夕礼拝

サウロと教会

「サウロと教会」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第52章7-10節
・ 新約聖書:使徒言行録 第9章19b-31節
・ 讃美歌:204、411

 前回、夕礼拝で共に使徒言行録をお読みしたのは三週間前になります。その時は、サウロという人が、ダマスコという町にキリスト教会を迫害しようと向かっている道中、主イエスご自身と出会い、語りかけられ、回心して洗礼を受ける、ということが語られていました。   

 本日の聖書箇所は、サウロが洗礼を受けた後の、第一歩目の歩みが記されています。洗礼を受けて、サウロはまず何をしたのでしょうか。19節に、「サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で『この人こそ神の子である』と、イエスのことを宣べ伝えた」と書かれています。   
 サウロが主イエスと出会い、罪の赦しの洗礼を受けた後、すぐにしたことは、その主イエスの名を伝えることでした。  

「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。   
彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え   
救いを告げ あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる。」  
 本日お読みしたイザヤ書では、神の良い知らせを伝える者、恵みを携えて、人々に神の平和と救いを告げに行く者の足は、いかに美しいことか、と語られています。  

 サウロは後にパウロと呼ばれて、まさにその足で当時の地の果てまで、主イエスの救いの知らせを伝えに行きました。キリストの伝道者となった彼の足は、良い知らせを伝えるために山々を行き巡り、世界中を駆け巡る、美しい足です。  

 しかし、初めにサウロがダマスコへやって来た時は、9:1に書かれていたように、「主の弟子たち」つまり、イエス・キリストを信じる者たちを、「脅迫し、殺そうと意気込んで」やって来たのでした。彼の足は殺人者の足でした。自分の正しさを信じ、そのためには人を迫害し、傷つけ、死に追いやってもかまわない。そのようにサウロの心を、怒りや、暴力が支配し、サウロには死の臭いが立ち込めていました。  

 このサウロが、まったく180度変わってしまいました。ナザレのイエスがキリストであると信じる者を殺しに来たのに、今や「このイエスこそ、神の子である」と、宣べ伝えているのです。主イエスとの出会いは、人をまったく新しく造り替えます。罪と死に支配されていた者が、主イエスに支配される者となります。自分の思想や、プライドを守るために人を傷つけようとしていた者が、自分の命を危険にさらすことになっても、主イエスの恵みを伝え、人を生かそうとする者になります。  

 サウロは、すぐにあちこちの会堂で、自分がキリスト者を捕まえに行こうとしていたところで、主イエスのことを宣べ伝え始めました。   
 これを聞いた人々はみな、非常に驚いて、「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか」と言いました。「非常に驚く」は、気を失うほど驚く、正気を無くす、という意味の単語です。元々サウロの仲間だったユダヤ人たちにとっては、サウロの変貌ぶりは、天地がひっくり返るほどの驚きだったのです。どうしてしまったんだ、お前はキリスト者を牢屋に入れて殺すためにやってきたのに、どうして自分がキリスト者になっているんだ。そう言って、詰め寄られたり、なじられたりしたかも知れません。   
 しかし、22節には、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた、と語られています。   
 元々自分が、主イエスがメシアであるとは信じていなかったのです。相手は、かつての自分と同じ立場の、旧約聖書の律法を重んじ、聖書に書かれているメシアを待ち望んでいる人たちです。イエスという人物への疑問も、憎しみも、反感も、一番よくわかっているサウロです。   
 だからこそサウロは、自分の頑なな心を打ち倒し、そして新しい者として起き上がらせて下さったこの人こそ、イエスという方こそ、本当に聖書の約束を実現するために来られたメシアなのだと、力を籠め、熱を入れて、語っていったのです。      

 しかしこのことで、今度はサウロが、かつての仲間のユダヤ人たちから命を狙われることになりました。そこで、彼の弟子たちが夜の間にサウロを町から脱出させなければなりませんでした。キリストの迫害者が、キリストのために迫害される者となったのです。これがサウロの洗礼後の歩みです。  

 洗礼を受けたら、みなこのように変わるのでしょうか。そうです。みな、新しく変わります。しかしそれは、自分で心機一転、新しい生き方を始めることではありません。主イエスに生かされる者としての、新しい生き方が始まるのです。人生の主人が変わります。人生の目的が変わります。人生の希望が変わります。主イエス・キリストという方に結ばれて、この方においてのみ、命も、目的も、価値も、希望も、見出す者になるのです。      

 ところが、すぐには、自分がそのような者になったという実感が湧かないかも知れませんし、信仰生活を長く送っていても、その恵みに生きているということが、つい日常生活に埋没して、薄れてしまうことがあるかも知れません。   
 しかし、わたしたちがもし、生きる上で試練に遭ったり、厳しい判断を迫られたり、現実において絶望的に思える状況に陥った時にこそ、この主イエスが、わたしの苦しみをすべてご存知であり、罪にも、死にさえも勝利された方であるということ、この方がわたしと共にいて下さる、ということを知っているなら、決して失望することはありません。主イエスによって、この世では得られない、本当の、唯一の、慰めと希望があるからです。  

 洗礼を受け、主イエスに結ばれ、主イエスのものとされる、ということは、山々を巡り歩いて告げ知らせたくなるような、告げ知らせずにはいられなくなるような、そのような恵みと喜びを、わたしたちが自分のものとして持っている、ということです。ですから、わたしたちもサウロのように、人々に恵みを告げ知らせることへと押し出されて行くのです。    

 また、サウロの回心の時、主イエスは同時にダマスコにいたアナニアという弟子に語りかけ、サウロについてこう言われました。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」。   
 サウロを、主イエスご自身が選び、救いにあずからせ、主イエスの名を伝える者として用いると決めておられたのです。サウロが主イエスの名を告げるのは、主イエスご自身の選びと、ご意志によることです。  
 またわたしたちも同じように、主イエスご自身に選ばれて、召し集められて、ここで礼拝しているのであり、わたしの名を伝えなさいと、務めを与えられているのです。この、神が望んで下さっている、恵みを告げる務めが、わたしの中の、恵みを伝えずにはいられない喜びと一致しているなら、喜んでその務めを果たしていけるなら、それはとても活き活きした伝道の働きとなるでしょう。         

 さて、ここまで、サウロが回心し、洗礼を受けた後の出来事が語られていましたが、このサウロの歩みと共に注目すべきことがあります。それは、教会のことです。      

 一人の人が、主イエスと出会い、信仰を与えられる、ということは、同時に、教会の一員になる、ということです。間違ってはいけないのは、救われるために、教会の一員になるのではありません。それでは、教会に加わることが、救いのための条件になってしまいます。   
 救いは、神の恵みによって一方的に与えられます。わたしたちは、与えられた救いを信じて、洗礼を受け、教会の群れに加わるのです。   
 洗礼は、主イエス・キリストと結ばれるということです。聖霊なる神のお働きによって、その者は主イエスの十字架の死にあずかって、罪は死に、また主イエスの復活の命にあずかって、新しい命に生きる者とされます。主イエスの体に結ばれ、主の体の一部になるのです。   
 そして、主イエスに結ばれたすべての者が、そのようにして、同じ一つの霊によって、主イエスの一つの体に属しており、互いにも結び合わされているのです。   
 その、主イエスを頭とする一つの体が、教会です。   
 目に見える建物の教会は、世界中に何か所もありますが、それは同時にこの見えない主イエスの体なる教会であり、時間も場所も越えて一つです。主イエスを信じる者は、皆この体の一部なのです。  

 ですから、キリストを一人で信じ、一人で信仰を告白し、一人で信仰生活を送っていく、ということはあり得ません。   
 主イエスを信じる者は、主イエスの一つの体に繋がれ、またその時代、その場所に与えられた見える教会に具体的に加えられます。そして、主イエスを信じる者の群れの中で、共に御言葉を聞き、共に祈り、恵みを分かち合いつつ、福音を地の果てまで伝えなさいという主のご命令に、一つになって従っていくのです。みな同じお一人の主イエスの救いにあずかり、このお一人の方に従っているからです。  

 サウロはダマスコを脱出したのち、エルサレムへ向かい、使徒たちの仲間に、教会に加わろうとしました。サウロも、信仰が自分だけのものではないこと、同じ主イエスを信じる者たちと、同じ主の体の一部として、エルサレムの弟子たちと共に歩むべきことを思っていたのでしょう。しかし、彼が教会を迫害していたことは知れ渡っていたので、皆、彼がキリスト者になったことを信じないで、恐れました。  

 サウロはきっと何度も教会を尋ね、主イエスを信じたことを分かってもらおうと試みたでしょう。でも拒否されてしまいました。とてもいたたまれない様子が伝わってきます。   
 サウロ自身も、自分が受け入れられるのは困難なことであると分かっていたでしょう。7章に書かれていたように、教会のメンバーのステファノが石打ちにされた時も、サウロは石を投げる人たちの上着を預かり、その殺害に賛成していました。教会のサウロに対する警戒はもっともなことです。サウロはキリスト者のふりをしたスパイかも知れません。急に態度が変わっても、それは却って怪しいばかりで、とても仲間だとは思えなかったのです。  

 しかしここで、サウロと使徒たちの間に立つ者が現れます。バルナバです。この人は、4:36に一度登場しています。そこには、信じた人々の群れが、自分の持ち物を共有していく中で、このバルナバ‐「慰めの子」という名の人が、持っていた畑を売って、教会に献げた、ということが記されていました。信仰深く、またその信仰の態度が、生活や行動に良く表れている、皆から信頼されていた人物でした。  
 主イエスは、このバルナバというキリスト者を通して、サウロと使徒たちが和解できるように、働きかけられました。神は、このように、主イエスに従う者たちを、必要なところへ遣わし、その者たちを用いて、ご自身のみ業を行われるのです。  

 バルナバが、サウロを使徒たちのところへ案内してくれて、サウロが旅の途中で主と出会ったこと、主が彼に語りかけられたこと、そしてダマスコで主の名によって大胆に宣教したことを説明してくれました。  
 使徒たちは、主に忠実な弟子であるバルナバの話を聞いて、サウロが本当に、自分たちが従っている、十字架の後、復活されて、天に昇られた、その主イエスご自身に出会い、救われた者であることを受け入れました。同じ主イエスに救われ、結ばれた者として、教会の交わりの中に、サウロを迎え入れたのです。   

 本来であればサウロは、殉教した仲間のステファノの敵(かたき)です。憎しみや怒りがこみ上げ、また自分たちも攻撃されるのではないかと、疑って当然です。ステファノが殺されて、教会の兄弟姉妹たちは、どれほど悲しく、悔しく、辛い思いをしたでしょうか。   
 しかし使徒たちは、バルナバの執り成しによって、サウロの過去の所業や、罪を咎めるのではなく、自分たちの思いや感情に支配されるのではなく、サウロに働かれた主イエスを見つめました。主イエスが、サウロの罪をお赦しになりました。罪を裁いたり、赦したりするのは使徒たちではありません。そして、その行き場のない思いさえも、すべて主イエスに委ねたのです。使徒たちは、主イエスによって赦され、悔い改めたサウロを、受け入れたのです。      

 教会とは、このようなところです。人間の繋がりや、互いの寛容さや、親しみによって受け入れ合い、集まっているのではありません。世間では相容れない者も、違いがある者も、ただ主に救われた者として互いにそこにおり、ただ主に赦された者として、共に主の御前に立っているのです。      

 そうしてサウロはエルサレムの教会に受け入れられ、使徒たちと共に、エルサレムを自由に行き来して、主の名によって恐れずに教えるようになった、とあります。またギリシャ語を話すユダヤ人と語り、議論もし、再びこのエルサレムの地でも、サウロは命を狙われることになりました。そこで、兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、タルソスへ出発させた、とあります。これはエルサレムからとても離れたところです。      

 ここでサウロの物語はいったん中断します。この後、サウロはまた11章で、この仲介してくれたバルナバが、彼をタルソスで見つけ出し、共に教会で多くの人を教えた、という風に、再び登場することになります。     

 そして9:31には、これまでの区切りで一旦まとめて報告をする言葉が書かれています。「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」  

 これは、お騒がせのサウロが、エルサレムを出てタルソスへ行き、暗殺計画などの物騒なことが一旦おさまったので、教会が平和になった、という意味ではありません。   
 この回心した、かつて敵だったサウロを受け入れ、共に歩んだ教会において、このような平和があったのだと言っているのです。敵であった一人の回心者を受け入れることと、全地方の教会が平和を保つことは、根本的に同じことです。   
 それは、主イエスのご支配における一致と平和です。人同士の感情や思いを乗り越え、神のみを畏れ、主イエスに救われたということにおいてのみ、一致する平和です。      

 ユダヤ、ガリラヤ、サマリアは、それぞれ地域的には仲違いし、憎み合っている土地柄でした。しかし、主イエスが救い主である、という良い知らせは、エルサレムの教会から始まって、人の思いや土地や民族の違いを超えて、ユダヤに、ガリラヤに、サマリアに広がっていきました。   
 しかもそのきっかけは、ステファノが殺害され、エルサレムで教会への迫害が起こったことが発端でした。散らされていった者たちが福音を語り、それぞれの地で、信じる者が起こされ、同じキリストを信じる者の群れである教会が誕生していきました。これら各地の教会は、主に在って一つとなり、平和の中に保たれていたのです。   
 ダマスコで信仰を得て、伝道をしたサウロがエルサレム教会に加わったことも、ダマスコの教会が、この同じ一つの教会であることが確かにされることであったでしょう。   
 そしてそれは、今のわたしたちの横浜指路教会も、同じです。お一人の主イエスの体に結ばれており、この一番最初の教会から今日までの、すべての主イエスを信じ告白する者たちと、一つであるということなのです。      

 お一人の主イエスが支配され、ただ神のみを畏れるということにおいて、教会は一つの体として基礎が固められ、建て上げられていきます。      

 また、教会は聖霊の慰めを受け、とあります。聖霊によって、主イエスを信じる信仰が与えられ、主イエスに結び合わされ、父なる神との和解を得させられるからです。神の交わりの中に入れられること。そして、兄弟姉妹との交わりがあること。それこそ聖霊の慰めです。      

 こうして、教会は平和を保ち、一つのキリストの体として建て上げられ、世にあっても、ますます固く立ちます。そして、主のご命令に従って、救い主の名を喜んで告げ知らせ、ますます発展し、信じる者を増し加えていったのです。   
 教会はこのように、主イエス・キリストの主権のもとで、一致して歩み、神の御業に仕え、教会に多くの者を招いていくのです。         

 本日は、聖餐の恵みにあずかります。主イエスが、一つのパンを裂き、これはわたしの体である、と言って、弟子たちに分け与えて下さいました。わたしたちは、同じ一つのパンと杯にあずかります。それは、救われた者は皆、お一人の主イエスの十字架で裂かれた体と血によって、罪を赦され、新しい命を与えられ、養われているということです。   
 そのようにして、わたしたちは主イエスの体と血にあずかって、主イエスとの交わりに生かされています。また共にこの聖餐にあずかる兄弟姉妹とも、同じ恵みに与り、同じ主によって生かされており、共に同じ一つの交わりの中にいることを覚える時でもあります。   

 この交わりに、すべての者が招かれています。どうぞ一人でも多くの方が、主の恵みを信じ、洗礼を受け、主の体に一つとされて、この聖餐の恵みに共にあずかることができますように。また恵みを受けている者は、共に主の体の一部として、主のために働き、巡り歩いて、この恵みを世の人々に告げ知らせに参りましょう。

関連記事

TOP