夕礼拝

あなたの中にある光

「あなたの中にある光」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第29章13-16節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第6章22―23節
・ 讃美歌 : 3、502

ともし火
 本日は、マタイによる福音書第6章22節から23節の御言葉を共にお聞きしたいと思います。主イエスは「体のともし火は目である」(22節)と言われました。ともし火とは、暗闇の中に置かれることによって、周囲がその光によって照らされ、暗闇の中では見えなかったものが、見えてくる、その光の源です。例えば、停電の時に一本のろうそくのともし火があるのと、ないのとでは全く違います。普段の生活では、あまり役に立たないような一本のろうそうくが、暗闇の中では力を発揮するのです。私たちの体全体にとって、「目」がともし火である、と言われました。人は目でものを見て、光を感じます。目が開かれていてこそ、ものを見ることができ、光を受けることができます。目が開かれていなければ、太陽の光も、電灯の光も、ろうそくの光も、私たちの歩みを照らすことはありません。目を通して、光は私たちに受け止められ、私たちの歩みを明るく照らすのです。それゆえに、ここで「目」こそ体全体にとってともし火のようなものだと言われているのです。ここでの「目」とは私たちの肉体の目そのもののことではありません。肉体の目や視力ではなくて、もっと内面的な、その人の心の目のことを言っているのです。

体のともしびは目
 私たちの目が澄んだ、クリアな目であれば光を受け取ることができ、それによって全身が明るく照らされていくのです。「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」とはそのようなことです。しかし目が「濁っていれば、全身が暗い」とはその目が濁っているのであれば、どんな光が自分を照らしていても、その光が自分の中にちゃんと入ってこない、その光に照らされて生きることができない、ということになります。私たちは澄んだ目、澄んだ心をもちたいと思います。このことは、23節後半の主イエスのお言葉にあるように、「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」ということです。私たちの中に、心の中に光が灯っていれば、明るい澄んだ目でものごとを見ることができる、しかしその内面的な光、心のともし火が消えてしまっていると、目も濁ったものとなり、全身が暗くなってしまう、主イエスもそう言っておられると私たちは思うのではないでしょうか。
 しかし「体のともし火は目である」と主はおっしゃいます。このことは、「目」を通して、外から、体に光が入ってくる、それによって全身が明るく照らされていく、ということになります。だからこそ、「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」と言われているのです。主イエスのお言葉においては、私たちの全身を明るく照らす光は、私たちの中からではなく、外から来るのです。その光を受け止める器官が目なのです。心の中に光を持ちなさい、そうすればあなたの全身は明るくなり、目は澄んだものになる、のではありません。その教えにおいては、私たちが、自分で、自分の心の中に光を生み出さなければなりません。そして自分で自分の心を澄んだ、清い、汚れのない、偽りのないものとしなければなりません。そうなって初めて、その心の中の光が、澄んだ心のあり様が目に表れるのです。しかしそんなことはいったい私たちにできるのでしょうか。自分の心の中に自分で明るい光を灯すことが人間には可能でしょうか。私たちは、何もない所に、暗闇がおおっている所に、光を創り出すことができる者ではありません。私たちが、暗闇に閉ざされてしまっている自分の心に向かって、光を造り出すことは出来ません。光は、私たちが自分の内に創り出すものではありません。それは、外から与えられるものです。神様が創って下さった光をいただくことによってこそ、私たちの中に、心に、光が灯るのです。その外からの光を受ける器官、あるいは光が私たちの中に入ってくる窓が目なのです。「体のともし火は目である」という言葉はそのことを語っているのです。その私たちの目が、光をちゃんと受け止めているか、光をさえぎったり、曇らせたりしていないか、ということが問われているのです。私たちの目が澄んでいるか濁っているかということで問題にされているのでありません。主イエスは私たちの性格、内面の清さや品性や純粋さについて指摘されているのではありません。主イエスが問われていることは、私たちが、何に目を向けているか、ということです。本当に光の方を向いて、光を受けようとしているのか、それとも光から目を背け、別のものを見つめてしまっているのか、それが、目が澄んでいるか濁っているかの違いであり、それによって私たちの全身が明るくなったり暗くなったりするのです。

あなたの心は
 前回共にお読みした21節には、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と語られました。富とは、私たちが拠り所としているもの、これを失うまいと必死になっているものです。その富をどこに置いているか、つまり、何を本当の拠り所として生きているか、それが、「あなたの富のあるところ」です。そこにあなたの心もある。それはあなたの心はいつもそこへと向いている、それを最も大切にしている、あなたの目は常にそこに向けられている、ということです。つまり主イエスはすでに21節で、「あなたの目はどこを向いているか」と問われたのです。そして22節で、目は体のともし火として、光を受けるべきものだ、だからその目はまっすぐに光を見つめていなければならない、目を通して与えられる光であなたの全身が照らされるようにしなさい、と教えられたのです。
 本当に光の方を向くとはどうことでしょうか。ここでの私たちが向くべき「光」とは一体何のことでしょうか。(ヨハネによる福音書第1章9節ではこうあります。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」また、8章12節「イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 聖書は、イエス・キリストこそが私たちを照らす光であると言っています。そして、またこれは、神ご自身が光の中におられるのです。光がなければ、ものを見ることが出来ません。私たちが、私たちの心を何に向けているかということを問うているのです。私たちの心が光である主イエスの方を向いているのか。もしそうなら、そのキリストの光が心の目を通して差し込んできて、私たちの内側を明るく照らすのです。 けれども神さま・イエスさまのほうを向いていないならば、その光は差し込まなくなって、内側が暗くなっていくのです。 光があってこそ、何があるかが分かります。光があってこそ、何をしたらよいかが分かります。私たち自身の心は澄んでいないかもしれない。しかしそれは問題ではありません。この罪にまみれた私たちであっても、光であるお方の方を向いているかどうかということなのです。光の方を向いていれば、そのキリストの光が射し込むのです。この光であるお方独り子主イエスを遣わして下さった神様の恵みを見るのです。この恵みが神様を見つめる目から私たちの中に入ってきて、私たちの人生が、生活が、明るく照らされるのです。私たちは、自分で自分の中に光を創り出すことはできないと申しました。光は、神様が創って下さったものです。それを私たちは目を通して神様からいただくのです。私たちの全身が明るいか暗いか、私たちの中にある光が灯っているか消えてしまうかは、私たちの目が、神様が与えて下さる光を受けているかどうかにかかっています。私たちの目が、澄んだものとなっているか、濁ったものとなっているかにかかっているのです。そしてそれは、私たちの目がどこを向いているかです。光の源である神様の方に向けられるのです。

神の恵み
 私たちの全身が明るいか暗いか、私たちの中にある光が灯っているか消えてしまうかは、私たちの目が、神様が与えて下さる光を受けているかどうかにかかっています。私たちの目が、澄んだものとなっているか、濁ったものとなっているかにかかっているのです。そしてそれは、私たちの目がどこを向いているかです。光の源である神様の方に向けられ、独り子イエス・キリストを遣わして下さったその恵みのみ業を見ているのか、それとも自分の富、つまり私たちの様々な意味での財産、自分が持っているものばかりを見つめていて、神様には背を向けてしまっているのか、そこに、私たちの目が本当に体のともし火の役目を果たしているかどうかがかかっているのです。光の源である神様の方に向けられるのです。

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