主日礼拝

主の再臨

「主の再臨」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、第98篇 1節-9節
・ 新約聖書; テサロニケの信徒への手紙一、第4章 13節-18節
 

知っておくべきこと
 「兄弟たち、ぜひ次のことを知っておいてほしい」。本日の聖書個所、テサロニケの信徒への手紙一の第4章13節以下で使徒パウロはこのように語りかけています。原文の語順からいうと、この言葉が一番最初に来ているのです。もっと正確に訳すならば、「兄弟たち、あなたがたに知らずにいてもらいたくない」となります。その点では、口語訳聖書の「無知でいてもらいたくない」という訳の方が正確です。主イエス・キリストを信じ、教会に連なる信仰者が、知らずにいてはならない、無知であってはならない、大切なことがここに教えられているのです。しかしこのような言い方がなされているということは、この大切なことを知らずにいる人がけっこう多い、ということでしょう。信仰者が、本当は誰でも知っていなければならないはずなのに、案外知らずに歩んでいることが多い大切なことがここに語られているのです。

死者の復活
 その大切なこととは何でしょうか。それは「既に眠りについた人たちについて」のことだとあります。同じ言葉は14節にもあって、「イエスを信じて眠りについた人たち」とあります。また15節には、「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」とあります。「生き残るわたしたち」と「眠りについた人々」とが対比されていることからわかるように、この「眠りについた」とは、死んだ、ということです。既に死んだ人たちについてのこと、それが、誰でも知っていなければならないのに、案外知らないでいることが多い大切なことなのです。
 既に死んだ人たちのこと、といっても、死んでしまった人たちが今どこでどうしているか、その魂がどんな状態にあるか、死後の世界とはどんな所か、というような話ではありません。聖書は、「死後の世界」については殆ど語っていないし、そういうことに余り関心を払っていません。「神の国」とか「天国」という言葉はありますけれども、それは「死後の世界」という意味ではありません。宗教というのは、死後の世界を描いて見せて、死んだらそこへ行けるのだという希望を与えるものだというのが世間の常識であるようですが、聖書の教えはその意味ではまことに特異なものです。ここでも語られているのは、死んだ人たちが今どうしているか、ということではなく、神様が彼らを、「イエスと一緒に導き出してくださる」ということです。14節全体を読むと、「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」ということです。主イエス・キリストが十字架にかかって死に、そして復活された、私たちはこのことを信じています。それが私たちのための神様の救いのみ業であった、ここに神様の私たちへの限りない愛が示されていると信じているのです。そのことを信じる者は、主イエスが死んで復活したのと同じように、既に死んだ、眠りについた人たちも、主イエスと一緒に導き出されることを信じる。それは死の支配の下から導き出されて復活するということです。つまり主イエスの死と復活を信じる者は、主イエスを信じて死んだ人の復活をも信じるのだ、それが、知らずにいてはならない大切なことだ、とパウロは言っているのです。

希望を持たないほかの人々
 このことを、案外知らずにいる人が多い。そのことを知らないがゆえに、「希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しむ」ことが起っているのです。「希望を持たないほかの人々」とは、キリストを信じる信仰を持っていない人たち、信仰者でない人々のことです。信仰者でない人は希望を持っていない、ということには反発を覚える方もおられることと思います。そのことについては後で触れたいと思います。ここで先ず注目したいのは、パウロが、主イエスを信じて死んだ人の復活をも信じるのでなければ、信仰を持っていない人と同じことになってしまう、と言っていることです。それは言い換えればこういうことです。「主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった、そこに救いの恵みがある、ということは信じるが、自分自身の将来の復活は信じない、というのでは、何も信じていないのと結局のところ変わりはない」。このことは私たちの信仰においてとても大事なポイントです。主イエスの十字架と復活による救いの恵みは信じるが、主イエスを信じて死んだ人の将来の復活はどうも信じられない、という思いは私たちの中にもけっこうあるのではないでしょうか。信仰者として知っていなければならないはずの大切なことを案外知らずにいることが多いのは、テサロニケの人々だけではなく、私たちもそうなのです。

テサロニケ教会の動揺
 ただ、テサロニケの人々と私たちとでは違いもあります。その違いをわきまえないと、ここに語られていることを理解することができません。テサロニケの人々にとっての問題は、15節から分かるように、「主が来られる日まで生き残る者」と「眠りについた者」との違いでした。このことの背景になっているのは、初期の教会の人々が抱いていた、復活して天に昇られた主イエスが、自分たちが生きている間にもう一度来られて、救いを完成して下さるという期待です。主イエスがもう一度来られることを「主の再臨」と言いますが、その再臨はもうすぐにも起こる、と考えられていたのです。パウロ自身もそう考えていたことが、「主が来られる日まで生き残るわたしたち」という言葉からわかります。自分が生きている間に主イエスが再び来られるとパウロは信じているのです。パウロの伝道によって生まれたテサロニケ教会の人々も当然そのように信じ、そういう期待をもって日々を歩んでいました。ところが、そのように歩む内に、教会のメンバーの中で、眠りにつく人、つまり死んでしまう人が出始めたのです。そのことが、教会の人々の信仰に動揺を与え始めました。生きてこの目で主イエスの再臨を迎え、救いの完成にあずかれると思っていたのに、その前に死んでしまう人がいる、自分も、主イエスの再臨を見ずに死んでしまうかもしれない、そうなったら救いはどうなるのだろう、生きて再臨を迎えることができないと、結局救いから漏れてしまうのではないだろうか、そういう心配が教会の人々の中に生まれてきたのです。15節のパウロの言葉は、そういう不安、動揺の中にいる人々を安心させるための語りかけです。「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してない」。つまり、生きて主イエスの再臨を迎えなければ救いの完成にあずかれないとか、十分な恵みをいただけないということはないのだ、だから、既に眠りについた人たちのことを心配する必要はないし、またたとえ自分が再臨より前に死んでしまうことがあっても、そのことを嘆き悲しむ必要はない、再臨まで生き残るとしても、その前に死ぬとしても、どちらも同じ救いの完成にあずかることができるのだ、とパウロは言っているのです。
 それはパウロが、教会の人々を動揺させないために気休めとして言っていることではありません。ちゃんと根拠があっての言葉です。その根拠が、「イエスが死んで復活された」ことなのです。主イエスが、十字架にかかって死んで下さり、そして父なる神様が主イエスを死人の中から復活させて下さった、その救いのみ業を私たちは信じている、それは、神様が私たちにも、主イエスに与えて下さったのと同じ死人の中からの復活を与えて下さることを信じることができるということなのです。それゆえにパウロは、既に眠りについた人たちのことを心配する必要はないと断言することができるのです。そして16節から17節にあるように、主イエスの再臨の時には、むしろ彼らがまず最初に復活して、それから、生き残っている者たちも共に雲につつまれて引き上げられ、天から降って来られる主イエスをお迎えするのだ、と語ることができるのです。パウロは、自分が主の再臨まで生き残ると信じていましたが、しかしそうでなければ救われないとか、恵みが十分でない、というわけではないという確信を、「イエスが死んで復活された」という信仰から得ているのです。

死の位置づけ
 テサロニケの人々のこの動揺や嘆き悲しみは私たちには無縁です。私たちは、自分の生きている間に主イエスの再臨があるとは思っていません。そう言い切ってしまうのは不信仰になりますが、しかしもう何十代という世代に亘って、キリスト信者たちは主の再臨を見ずに死んでいったのですから、私たちも、この人生を信仰をもって歩み、主の再臨を見ずに死んでいくことの方が確率としては高いのであって、そのことで動揺することはないでしょう。ですからここでパウロが言っている「主が来られる日まで生き残る者と眠りにつく者」の問題は私たちには関係がないと言えます。テサロニケの人々と私たちとでは違いがあるというのはそういうことです。けれども、事柄をもっと深く掘り下げていくならば、彼らと私たちとに共通する問題があることに気づかされるのです。テサロニケの人々は、主の再臨の前に死んでしまう人がいることで動揺しました。ということは彼らは、主イエス・キリストによる救いを信じる自分たちの信仰の中に、死というものを位置づけることができなかったのです。死んでしまうことは、救いを失うこと、救いの完成にあずかれないこと、恵みから落ちてしまうことだと思ったのです。それに対してパウロは、「それは違う。死ぬこともまた、主イエスによる神様の救いの恵みの中にあるのだ、死の力も、神様の恵みから私たちを引き離すことはできないのだ」と言っているのです。そしてその根拠が、「イエスが死んで復活された」ことなのです。主イエスが死んで復活された、そこに神様の救いの恵みがあると信じる者は、愛する者の死も、また自分自身の死も、神様のみ手の中にあり、神様がその死に打ち勝って新しい命を与えて下さる、主イエスと共に私たちをも復活させて下さることを信じることができる、それがパウロがここで語っていることの中心なのです。
 このことをさらに言い換えるならば、テサロニケの人々は、主イエスを信じて「生きること」しか考えていなかったということです。主イエスを信じてその救いにあずかり、苦しみに打ち勝って喜びと感謝の人生を歩み、そして主イエスの再臨を生きて迎える、そのように信仰によって「生きる」ことだけしか頭になかった。「死ぬ」ということが意識されていなかったのです。だから、死という現実が迫ってきたときに、動揺してしまい、嘆き悲しみに陥ってしまう。信仰の中に、信仰をもって生きる生活の中に、「死ぬ」ということの位置づけがないのです。パウロはそれに対して、「死ぬ」ことも、主イエスの救いを信じて生きる私たちの生活の中に、ちゃんと位置を持っているのだ、死においても私たちは神様の恵みの中を歩むことができるのだ、と教えているのです。その根拠が、「イエスが死んで復活された」ことです。主イエスの死と復活を神様の救いのみ業と信じるならば、死を、あってはならないとんでもないこと、救いの恵みの喪失のように思ってあわてふためく必要はないのです。死も、神様の恵みのご支配の下にあり、神様が、死の力を打ち破って復活の恵みを与えて下さることを希望をもって信じることができるのです。

死を見つめる生活
 私たちの信仰はどうでしょうか。主イエス・キリストによる救いを信じて歩む信仰の生活において、「生きる」ことと共に「死ぬ」ことをもしっかりと見つめ、それを神様の恵みの中に位置づけることができているでしょうか。私たちもしばしば、テサロニケの人々と同じように、信仰によって「生きる」ことしか考えていないのではないでしょうか。主イエスを信じ、その救いにあずかるならば、恵みの内に生きることができる、苦しみや悲しみに打ち勝つ力をいただくことができる、そして喜びと感謝の人生を歩むことができる…、そういうことしか頭にない。それらのことは勿論、主イエス・キリストを信じる信仰において私たちに与えられる恵みです。けれども神様の恵みはそれだけではありません。主イエスを信じ、その救いにあずかるならば、私たちは、主イエスの恵みの中で死ぬことができるのです。神様の恵みが、死の力を打ち破って、私たちに復活の命と体を与えて下さるという希望を抱いて、肉体の死を迎えることができるのです。主イエスを信じる信仰の生活の中で、私たちは、この死と、そしてその彼方に約束されている復活を覚えて歩むことができるのです。それが私たちの信仰の生活です。先週の礼拝説教において、このテサロニケの信徒への手紙一は、第4章から、信仰によって生きる生活のことを語っていくのだと申しました。そして先週読んだ1~12節には、「みだらな行いを避け、情欲におぼれるな」とか、「兄弟愛」とか、「落ちついた生活をして自分の仕事に励め」というような具体的な教えが語られていたのです。本日の13節以下はそういう具体的な生活上の教えから再び離れて、教理的な教えに戻っているように感じられるかもしれませんが、決してそうではありません。パウロはここでまさに、信仰をもって生きるキリスト者の生活の基本的な姿を教えているのです。それは、死から目をそらさず、しっかりとそれを見つめていく生活です。しかもそのことが嘆きや絶望を生むのではなく、死もまた神様の恵みの中に位置づけられていることを信じ、復活の希望をもって歩む生活です。死は、私たちの人生を最も具体的に、また最も強烈に脅かすものです。そして私たちの誰もが必ずそれを経験しなければならない、最も確実なことでもあります。主イエス・キリストを信じて生きる信仰者の生活は、その死に目を塞ぎ、見ないようにするところに成り立つものでなない、その死をしっかり見据えつつ、なおそこで神様の恵みの中を喜んで生きる生活なのです。そのことをぜひ知っておいてほしい、とパウロは願っているのです。

絶望
 私たちが、主イエスの十字架と復活による救いは信じるけれども、自分自身の将来の復活は信じられない、と思うとしたら、それは、私たちの信仰の思いが、テサロニケの人々と同じように、「生きる」ことにしか向かっていないことの現れです。主イエスの十字架の犠牲と復活による神様の恵みをいただいて、この人生を、喜びと感謝の内に生きることで十分としてしまうならば、将来の復活などということは考えなくてもよいということになるでしょう。そこに働いているのは要するに、この世を生きている間だけが人生であって、その間のことだけを考えればよい、という思いです。この世を生きる何十年かの人生において、信仰が何がしかの慰めや安らぎを与えてくれればそれでよい、という思いです。そういう思いの中に私たちは安住してしまうことが多いのではないでしょうか。けれどもそれは、形を変えた絶望に他なりません。自分の歩みは、人生は、つまるところ死に向かっている、結局は死にすべてが飲み込まれていく、死の支配を逃れることはできない、ということがその前提にあるのです。人生を究極的に支配するものは死の力だ、ということを大前提とした上で、それを仕方がないこととして受け入れ、死んでしまうまでの間の、この世を生きる人生をせいぜい平安に、慰めと支えを得て歩もうとしているのです。死後の世界を、天国とか極楽浄土とかいろいろに描き出し、そこには平安があるのだ、と教えることもそれと同じです。そのようにして、死の支配を受け入れようとしているのです。だってそうでもするしかないじゃないか、と私たちは思います。そういう思いの根源には、死の圧倒的な力の前での深い絶望があるのです。

希望
 けれども聖書はそこで私たちに、「それは違う」と語りかけています。あなたがたの歩みの、人生の、最後の支配者は死ではない、死を打ち滅ぼし、新しい命を与える神の恵みこそが、あなたがたを、そしてこの世界を、本当に支配しているのだ、だからあなたがたは、絶望しなくていい、希望をもって生きることができるのだ、と聖書は語っているのです。この聖書の宣言を信じて、私たちを本当に支配しているのは死の力ではなく、主イエス・キリストにおける神の恵みなのだということを信じて、希望に生きることが私たちの信仰です。そのことこそ、信仰者が知らずにいてはならない最も大切なことなのです。そのことを知らずにいるならば、つまり結局のところ死の支配を信じ、それと折り合いをつけて生きようとしているだけならば、何も信じていないのと同じなのです。
 そしてここにこそ、先程触れました、信仰者でない人は希望を持っていない、ということへの疑問、反発に対する答えがあります。この世を生きて行く上でのいろいろな希望、望みならば、それは主イエスを信じていなくても、信仰なんかなくても、いくらでも持つことができます。そういう希望が私たちのこの世の歩みを支え、力づけることも確かです。けれどもそのような希望をどんなに沢山抱いているとしても、それらの全てが死の支配の下にあるならば、そのような希望をもって歩む人生の行き着く先が死でしかないならば、そのように明るく美しく飾り付けられた家の表にかかっている表札は「絶望」なのです。本当の希望は、私たちの人生の最後の支配者であるように見える死の力が、神様の恵みの力によって既に打ち破られていることを信じ、そしてその神様の恵みによって私たちにも復活の命が与えられることを信じるところに、つまり、主イエスの死と復活を信じ、主イエスを信じて眠りについた人々を神様が主イエスと共に導き出し、復活させて下さることを信じる信仰においてこそ与えられるのです。

主イエスの再臨
 私たちの復活は、主イエスの再臨において実現します。復活して天に昇られた主イエスが、父なる神様のもとから、もう一度来られるのです。その時には、「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響く」とあります。これらのことは全て、主イエスが再臨において、ただ「こんにちは」とまた来るのではなく、この世界を支配し、裁く方として来られることを言い表しています。再臨によって、主イエス・キリストの、この世界へのご支配が完成するのです。それは、今のこの世界が終わり、神の国が実現するということです。神の国とは、神様のご支配という意味だからです。この世界は、主イエスの再臨によって終わり、神様のご支配がそこで確立・完成する、その時、私たちを支配している死の力も打ち破られて、私たちは永遠の命を生きる新しい体を与えられ、復活するのです。それはどんな体で、どんなふうにして復活するのか、ということは私たちにはわかりません。そういうことは全て神様にお任せしておけばよいのです。ただ一つはっきり語られていることは、17節の後半、「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」ということです。主イエスの再臨において死の力が打ち破られ、復活の恵みにあずかる時、私たちは、いつまでも主イエスと共にいる者とされるのです。このことだけで十分ではありませんか。ここに、私たちの究極の希望があります。後のことは、神様がいいようにして下さるのです。

互いに励まし合おう
 パウロは18節で、「ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい」と言っています。教会は、主イエス・キリストの十字架の死と復活を信じるがゆえに、神様が私たちにも復活の命を与えて下さるという究極の希望に生きる者たちの群れです。私たちはその信仰によって互いに励まし合いつつ生きるのです。私たちの人生は、まことの希望を奪い、絶望させようとする力にいつも翻弄されています。神様が約束して下さっている復活の命よりも、死の力の方が強いのではないか、人生は結局死に向かっており、その先などないのではないか、という絶望への誘いが満ちているのです。そのような中で私たちは、「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」という恵みのみ言葉によってお互いに励まし合い、絶望と戦っていくのです。み言葉による励ましを受けて歩む中で、私たちは、死を、「眠りにつくこと」として信仰の中に位置づけることを許されます。「眠りにつく」とは、「目覚める時が来る」、ということです。主が私たちを目覚めさせ、いつまでも主と共にいるようにして下さる恵みが、主イエスの再臨において実現する、その希望を抱いて私たちは信仰の人生を歩み、そして主の定めたもう時に、その希望の内に眠りにつくのです。

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