主日礼拝

救い主を待ち望む

「救い主を待ち望む」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第98編1-9節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第3章17-21節
・ 讃美歌:237、239、509

アドベント=到来  
 アドベント、待降節の第三週、後半に入りました。クリスマスに向けて、あと二週間、しっかりと備えていきたいと思います。先週の説教においても申しましたように、アドベントとは、「到来」という意味です。主イエス・キリストの到来を覚え、それに備える時がこのアドベントです。主イエス・キリストが、ベツレヘムの馬小屋で、つまり貧しさと弱さの中でお生まれになった、そのクリスマスの出来事は、神の独り子であり私たちの救い主であられる方が、私たちと同じ人間となってこの世に来て下さった、到来して下さったという神の恵みの出来事でした。そのことを喜び祝う時がクリスマスです。私たちは、主イエスの到来を喜び感謝するクリスマスに備える時としてこのアドベントを過ごしているのです。

第二の到来を覚える  
 クリスマスの出来事における主イエスの到来は、第一の到来です。アドベントに私たちが覚えるべき主イエスの到来は、およそ二千年前のこの第一の到来だけではありません。クリスマスにこの世にお生まれになった主イエスは、三十数年と言われる地上のご生涯において、神の国、つまり神の恵みのご支配の福音を宣べ伝え、苦しみ悲しみの中にある人々に寄り添って歩み、そして私たち全ての者の罪を背負って十字架につけられて殺されました。しかし父なる神は主イエスを三日目に復活させて下さいました。復活によって主イエスは、永遠の命を生きる新しい体を与えられたのです。そして天に昇り、今は父なる神の右に座しておられます。この、今も生きて天におられる主イエスが、いつかもう一度この世に、私たちのところに来て下さると約束して下さったのです。それをキリストの再臨と言います。もう一度来られるキリストによって、全ての者の審き、いわゆる最後の審判が行われ、それによって今のこの世界は終わり、神の国つまり神のご支配が確立し、私たちの救いが完成する、と聖書は語っています。二千年前のクリスマスの出来事において救い主としてこの世に来られた主イエスが、将来もう一度この世に来て下さり、私たちの救いを完成して下さるのです。教会は、キリスト信者は、このキリストの第二の到来を信じて待ち望んでいます。使徒信条に「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」とあり、日本基督教団信仰告白に「主の再び来りたまふを待ち望む」とあることはその信仰を言い表しています。アドベントは、この主イエス・キリストの第二の到来を覚え、待ち望む信仰を養う時でもあります。第一の到来を祝うクリスマスに備えることを通して、第二の到来への備えをもしていくのです。本日は、この主イエスの第二の到来を語っている箇所を読み、味わうことによって、アドベントを歩む信仰を養われていきたいと思います。

私たちの本国は天にある  
 その箇所として選びましたのが、フィリピの信徒への手紙第3章17節以下です。その20節にこのように語られています。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」。復活して天に昇り、今は天におられる主イエス・キリストが、そこから救い主としてもう一度来られるのを私たちは待っている、とパウロは語っています。キリストの再臨、第二の到来を待ち望む信仰がここに語られているのです。しかしお気づきのようにこの箇所は、キリストが天からもう一度来られることだけを語っているのではありません。前半に、「わたしたちの本国は天にあります」と語られています。「本国」という言葉は以前は「国籍」と訳されていました。それは私たちが本来所属している所、という意味です。私たちは本来天に所属している者であり、天に国籍がある。しかし今私たちが生きているのは天ではなくてこの地上です。つまり私たちは国籍がある天ではなくて、そこから離れたこの地上を生きている、言わば外国を旅行しているようなものだ、ということです。私たちは、天という国籍の記されたパスポートを持って、地上という外国を旅しているのです。その「私たち」とは、キリストを信じる信仰者たち、クリスチャンたちのことです。キリストを信じて洗礼を受け、教会に連なる者となった信仰者は、天に国籍を持つ者、天を本国とする者となったのです。何故なら、洗礼によって私たちは、主イエス・キリストと結び合わされたからです。洗礼を受けることによって私たちはキリストを頭とする、キリストの体である教会の一部とされました。そのキリストは、神の独り子であられ、元々天におられましたが、人間となってこの世を歩んで下さり、十字架の死を経て復活し、天に昇り、今は父なる神の右に座しておられます。天におられるこのキリストと洗礼によって結び合わされたことによって、地上を生きている私たちが天に国籍を持つ者とされたのです。ですからキリストを信じて洗礼を受けるというのは、この世に属する者、この世の国籍を持っていた生まれつきの私たちが、キリストと結ばれることによって、この世から天へと国籍が変わるということです。この地上が故郷であり、本国であると思って生きていた私たちが、信仰者となることによって、自分の国籍が移された天、真実の故郷を目指して、この世を旅人として生きる者となるのです。信仰者となることは、この世において旅人となることです。「信仰の父」と呼ばれる、イスラエルの民の最初の先祖であるアブラハムが、主なる神の語りかけを受けて、故郷を離れて、神の示す地へと旅立ったことから彼の信仰の歩みが始まりました。そのことが象徴的に示しているように、信仰者となるとは、旅人として生き始めることなのです。「わたしたちの本国は天にあります」という言葉はそういうことを意味しているのです。  
 その天から、キリストがもう一度来られることを私たちは待ち望んでいるのだ、とこの20節は語っています。キリストがもう一度来られる時、私たちは、本国である、真実の故郷である天に迎えられるのです。地上を歩んでいる限り信仰者は、旅人として、寄留者として、つまり余所者として、ホームではなくてアウェーの状態で生きています。しかしキリストがもう一度来られることによって、神の国、神の恵みのご支配が完成し、私たちの救いが完成します。それによって今のこの世が終わり、私たちの旅人としての歩みが終わり、アウェーの状態が終わるのです。それゆえに私たちは、キリストがもう一度来られることを待ち望むのです。

復活と永遠の命  
 キリストがもう一度来られることによって、私たちの旅人としての歩みは終わり、国籍のある天に迎えられます。それは、地上から天へと場所が移される、ということではありません。キリストがもう一度来られる時に起ることが21節に語られています。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」。キリストの再臨において私たちは、場所を移されるのではなくて、変えられるのです。地上を生きている私たちは、卑しい体、まことに弱く、はかなく、次第に衰え、ついには死んで土に帰る体を生きています。しかしキリストの再臨によって救いが完成する時には、私たちのこの体が、キリスト御自身の栄光ある体と同じ形に変えられるのです。つまりキリストが復活して永遠の命を生きておられる、その栄光ある体が私たちにも与えられ、私たちも死者の中から復活して、もはや死ぬことのない永遠の命を主イエス・キリストと共に生きる者とされるのです。旅人としての歩みが終わって本国である天に迎えられるというのは、主イエスの復活と永遠の命にあずかって私たちも復活し、永遠の命を生きる者とされるということです。主イエスの第二の到来、再臨によってこのような救いの完成が与えられることが約束されています。キリストを信じる信仰者は、この約束を信じ、主イエスの到来を待ち望みつつ、この世においては旅人として、寄留者として生きていくのです。アドベントに私たちは、主イエスの第一の到来であるクリスマスの出来事を覚えるだけでなく、この第二の到来を待ち望む信仰を養われていきたいのです。

どのような生き方をするか  
 しかし、主イエスの第二の到来を待ち望む信仰を養われていくためには、ある戦いが必要です。本日の箇所において、パウロは、信仰者の生き方を巡ってのある戦いの中にいるのです。最初の17節に「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」と語られています。パウロはフィリピの教会の人々に、わたしに倣う者となりなさい、わたしたちを模範として歩みなさい、と言っているのです。つまり私たちと同じ生き方をしなさい、ということです。彼がそのように言うのは、それとは違う生き方をしている人々がいるからです。そのことが18節に語られています。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」。キリストの十字架に敵対して歩んでいる者たちがいる、キリストが十字架にかかって死んで下さったことによって与えて下さった救いを無にしてしまうような生き方をしている者たちがいる、フィリピの教会の人々の中にもそういう人々が現れており、またその影響を受けてしまっている人たちがいる、そのことをパウロは心から心配し、そのような間違った生き方と戦い、フィリピの人々がそういう生き方に陥らないようにと涙ながらに訴えているのです。19節には、その人々のことが「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」と語られています。そしてそれを受けて20節の「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」と語られているのです。つまり、私たちは、キリストの十字架に敵対して歩んでいる人々とは違って、キリストの再臨によって本国である天に迎えられ、復活と永遠の命を与えられる救いの完成を待ち望みつつ生きている、両者の間には全く違う生き方が生じているのだ、ということをパウロは見つめているのです。そして、あなたがたも、キリストの再臨を信じて待ち望んでいる私たちの生き方に倣う者となりなさい、と教えているのです。

キリストの十字架に敵対する者  
 キリストの十字架に敵対して歩んでいる者たちはどのような生き方をしていたのでしょうか。彼らは「腹を神としている」とあります。腹というのは、自分の思い、欲望のことです。それを神としているとは、自分の欲望を満たすことを何よりも大事にし、求めている、ということでしょう。その欲望とは、この世における豊かさや快楽を求める欲望です。所有欲、金銭欲、権力欲、名誉欲といった様々な欲望が神となっている、「この世のことしか考えていません」というのは一つにはそういうことです。この世の生活における欲望を満たすことしか考えていないのです。また「恥ずべきものを誇りとし」ているともあります。所有欲、金銭欲、権力欲、名誉欲などに捕えられている生き方は決して人々に尊敬されるものではありません。むしろ恥ずかしいことなのです。ところがその恥ずかしいことを臆面もなく誇っているのです。そのような生き方が見つめられているわけですが、問題は、これが信仰と関係のない世間の話ではなくて、キリストを信じているはずの信仰者の中に起っているということです。「キリストの十字架に敵対して歩んでいる」という言い方がそれを表しています。キリストの十字架による救いを信じて教会に加えられたはずの者が、自分の腹を神とし、欲望に捕えられて生きているのです。それは、キリストが十字架にかかって死んで下さったことによって赦して下さったその罪の中に平気な顔をして留まっているということであり、キリストの十字架に敵対して歩んでいることなのです。

体における救い  
 このようなことが起っているのは、彼らが、キリストによる救いを、霊的なこととしてのみ捉えており、肉体、体における救いに目を向けていないからです。霊的というのは、今の私たちの言葉で言えば、心とか魂の事柄ということです。キリストによる救いは確かに私たちの心、魂に安らぎや平安を与えるものです。しかしその救いは心や魂のみに関わることではありません。キリストによる救いは私たちの体、その体をもって生きる日々の具体的な生活、そこにおける具体的な人との関わり、それらのこと全てに及ぶのです。ところがその救いを、霊的なこと、心や魂に与えられる平安や慰めとしてのみ捉えてしまうと、それが体にまでは、日々の具体的な生活や人との関わりにまでは及ばなくなります。そこにおいては、信仰が具体的な生活と関わりを持たなくなり、その結果、信仰者となる前と同じ生き方が残り続けるのです。いやむしろ、罪の赦しによって心が軽くなり、いわゆる良心の呵責から解放された分だけ、体においては、生活においては、安心して罪を犯し続けることができるようになったりもするのです。パウロが深い憂いをもって見つめていたのは、そのような霊のみにおける信仰、体をもって生きる日々の生活が少しも変えられていかない、罪に捕えられたままの生き方を温存してしまうような信仰です。それはキリストの十字架の死による罪の赦しに敵対して歩むことだ、とパウロは言っているのです。

キリストによる救いは肉体における救い  
< 霊におけるのみで肉体をもって生きる生活にまで及ばない信仰が、キリストの十字架に敵対する歩みをもたらしているというのはこういうことでもあります。キリストの十字架は、キリストがその肉体を十字架に釘づけられて殺されたということです。その前提となっているのは、キリストが肉体を持つ人間となって下さったということです。神の独り子であるキリストは、第一の到来、クリスマスにおいて、私たちと同じ肉体を持つ人間としてこの世に来て下さったのです。それは、神が、肉体をもって生きている私たちの日々の生活の全体に及ぶ救いを与えて下さるためでした。そして主イエスはその肉体をもって、貧しさや病や罪の苦しみ悲しみの中にある人々と共に歩み、私たちの罪を全てその肉体に背負って十字架にかかって死んで下さったのです。十字架の死による救いはこのようにして、私たちの肉体をもって生きる生活全体に及んでいるのです。その救いを心や魂においてしか受け止めようとせず、肉体における生活にそれが及ばないとしたら、それはキリストが肉体において十字架の苦しみと死を引き受けて成し遂げて下さった救いに敵対することになるのです。そしてキリストによる救いは、十字架の死による罪の赦しに留まるものではありません。キリストは肉体をもって復活し、その復活の体において天に昇り、今は父なる神の右に座しておられます。そして、いつか将来、その復活の体においてもう一度来られるのです。キリストの第二の到来も、第一の到来と同じく体をもっての到来です。そしてその時、私たちの卑しい体が、キリストの栄光の体と同じ形に変えられるのです。つまり私たちのこの肉体、体が、主イエスの復活と永遠の命にあずかって新しくされ、私たちも、永遠の命をキリストと共に生きる新しい体を与えられるのです。それが私たちの救いの完成です。私たちは魂においてのみでなく体においても、この救いの完成にあずかるのです。主イエス・キリストによる救いとは、神の子キリストが肉体をもってこの世に来て下さり、肉体をもって十字架の死を遂げて下さり、そして肉体をもって復活して下さり、永遠の命を生きる者となられたことによって与えられた救いです。私たちは、キリストのこの救いに、心や魂においてのみでなくこの体をもってあずかり、キリストがもう一度来られる世の終わりに、私たちも復活して、永遠の命を生きる新しい体を与えられることを待ち望みつつ生きていくのです。その信仰において私たちは、今この地上で与えられているこの体においても、その体をもって生きる日々の歩みと、そこにおける具体的な人との関わりにおいても、キリストの十字架による救いにあずかって新しく生きていくのです。キリストの十字架による救いとは、神の独り子であられる主イエスが、本来持っておられた栄光を捨てて、居心地のよい天という故郷を離れて、人間の罪に満ちているこの世に来て下さって、私たちと同じ肉体をもって歩んで下さり、そしてご自身は何の罪もないのに、私たちの罪を全て代って背負って下さって、十字架の苦しみと死を引き受け、それによって私たちに罪の赦しを、神の子として生きる道を拓いて下さった、という救いです。この救いは、主イエス・キリストを救い主と信じる信仰のみによって与えられます。この救いにあずかるために、立派な人になることも、善い行いをすることも、全く必要ありません。神は全く恵みによって、無償で私たちをこの救いにあずからせて下さるのです。しかしこの救いは、私たちの心と魂のみでなく、この体にも、肉体をもって生きていく日々の歩みにも、他の人との具体的な関係にも、つまり私たちの人生の全てに及ぶのです。だからこの救いにあずかって生きる私たちは、もはや自分の欲望を神とするのでなく、キリストがご自分の栄光も名誉も力も捨てて人となり、罪人である私たちのために死んで下さった、その愛に生きていくのです。その愛によって人との関係を築いていくのです。私たちの日々の生活は、人との関係は、キリストの十字架による救いによってこのように変えられていくのです。別の角度から言えば、私たちのこの体は将来、キリストの第二の到来において、キリストの栄光ある体と同じ形に変えられるのです。そのことを信じている私たちは、そのことをただ待っているのではなくて、今この体をもって生きていく間にも、そのことへの備えをしていくのです。今のこの体にも、キリストの栄光が現れることを願い求めて生きるのです。地上を生きている私たちの体は、罪と弱さの中にある卑しい体ですから、キリストの栄光を十分に現すことなど出来るはずはありません。けれども、この卑しい体がキリストの第二の到来において、復活したキリストと同じ栄光ある体に変えられることをしっかり弁えて、それに備えて歩むなら、この卑しい体における私たちの日々の歩みも、キリストの栄光を垣間見させる歩みへと変えられていくのです。

天の本国への旅人として生きる  
 私たちがこのようにしてキリストの第二の到来を待ち望みつつそれに備えて生きる者となる時、私たちは、この世を本国とする、この世に国籍がある者ではなくなります。本国は、国籍は天にある、その天の故郷に向かって、この世を旅していく旅人となるのです。そのことは私たちの日々の生活が、具体的な人との関わりが、主イエス・キリストによる救いの恵みに支えられ、その愛を多少なりとも表していくものへと変えられることによって示されていきます。私たちは信仰者となることによって、これまで当たり前だったこの世の古い生活を離れて、旅に出るのです。新しい生活を始めるのです。その私たちの信仰の旅は、第一の到来であるクリスマスに肉体をもってこの世に来て下さった主イエス・キリストが十字架の死と復活によって実現して下さった救いの恵みと、キリストが第二の到来において私たちをも、ご自分の栄光の体と同じ形に変えて下さり、永遠の命を生きる者として下さるという希望とによって支えられています。既に与えられたキリストの第一の到来と、将来に約束されているキリストの第二の到来の間のこの時を、天の本国への旅人として、キリストの十字架の愛を無にせずに日々しっかりと歩んでいく信仰を、このアドベントに養われたいのです。

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