【2024年1月奨励】感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ

今月の奨励

2024年1月の聖句についての奨励(1月10日 年頭祈祷会Ⅲ) 牧師 藤掛順一

「感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ」(4節) 

詩編第100編1-5節

喜び祝う気にはなれない?
 主の2024年を迎えました。その最初の1月の聖句として、詩編第100編4節を選びました。この第100編は、「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ」と始まり、「喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ」と続いています。そして4節も、感謝と賛美の歌を歌って主のみ前に出よう、という呼びかけです。主なる神への感謝と賛美の歌を歌って共に喜び祝おう、と呼びかけているのです。新しい年を歩み出すにあたって読むのにまことに相応しい歌であると言えます。
 しかし今私たちは、喜びの叫びをあげたり、喜び祝ったり、喜び歌うような気持ちにはなれない、というのが正直なところではないでしょうか。元日の夕方に能登半島地震が起こり、その被害は明らかになるにつれて甚大であることが分かってきました。道路が寸断されていて、被害状況の正確な把握もなかなかできず、救援のための人や物資もなかなか届いていません。その中で厳しい寒さが襲って来ています。被災した人びとは今大変な苦しみの中にいるのです。教会にも大きな被害が出ており、輪島教会は全壊です。そのような中で、2日には羽田空港で飛行機どうしの衝突という大惨事が起こりました。日航機側に死者が出なかったのは本当に幸いであり、乗務員と乗客の適切な行動に敬服するところですが、海上保安庁の飛行機は震災の被災地に物資を届けようとしていたこともあり、この事故は物理的にも精神的にも社会に影響を及ぼしていると言えるでしょう。またウクライナでもガザでも、クリスマスから新年にかけても、戦闘によって多くの人の命が失われ続けています。2024年はこのようにして始まったわけで、正月を喜び祝う気分は、元日の夕方にはもう萎んでしまいました。そのような中では、「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ」と呼びかける詩編第100編は、私たちの気持ちにそぐわない、と感じられるかもしれません。

大きな喜びを与えられている私たちの教会の
 しかしこの詩を1月の聖句として選んだのは、「正月のめでたい気分」のゆえではありません。私たちの教会はこの1月から、ほぼ四年ぶりに、毎週の主日礼拝を1回として、皆が毎週同じ礼拝に集うことができるようになりました。そしてこれまでは2節のみを歌ってきた讃美歌も、1月からは原則として全ての節を歌い始めました。一つの礼拝に共に集い、主への感謝と賛美の歌をフルに歌うことが、ようやくこの1月から可能となったのです。聖餐も、あの個包装のパックではなく、以前と同じように切り分けたパンと杯によって行うようになりました。これらのことは、私たちの大きな喜びです。詩編第100編はその私たちの喜びの思いを表現していると言えると思うのです。

感謝と賛美の歌を歌って主を礼拝する喜び
 この詩を読むと、主に向かって感謝と賛美の歌を歌うことと、主の御前に進み出て礼拝をすることとが不可分に結びついていることがわかります。2節に「喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ」とあります。喜び歌うことと主の御前に進み出ることは一つなのです。そして主の御前に進み出るのは、「主に仕え」るためです。それはあれこれの奉仕をするというよりも、主のみ前に跪いてを礼拝するということです。主の御前に進み出て、礼拝することによって主に仕える、それこそが私たちの「喜び祝い」なのです。その「喜び祝い」の中で、私たちは「喜び歌う」のです。御前に進み出て主を礼拝することの中で喜びの歌を歌うことへの勧めがなされているのです。
 4節も、感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ、という勧めです。主の門に進み、主の庭に入る、それは具体的には神殿に入って主を礼拝する、ということです。その礼拝において、感謝と賛美の歌を歌うことが勧められているのです。いや、主の御前に出て礼拝をすることができる喜びが、感謝と賛美の歌となって自然にほとばしり出るのです。
 今私たちはこの喜びを回復されつつあります。1回の礼拝に皆で共に集うことができ、そこで讃美歌を全節歌うことができる、それは、主の御前に共に進み出て、感謝と賛美の歌をう歌って主を礼拝することができる、という喜びです。讃美歌は、家で一人で口ずさむこともできますが、礼拝において、主にある兄弟姉妹と共に歌うことによってこそ、喜びをもたらすのです。その喜びを私たちはほぼ4年ぶりに回復されているのです。詩編第100編に歌われている、感謝と賛美の歌を歌って主の御前に進み出る喜びは、今私たちが再び味わっている喜びでもあるのです。

私たちの気持ちのよさではなく
 礼拝において、主を賛美する喜びは、私たちが「気持ち良いと感じる」喜びではありません。歌を歌うことが好きだから、皆で大きな声で讃美歌をフルに歌えるのは嬉しい、という話ではないのです。そういうことなら、「歌が苦手」という人にはあまり喜びではない、ということになります。あるいは、神をほめたたえる歌にもいろいろな種類があって、私たちの教会の礼拝で歌っている讃美歌とは全く感じの違うものもあります。私たちは今の「讃美歌」に慣れ親しんでいますから、それを歌うことに喜びを感じるかもしれませんが、「もっとこういう曲の方が好きだ、そちらの方が喜びを感じられる」という人もいるでしょう。そのように私たちが「気持ち良いと感じる」ことを求めていったら、ある人には気持ちがよいけれども他の人にはそうではない、ということになるのです。しかし礼拝において主を賛美するところに与えられる喜びは、そのような「気持ちの良さ」とは別のものです。3節に「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」とあります。このことこそ、礼拝において主を賛美するところに与えられる喜びの中心なのです。「喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ」と2節に勧められているのは、それによって3節のこのことを示され、知ることができるからなのです。

主こそ神であると知る
 礼拝において、主の御前に進み出て、主のみ前に跪いて主に仕えることによってこそ私たちは「主こそ神である」ことを知ります。礼拝に集うことによってこそ神を知ることができるのです。神を知ったから礼拝をするのではありません。私たちが自分の頭であれこれ考えたり、いろいろな本を読んで勉強したり、今ならネットでいろいろな情報を得ることによって神を知ることはできません。神を知ることができる唯一の場は礼拝です。神を礼拝することの中でこそ、神を知ることができるのです。言い換えれば、神を知るとは、神を知識として知り、神のことが分かるようになることではなくて、神の御前に出て礼拝をすることなのです。

主なる神の愛を知る
 礼拝においてこそ私たちは「主こそ神である」ことを知ります。その時私たちは同時に、「主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」ということをも知るのです。「主こそ神である」というのは、主という神が存在していることが何となく感じられる、ということではありません。その主なる神が、この自分を造り、命を与えて下さった。だから私は主のものであり、主の民、主の羊とされている。主なる神が羊飼いとして私を養って下さっている。そのことを知るのです。つまり「主こそ神である」というのは、主なる神がこの自分を生かし、養って下さっている、その神の自分への愛が分かるようになることです。「自分は神に愛されている」ことを知ることこそが、「主こそ神である」と知ることなのです。

仲間との交わりの喜びを知る
 そして、自分が主に養われる羊であることを知る時に私たちは、主が自分と共に養って下さっている羊たちがいることを知ります。羊は一匹のみで生きるのではなくて、「羊の群れ」として、羊飼いに養われ、導かれるのです。つまり私たちは、「主こそ神である」と知る時に、自分に命を与えて下さった神の愛を知ると共に、主が「わたしたち」を造られた、「わたしたち」は主のもの、その「民」、主に養われる羊の「群れ」であることを知るのです。それによって私たちは、自分には神によって共に養われている仲間がいることを示されるのです。この仲間は、自分が、何らかの働きかけをして、信頼関係を築いて得たものではありません。そういう仲間は、人と接することが得意な、社交的な人には沢山いるが、それが苦手で、むしろ孤独を好むような人には少ない、ということになるでしょう。しかし「主こそ神である」ことを知るところに与えられる仲間は、そのような人間の資質によって得るものではありません。主なる神が、この私を造り、命を与え、ご自分のもの、ご自分の民、ご自分の羊の群れとして下さっている、そのことを知ることによってこの仲間は与えられているのです。礼拝において私たちは、この主によって与えられている仲間と共に、主の御前に進み出て、感謝と賛美の歌を共に歌うのです。そこに、共に主の愛によって養われている仲間との交わりの喜びが与えられるのです。1回の礼拝を共に守ることができるようになったことによって、私たちはこの喜びを回復されたのです。

被災地の人々を支えていくために
 この新しい年、私たちは主が回復して下さったこの喜びを大切にして歩みたいのです。そのために、感謝と賛美の歌を歌って共に主を礼拝する交わりを広げ、深めていきたいのです。「コロナ禍」の中でその交わりから離れてしまった人たちをもう一度礼拝へと迎え、さらに新たな方々をも礼拝に迎えて、共に主を賛美する喜びに生きていきたいのです。被災地の人々が苦しんでいる中で、自分たちだけそんな喜びに生きていてよいのか、というのはむしろ逆です。喜び歌って主の御前に進み出て、主を礼拝し、主こそ神であると知らされて、「主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」という喜びに生きていく時に、私たちは、主が同じように造り、ご自分のもの、ご自分の民とし、主に養われる羊の群れとして下さった人々が、あの地震の被災地にもいることに目を開かれていくのです。私たちと同じように主がご自分の羊の群れとして愛し、養い、守って下さっている人々が、今苦しみの中にいることに目を開かれた私たちは、その人々のためにとりなし祈り、必要な支えと助けの働きをしていくのです。私たちが、感謝と賛美の歌を歌って共に主を礼拝する喜びに生きつつ、そのとりなしの祈りと支えの働きをしていくことが、被災地の教会の人々が、厳しい現実の中でも、主こそ神であると知り、主が自分たちを造り、愛して下さっていること、自分たちは主の民、主に養われている羊の群れであることを知り、それによって支えられていくことへと繋がっていくのです。そして、苦しみの中にある地に立てられている主の民が力づけられ、主の愛と養いを信じて歩むならば、そのことは、深い苦しみ悲しみの中にいるその地の人々の希望の光となるのです。被災地の人々のために私たちが今直接に出来ることは僅かです。しかし私たちが詩編第100編に歌われているように主の御前に出て礼拝をし、主なる神の愛への感謝と喜びの歌を歌いつつ、被災地の人々のために祈ることによって、その地の人々を間接的に支えていくことができるのです。

感謝と喜びに生きる
 4節前半も、「感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ」と、私たちを礼拝へと招いています。その礼拝においてこそ、5節に語られている「主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ」ということが示されるのです。このことを示されることによって、私たちは感謝と喜びに生きることができます。私たちの人生にはいろいろな苦しみ悲しみがあり、心配事があります。そして時として大きな災害に襲われることがあります。そのような苦しみの中で、「主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ」ことを示されることによって、私たちは感謝と喜びに生きることができるのです。それが実現するのは、主の御前に進み出て、感謝と賛美の歌を歌って礼拝をすることによってです。この新しい年、私たちは主なる神を礼拝する中で、「主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ」ことを示されていきたいのです。私たちがそのように歩むことによって、主こそ神であると知り、「主がわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」であると信じて、感謝と喜びに生きる人々が生まれていくでしょう。被災地においてもそのことが起るように、祈りつつ支えていきたいのです。

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