心の清い人々の幸い

  • 家庭集会説教 /牧師 藤掛 順一
聖書が教える幸せ

マタイによる福音書 第5章8節

1.信仰とは、心の清い人になろうと努力すること?

私のような汚れた不純な人間は神様を見ることなどできない。だから少しでも心の清い人になるために教会の礼拝に通い、聖書を読み、祈っている…。

2.「清い」とは

「清いもの」と「汚れたもの」とを区別することが、旧約聖書の重大な関心事の一つ。
それは神様のみ前に出るため。
日本でも、神事に携わる人は斎戒沐浴して身を清める。 水で洗うのは象徴的行為。心の中の汚れをおとさないで、ただ体の表面だけを洗い清めても意味はない(マタイ23章25、6節)。
神様のみ前に出ることのできる清さは、心の清さ。(詩編24編)

3.悔い改め

私たちは、自分がとても神様のみ前に出ることのできない、汚れた、罪深い者であることを覚えずにはおれない。それゆえに私たちは、神様を礼拝する最初に、罪を告白し、赦しと憐れみを求めなければならない、つまり悔い改めなければならない。

悔い改めの詩編の代表的なもの=詩編第51編
自分の罪、汚れに本当に気づき、おののく時に、私たちはこのように祈るしかない。身勝手と言われようが、虫が好いと言われようが、神様の憐れみにすがるしかない。それが悔い改め。その悔い改めによってこそ私たちは神様のみ前に出て、礼拝をすることができる。

4.主イエスの求める清さ

ルカによる福音書第18章9節以下(ファリサイ派の人と徴税人の祈り)。

義とされて家に帰った=「心の清い者」と認められたのは徴税人だった。
ファリサイ派の人が見つめているのは自分の姿。彼は目を天に向けてはいても、神ではなく自分自身を見、また隣にいる徴税人と自分を比較している。
徴税人は、ただひたすら神を見つめている。罪人である自分の姿を嘆き悲しみつつ、その自分からは目を離して、ただ神様の憐れみを求めている。そのことによって彼は、義とされ、心の清い者と認められた。
心の清い人とは、自分の姿から目を離し、神様を見つめ、神様の憐れみを求める人。 神様から目を離し、自分がどれだけ良い者であるか、人と比べてどうであるか、を見つめるようになる時、私たちの心は、誇り、高ぶり、プライド、嫉み、うらみ、卑屈な思いなどの汚れで満たされていく。

5.その人たちは神を見る

神をこそ見つめている人は、神を見ることができる。
自分の姿を鏡に写して、ここがまだ汚れている、あそこをもっと清くしなければ、と言っているのをやめて、神様をこそ見つめ、神様の憐れみを願い求めるところでこそ、あなたがたは神様を見ることができる、神様と出会うことができる。 何の汚れも罪もない、清い純粋な心になることによって神を見るのではない。むしろ罪や汚れの中にいる者が、その中から、神の憐れみと赦しをひたすら求めて祈る所で、神を見ることができる。
神の憐れみと赦しは主イエス・キリストによって、その十字架の死と復活によって与えられる。
自分の罪や汚れの中から、神の憐れみと赦しを祈り求めるとは、主イエス・キリストをこそ見つめ、よりすがっていくこと。主イエス・キリストの十字架の死と復活においてこそ、神はご自身を示して下さる。主イエス・キリストにおいてこそ、私たちの罪の赦しのために十字架かかって死んで下さった神を見ることができる。ただひたすら主イエス・キリストの十字架を見つめていく者こそが心の清い人。神はその人にご自身を示し、その恵みをはっきりと見せて下さる。

6.世の終わりに

この世を生きる私たちは、神を肉体の目で見ることはできない。私たちは、信仰の目によって神を見る。
しかしいつまでもそうなのではない。今は隠されている真理(神のご支配、キリストによる救い)が顕わになる時が来る。それはキリストの再臨による世の終わりの時。その時私たちははっきりと神を見ることができる。

コリントの信徒への手紙一第13章12節
「その人たちは神を見る」という幸いの約束は、世の終わりに成就完成する。
「今は一部しか知らない」、しかし「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(口語訳「わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」)。

7.良い循環

世の終わりに、私たちは神を、その恵みを、はっきりと、完全に知る者となる。 けれどもその前に、今既に、神は私たちのことを完全に知っておられる。神が私たちの全て(罪も汚れも)を完全に知っておられ、なお愛し、赦していて下さるから、私たちは自分の罪や汚れや弱さから目を離して、神を見つめていくことができる。神をまっすぐに見つめる清い心をもって生きることができる。自分自身を見つめるならば、私たちは決して清い者ではない。外面的にはともかく、心において清い者であることのできる人は一人もいない。しかしそのような私たちを、主イエスが、十字架の苦しみと死、そして復活の恵みによって招いて下さり、神様をまっすぐに見つめ「罪人の私を憐れんでください」と祈る清い心を造り出し、与えて下さる。
神様がこの主イエス・キリストの恵みによって招いていて下さるから、私たちは悔い改めることができる。
神様をまっすぐに見つめ、憐れみと赦しを祈り願うことができる。
そこで私たちは神を見る。私たちのために十字架の苦しみと死とを引き受けて下さった恵みの神を見る。主イエス・キリストによる神の招きによって、自分自身から目を離し、神の憐れみと赦しを求めていく者が、主イエス・キリストにおいて恵みの神を見る。そのことによってますます、神の招きを確信し、ますますまっすぐに神を見つめる者となっていく。そういう良い循環の中に身を置くことこそ、心の清い者の幸いである。

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