夕礼拝

遊女ラハブの信仰

「遊女ラハブの信仰」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ヨシュア記 第2章1-24節
・ 新約聖書:ヘブライ人への手紙 第11章17-31節
・ 讃美歌:149、461

ヨルダンを渡ろうとしているイスラエル
 月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書からみ言葉に聞いておりまして、先月からヨシュア記に入りました。先月読んだヨシュア記第一章には、出エジプトの指導者モーセが死んで、ヨシュアがその後継者として立てられたことが語られていました。エジプトでの奴隷状態から解放されて、四十年の荒れ野の旅を続けて来たイスラエルの民は、今、新しい指導者の下で、いよいよ神の約束の地に入ろうとしているのです。
 新共同訳聖書の後ろの付録の地図で、イスラエルの民が今どこにいるのかを確かめておきましょう。地図2「出エジプトの道」を御覧下さい。エジプトを出たイスラエルの民の歩みが点線で記されています。その最後のところ、地図の右上の隅、そこが今イスラエルの民がいるところです。彼らは、死海の東側を北上して来たのです。約束の地カナンはヨルダン川の西に広がっています。ヨルダン川を渡るとすぐ目の前に現れるのがエリコの町です。ヨルダンを渡ってエリコを攻め落とすことが、約束の地を得るための第一歩なのです。

エリコに遣わされた二人の斥候
 実際にヨルダン川を渡ったことは3章に書かれています。本日の第2章は、その前にヨシュアが二人の斥候を送ってエリコの町の様子を探らせたという話です。二人の斥候はエリコの町に忍び込み、様子を探りました。彼らはラハブという遊女の家に入り、ラハブは彼らを匿いました。ところがイスラエルの斥候が来たことがエリコの王に知られ、探索が始まります。ラハブは二人を家の屋上の亜麻の束の中に隠して、「二人の人が確かに来たが、夕方になって出て行った」と言います。探索隊が帰った後、彼女は二人を城壁の窓から綱でつり降ろして脱出させたのです。スリルとサスペンスに満ちたドラマチックな場面ですが、エリコの住人であるラハブは何故彼らをかくまったのでしょうか。彼女の思いが9節以下に語られています。「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています。あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。それを聞いた時、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」。ここに、ラハブが、あるいはエリコの人々が、イスラエルの民をどのように見ていたかが語られています。イスラエルの民がエジプトを出た時、主なる神が葦の海の水を堰き止めて向こう岸へ渡る道を開いて下さったこと、また死海の東側のアモリ人の地を北上していく中で、アモリ人の王シホンとオグを滅ぼしたこと、これは民数記の21章に語られていることですが、それらのことをエリコの人々も、そしてラハブも聞き知り、イスラエルの民を恐れているのです。それでラハブは彼らを迎え入れて匿い、そして二人に願いました。12節以下です。「わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください」。つまりラハブは、このエリコは早晩イスラエルの民によって攻め滅ぼされる、その時に、自分と自分の一族を救ってほしいと願ったのです。このラハブの願いに対して二人の斥候は約束をしました。14節「あなたたちのために、我々の命をかけよう。もし、我々のことをだれにも漏らさないなら、主がこの土地を我々に与えられるとき、あなたに誠意と真実を示そう」。その誠意と真実の内容は17節以下に具体的に語られています。それは、イスラエルがエリコに攻め込む時、ラハブの家に一族を皆集め、その窓に彼らが与える真っ赤なひもを結びつけて目印とするなら、その家の中にいる者は皆助ける、ということです。そういう約束を交わして二人は町を去りました。ラハブは二人が去るとすぐに、彼らから与えられた真っ赤なひもを窓に結び付けました。そしてこの話は6章に続きます。エリコはイスラエルの前に堅く城門を閉ざしていましたが、イスラエルの軍勢は主のみ言葉に従って、契約の箱を担ぎ、角笛を吹き鳴らしながらその回りを一周しました。そのことを六日間続け、七日目には町の回りを七周し、そして一斉に鬨の声を上げると、エリコの城壁は崩れ、イスラエルはエリコに攻め込み、その町を滅ぼし、住民を皆殺しにしたのです。その6章の22節以下を読んでおきます。「ヨシュアは、土地を探った二人の斥候に、『あの遊女の家に行って、あなたたちが誓ったとおり、その女と彼女に連なる者すべてをそこから連れ出せ』と命じた。斥候の若者たちは行って、ラハブとその父母、兄弟、彼女に連なる者すべてを連れ出し、彼女の親族をすべて連れ出してイスラエルの宿営のそばに避難させた。彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物倉に納めた。遊女ラハブとその一族、彼女に連なる者はすべて、ヨシュアが生かしておいたので、イスラエルの中に住んで今日に至っている。エリコを探る斥候としてヨシュアが派遣した使者を、彼女がかくまったからである。ヨシュアは、このとき、誓って言った。『この町エリコを再建しようとする者は主の呪いを受ける。基礎を据えたときに長子を失い、城門を建てたときに末子を失う』主がヨシュアと共におられたので、彼の名声はこの地方一帯に広まった」。このようにしてエリコは陥落し、イスラエルの民は約束の地カナンに確固たる一歩を記したのです。これが、エリコ占領とそれにまつわる遊女ラハブの物語です。

皆殺しにせよとは?
 さてこの話を読む時に私たちが感じるいくつかの疑問があります。その一つは、カナンの地を得るためとはいえ、エリコの町がこのように徹底的に滅ぼされ、住んでいた人々が皆殺しにされるというのはひどい話ではないか、ということです。こういうことはこれからも繰り返し出て来ますから、今ここでその疑問については考えておいた方がいいでしょう。確かに、全住民が皆殺しにされるというのは、今日の私たちの人道的感覚からすると許されない、あってはならないことです。どうして神はこのようなことを命令するのかと誰もが疑問に思います。この疑問については一つには、三千年前の古代の話を今日の私たちの感覚で評価することには無理がある、ということが言えます。しかしもっと大事なことは、このような物語が何のために語られているのかを知らなければならない、ということです。これらの話は、歴史的な出来事を語るというスタイルで書かれているので、文字通りに読めば、主なる神がエリコの住民を皆殺しにすることを命じた、ということになります。しかしこれらの話は、過去の歴史的事実を語ることに主眼があるのではなくて、現在目の前にある事実がどうしてそうなったのか、その由来や事情を説明するためのものなのです。今読んだ6章の終わりに、ヨシュアが、エリコの町を再建する者は主の呪いを受ける、と語ったことが語られています。これは、現在エリコの町が廃墟となっており、これまでそれを再建しようとする者がいなかったことの理由を語っているのです。つまりこの話は、ヨシュアがエリコの再建を禁じたことを語ろうとしているのではなくて、何故エリコが再建されなかったかを語っているのです。ラハブの話も、6章25節の「遊女ラハブとその一族、彼女に連なる者はすべて、ヨシュアが生かしておいたので、イスラエルの中に住んで今日に至っている」という事実、元々エリコの住民であったラハブの一族の子孫が今イスラエルの民の中に生きており、その一族を除いては、エリコの住民だった人は誰もいないという事実の由来、原因を語っているのです。その原因を古代人の感覚で表現すると、神が皆殺しを命じたからだ、ということになるのです。ですから私たちはこのような話を読む時に、聖書の神は皆殺しを命じる残酷な方だ、という結論を引き出す必要はないし、またそうすべきでもないのです。これらは、神がどのような方かを語ってる話ではない、ということです。

ラハブはなぜ救われたのか
 エリコ陥落に至るこの話から感じるもう一つの疑問は、2章の二人の斥候によるエリコ偵察と、6章のエリコ陥落が関連していないことです。つまり偵察に言った二人の報告によってエリコ攻略の計画が練られたわけではありません。6章に語られているのは、主がお命じになった通りに町の周りを巡って鬨の声を上げたら城壁が崩れたということです。つまりイスラエルはエリコの町を、偵察の成果を生かした人間の戦略によって攻略したのではなくて、ただ神の力によって攻め滅ぼすことができたのです。だったらあの二人の斥候は何のためにエリコに行ったのでしょうか。それも先程のことから説明ができます。つまりこの話は、ラハブの一族が今イスラエルの中に住んでいることの理由を語るための話なのです。あの二人の斥候がエリコに行ってラハブと出会い、あの約束をしたためにラハブの一族は生き残ったのです。つまり彼らがエリコに偵察に行ったという話は、ラハブとその一族が救われた理由を語るために語られているのです。先程の話において、皆殺しの命令に主眼があるのではないのと同じようにこの話も、エリコの偵察に主眼があるのではなくて、エリコの住民の中でラハブの一族だけが救われたことを語ることに主眼があるのです。だからこの第2章の主人公は二人の斥候ではなくてラハブです。そしてこの第2章の中心は、9-11節のラハブの言葉です。ラハブは、イスラエルに味方した方が得だ、という単なる打算によってではなくて、イスラエルの神である主への明確な信仰のゆえにそうしたのだ、ということがここに語られているのです。11節の終わりに「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」とあります。ここにラハブの信仰の告白があります。この信仰のゆえに、彼女とその一族は救われ、今日までイスラエルの一員として歩んでいるのです。第2章はこのラハブの信仰の告白を語るために書かれているのです。

遊女ラハブの信仰
 主なる神こそ、全世界を支配しておられる神であられるという信仰の告白によって、エリコの遊女ラハブは、イスラエルの信仰の英雄の一人となりました。本日共に読まれた新約聖書の箇所、ヘブライ人への手紙第11章の17節以下には、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセと並んで、信仰によって生きた人として娼婦ラハブの名が挙げられています。また、次のヤコブの手紙の第2章25節にも、ラハブのことがこのように語られています。「同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか」。ヤコブの手紙は、ラハブの信仰が、行いを伴うまことの信仰であったと言っているのです。私たちはラハブの信仰からまさにそのことを学ぶべきでしょう。彼女は、主なる神こそがまことの神であられることを、ただ信じただけでなく、具体的にその主なる神のもとに身を寄せ、依り頼んだのです。彼女がそうしたのは、自分たちが陥っている滅亡の危機をはっきりと、逃れようのないものとして意識していたからです。エリコの人々はイスラエルの民のことを聞いて恐れ、おじけづいていました。しかし彼らはその恐れの中で、自分たちの神々に助けを求め、城門を固く閉ざしました。自分の世界に閉じこもっていることで、何とかこの危機が過ぎ去るのを待とうと思ったのです。しかしラハブだけは、そんなことが何の役にも立たないことを知っていました。そして、救われるための唯一つの道を、身の危険を顧みず、勇気をもって選び取ったのです。何故そうすることができたのか、それは彼女が、自分たちに迫っている危機が、人間からのものではなく、生きておられるまことの神からのものであることを感じ取っていたからです。天地の造り主であり、世界の支配者であるまことの神が自分に向かって来ている。そのことを彼女ははっきり意識したのです。そのまことの神に直面する時、人間の力や、人間が造り出した神々の力は何の役にも立ちません。生きておられるまことの神に直面する時、滅びを免れる唯一つの道は、その神を信じ、従い、身を委ね、依り頼むことです。彼女はその道を選び取り、そして具体的な行動をもってその神に身を委ねたのです。

救いを得るための唯一の道
 この遊女ラハブの姿は私たちの信仰の模範です。私たちも、滅び行く町エリコの住人なのです。私たちは思いにおいても行いにおいても神に背き、逆らっている罪人です。その罪によって隣人を傷つけつつ、自分自身も傷つきつつ、神が求めておられる愛と寛容、平和に生きるのではなくて、怒りや憎しみ、人を裁く思いを増幅させている者です。そのような私たちに、生きておられるまことの神が迫って来ています。その神の前では、いくら城門を固く閉ざしても、あるいは人間の何らかの力にすがっても、何の役にも立ちません。神の怒りをやり過ごすことはできないのです。そのままでは私たちは滅びるしかないのです。しかしその滅びを免れ、救いを得る唯一つの道があります。それは、生きておられるまことの神のご支配を認め、その神に身を委ね、信じて依り頼むことです。しかも心の中でそう思うだけでなく、具体的な行動をもって、主なる神に従う者となることです。そのためには犠牲にしなければならないものもあります。危険を犯さなければならないこともあります。ラハブも、同胞を裏切り、生まれ故郷の町を捨てたのです。そのようにして具体的に主なる神のもとに身を寄せることこそが、私たちの救いの道なのです。それはジョン・バンヤンの「天路歴程」において、主人公クリスチャンが、故郷である滅びの町を捨て、町の人々や家族が止めるのを振り切って、天の都をさして走り出ていくようなことです。それが遊女ラハブの信仰であり、私たちの信仰もそのようでありたいのです。

主イエスの系図に登場するラハブ
 新約聖書において、もう一箇所、このラハブが登場するところがあります。マタイによる福音書の第1章5節です。アブラハムからダビデ王に至る系図の中にラハブの名があるのです。「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた」とあります。「誰々によって」と言われているのは皆女性です。このラハブがエリコの遊女だったラハブであることは間違いないでしょう。この系図に何人か出てくる女性たちは皆、聖書の他の箇所に出てくる、よく知られた人たちです。だからラハブも本日のラハブ以外には考えられないのです。滅びの町エリコから救われ、イスラエルの一員となったラハブは、ルツ記においてルツの夫となるボアズの母となったのです。そのボアズのひ孫がダビデ王です。ですからラハブはダビデ王の四代前の先祖となったのです。
 この系図は、ダビデを経て主イエス・キリストへとつながっています。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」なのです。ラハブは滅びを免れ、命を与えられて主イエス・キリストにつながっていく家系の中に置かれたのです。このことこそが、ラハブに与えられた救いの本当の意味だったのだということを、この系図は示しています。生きておられるまことの神の前で滅びるしかない罪人である私たちが、主なる神によって罪を赦され、主に身を委ねて依り頼む者となって救いにあずかる、そのことを可能にして下さったのは、神の独り子イエス・キリストなのです。主イエス・キリストが、滅びるべき私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちは今、主なる神に身を委ね、依り頼んで生きることができるのです。

主イエス・キリストによる過越の恵み
 エリコの陥落の時、ラハブの家にはあの二人に渡された真っ赤なひもを窓に結ばれており、それが目印となってその家にいる彼女の一族は救われました。この真っ赤なひもは、イスラエルの民がエジプトを脱出した時のあの過越の出来事において、戸口に塗られた小羊の血を思い起こさせます。犠牲の小羊の血が戸口に塗られたことによって、その家にいる人々は、最初に生まれた男子を打ち殺す命を受けた御使いの手から救われたのです。それと同じ救いの恵みが、エリコの陥落において、遊女ラハブに与えられました。ラハブも、その信仰によって、過越の出来事を体験したのです。私たちも、過越の出来事を体験しています。神の独り子イエス・キリストが、私たちのために、罪を贖う犠牲の小羊として十字架にかかって死んで下さったのです。そのキリストの血によって立てられた新しい契約に私たちはあずかり、罪を赦され義とされて神の民の一員とされています。主イエス・キリストという過越の小羊による救いを私たちも体験するのです。それゆえに私たちも、遊女ラハブの信仰に生きる者でありたいのです。ラハブは、生きておられるまことの神である主のご支配を認め、その主の前で自分が滅びるしかない罪人であることを認めて、主に依り頼み、主に身を委ねて従っていくという唯一の救いの道を歩みました。しかも具体的に、自分の生活ががらりと変わることを厭わずに、勇気をもってその道を歩んでいったのです。主なる神は、そのような彼女の信仰をしっかりと受け止めて下さり、滅びから救い出し、ご自分の民に連ならせて下さいました。私たちも、主イエスの父である神のご支配を認め、その主の前で自分が滅びるしかない罪人であることを認め、そして主が独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって私たちの罪を赦し、永遠の命の約束を与えて下さったことを信じて、主に自らを委ね、従っていきたいのです。その私たちを主はご自分の民として迎えて下さり、救いのみ業のために用いて下さるのです。

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