、私たちがまことにその通りだ、今、ここに、私の身にも実現していることだと信じて、受け止め、受け入れなければ、「私にとっての実現」とはならないということです。ナザレの人々は、この点においてつまずいたのではないでしょうか。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚きながらもこう言うのです、「この人はヨセフの子ではないか」。他の福音書にあっては、ここで言われていることの含みを織り交ぜつつ、人々の発言が次のようであったと語られています、「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」(マタイ13:55-56)。 
 彼らは知っているのです、主イエスがベツレヘムの馬小屋でお生まれになったことも、大工の息子としてお育ちになったことも、母親や兄弟、姉妹がどんな人であるのかということも、具体的な日常生活でのふれあいを通して知っているのです。けれどもかえってそのことが妨げとなってこの人間イエスがしかし、まことの神でもあるということが見えなくされてしまっているのです。貧しい家の出で、大工の父親の手伝いをして育った、幼い頃から自分の子供たちと一緒に過ごし、遊びんで育った子が、なぜ自分たちが待ちわびていた救い主でありえるのか。救い主だったら、天から直接降って来て、圧倒的な力と権力をもって今の自分たちの苦しみから解放してくれるのが筋ではないのか。人々はそう思ったのではないでしょうか。主イエスはこうした人々の思いを見抜かれて、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」という人々の心の声を問題にされたのです。本当にメシアなら、それにふさわしく自分たちにしるしを見せてくれ、というのです。ちょうど医者が他の人の病気を治すけれども、自分自身の病を治すことには疎いように、あなたも救い主である割りには自分の故郷の人々にそのことを証明する力に欠けているのではないか、と責めているのです。このわだかまりが昂じて、最後に主は、故郷の人々から突き落とされかけてしまうのです。人々は憤慨し、総立ちになって救い主を町の外に追い出し、山の崖から突き落とそうとしたのです。
 旧約の預言の伝統にあれほど生きていながらも、いざそのお方が目の前に現れてくださった時、それが分からない。それが主イエスの故郷、ナザレの人々の姿でありました。人間イエスを一番親しく知っているがゆえに、かえってそれが妨げになってこのお方が真実のメシアであることに目が開かれないのです。自分たちが抱いていた理想のメシア像とはあまりにもかけ離れ、食い違っている人間イエスが、いったいなぜ救い主なのか分からないのです。「伝統」とは、とても大切なものです。それは受け継ぎ、守っていくべき尊いものです。けれども、その伝統の枠に収まらない形でやってきて、しかもその伝統が長い間求めてきたものを実現してくれるものがあるのです。それが私たち人間には見えないのです。旧約の預言の伝統に生きてきたにも関わらず、その枠に収まらないみすぼらしく、貧しい姿の救い主が現れると、人々はまさかこのお方が自分たちの待ち望んでいたメシアだとは思えないのです。メシアはわたしたちの目には「隠れた形で」この地上に来られました。人間の肉をご自身のものとして取り上げ、馬小屋でお生まれになり、故郷ナザレで成長され、嘲りとののしりを受けながら十字架におかかりになるという、およそ民衆が期待していたメシア像とはかけ離れた形で、主イエスはわたしたちの下に来てくださったのです。このお方がまことに救い主であるということは、主イエスの復活と聖霊の降りにおいて明らかにされ、教会の誕生、使徒パウロの異邦の民への伝道を通して告げ広められていくことになるのです。
 わたしたちキリスト者の歩みの中でも、その信仰ゆえに家族や親戚からの理解を得られないということが起こりえます。それは家族の伝統に反すると受け取られて、激しい反対や攻撃に遭うことがあり得るのです。そんなことはこの家の伝統にはない、と言われることがあり得るのです。けれども、そんな時も私たちは信じてよいのです。その家族の伝統、祖先を敬う思い、墓を大事にする心、近所や親戚との関係を重んじる気風・・・そうした精神をも越えつつ、しかもそうした思いをきちんと位置づけ、大切にしていくのが私たちの信仰であるということを信じてよいのです。ただそこに欠けている最も大事な思い、まことの神、まことの救い主に心を向けて歩む思いが求められていることを人々に証しするようにと、私たちは招かれているのです。まず神の国と神の義を求めるのです。神に心を向けて歩むことを第一とする中で、私たちは神が共に歩むよう備えられた家族を喜び、これを敬い、その救いをも祈り求めるようになります。必要に迫られれば家の墓を守ることにも心を用いるのです。しかしそれもまた私たちの国籍が天にあるという、より高い所にある恵みに、家族や親戚の心の目が開かれることを祈り求める中でのことです。近所や親戚との関係も、それが一番大事なことではなく、神の言葉に聴きつつ歩むことが最も大事なことだと知るなら、その神がお与えになった近所や親戚の人々として、受け止めなおすことができるのです。
故郷の人々に受け入れられないつらさは、主ご自身が味わわれたところです。わたしたちはこの主の思いを深く受け止めつつ、時にぶつかる無理解や反対も、忍耐と祈りの中で耐え忍び、主が御心を現してくださることを待ち望むのです。

結 預言者エリヤやエリシャは、共にイスラエルの預言者でありながら、イスラエル以外の、他の民の下に遣わされたり、異邦人の将軍を癒したりしました。イスラエルへの神の語りかけが拒まれた時、預言の言葉は、まずイスラエル以外の民にもたらされることとなったのでした。この主がナザレで受け入れられなかった出来事は、主イエスがやがて、エルサレムで十字架におかかりになるという形で、人々に拒まれる姿を映し出しているのです。主がエルサレムに入場するにあたっておっしゃった通りです、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前の家は見捨てられる」(13:34-35)。しかし主は敢えてこの十字架への道を進み行かれました。それが父なる神の御心であることを深く理解しておられたからです。私たちは神の恵みを安っぽいものにしてはいけません。教会は、福音を聴くことに慣れてしまってはいけません。主イエスを知ったつもりになって、「この人の言っていることはもはや耳慣れた、いつも聞いていることではないか」と思ってはなりません。主イエスを理解したつもりになりながら、主を崖から突き落とすに等しいような信仰の過ちを犯してはなりません。いつも新しく恵みの御言葉に生かされ、裁かれ、悔い改めに導かれ、新たに造りかえられていくのです。
 主イエスが十字架の御苦しみを通してもたらしてくださったのは「主の恵みの年」、「恵みの時」、「救いの日」です。私たちはこの世界の悩みと苦しみの只中で隠れているように見えながら、しかし確かなものとして告げ知らされているこの「恵みの年」に目を開かされ、その到来を喜び、祝い、宣べ伝えるのです。そしてその「恵みの年」が、神の国においてまことに完成することを祈り求めつつ働く中で、今日という日に足跡を残す、自分のささやかな歩みにも、確かな意味を見出すことができるのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、この世界を憐れみ、この歴史の苦しみを顧みてください。あなたは御子をお遣わしになり、うずくまりつつ救い主を待ち望んでいる私たちの叫びを受け止めてくださいました。そして私たちがあなたの御言葉を信じて受け入れる時、「この聖書の言葉は、今日、あなたが耳にしたとき、実現した」とおっしゃってくださいます。どうかこのあなたの恵みにいつまでもとどまらせてください。そしてクリスマスを迎えるたびに、この恵みの偉大さと慰めをいよいよ深く味わい知る者とならせてください。そして日々のわたしたちのささやかな働きも、世界の平和と、さらには御国の前進のために用いられていることに確信を持たせてください。
どうかメシアが来てくださったのにそれを深く受け入れることなきゆえに苦しんでいる世界を御心にとめてください。そして私たちに、「恵みの年」の到来を力強く告げ知らせることへの思いを、今新たにさせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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