2023年12月の聖句についての奨励(12月6日 昼の聖書研究祈祷会) 牧師 藤掛順一
「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」
イザヤ書第7章14節
「インマヌエル」の実現を喜び祝うクリスマス
マタイによる福音書第1章18節以下には、婚約者マリアが自分によらずに身ごもったことを知って悩み苦しんでいたヨセフのもとに天使が現れて、マリアの妊娠は聖霊によるのだから、恐れずにマリアを妻として迎え入れ、その子の父親になりなさいと告げたことが語られています。そしてマタイは22節で「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と語っています。その預言者の言葉とは、23節の「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」、つまりイザヤ書第7章14節です。このイザヤ書の言葉を12月の聖句としました。マリアが聖霊によって身ごもり、主イエスを産んだのは、イザヤのこの預言の成就だったのです。この預言は、マリアの産む子が「インマヌエル」と呼ばれると語っています。この言葉の意味は、マタイが23節の終わりに語っているように、「神は我々と共におられる」ということです。主イエスの誕生によって、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」ということが実現したのです。この言葉は、神による救いの恵みとは何かを語っています。神による救いとは、神が共にいて下さることです。主イエスの誕生によって、その救いが決定的に実現したのです。つまりクリスマスを喜び祝うとは、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という神の恵みの実現を喜び祝うことなのです。本日は、この「神が共にいて下さる」という恵みが聖書においてどのように語られているかを見ていきたいと思います。それによって、クリスマスの恵みを味わいたいのです。
アブラハム、イサク、ヤコブと共におられた神
先ず見つめたいのは、創世記第26章3節です。主なる神がアブラハムの子イサクに現れてこうお語りになりました。「あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたと子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する」。アブラハムは主なる神からの語りかけを聞き、それに応えて旅立ちました。それによって神の民イスラエルの父祖となったのです。そのアブラハムに与えられた祝福がその子イサクに受け継がれることがここに語られています。その祝福とは「わたしはあなたと共にいる」ということです。主なる神が共にいて下さるという祝福が、アブラハムからその子イサクへと継承されたのです。
その祝福はイサクからその子ヤコブに継承されました。ヤコブは双子であり、兄エサウが長男でしたが、神の祝福は兄エサウにではなく弟ヤコブに継承されました。それは根本的には神がエサウではなくヤコブを選んでおられたからですが、ヤコブは兄エサウの怒りをかい、家から逃げ出さなければなりませんでした。その逃亡の旅の中で神がヤコブの夢に現れて語りかけたことが創世記第28章に語られています。その15節に「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」とあります。ヤコブもイサクと同じように、「わたしはあなたと共にいる」という神の祝福を受けたのです。しかもそれは逃亡の苦しみの中ででした。神が共にいて下さる恵みは、挫折や苦しみの中でこそ示され、その人を支えるのです。
主がヨセフと共におられ
創世記第39章にもそのことが語られています。ヤコブの子であるヨセフは、兄たちの妬みを受けてエジプトに奴隷として売られてしまいました。ヨセフがその苦しみのどん底にあった時のことが39章に語られているわけですが、その2節と21節と23節に、「主がヨセフと共におられ」とあります。兄たちによって奴隷に売られた苦しみ、悲しみ、絶望の中で、主がヨセフと共にいて下さったのです。その主の支えと導きによってヨセフはついにエジプトの大臣になりました。このことによって、ヤコブとその家族は飢饉から救われ、エジプトで生活するようになりました。神がヨセフと共にいて下さったことによって、神の民イスラエルは生き延びることができたのです。「主がヨセフと共におられ」ということが語られているのは、彼が苦しみのどん底にあった39章においてのみです。主なる神は苦しみの中にいる者のもとにこそ共にいて下さり、守り導いて下さることがここにも示されているのです。
出エジプトと荒れ野の旅において共におられた神
ヨセフによってエジプトに移住したイスラエルの民は、そこで大きな民となりました。しかしエジプトの王朝の転換によって奴隷とされて苦しめられるようになりました。彼らをそこから救い出すために主なる神が遣わして下さったのがモーセです。神は出エジプト記第3章10節でモーセに「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と語りかけました。するとモーセは11節で「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と抵抗します。すると主は12節で「わたしは必ずあなたと共にいる」とおっしゃったのです。モーセがイスラエルの民を奴隷状態から解放する指導者となることができたのは、神が共にいて下さったからです。人間の力ではとうていできないことが、神が共にいて下さることによって実現するのです。「出エジプト」は、共にいて下さる神によって実現した救いなのです。
エジプトを出たイスラエルの民は四十年の間荒れ野を旅しました。申命記第2章7節においてモーセはその歩みを振り返ってこう言っています。「あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった」。荒れ野の四十年の旅路も、主なる神が共にいて下さったことによって守られたのです。また申命記第31章7、8節では、モーセがその後継者ヨシュアにこう告げています。「モーセはそれからヨシュアを呼び寄せ、全イスラエルの前で彼に言った。『強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、主が先祖たちに与えると誓われた土地にこの民を導き入れる者である。あなたが彼らにそれを受け継がせる。主御自身があなたに先だって行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない』」。ヨシュアも、主が共におられることに支えられて、イスラエルの民を約束の地へと導き入れることができたのです。ヨシュア記第1章5節にも「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」という主のみ言葉が語られています。
ギデオン、サムエル、サウル、ダビデと共におられた神
士師記第6章16節には、ギデオンが士師として立てられた時に、主が「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる」と語ったとあります。またサムエル記上第3章19節には、最後の士師でありイスラエルに王を立てる者となったサムエルについて、「サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった」とあります。そしてサムエル記上第10章7節には、サムエルがサウルに油を注いでイスラエルの王とした時に「これらのしるしがあなたに降ったら、しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです」と言ったとあります。そしてサムエル記下第7章9節では、サウルに替わって王となったダビデに、預言者ナタンが主の言葉を告げています。「あなたがどこへ行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう」。サウルもダビデも、主なる神が共にいて下さるという恵みによって、王となることができたのです。その恵みを失ったサウルは滅んでいったのです。
旧約の人々の願いの実現
このように、神の民イスラエルは、主なる神が共におられる、という恵みに支えられ、導かれてきました。「インマヌエル(神は我々と共におられる)」の恵みによって、神の救いの歴史が前進していったのです。神が共にいて下さることこそが救いであることを、詩編第23編4節も語っています。「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける」。またイザヤ書第43章2節にも「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる」とあり、同5節にも「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」とあります。旧約の人々は、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という救いを願い求めていたのです。その願いの実現のしるしが、「おとめが身ごもって、男の子を産む」ことだ、とイザヤ書第7章14節は語っています。このしるしが、母マリアが聖霊によって身ごもり、主イエスを産むことにおいて現実となるのです。「インマヌエル(神は我々と共におられる)」の恵みは、主イエス・キリストによっていよいよ実現するのです。
主イエスの十字架と復活によって
「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という救いは、主イエスの誕生によって実現したのではありません。主イエスの誕生は、その救いの実現の始まりです。主イエスのご生涯の全体によって、とりわけその十字架の死と復活とによって、この救いは実現したのです。なぜなら人間は、神のもとに、神と共にあろうとせず、そこから離れ去り、神を無視して自分の思いによって生きようとする罪人だからです。神が共にいて下さろうとしても、人間がそれを拒み、神から離れてしまう。旧約聖書に語られている神の民イスラエルの歴史はまさにその繰り返しです。離れ去っていこうとする民に、神が繰り返し語りかけ、共にあろうとして下さった、それでも人間は神から離れ去っていってしまう、その繰り返しはどこまでも続いていくのです。そのために主なる神は、ご自分の独り子主イエスを人間としてこの世に遣わして下さいました。そしてその主イエスが、神から離れ去り、共にあろうとしない人間の罪を全て引き受けて、苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったのです。主イエスの十字架の死は、神と共にあろうとしない私たちの罪の結果を、神の独り子である主イエスが代って引き受けて下さったということでした。それによって私たちの罪が赦されたのです。そして神は主イエスを復活させ、新しい命と体を与えて下さいました。それは、主イエスの十字架の死による罪の赦しにあずかった私たちが、神と共に生きる者とされて、新しく生きるためです。この主イエスの復活によって、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という救いが私たちの現実となったのです。マタイによる福音書はその最後のところでそのことを語っています。28章20節で、復活した主イエスが弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とおっしゃったのです。復活した主イエスが、いつも共にいて下さる、このことによって、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という救いは私たちに与えられています。ヨセフに現れた天使が告げた「インマヌエル」が、主イエスの復活によって私たちの現実となったことを、マタイによる福音書は語っているのです。
洗礼を受け、教会に連なっている者こそが
復活した主イエスのこの宣言は、弟子たちを全世界へと遣わすにあたって語られたものです。そのお言葉は18節以下です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。この主イエスのみ言葉に従って弟子たちは伝道し、父と子と聖霊の名による洗礼を授けました。そうして、教会が誕生したのです。「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という救いの恵みは、洗礼を受けて教会に連なっている私たちに与えられています。主イエスの十字架による罪の赦しにあずかり、復活によって神と共に生きる新しい命が、洗礼を受けて教会に連なって生きるところに与えられるのです。私たちは毎週の礼拝において、この救いの恵みにあずかりつつ歩んでいます。「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という恵みは、クリスマスだけのものではありません。教会に連なり、礼拝を守って生きる私たちこそが、この恵みにあずかっているのです。その救いの成就の始まりがクリスマスの出来事なのです。