主日礼拝

聖なる生活

「聖なる生活」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; レビ記、第19章 1節-2節
・ 新約聖書; テサロニケの信徒への手紙一、第4章 1節-12節

主の2004年
 新しい年、2004年を迎えました。西暦紀元2004年を略号で表すと、A.D.2004となります。このA.D.という言い方は、Anno Dominiというラテン語の頭文字です。その意味は、「主の年」です。「主」とは、言うまでもなく主イエス・キリストのことです。主イエス・キリストのご降誕から数えて何年、というのが、西暦紀元の考え方であり、それを「主の年」として数えていくのです。ですから、A.D.2004を日本語に訳すなら、「主の2004年」となります。私たちは、主イエス・キリストの2004年を歩み始めたのです。この年の私たちの歩み、この教会の歩み、この社会の歩み、この国、そしてこの世界の歩みの主、主人はイエス・キリストです。年の初めの主の日に、このまことの主を覚え、この主のみ前に膝まずく礼拝を守って主の2004年を歩み始めることができるのは、まことに感謝すべきことです。

神に喜ばれる歩み
 私たちは今礼拝において、テサロニケの信徒への手紙一を連続して読んでおりまして、クリスマス前に、3章の終わりまで進んだところでした。本日から4章に入ります。クリスマスによる中断を経て、新しい年の最初の礼拝で4章1節以下を読むことになったのは丁度相応しいことだったと思っています。それはこの手紙がこの第4章から、主イエス・キリストを信じる信仰に基づく生活のあり方を教えていく後半に入るからです。1節にこうあります。「さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください」。ここに「歩む」という言葉があります。そこには、「生きる」「生活する」という意味が込められています。「どのように歩むべきか」、それはどのように生き、生活するべきか、ということです。信仰に基づく生活のことが語られていくのです。使徒パウロはここで、テサロニケの教会の人々に、あなたがたは、どのように歩むべきかを既に私たちから学び、現にそのように歩んでいる、その歩みを更に続けて欲しい、と語りかけています。テサロニケの人々がパウロたち伝道者から学び、現にそのように歩んでいる歩み、それは一言で言えば、「神に喜ばれるため」の歩みです。信仰に基づく歩み、信仰者の生活とは、神様に喜んでいただくための歩み、生活なのです。その生活のあり方がこの4章以下に教えられています。このみ言葉を読み進めることによって、この年を、神様に喜んでいただくことを願い求めつつ歩む一年としたい、主の2004年の初めの礼拝において私たちはそのことを、この一年の抱負としたいのです。

聖なる者となる
 神様に喜ばれる歩み、それは言い換えれば、神様の御心に適う歩みです。それでは神様が私たちに求めておられる御心とはどのようなものなのでしょうか。3節にそのことが語られています。「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」、これが、神様の御心であり、これに適うことこそが、「神に喜ばれる歩み」なのです。同じことは7節にも、「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです」と語られています。神様は私たちが聖なる生活をするために、招き、信仰を与えて下さったのです。
 しかし「聖なる者となる」とか、「聖なる生活」などというと、私たちは、ものすごく堅苦しい、息がつまるような、いろいろな規則にがんじがらめに縛られた生活をイメージしてしまうことが多いのではないでしょうか。「聖なる者」は、ものすごく立派かもしれないがちっとも面白くない、人間味に欠ける連中だ、という思いも起こってきます。だから一方では、自分のような者は「聖なる者」などにはとうていなれっこない、と思うし、また他方では、どうも教会というのは、「聖なる者」を装っている偽善者の集団ではないか、などと批判する思いが起ってくるのです。しかし私たちは、「聖なる者」とか「聖なる生活」という言葉について自分が抱くイメージを振り払って、聖書がそれをどのように語っているのか、パウロがここで教えている「聖なる生活」とはどのようなものなのかをきちんと聞き取らなければなりません。そうしないと、聖なる者となろうとする私たちの努力も的外れな努力になってしまうし、失望しなくてもよいところで失望してしまうことが起こるし、また聖なる者についての間違った認識に基づいて批判をすることになってしまうのです。

聖なる神の民として
 聖なる者となれ、という教えは、パウロに始まったものではありません。旧約聖書に既にそう教えられているのです。本日共に読まれたレビ記19章がその代表的な所です。その2節で、神様はモーセを通してイスラエルの人々に、「あなたたちは聖なる者となりなさい」と語っておられます。イスラエルの人々はなぜ聖なる者とならなければならないのか、その理由は「あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」ということです。主なる神様が聖なる者であられるから、その民とされたイスラエルの人々も聖なる者とならなければならない、と言われているのです。このことは、私たちが「聖なる生活」を追い求めていく上で基本となる重要なポイントです。つまり、私たちの「聖なる生活」は、私たちが「聖なる者」について思い描くイメージに基づいて、そういう生活をするように努力していくことではないのです。「聖なる生活」を追い求める上で、まず見つめなければならないのは、神様がどのような方であられるのか、ということです。神様が聖なる方であられる、そのことをしっかりとわきまえ、その聖なる神様に相応しい歩みをしていくことが、私たちの聖なる生活なのです。だから私たちは、神様がどのような仕方で聖なる方であられるのか、ということをまず知らなければなりません。聖なる神様のことを知ることなしに聖なる生活をすることはできないのです。
 このことは、5節に「神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです」と言われていることと重なります。異邦人とはイスラエルの民でない人々、つまり神様の民とされていない人々のことです。その人々は、神を知らない、聖なる、生けるまことの主なる神様を知らないのです。それらの人々は、聖なる生活をすることができないのです。このことを、神様を信じていない人は道徳的にきちんとした生活をすることができない、というふうに読んでしまってはなりません。私たちの文脈で言えばそれは、クリスチャンでない人は道徳的にきちんとした生活をしていない、ということになりますが、そんなことは決してありません。ここに語られている「みだらな行い」とか「情欲におぼれる」というのは、性的な放縦のことですが、この当時の異邦人たち、つまりギリシャ・ローマ文明の世界に、性的な乱れや、そういうものを容認する考え方がけっこうあったことは事実です。しかしだからといって全ての異邦人がそういう生活をしていたわけではありません。異邦人たちの中にも、そういうことを戒めるような教えはあったのです。今日の日本においても情況は同じです。性的モラルの乱れはかなり激しいものがあります。いや、もはや性的モラルなどというものは崩壊して、何でもありの世界になっているとも言えます。しかしだからといって全ての人がそういう生活をしているわけではないし、逆に教会、クリスチャンならばそういうことと無縁であるわけでもありません。情欲におぼれてしまうのは神を知らない異邦人だけではない、という現実があるのです。ですから私たちは信仰者だからといって安心していることはできないし、信仰を持っていない人に対しておかしな優越感を持つようなことはあり得ないのです。そのことをしっかりとわきまえた上で、けれどもやはりはっきりと断言できることは、神を知ることなしに、ここでパウロが語っている「聖なる生活」を歩むことはできない、ということです。ここで見つめられている「聖なる生活」は、道徳的にきちんとした生活、とは違うからです。神様が聖なる方であられる、その聖なる神様の民として、神様のもとに生きることこそが「聖なる生活」だからです。

聖なる神とは
 神様はどのような仕方で聖なる方であられるのでしょうか。先程のレビ記19章は、聖なる者としての生き方を様々な具体的な事柄において教えていますが、それぞれの教えは「わたしはあなたたちの神、主である」あるいは「わたしは主である」という宣言によってしめくくられています。そしてそれらをまとめるように、35節では、「わたしは、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である」と言われています。神様が聖なる方であられることは、レビ記においては、エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民を救い出して下さったという恵みにおいて見つめられているのです。神様が聖なる方であられるとは、このような救いを与えて下さる方であられるということです。言い換えれば、神様は恵み深い方であられるということです。イスラエルの民は、周囲の諸民族の中で特に道徳的に立派だったわけではないし、何か特別に優れたものを持っていたのでもありません。ただ神様の恵みによって彼らはエジプトの奴隷状態から救われ、神様の民とされたのです。そこに、聖なる神様との出会いがあったし、その神様の恵みに応えて生きるところに聖なる生活があるのです。それと同じ恵みが私たちには、主イエス・キリストによって与えられています。神様はその独り子イエス・キリストを、私たちのためにこの世に遣わして下さり、その主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。私たちは道徳的に立派な者でもないし、世間の人々と比べて特に清く正しい生活をしているわけでもありません。むしろ神様と隣人に対して、いつも罪を犯し続けている者です。そのような私たちに、神様がただ恵みによって独り子を与えて下さり、罪を赦してご自分の民として下さったのです。そこに、神様が聖なる方であられることが示されています。私たちはこの聖なる神様の恵みを受けた者として、それに相応しく、その恵みに応えて、感謝して歩もうとするのです。そこに、私たちの聖なる生活があります。ですから私たちの聖なる生活は、自分の力で頑張って道徳的にしっかりとした立派な生活をしようとすることとは違うのです。私たちの聖なる生活の土台には、それを支える、神様の救いの恵み、罪人である私たちを独り子イエス・キリストの十字架の死によって赦して下さる恵みがあるのです。私たちの聖なる生活の基調は、感謝です。神様の救いの恵みに感謝して、それに応えて生きるのです。神様に喜ばれるために聖なる者になれ、というパウロの教えはそういうことを求めているのです。ですから、それを拒み、「いや自分は聖なる者などにはなれない」ともしも私たちが言うとしたら、それは8節に言われているように、「人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになる」のです。神様は私たちの内に聖霊を与えて下さり、聖霊の働きによって私たちに神様を信じる信仰を与え、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みが自分に与えられていることを信じて、その恵みに感謝して生きる者として下さるのです。この聖霊の働きを受けて歩むことが、神様に喜ばれる聖なる生活です。聖霊の働きを拒んではなりません。主の2004年を歩み出すに当って、自分の内に聖霊が働いていて下さることを信じて、聖なる生活を追い求めていく思いを新たにしたいのです。

性の営みにおいて
 さてこのような前提をまず確認した上で、パウロがここで教えている聖なる生活の具体的なところを見ていきたいと思います。3節の後半から6節にかけて語られているのは、先程申しましたように、「みだらな行い」を避け、情欲におぼれるな、ということです。つまりこれは、性、セックスにおける生き方についての教えです。神に喜ばれる聖なる生活を語っていくその最初に、性の問題が出て来るということには、いささか違和感があるかもしれません。しかしそれは、パウロがここで見つめている聖なる生活が、たてまえだけの「きれいごと」ではないということの現れです。性の問題は、人間の最も根本的な欲望に関わることです。そしてそこには様々な罪が生じるのです。性は、私たちの生活の最も生々しい部分であるとも言えるでしょう。そこにおいて、私たちは聖霊の導きを受け、神様の恵みに感謝する聖なる生活を与えられるのです。それはいわゆる「禁欲的な生活」ということとは違います。4節には「おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず」とあります。妻との生活、つまり結婚、夫婦の関係の中で、つまり神様によって結び合わされた絆の中で、相手に対する汚れのない心と尊敬の念の中で、性的な営みがなされていくのです。性は、神様が人間に与えて下さった恵みです。神様は人間を男と女に創造し、結婚において夫婦が一体となることを祝福して下さいました。神によって結び合わされた夫婦の間においてこそ、そしてお互いが相手を尊重し大切にしていくところにこそ、性の営みが神様の祝福の下に置かれる場があるのです。その関係を超えたところでなされていくことは、「情欲におぼれる」ことであり、それは神様の恵みに感謝して生きる聖なる生活に相応しいことではないのです。
 ところで、この4節ですが、前の口語訳聖書では、「各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち」となっていました。「妻」という言葉はなかったのです。ここの原文を直訳すると、「自分の器を清さと尊重の中で持ち」となります。その「器」という言葉を「妻」と解釈すれば新共同訳となり、「体」と解釈すれば口語訳となるのです。どちらの解釈も成り立つので、注解者の間でも議論が分かれるところです。私の感想としては、「自分の体を清く尊く保ち」よりも、「汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活する」という方が、具体的であり、また性生活を結婚、夫婦の間に位置づけるということがはっきりしますから、新共同訳の方を取りたいと思います。

兄弟愛
 さてこの性の問題に続いて9節以下に語られていくのは、「兄弟愛」についてです。パウロはここで、テサロニケの人々に、あなたがたは既に「互いに愛し合いなさい」ということを教えられており、それをマケドニア州に住むすべての兄弟たちに対して実行している、その愛になおいっそう励むように、と勧めています。この手紙の1章3節で彼は、テサロニケの教会の人々の「愛のための労苦」を思い、神様に感謝していました。その愛の労苦は、自分たちの教会の兄弟姉妹に対してのみでなく、その地方の諸教会の、共に主イエス・キリストに連なり、信仰を持って歩んでいる兄弟姉妹に対しても向けられていたのです。兄弟を愛することは、抽象的な、言葉だけの事柄ではありません。具体的な行動、労苦を伴う愛に生きることが、聖なる生活の大切な要素です。先週発行された当教会の機関誌、「指路」誌の「牧師室より」にも引用しましたが、当教会の元牧師、毛利官治先生の書かれた文章に、「今日のキリスト者は、文化生活に安住して、魂を委縮させ、安楽椅子で、キリスト教の知識に食傷し、その道徳に身動きできず、無力なインテリ化して、批評のみ剃刀のように鋭く、手足は動かぬ第三期の結核患者のようである。」というのがあります。毛利牧師がこれを書かれたのは戦前、もう50年以上前です。その後、この病状はよくなっているのでしょうか。私たちが、兄弟姉妹の間で、人の批判や問題点の指摘ばかりがやたらに鋭く、相手を愛するために手足を動かして労苦を負おうとしないならば、今なおこのような病状が続いていると言わなければならないでしょう。結核はよい薬が開発され普及して直るようになりました。しかし信仰におけるこの病は、私たちが、主イエス・キリストの恵みに応えて、神様に喜ばれる聖なる生活を送ることを志し、聖霊の働きをによって、兄弟姉妹への愛に生きていくこと以外に直る道がないのです。

落ち着いた生活
 11節には「そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」と教えられています。聖なる生活とは、落ち着いた生活です。自分の仕事にしっかり励み、自分の手で働いて生活を整えていくのです。例えば、仕事もそっちのけで人のための奉仕に飛び回るようなことが聖なる生活ではありません。自分の仕事に励むのは何のためでしょうか。そのヒントなるのは、エフェソの信徒への手紙第4章28節の言葉です。そこには「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」とあります。盗みを働くのではなく、自分の手で正当な報酬を得ることが勧められています。それは、困っている人々に分け与えるためです。つまり、自分の仕事に励むのは、自分や家族の生活を自分で整えるためだけではありません。そのようにして得た収入を、困っている人々、困窮の内にある人々を支え助けるために用いていくためなのです。ですから、「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励みなさい」という教えは、自分のことだけ考えて生きよということではありません。むしろこのことによって本当に、他の人のことを思い、助けを必要としている人に手を差し伸べることができるようになるためです。聖なる生活というのは、自分はどれだけ聖なるものになっているか、といつも自分の姿を気にして振り返っているような、喩えて言えば鏡の前で自分がどれだけ美しくなったかを四六時中眺めているような生活ではありません。私たちの心が、自分の清さ正しさ立派さに向かうのでなく、他の人へと向かっていくことこそが、主イエス・キリストの救いにあずかった者に相応しい、神様に喜ばれる聖なる生活なのです。

福音の聖戦に勇躍
 そのことは、12節にも語られています。「そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう」。「外部の人」、それは「兄弟」に対しての言葉でしょう。教会の兄弟姉妹、信仰の仲間たちのことのみでなく、「外部の人」のことをも意識していくのです。彼らに対して「品位を保ち、迷惑をかけない」、それは、主イエス・キリストを信じ、主イエスに結ばれた者として生きる私たちが、そうでない人々の前で、主イエスのみ名を汚し、貶めるようなことをしない、ということです。それをもっと積極的に言えば、外部の人に対して、主イエスのことを証しし、伝道をする、ということです。この12節は、そういう意識を持って歩むことを教えていると言うことができるでしょう。聖なる生活は、内向きの、自分たちの間でのみ小さく固まっていくような生活ではありません。常に、「外部の人」に対する意識を持ち、主イエス・キリストがマタイによる福音書28章19、20節で言われた、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」というご命令を覚えていく生活です。主イエス・キリストの福音の伝道のために祈り、奉仕する生活こそ、聖なる生活なのです。先程の毛利牧師の文章は、「よろしく聖霊の大気に浴し、福音の聖戦に勇躍すべし」と結ばれています。「聖戦」という言葉は、歴史的にも、また今日においても、人を傷つけ攻撃することを正当化するために用いられているので気をつけなければなりませんが、ここに言われているのは、自分を正当化して敵をやっつける聖戦ではありません。自らが、主イエス・キリストの救いにあずかり、主イエスに結ばれた者として、兄弟を愛し、外部の人々に主イエスを証しするために行動を起していく、その聖なる生活を歩んでいくために、私たちは戦うのです。その戦いを導き、聖なる生活を与えて下さるのは聖霊です。迎えた新しい年、主の2004年も、礼拝において、聖霊の大気を胸いっぱいに吸い込んで、それぞれの遣わされている場において、聖なる生活へと勇躍していこうではありませんか。

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