夕礼拝

来年は実がなるかも

「来年は実がなるかも」 副牧師 川嶋章弘

イザヤ書 第5章1-7節

ルカによる福音書 第13章1-9節

ちょうどそのとき

ルカによる福音書を読み進めてきて本日から13章に入ります。といっても新しい章に入るから新しいまとまりが始まるというわけではありません。それは冒頭で「ちょうどそのとき」と言われていることからも分かります。直前の12章54節以下で主イエスは、私たちが神様のところに連れて行かれる途上にあることを話されました。神様がお定めになったときに、私たちは神様のみ前に立たされ神様によって裁かれる。だから神様のみ前に立たされるまでの途上にあって、つまり地上の人生において、私たちが神様の裁きに備えるように、と主イエスは話されたのです。

ピラト、ガリラヤ人を殺す

このことを主イエスが話されていた「ちょうどそのとき」に、何人かの人が来て、ショッキングな事件を主イエスに伝えました。「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた」(1節)。ピラトについては、この福音書の3章1節で「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督…」と述べられていました。そしてピラトは後に、主イエスを十字架につける判決をくだしたのです。このピラトが「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という残虐な行為に及んだと言うのです。この出来事はほかの資料に記録がなく、聖書のこの箇所にしか記されていません。しかし多くの学者は、この出来事が実際にあったに違いないと考えています。新約聖書ではピラトの人となりはそれほど多く語られていませんが、同時代の資料には、ピラトは「融通が利かない、頑固で、残酷な」人物であったと記されているので、彼がこのような行為に及んでも不思議ではないと考えられているのです。ピラトは、おそらく過越の祭りのときにエルサレム神殿に来て、いけにえの小羊をささげようとした何人かのガリラヤ人を殺したのでしょう。文字通りには、その人たちの血をいけにえに混ぜたことになりますが、「血を混ぜた」という表現は、神殿で殺されたことを意味することもありました。ですからピラトが神殿でガリラヤ人たちを殺したことを「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」と言い表しているのかもしれません。

シロアムの塔、倒れる

この箇所には、もう一つショッキングな事件が記されています。こちらは主イエスのもとに来た人たちではなく、主イエスご自身が話された事件です。シロアムの塔が倒れて18人が亡くなった、と言うのです。シロアムは、ヨハネ福音書9章7節に出てくる「シロアムの池」のシロアムです。シロアムの池は、エルサレムの南東の城壁の内側にありました。シロアムの塔は、おそらくこのシロアムの池の近くにあったのでしょう。城壁の工事にともなう水道工事の際に、このような事故が起きやすかったようです。このシロアムの塔が崩壊した事件もほかの資料には記録がなく、聖書のこの箇所にしか記されていません。しかし当時は誰もが知っていた事件であったのだと思います。だからこそ主イエスはこの事件を取り上げたのです。

大きな罪を犯したから災難に遭うのか?

このように二つのショッキングな事件が、人々の間でホットな話題となっていました。同じようなことはいつの時代も起こっています。私たちも毎週のようにショッキングな事件を知らされて、日常の会話の中でそれらを話題にしているのです。ところで主イエスのところにやって来た人たちは、この二つの事件をどのように受け止めていたのでしょうか。この人たち自身は何も語っていませんが、主イエスのお言葉から窺い知ることができます。主イエスはこのように言われました。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか」(2節)。「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか」(4節)。つまり主イエスのところにやって来た人たちは、あるいは二つの事件を話題にしていた人たちは、「ピラトに殺されたガリラヤ人は、ほかのガリラヤ人よりも大きな罪を犯したから、そのような目に遭ったのだ」、「シロアムの塔が倒れて亡くなった18人は、エルサレムに住んでいたほかの人たちよりも大きな罪を犯したから、そのような災難に遭ったのだ」と思っていたのです。あんな悲惨な目に遭ったのは、あれだけの災難にあったのは、その人たちがよっぽど悪いことをしていたからだ、ひどい罪を犯していたからだ。特別に悪いことをした罰として神様に滅ぼされたのだ、と考えていたのです。このように自分の行いに応じて報いがあるという考えは「応報思想」と呼ばれることがあります。応報思想は当時のユダヤ人の常識的な考えでした。ヨハネ福音書9章で、生まれつき目の見えない人について、弟子たちが主イエスに「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ねていますが、この弟子たちの言葉に応報思想がはっきりと表れています。本人が罪を犯したから、あるいはその両親が罪を犯したから、その罰として生まれつき目が見えないのだ、と考えているのです。

「罰が当たった」と考える

このような考え方は私たちと決して無関係ではありません。私たちの社会にも、私たち自身にも、「罰が当たる」という考えは侵食しているからです。ある人が災難にあったとき、「あの人は罰が当たったのだ」という考えが頭をよぎることはないでしょうか。私たちはショッキングな事件が起こるとき、しばしばその事件が起こった原因を話題にします。悲惨な目に遭った人の過去を詮索して、これだけ酷いことをしていたのなら、あんな悲惨な目に遭ってもしょうがないなどと考えてしまうのです。そう考えることで私たちは納得できるからです。納得したいからです。いや、それだけでなく、私たちはどこかで自分はあの人ほど酷いことをしていないから、あんな悲惨な目に遭うことはないと思ってしまう。自分も神様に従えないことがあり、罪を犯してしまうことがあり、悪いことをしてしまうことがある。でも、あの人ほどは酷いことをしていない。だから自分はあれほど悲惨な目に遭うことはない。そうやって自分とほかの人の罪を比べることで安心を得ようとしてしまうのです。

それだけでなく私たちは、自分自身が悲惨な目に遭ったときも「罰が当たった」と考えてしまうのです。私たちは人生において悲惨な目に遭うことがあるかもしれないし、今、現に遭っているかもしれません。そのとき思うのです。今、こんな酷い目にあっているのは、自分が悪いことをしたからではないか。今、自分はその報いを受けているのだ、罰が当たったのだ、と考えるのです。そう考えることで、自分が直面している災難、苦しみや悲しみの原因を説明しようとします。「罰が当たった」と考えることで納得しようとするのです。しかしそれで納得できたとしても、私たちに生きる希望と力が与えられるわけではありません。むしろまた罰が当たるかもしれないという不安と恐れを抱き続けるしかありません。「罰が当たった」と考えて納得することでは、応報思想で説明することでは、悲惨な現実の中にあり、耐え難い災難の中にあり、押し潰されそうな苦しみや悲しみの中にある私たちに、生きる希望と力が与えられることは決してないのです。

不条理な苦しみの現実の原因はどこに

主イエスは応報思想に対して、「罰が当たった」と考えることに対して、はっきりとNOを突きつけます。「決してそうではない」と言われるのです。あのガリラヤ人たちがピラトに殺されたのは、あの18人がシロアムの塔に押し潰されて死んだのは、この人たちがほかの人と比べて特別悪いことをしたからでも、ひどい罪を犯したからでもない、と言われるのです。そうやって罪を犯したから災難に遭うと考えてはならないと言われるのです。このことに私たちは安心するかもしれません。悪いことをしても罪を犯しても、それで罰が当たるのではないなら、悪いことをするのも罪を犯すのもそんなに恐れなくて良いように思えるからです。しかし事はそう簡単ではありません。罪を犯したから災難に遭うのではないのだとしたら、今、私たちが直面している不条理な苦しみの現実の原因はどこにあるのでしょうか。この苦しみや悲しみ、やりきれない思いの原因をどこに求めたら良いのでしょうか。突然、大きな病に襲われることがあり、大きな怪我に見舞われることがあります。一生、病を抱えていかなくてはならないことがあります。願っていた夢が叶わず、望んでいた人生とはまったく違う人生を歩まなくてはならないことがあります。予期せぬ災害や事故に遭うこともあります。自分だけではなく、自分の大切な人がそのような目に遭うかもしれない。いや、現にそのような目に遭っているとしたら、私たちはその原因をどこに求めたら良いのでしょうか。

神の方に向き直って生きる

主イエスは、罰が当たったと考えることに対してNOを突きつけた上で、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われます。この主イエスのお言葉を、悔い改めることが滅びないことの条件だと受け止めるなら、私たちは応報思想に逆戻りするだけです。悔い改めた報いとして滅びないということならば、それは、罪を犯した報いとして滅びるということをひっくり返して言っているに過ぎないからです。しかしここで主イエスは滅びない条件として私たちに悔い改めを求めているのではなく、悔い改めて生きるよう私たちを招いておられるのです。悔い改めるとは、向きを変えることです。方向転換をすることです。どこを向くのか、どちらに方向転換をするのか。神様の方にです。悔い改めるとは、私たちが神様の方を向くこと、神様の方に方向転換をすることなのです。自分とほかの人の罪を比べたり、自分の苦しみや悲しみばかりに目を向けるのではなく、神様の方を向くのです。自分自身やほかの人のことばかり見つめて生きることから方向転換をして、神様のことを見つめて生きるようになるのです。そのとき私たちは神様が自分を愛してくださっていることに気づかされます。独り子イエス・キリストを十字架に架けてまで、私たちを愛してくださっていることに気づかされるのです。もちろん神様の愛に気づけたからといって、不条理な現実が消えてなくなるわけではありません。苦しみや悲しみがなくなるわけでもありません。しかしその不条理な現実を、私たちの苦しみや悲しみ、やりきれない思いを神様の愛の中に置くことができる。神様との関わりの中で、私たちは不条理な現実に向き合い、苦しみや悲しみを担うことができるのです。「滅びる」とは、自分の体がばらばらに砕け散ってなくなるようなことではありません。そうではなく神様との関係が失われることです。神様の方に向き直り、神様が自分を愛してくださっていることに気づかされ、神様との関わりを持って生きることこそ、滅びないで生きることなのです。神様との関わりの中で、私たちは自分自身の、大切な人の、あるいはこの世界の苦しみや悲しみの意味を、ほかならぬ神様に問うことができます。そこに、応報思想とはまったく違う道が、自分の苦しみや悲しみばかりを見つめるのともまったく違う道が開けていくのです。不条理な現実によって私たちは滅ぶのではありません。不条理な現実にあって、神様との関係を失うことによって滅びるのです。だから主イエスは、悔い改めなさい、神様の方を向きなさい、神様との関わりを持って生きなさい、その神様との関わりの中で苦しみや悲しみを担いなさい、と言われるのです。

主イエスの執り成し

「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われると、主イエスが私たちを脅しているように思えるかもしれません。しかしこの主イエスのお言葉は私たちを脅しているのではなく、私たちを悔い改めへと招いているのです。しかも単に「悔い改めなさい」と呼びかけて、私たちが悔い改めるかどうかチェックしているというのではありません。私たちが悔い改めて、神様の方に向き直り、神様との関わりを持って生きられるよう、主イエスは私たちに働きかけてくださり、執り成してくださるのです。主イエスは、神様と私たちの間に立って執り成してくださる。6節以下の主イエスの譬え話は、この主イエスの執り成しを見つめているのです。

実のならないいちじくの木の譬え

主イエスの譬え話で、なぜいちじくの木をぶどう園に植えたのか、と疑問に思われるかもしれません。専門家は色々な説明をしていますが、当時、ぶどう園にいちじくの木を植えることが行われていた、という説明で十分なように私は思います。それよりこの譬え話において大切なのは、ぶどう園の主人とは神様であり、園丁とは主イエスである、ということです。いちじくの木を植えたぶどう園の主人は、そのいちじくの木に実がなっているのを探しに来ましたが見つかりませんでした。そこで主人は、園丁にこのように言います。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ、なぜ、土地をふさがせておくのか」。それに対して園丁は答えます。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」。

ぶどう園の主人が植えたいちじくの木とは、私たち一人ひとりのことです。より正確にいえば、神様のみ前に立たされるまでの途上にあって、地上の人生を歩んでいる私たち一人ひとりのことです。そしていちじくの木に実がなるとは、私たちが悔い改めて、神様の方に向き直り、神様との関わりを持って生きるようになることです。でも、その実が見あたらない。私たちはなお悔い改めることなく、神様の方を向かず、自分ばかりに目を向け、あるいは自分とほかの人を比べて生きている。だから神様は、実のならないいちじくの木を、悔い改めない私たちを「切り倒せ、なぜ、土地をふさがせておくのか」と言われるのです。

神は横暴なのか?

このように言われる神様に対して、私たちは、神様はなんて横暴なんだ、と思うかもしれません。神様は愛の神様ではないのか、それなのに切り倒すなんて、滅ぼすなんてひどいと思うのです。しかしそのように思う私たちこそ本当に恩知らずな者なのではないでしょうか。神様は独り子イエス・キリストを十字架に架けてまで私たちを救ってくださいました。それほどまでに私たちを愛してくださっているのです。その救いの恵みの中に生かされているにもかかわらず、なお私たちは悔い改めようとしない。神様の方を向こうとしないのです。ぶどう園の主人は「もう三年もの間…実を探しに来ているのに、見つけたためしがない」と言っています。主人は、三年もの間、何度も何度もぶどう園に足を運び、いちじくの木に実がなっていないかを探したのです。一回、二回来てみて、実がなっていなかったから切り倒してしまおう、と言ったのではありません。同じように神様も、私たちが悔い改めて、神様の方に向き直って生きるのを期待していてくださり、忍耐して待っていてくださったのです。それでも実がなっているのを見つけたためしがないから、それでも私たちが自己中心的に生き続けているから、「切り倒せ」と言われるのです。神様が忍耐して待っていてくださるのを台無しにしてしまう恩知らずな私たちは、切り倒され、滅ぼされても当然なのではないでしょうか。

来年は実がなるかも

けれども園丁は、つまり主イエスは「今年もこのままにしておいてください」と言います。今年も切り倒さないで待ってみましょう、今回も滅ぼさないで待ってみましょう、と言うのです。「来年は実がなるかもしれない」からです。今年までは駄目だったかもしれないけれど、来年こそは実がなるかもしれない。今までは悔い改めようとしなかったけれど、これからは悔い改めて、神様の方に向き直り、神様との関わりを持って生きるようになるかもしれない。だから「このままにしておいてください」、「待ってみましょう」と主イエスは私たちのために神様に執り成してくださるのです。私たちが神様のみ前に立つまでの途上に生きているとは、この主イエスの執り成しによって生かされているということです。私たちは主イエスによる救いの恵みの中で、主イエスの執り成しによって生かされているのです。この主イエスの執り成しによって、神様は私たちが悔い改めて生きるようになるのを憐れみと恵みと忍耐をもってなお待っていてくださるのです。しかしそれは神様に裁かれるときが来ないということではありません。だから「もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言われているのです。神様のみ前に立たされ、神様に裁かれるときが来る。だからその前に悔い改めなさい、と主イエスは私たちを招いておられるのです。

来年、実がなるために

「来年は実がなるかもしれない」と、主イエスは言われただけではありません。主イエスは私たちに「悔い改めなさい」と呼びかけるだけで、あとは私たちが悔い改めるかどうかを見守っているのではないのです。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれない」(8節)。主イエスは私たちが悔い改めるために、木の周りを掘って肥やしを与えてくださるのです。ほかの人が、あるいは自分自身が災難に遭ったとき、「罰が当たった」と考えて生きてしまう私たちに、自分とほかの人との罪を比べて生きてしまう私たちに、自分が直面している不条理な現実にばかり目を向けて生きてしまう私たちに、主イエスは働きかけてくださっています。そのように生きるのではなく、神様の方に向き直って、神様との関わりの中で生きるよう働きかけてくださっているのです。神様との関わりの中で、私たちが不条理な現実に向き合っていくよう、苦しみや悲しみを、やりきれない思いを担っていくよう導いてくださいます。神様との関わりの中で、神様の愛の中で、自分自身の、大切な人の、あるいはこの世界の苦しみや悲しみの意味を、ほかならぬ神様へ問うよう導いてくださいます。木の周りを掘って肥料を与えるのは、一回限りの作業ではありません。園丁は、いちじくの木に実がなるよう心から願って、毎日毎日、木の周りを掘って肥料を与えるに違いないのです。同じように主イエスも、私たちが悔い改めて神様の方に向き直るよう心から願って、毎日毎日、私たちに働きかけてくださり、私たちが神様との関わりを失って滅びてしまわないよう執り成してくださっています。この主イエスの働きかけによって、この主イエスの執り成しによって、私たちは神様のみ前に立つまでの途上にあって、今日も生かされているのです。主イエスの執り成しによって生かされている私たちは、「来年は実がなるかもしれない」という主イエスの切なる願いにお応えし、悔い改めて、神様の方に向き直り、神様との関わりに生きるようになるのです。私たちは神様との関わりに生きる中でこそ、不条理な現実に直面しても、苦しみや悲しみの中にあっても、なお生きる希望と力を与えられて歩むことができるのです。

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