【2025年7月奨励】「立ち帰って落ち着いていれば救われる。静かにして信頼していることにこそあなたがたの力がある。」
旧約聖書 イザヤ書第30章15節
大国の狭間で
預言者イザヤ(イザヤ書1〜39章のいわゆる「第一イザヤ」)は、紀元前8世紀後半に、南王国ユダで活動した人です。「ウジヤ王の死んだ年」(6章1節)に彼は神の召しを受けて預言者となったと語られていますが、それは紀元前736年と言われています。イザヤはそれから約40年間預言者として活動しました。彼はもともと、ウジヤ王の下で宮廷の書記官のような働きをしていた人だったと思われます。つまりダビデ王朝の中枢にいて、国の政治に深く関わっていた人だったのです。イスラエル王国は既に北王国イスラエル(別名エフライム)と南王国ユダに分裂しており、ウジヤ王は南王国ユダの王です。その後を継いだのはヨタム、アハズ(7章1節)、ヒゼキヤ(36章1節)といった王たちです。主なる神の召しを受けて預言者となったイザヤは、もはや書記官つまり王の臣下としてではなく、主なる神の言葉をこれらの王たちに告げ知らせる者として、ユダ王国の歩みに関わったのです。
当時のユダ王国は、東にはシリア(「アラム」と呼ばれています)があり、さらにその東に強大なアッシリア帝国が興ってきており、南にはこれまた超大国であるエジプトがあるという、大国の狭間に置かれた弱小国でした。分裂した兄弟国である北王国イスラエルの方が国としての力はあり、南王国ユダはまさに吹けば飛ぶような存在だったのです。それゆえにユダ王国の歴代の王たちは、周囲の諸国とどう関係を結ぶかに心を砕き、それによって国の安全を、いや生き残りをはかろうとしていました。大国どうしの対立の大波を、周囲の国々との同盟関係によって乗り切ろうとしていたのです。それは私たちの国の置かれている状況と似ていると言えます。この国も、かつては米ソの東西冷戦の狭間で、今はアメリカとロシア、そして中国という三つの大国の間で、アメリカとの同盟関係を基軸にして国の安全を確保しようとしています。そのようなあり方においては、周囲の大国の状況によって振り回されることになります。かつて東側勢力に対する西側の防波堤としての存在(利用)価値があった時代には(「東西」はヨーロッパにおけることで、太平洋においては逆転していますが)、アメリカの軍事力の傘の下で経済的繁栄への道を歩むことができました。しかし本家のアメリカの力が弱まってくると、今度はいろいろな要求を突きつけられるようになり、それによって右往左往しているのが現在の状況でしょう。刻々と変化する国際政治の状況に今私たちも翻弄されています。それと同じことが、紀元前8世紀のユダ王国にも起っていたのです。
エジプトに頼るな
7月の聖句としたのは30章15節の言葉ですが、この30章から31章にかけてに語られているのは、紀元前8世紀の終わり頃、ヒゼキヤ王の時代のことです。北王国イスラエルは紀元前722年に既にアッシリアによって滅ぼされていました。アッシリアはユダ王国をも呑み込もうと狙っています。実際ヒゼキヤ王の時代の紀元前701年に、アッシリアの軍勢が攻めて来て、ユダの多くの町を占領し、エルサレムを包囲しました。この時は不思議な仕方で救われたのですが、ユダ王国はこのアッシリアの脅威と向き合わなければならなかったのです。その状況の中で、ユダ王国の指導者たちの中には、もう一つの大国であるエジプトに頼り、エジプトと同盟を結ぶことでアッシリアと対抗しようという動きが生まれました。30、31章は、そのことを厳しく批判している主のみ言葉です。30章1〜3節を読んでみます(聖書協会共同訳)。「かたくなな子らに災いあれー主の仰せ。彼らは謀(はかりごと)を巡らすが/それは私から出たものではない。同盟を結ぶが/私の霊によってではない。こうして彼らは罪に罪を重ねている。彼らはエジプトに下って行こうとし/私の指示を求めようとしない。彼らはファラオの庇護のもとに逃れ/エジプトの陰に身を寄せようとする。しかし、あなたがたにとってファラオの庇護は恥/エジプトの陰に身を寄せることは辱めとなる」。また31章1節にもこうあります。「災いあれ、助けを求めてエジプトに下り/馬を頼みとする者に。彼らは、戦車の数が多く/騎兵が強力であることに頼り/イスラエルの聖なる方に目を向けず/主を求めようともしない」。主なる神のみ心を求め、主に依り頼むのでなく、エジプトの強大な軍事力に頼り、同盟を結ぶことによって国の安全を守ろうという人間の謀(はかりごと)によって歩もうとする民を、主なる神が厳しく責めておられるのです。イザヤはそういうみ言葉を主から受け、それを語ったのです。
落ち着いて、静かにしていることによってこそ救われる
そういう文脈の中に30章15節以下もあります。16節に「馬に乗って逃げよう」「速い馬に乗ろう」と言っている人々のことが語られていますが、それは先ほどの31章1節の「馬を頼みとする者」のことで、エジプトとの同盟によって国の安全を守ろうとしている人々のことを指しています。また17節に「一人の威嚇によって千人が逃げ/五人の威嚇によってあなたがたは逃げる」とあるのは、やはり31章1節の「戦車の数が多く/騎兵が強力であることに頼り」と繋がります。エジプトの強力な軍事力に頼ろうとしている人々に対して主なる神は、そんなものはあなたがたの本当の助けにはならない、と宣言しておられるのです。エジプトに頼ってはならないとしたら、どうすればよいのか。それを語っているのが、7月の聖句とした15節です。「立ち帰って落ち着いていれば救われる。静かにして信頼していることにこそあなたがたの力がある」。強い国と同盟を結ぶことによって安全を確保しようという人間の謀(はかりごと)を巡らして右往左往するのではなくて、「落ち着いて、静かにしている」ことこそが本当の力となり、あなたがたを救うのだ、という主なる神の言葉をイザヤは告げたのです。
シリア・エフライム戦争においても
このことは、イザヤに示された主なる神の言葉が一貫して語っていることです。その活動の初期、アハズ王の時代にも同じことが語られました。それは第7章です。7章1節に「ウジヤの子ヨタムの子アハズがユダの王であった時代に、アラムの王レツィンと、イスラエルの王であるレマルヤの子ペカが、エルサレムを攻めるために上って来たが」とあります。これは「シリア・エフライム戦争」と呼ばれる紀元前732年の出来事です。当時アッシリアが本格的にパレスチナに攻めて来ようとしていました。それに対抗するためにシリア(アラム)と北王国イスラエル(エフライム)が同盟を結び、南王国ユダもその「反アッシリア同盟」に加わるように圧力をかけるために、エルサレムに攻めて来たのです。つまりユダ王国は、シリア、北王国イスラエルと同盟を結ぶことによってアッシリアに敵対する立場を鮮明にするか否かという決断を迫られたのです。7章2節には「アラムがエフライムと同盟したという知らせがダビデの家に伝えられると、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」とあります。シリアと北王国の同盟の知らせに、アハズ王を始めとしてユダの人々は恐れて動揺したのです。その時主なる神がイザヤを王のもとに遣わして、み言葉を語るように命じました。それが7章4節です。「彼に言いなさい。気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない」。それに続いて主がお示しになったのは、シリアと北王国イスラエルのこの同盟(企み)は決して実現しない、ということです。だから、恐れず、あわてず、静かにしていなさい、と主はイザヤを通して告げたのです。しかし結局この時アハズ王は、シリアとイスラエルの同盟に対抗するためにアッシリアに貢物を送り、助けを求めました。つまりアハズ王は、「静かにしている」ことができず、「敵の敵に頼る」という策略に走ったのです。そのことは列王記下の16章に語られています。その結果アッシリアによってシリア(アラム)は滅ぼされ、10年後には北王国イスラエルも滅ぼされました。シリアとイスラエルの同盟軍の攻撃から国を守る、という点では、アッシリアに接近するというアハズ王の政策はひとまず成功したと言えるかもしれません。しかしそれによって得られた平和はほんのひと時のものでした。シリアもイスラエルもアッシリアの支配下に落ちたことによって、ユダ王国はいよいよアッシリアの脅威とダイレクトに向き合わなければならなくなったのです。
主なる神にこそ信頼し、依り頼め
強大な国によって脅かされている中で、国の存続、安全を守るために、「敵の敵は味方」という図式にもとづいて周囲の国々と同盟関係を結ぶ、という人間の策略に走ろうとする指導者たちに対して、預言者イザヤは、「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない」「立ち帰って落ち着いていれば救われる。静かにして信頼していることにこそあなたがたの力がある」という主の言葉を一貫して告げました。「落ち着いて、静かにしている」ことを求めたのです。それは、何もせずにただ成り行きに任せなさい、ということではありません。あるいは、他国と同盟関係を結ぶことによって国の安全を守ろうとする政策は間違っている、と言っているのでもありません。イザヤは、王の書記官として、つまり政治家として語っているのではなくて、主なる神のみ言葉を告げる預言者として語っているのです。イザヤが語っているのは政策の提言ではなくて、主なる神の民としての信仰のあり方、その信仰に基づく生き方です。その中心は、人間ではなく主なる神にこそ信頼し、依り頼め、ということです。「立ち帰って落ち着いていれば救われる」というのは、主なる神に立ち帰り、主にこそ依り頼め、そこにこそ主による救いが与えられる、ということです。「落ち着いている」とは、「平静な心を保つ」ということではなくて、「主を信じ、主に信頼する」ことなのです。その信仰、信頼によってこそ「落ち着いている」ことができるのです。「静かにして信頼していることにこそあなたがたの力がある」も、主なる神に信頼していることによってこそ力強く歩むことができる、ということです。「静かにしている」というのは、ただ何もせずに成り行きに任せることではなくて、主なる神に信頼して、自分があれこれと策を巡らして動き回るのでなく、主のみ業を信じて待つことなのです。
力の大きさでは人を救い出せない
大国の脅威が現実に目の前にある中で、「静かにして信頼している」ことは簡単ではありません。政治においては、情勢を分析して、それに応じて知恵を働かせて適切な対処をすることが必要です。いろいろな国と同盟を結んで敵対する勢力と対抗する、ということも、国の外交政策としては必要なことがあるでしょう。ですからこのイザヤの預言をそのまま現在のこの国にあてはめて、アメリカとの同盟は破棄すべきだ、と結論づけるのは乱暴です。しかし私たちは、主なる神がこの世界を造り、私たちに命を与え、この世界と私たちの人生を導いておられることを知らされ、信じています。その信仰に生きる私たちが根本的にわきまえていなければならないことがあります。詩編第33編16〜21節にそれが語られています。
「王は軍勢の大きさによって救われるのではない。勇者は力の大きさによって助け出されるのではない。馬は勝利に頼みとはならない。力の大きさでは人を救い出せない。見よ、主の目は主を畏れる人に/主の慈しみを待ち望む人に向けられる。彼らの魂を死から助け出し/飢饉のとき、彼らを生き長らえさせるために。私たちの魂は主を待つ。この方こそ我らの助け、我らの盾。主によって私たちの心は喜ぶ。まことに、私たちは聖なる御名を頼みとする」(聖書協会共同訳)。
「力の大きさでは人を救い出せない」、それは正確に言えば、「人間の力の大きさでは人を救い出せない」ということです。このことを私たちは肝に銘じておかなければなりません。人間の力の大きさで救いを実現しようとするところに、戦いが起こり、それが悲惨な出来事を引き起こし、なおかつそれを止めることができない、という事態が起こるのです。私たちを本当に救うことができるのは、人間の力ではなくて、主なる神の力です。そして主なる神の力は、人間の力や策略に頼ることをやめて、主を畏れ、主の慈しみを待ち望むところに、つまり主なる神に信頼し、主のみ業を信じて待つところにこそ発揮されるのです。「立ち帰って落ち着いていれば救われる。静かにして信頼していることにこそあなたがたの力がある。」というみ言葉はそのことを語っているのです。
主イエス・キリストによる救いの下でこそ
しかし私たちは、主に立ち帰って落ち着いていることが果してできるでしょうか。静かにして信頼していることができるでしょうか。私たち自身の中には、そういう落ち着きや信頼の心はありません。落ち着いて静かにしていようと努力してそれができるわけでもありません。しかし私たちは、私たちの主であるイエス・キリストが、神の独り子であられるのに人となり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことを知らされています。そして父なる神が主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さったことによって、私たちにも、復活と永遠の命を約束して下さったことをも知らされています。主イエス・キリストによって実現しているこの救いのみ業と、そこに示されている神の私たちへの愛に触れる時にこそ私たちは、自分の力や策略に頼ることをやめて、主のみ業を信じて待つことができるのです。「立ち帰って落ち着いていれば救われる。静かにして信頼していることにこそあなたがたの力がある」というみ言葉は、主イエス・キリストによる救いの下で生きることによってこそ私たちの現実となるのです。