夕礼拝

兄弟に馬鹿と言う者よ

「兄弟に馬鹿と言う者よ」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:創世記 33章1-4節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章21-26節  
・ 讃美歌 355、516

神様との愛の関係と隣人との愛の関係を結ぶための律法
私が夕礼拝を担当している時は、マタイによる福音書を読み進めております。今マタイによる福音書の5~7章にかけて書かれてある「山上の説教」と呼ばれる、イエス様の教えを読んでいます。本日は5章21節以下を読むのですが、ここは、その前の所、先々週の礼拝で読んだ17節から20節まで箇所と密接に結びついています。イエス様は17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。また20節では、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われました。 律法とは、神様が旧約聖書において、イスラエルの民に与えられた掟、戒めです。イエス様を信じ、従っていく信仰者は律法を守っていきます。ここで書かれている律法学者やファリサイ派の人々は旧約聖書の律法の専門家でした。彼らは字義どおり、律法を受け止め、律法に書かれていることはしっかりと守るのですが、律法の本来の目的である、神様を愛し、隣人を愛するという愛の関係を築くということを無視して、律法を守っていました。彼らの義、つまり彼らの正しさは、律法を言葉通り守るという正しさでした。イエス様を信じる者は、律法の本来の目的である、「神様を愛し、隣人を愛する」ということを実現するために律法を守ります。だから信仰者は律法学者やファリサイ派以上の義、正しさに生きなくてはならないということでした。本日の聖書の御言を通してイエス様は、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義とは具体的にはなんなのかということを、実際にある一つの律法を通して、わたしたちに説明して下さっています。それが本日の21節以下に語られています。 21節から22節かけて「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく」と語られています。「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」という言葉は、旧約聖書の律法の言葉です。「殺してはならない」は律法の中心である十戒の第六の戒めです。「人を殺した者は裁きを受ける」という言葉は十戒にはありませんが、律法にはそういう内容が定められています。つまりこの「昔の人に命じられていること」とは旧約聖書の律法の教えなのです。それを示した上でイエス様は、「しかし、わたしは言っておく」とおっしゃって、ご自身の教えを語っていかれます。律法学者やファリサイ派の人々にまさる義に生きるとはどういうことかが、この「しかし、わたしは言っておく」以下に語られています。 イエス様は「しかし、わたしは言っておく」の後に「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。と言われております。イエス様がここで問題にしておられるのは、兄弟に対して腹を立てること、「ばか」と言うこと、「愚か者」と言うことです。人を殺す者だけが裁きを受けるだけではなく、これらの者たちも裁きを受けるのだ、とイエス様は言われています。律法学者やファリサイ派の人々は、「殺すな」という律法を守るということは、実際に「人を殺さないことだ」と理解しており、実際人を殺していなければ、その律法をしっかりと守れていて、自分は正しいとされていると思っています。しかし、それは言葉だけを守っている正しさです。どうやらそれは、神様を愛し、隣人を愛するほどの義、正しさではないようです。イエス様は、実際に人を殺すということだけでなく、兄弟に対して腹を立てること、「ばか」と言うこと、「愚か者」と言うことをしたのならば、「殺すな」という律法を破っていると、ここでおっしゃっています。 「兄弟に腹を立てる」、それは心の中で怒りや憎しみの思いを持つことです。「ばか」と言う、それはそのような思いを、心の中で抱いているだけでなく、言葉として表すことです。ここで「ばか」と書かれている言葉は「空っぽの頭」と言う意味です。これは「お前の頭は空っぽだ」と罵ることです。日本語では、間抜けや、でくのぼうと様々言い換えることが出来ますが、いずれにしろ、人間として劣っている、値打ちがないと言ってのけるということです。「愚か者」と訳されているこの言葉は、むとんちゃくやならず者と訳することもできますが、神に捨てられたもの、神無き者、神を信じていない者という意味で使われます。つまり「愚か者」と言うというのは、「おまえは神様を信じていなくて、見捨てられた者だ」と言うことです。兄弟に腹を立てる者は裁きを受ける、それは言わば地方裁判所の裁きです。「ばか」と言う者は最高法院に引き渡される、それはエルサレムにあった上級裁判所です。そして「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる、それは、神様の裁きを受け、罰せられるということです。 イエス様がここでわたしたちにお伝えになりたいことは、兄弟に腹を立てることと兄弟に「ばか」や「愚か者」と言うこととの間に本質的な違いはない、それらはすべて「殺すな」という律法違反であり、神様の裁きの対象であり、地獄の火に投げ込まれることにつながるようなことなのだ、ということです。言い換えれば、兄弟に腹を立てることであったり、悪口を言ったり、救いようのない者だと決めつけたりすることは、人を殺すことと同じだ、ということです。「殺すな」というのが、旧約聖書以来の律法ですが、イエス様は、人に腹を立てること、悪口を言うこともそこに含めて、それを禁止なさったのです。律法学者やファリサイ派の人々は、律法に書かれていることを守ることに熱心でした。律法に「殺すな」とあったら、人を殺さないことによってそれを守ろうとしていました。しかしイエス様はご自分の弟子たち、信仰者たちに、それ以上のことを求められたのです。人を殺さないというだけではなくて、心の中で腹を立てたり、それを口に出したりすることすらも、殺すことと同じく禁じられました。 自分に言うことだからといって許されるわけではない。 現代を生きるわたしたちは、他者の前では、怒ることや、軽蔑することも、さらには殺してやりたいと思うことも、倫理的に悪いことだとわかっています。だから、他者に対してなるべく怒らないようにしようと思います。しかしそう思っていても、実際に怒ってしまうことがあり、そんな自分に幻滅するということもあると思います。それ故に、ある意味で賢いわたしたちは、人に怒ることをなくすために、また人に嫌な思いさせることをなくなすために、他者と関わらないようにすることを考えつくと思います。わたしたちは、実際に他者との関係を希薄にすることを望む傾向にあると思います。心の中でも、そのようにおもっちゃいけない、口にしてもいけないと言われたとしたら、わたしたちが、それを守るためには、他者との関係を無くすということが、合理的であり、当然の帰結のように思います。しかし、どうでしょうか。それが、イエス様の求めておられることでしょうか。律法の本来の目的をそれで果たせているといえるでしょうか。他者との関係を拒絶し、関係を失っていくこと、それは全く律法の目指すところではありません。それは全く正反対の方向に向かっていくことです。さらに、わたしたちは他者との関わりを無くし、他者にたいして怒ったり腹を立てたりすることがなくなったとしても、「怒ってしまう自分」は消えることはありません。わたしたちは、他者とだれとも関わらなくなっても、「自分との関わり」は絶対になくなることがありません。わたしたちは他者との関係が希薄なっていく時、他者に対して怒ることがなくなっても、今度は、自分に対して、自分という「人」に矛先を変えて、腹をたて、「無価値でばかである」と思ったり、「神様に見捨てられた者だ」と思ったりするようになります。そのように考えている人は、他者は傷つけていないが、自分をさんざん傷つけてしまい、自分を殺し続けています。それも、実は「殺すな」という律法を違反しており、裁きの対象なのです。ここまで言われると、「殺すな」という律法をわたしたちは、自分で守ることはできないことを、嫌なくらい自覚すると思います。わたしたちは、今この説明をイエス様から聞かされると、愕然とし、「ああわたしは、地獄行きだ」、どうすることもできないと途方に暮れてしまうと思います。わたしたちが怒ってしまうのは、その対象が他者であっても、自分あっても、同じですが関係がこじれているためです。わたしたちが、腹を立ててしまう多くの原因は、他者との関係のこじれからです。相手が自分に対して、嫌なことをしたから、侮辱したから、原因は様々です。また逆に相手に対して、悪いことを何かをしてしまったということから、良い関係が崩れ、相手が自分を憎み、憎まれているので、こちらも嫌になり、相手に対して腹を立てるということになることもあります。怒りが起こるというのは、何かの原因により、関係がこじれてしまったから起こるのです。 イエス様は、「殺すな」ということをただ守れということではなくて、切れてしまっている関係を再び結び直しなさいと言われている。 イエス様は、「殺すな」「腹を立てるな」「怒りを口にするな」ということをただ守れということではなくて、切れてしまっている関係を再び結び直しなさいと私たちに要求されています。関係を直すことがなければ、わたしたちの怒りは消えることはないでしょう。そのことが詳しく書かれている23節以下を見てみましょう。23節以下でイエス様は、自分に反感を持っている兄弟との仲直りをしなさいということと、自分を訴える人と和解をしなさないと言われています。この二つの状況に共通していることは、相手が自分を嫌っており、自分が「兄弟」及び「自分を訴えるに人」に対して、なんらかの負債をおっているということです。兄弟がほんとに正しいことで反感を持っているとした場合、兄弟が自分に対して反感を持つのは、私の行い、言動、態度、それが何かはわかりませんが、自分のなにかが悪かったからでしょう。同様に、訴える人が本当に正しいことで訴えているとすりならば、訴えってくる人に対して、わたしが何かを悪いことをしてしまったからでしょう。自分が、本当にその人に対して、悪いことをした、傷つけた、苦しめたという自覚があるのならば、その人に対してゆるしを請い、また傷つけ苦しめた分に対する償いをするということは、わたしたちの感覚からしても、それはあたりまえであり、妥当であると思えるでしょう。しかし、犯してしまった罪の対価となる償いを相手にすれば、わたしたちは簡単に、関係を修復できるものでしょうか。相手にゆるしを請うということ、これはとても勇気いることです。そしてこれは簡単にはできないことです。今日共に聞いた旧約聖書に出てくる、弟ヤコブが兄エサウに許しを請うシーン見ても、簡単にそれをなしているようには見えません。弟ヤコブは、かつて、兄エサウの空腹を狙い、スープを餌にして誘い兄から長子の特権を奪い、また長男のエサウだけがもらうことのできる祝福を、親であるイサクを騙し、兄から奪い取りました。そして、兄エサウと父イサクの怒りを買い、その後、彼は兄エサウと父イサクのもとから逃げ、他の地で生きていくことになります。しかし、ヤコブは神様に「故郷に戻りなさい。」と命じられたので、父とエサウのもとに戻ることになります。そこで、その前に兄エサウと和解をしなくては戻れないと彼は思い、先に使いを出して、兄エサウに対して償いとして「贈り物を献げること」をします。そして「自分はあなたの僕である」ということを伝えます。そのようにして償いの品をだして、自分が低くなっても、彼は兄に怯えています。ヤコブは、その時、神様に「どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めてきて、わたしをはじめ、母も子どもも殺すかもしれません。」と祈っています。それほどまでに、恐れていました。わたしたちは、「悪いことをしたから、償いをしたら、赦してもらえる」と頭の中では、簡単に考えるかもしれません。しかし、実際はそんな簡単ではないでしょう。ヤコブと同様に、罪を犯してしまった人に対して、わたしたちは恐れます。殺されるかもしれないと思うほどです。なぜヤコブが兄と会う決心したのかと言えば、それは神様がそのヤコブに対して、「あなたの故郷に帰りなさい」と言われたからということと、「わたしはあなたと共にいる。」と言われたからです。ヤコブが恐れに負けず兄エサウに会うことができたのは、罪を自覚していたからだけでなく、それ以上に、神様が責任をもって「戻れ」と言われ、そして「あなたを見捨てることなく共にいる」と言われことを信じていたからです。わたしたちも、今、イエス様から同じことを言われています。イエス様は「あなたが苦しめた者のところに行き、ゆるしをこい、仲直りしてきなさい」と言われています。その言葉の前提になっているのは、「イエス様が共にいて下さる」ということです。イエス様は、「あなたを恨む人、訴える人の前あなたが立った時、わたしもその場に一緒にいる、そしてあなたを守る」ということを前提してくださり、「だから、言って和解してきなさい。」と言われているのです。このイエス様の言葉によってわたしたちも、イエス様の守りを信じて委ね、和解の場へと向かうことができるようになります。 しかし、ここまで聞いてきて、「でも・・・」と思っておられる方がいると思います。その「でも・・・」は、「でも・・・自分に反感を持つ兄弟や、自分を訴える人の言っていることが正しいとは思えず、また自分はなにも悪いことをしていないのに一方的に攻められている場合はどうするの?」ということではないかと思います。たしかに、自分に非があるとわかっていれば、自分から和解しなければと思い行動するということは納得できます。しかし、自分には非がなくて、一方的に相手から、嫌がられていたり、反感を持たれていたり、訴えられていたとした時に、このイエス様の言葉を聞いたとしたら、「なんで私の方が近づいて、仲直りしにいかなきゃいけないの!?間違っているのは相手の方なんだから、相手がその考えを改めるまでは近づきたくない」とそう思うと思います。イエス様は、自分に非がなくても、むしろ自分の方が被害を被っていたとしても、その隣人を仲直りと和解をしなさいと私たちに言われています。イエス様は「自分が隣人に過ちを犯した場合だけ、和解しなさい」と言われているのではないのです。それは、なぜか。なぜイエス様がそれほどまでのことを私たちに要求されているのかということがわたしたちは気になります。その要求の根拠は、イエス様ご自身が、わたしたちにしてくださったとこと関係しています。イエス様は、何の罪も誤りも犯していないのに、恨まれる筋合いがないのに恨まれ、侮辱され、傷めつけられ、殺されました。それは、わたしたちのためです。わたしたちと神様との切れてしまった関係を結び直してくださるために、イエス様はわたしたちに近づき、本当はわたしたちが被るべき罪の結果の死、それに付随する苦しみや痛みを、イエス様がわたしたちの代わりに、父なる神様と和解を実現するために、負って下さったのです。わたしたちは、かつても、今でもそうであるかもしれませんが、心の中で神様を殺すようなことがあると思います。わたしたちはかつて、神様に対して、「ばか」つまり「無価値で不必要な者」と思い、自分勝手に生きてしまっていました。わたしたちはかつて神様など「知らない」と切り捨てて、神様を無視して生きてしまっていました。神様を自分の中から、追い出し、存在していないものとする。それは、こちらから、神様との関係を切ってしまっているということです。それが、わたしたちの罪です。その罪のために、反感を持たれる所以などないイエス様が反感をもたれ、訴えられるような罪を犯していないのに訴えられたのです。そして、イエス様は反感を受けながらも、訴えられながらも、十字架にかけられながらも、忍耐され、イエス様はただわたしたちと神様との関係の回復を願い、和解のために行動されたのです。 ですから、その恵み、その恩恵に与っているわたしたちは、自分に対して、理由なく攻めてきている人に対して、無関心なることはできません。恵みを受けているわたしたちに非や誤りがなかったとしても、こじれた関係の状態にある相手の元に近づき、そして、相手が間違っていたとしても、代わりにわたしたちがそれを背負って仲直りせねばと思うことができるのです。 あの兄エサウは、弟エサウと再開した時は、どうしたでしょうか。「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。 」と聖書は語っています。放蕩息子の父親はどうしたでしょうか。聖書には「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」と書いてあります。遠く離れていた距離を、わたしたちの方から近づいて埋めて、その負債を背負い、誤りをゆるし、共に抱き合うのです。これが、イエス様を信じ、洗礼を受けイエス様につながり、新たなるものとなった者の姿です。なぜそうできるのか。それは、ただただ父なる神様が和解を求めてわたしたちに近づいてくださり、イエス様がわたしたちの代わりに負債を負ってくださったからという確固たる土台と、聖霊なる神様が今わたしたちをそのように変えっていってくださるからです。だから、わたしたちはそのようなものを目指し歩いていくことができるのです。その和解の関係が、律法の本来の目指すところ、つまり完成です。和解し、共に隣人と歩むことできた時、わたしたちは隣人を本当に心の底から愛することができているでしょう。それをイエス様は今わたしたちに望まれておられます。「あなたをそのように変えっていっている。だからそうしなさい」と教えて下さっています。 最後に、兄弟との仲直りが語られている23節24節に、仲直りするのは、祭壇に供え物を献げようとする時であると語られています。祭壇に供え物を献げる時とは、まさに礼拝の時です。わたしたちは、今この礼拝で、わたしたち自身を神様にささげます。そのしるしとして今日も献金をささげます。ですから、今日献金を献げる前に、今一度、わたしたちは隣人を思い出したいと思います。自分の家族、愛する人、教会の兄弟姉妹、友人、同僚などなど。わたしたちは、献金を献げる前に、それらの人々と、関係がこじれていないか、憎しみ合う関係がなかったか、忘れてしまっている関係がないか、もう一度思い起こしましょう。また、その中に、自分対して、反感を持っている人もいるかもしれません。わたしたちは今日、その人々を思い起こし、その人との和解を実現することを望みましょう。そして主に祈り願いながら、主がその和解の場を整えてくださることを信じ、主が和解を実現して下さることを保証してくださっていることを信じ、わたしたちの方から隣人に近づいて参りましょう。それが今日、イエス様がわたしたちに求められておられることです。

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