主日礼拝

今日、救いがこの家を訪れた

「今日、救いがこの家を訪れた」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第40章1-5節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第19章1-10節
・ 讃美歌:231、430、475

アドベント=到来  
 アドベント、待降節の第二の主の日を迎えました。先週も申しましたように、今年はアドベントの主の日を四回守り、その後25日のクリスマス礼拝となります。私が主日礼拝の説教を担当する本日と来週においては、アドベントを歩むことの意味をみ言葉に聞きつつかみしめていきたいと思っています。  
 アドベントとは、「到来」という意味です。語源としては、ラテン語の「アド ヴェニーレ」から来ており、アドは「~に向かって」ヴェニーレは「来る」という意味です。ですから「(自分の方に)向かって来る」ということで、到来するという意味になるのです。クリスマスに備えるこの時をアドベントと言うのは、言うまでもなく主イエス・キリストの「到来」を覚えるためです。主イエス・キリストの誕生を喜び祝うクリスマスは、神の独り子であり私たちの救い主であられる主イエスがこの世に来られたこと、到来されたことを記念し祝う時です。それは単に昔の一人の偉人が生まれたことを記念するというのではなくて、私たちのための救いの到来を喜び祝うことです。主イエスがこの世にお生まれになったことによって、私たちに救いが訪れたのです。だから私たちはクリスマスを祝うのだし、主イエスによって訪れた救いにあずかるための備えをする時としてこのアドベントを過ごすのです。そのアドベントの歩みのために、本日は、主イエスの到来によって救いが訪れたことを体験した一人の人の話をご一緒に味わいたいと思います。ルカによる福音書第19章1節以下に語られている、ザアカイの話です。

徴税人ザアカイ  
 エリコの町にザアカイという人がいました。徴税人の頭で、金持ちであった、と語られています。徴税人については、新共同訳聖書の後ろの付録の「用語解説」を見ていただきたいと思います。ユダヤ人でありながら、征服者であるローマのための税金を集めており、それによって私腹を肥やしている、一般のユダヤ人たちからは裏切り者として憎まれ、恨まれ、また罪人の代表として蔑まれていた人たちです。ザアカイが金持ちであったのも、徴税人の頭としての地位を利用したことの結果だったでしょう。このザアカイの住む町エリコに、主イエスが来られたのです。この時はもう主イエスの活動の最後の時期です。主イエスはエリコを経てこれからエルサレムに上ろうとしておられます。そこで捕えられ、十字架につけられていくのです。ですから、主イエスがガリラヤから始めてあちこちで神の国の福音を宣べ伝え、病人を癒し、悪霊を追い出して苦しむ人々を救い、またユダヤ人の宗教的指導者であった律法学者やファリサイ派の人々と対立してきたことはエリコの町の人々にも既に伝わっていました。この後エルサレムに入る時もそうでしたが、人々はイエスこそ預言者たちがその到来を予告した救い主、メシアかもしれないという期待を込めて、イエスを一目見ようと通りに繰り出していたのです。ザアカイも、「イエスがどんな人か見ようとした」と3節にあります。彼も他の人々と同じ様に噂のイエスを見てみたいと思ったわけですが、ザアカイの思いは群衆たちとは少し違っていただろうと思います。主イエスについての噂の中には、病気を癒し悪霊を追い出したということと並んで、人々に嫌われている徴税人や、罪人と呼ばれている人々の友となり、彼らと分け隔てなく付き合っている、ということも含まれていました。これまで彼が出会ったユダヤ人の宗教的指導者たちは皆、徴税人である彼のことを毛嫌いし、お前のような罪人は神の祝福や救いとは無縁だ、と相手にしなかったのです。だから彼の方もおそらく、神の律法を説く宗教的指導者たちを嫌っていたでしょう。どうせ自分を罪人として裁き、「あんな罪人になるな」という教訓話のネタにされるのがオチなのだから、そんな連中の話など金輪際聞くものかと思っていたでしょう。しかしイエスという人は、噂が本当ならそういう連中とは違うのかもしれない、もしかしたら自分のような徴税人をも毛嫌いしたり蔑んだりしないのかもしれない…、いやいや神の教えを説く人々の中にそんな人がいるとは思えない…、でももしもそういう人がいるなら一目見てみたいものだ…、彼はそのような思いで、イエスがこの町に来るという知らせを聞いたのでしょう。

敵意の壁  
 そのような思いに動かされて彼は重い腰を上げ、町の通りに出ました。しかしそこには既にイエスを見ようとして出て来た群衆がひしめき合っていました。彼は「背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」とあります。そこには、ザアカイと町の人々との関係が浮き彫りになっています。これは背が低かったから見えなかった、という物理的な問題ではありません。町の人々とザアカイとの間に良い関係があるなら、人々は、「ザアカイさん前においで」と場所を譲ってくれたでしょう。しかしそういうことを言う人は一人もいませんでした。町の人々は、ザアカイの姿を見ても無視したのです。いやむしろ、「こんなやつ絶対前に出させてやるもんか」と彼の前にことさらに立ち塞がったのです。彼の目を遮っていたのは、背の低さではなくて人々の敵意だったのです。そしてザアカイの方も、町の人々に対して敵意を持っていますから、「私を前に出してください」などと頼んだりしてたまるか、と思っています。このように、彼と群衆の間にはお互いに無言の敵意があり、鉄よりも固い隔ての壁があったのです。

いちじく桑の木に登ったザアカイ  
 それでザアカイは、「イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った」とあります。木に登って、群衆の頭ごしにイエスを見ようとしたのです。このことを私たちは、背が低くて見えなかったから高い所に登って見ようとした、ということとしてのみ理解してしまってはならないと思います。今見てきたように、彼がイエスを見ることができなかったのは、町の人々との関係が悪かったからです。お互いの間に敵意があったからです。その敵意こそが、悪い人間関係こそが、彼がイエスを見ることを妨げていたのです。だから彼がイエスを見ることができるようになるために本当にしなければならないことは、人間関係の回復です。お互いの間にある敵意の解消です。イエスを見るためにそれが必要だというよりも、彼がエリコの町でこれからも生きていくために、同胞たちの社会の一員として暮らしていくために、人々と良い人間関係を築くことこそが最も大切な、何をするにしても基本となることなのです。いちじく桑の木に登ったザアカイは、その最も大切なことから逃げています。人との関係こそが問題なのに、木に登ることでその問題を回避しようとしているのです。その方が簡単だからです。背の低い彼が木に登ることは、そう楽ではなかったかもしれません。困難があるし、努力も必要だったでしょう。でもそれは、自分が苦労すれば、努力すれば何とかなることです。木はものを言いません。自分のことを蔑んだり、悪口を言ったり、ことさらに妨害しようとはしません。人間よりもずっと御しやすいのです。その木に登ることによってイエスを見ようとしたザアカイは、楽なやり方で問題を回避しようとしたのです。根本的な問題は人々との関係です。しかしその回復はより困難で難しい、しんどいことです。だからその根本的な問題と取り組むことを避けて、そこから逃げて、楽な道を彼は行こうとしたのです。その楽な道は、イエスを一目見るという当面の目的を叶えることにはなるかもしれません。しかしそこにある根本的な問題、町の人々との間の敵意、憎しみという問題は何も解決しません。つまりその場しのぎでしかないのです。自分の本当の問題から目を背けて、その場しのぎの楽な歩みへと逃げている、それが、いちじく桑の木に登ったザアカイの姿なのです。  
 このザアカイは自分だ、と私は思います。本当に取り組まなければならないはずの、一番大事な問題からは逃げて、その場しのぎの、もっと楽なことでごまかそうとする、そのもっと楽なことも、決してそんなに楽なわけではなくて、けっこう大変だし努力を要するし、忙しくもなるので、それに取り組んで忙しくしていることでなんとなく自分はやるべきことをやっているかのように錯覚してしまう、でも本当は、一番しなければならない大事なことから逃げている、そういうことが私たちにはしばしばあるのではないでしょうか。本当にしなければならないこと、取り組まなければならないことは、多くの場合人との関わりです。そしてそれは相手があることだから、とてもしんどいのです。思うようにいかないのです。お互いの思いがぶつかり合って、すぐに決裂してしまって、一歩も先に進めなくなってしまうのです。いや、もう一歩も先に進めない、と自分で思い込んでしまうのです。だからもっと別の、自分で頑張れば何とかできそうなことへと逃げるのです。しかしそれで何とかできるのはごく表面的なことであって、その場しのぎでしかないのです。

主イエスの到来  
 いちじく桑の木の上で、主イエスを見ようとしていたザアカイとはこのような人でした。このような人でしたから、イエスを一目見たいと思ってはいましたが、それ以上のことを期待していたわけではありません。徴税人とも友となってくれる奇特な人だという噂を聞いてはいましたが、だからといって自分がイエスと知り合いになろうとか、友になろうとか思ってはいない。木の上から下を通るイエスを見るということのもう一つの意味は、そこには一定の距離があるということです。彼はイエスとある距離を置いた所から、一目見て、そして通り過ぎていったら木から降りて元の日常に戻ろうとしていたのです。それ以上のことが起ることは考えてもいないし望んでもいなかったのです。しかし、その木の下に来た主イエスは、立ち止まって上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言ったのです。主イエスが私たちのところに来られる、とはこのような出来事です。私たちは、ザアカイがそうであったように、イエス・キリストについてそれなりに関心を持っています。イエスとはどんな方か、その教えはどのようなものかを知りたいと思っています。いや知るだけでなく信じたいとさえ思っています。さらには、自分はもう信じているし、主イエスと共に生きていると思っている者すらもここにはいます。そのような私たちが今日こうして教会の礼拝の場にいるのです。しかし、洗礼を受けて信仰者、クリスチャンとして生きている者であっても、やはりある距離を置いて、木の上から眺めるような気持ちで、「牧師は今日はどんな話をするんだろうか」という思いでここにいる、ということはないですか?。しかしそのように眺めている主イエスが今、自分をまっすぐに見つめて、自分の名を呼んで、「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃったらどうします?。私たちはびっくり仰天して、あわてふためいて、「いやそれは…、今日はちょっと困ります、いつかもうちょっと準備が出来てから…」などとモゴモゴ言うのではないでしょうか。しかし主イエスが私たちのところに来られるとは実はそういう出来事なのです。主イエスのこの言葉は、「今日泊めてくれないだろうか」という打診ではありません。「今日私はあなたの家に泊まる。そうすることになっている」という宣言です。主イエスの到来はそのように、私たちの思いや備えや意志とは関係なく告げられるのです。主イエスを生むという天使のお告げをある日突然受けた母マリアにおいてもそうでした。婚約者マリアの胎内に聖霊による子が宿っていると告げられたヨセフもそうでした。主イエス・キリストは、私たちの準備とは関係なく、ある日突然、私たちの家に、心の中に、強引に乗り込んで来られるのです。ザアカイはそのような主イエスの到来を体験したのです。

喜んで  
 6節には「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」とあります。ザアカイは、「今日はちょっと困ります」とは言わなかったのです。喜んで主イエスを迎えたのです。それはザアカイが偉かったという話ではありません。主イエス・キリストが私たちの都合など聞かずに、「今日あなたの家に泊まる」と宣言して乗り込んで来られる、そのことが実際に起る時、それは私たちにとって喜びなのだ、ということをこの話は語っているのです。なぜなら私たちはそのようにしてしか、主イエス・キリストをお迎えすることができないからです。今日あなたの家に泊めてもらえないだろうか、などという打診を受けたなら、私たちは必ず、「今日は困ります。いつか別の時に」と答えるのです。そしてその「いつか」は永遠にやって来ないのです。しかし主イエスは打診などせずに、私たちのところに来られます。私たちは仕方なく主イエスを迎えるのです。しかし実はそのことによって、頑に心の扉を閉ざして自分の世界に閉じこもり、そうすることで自分のプライドを守ろうとしている私たちが、自分で自分を閉じ込めているその狭い世界から、新しい、広い、自由な世界へと解放されるのです。自分では開くことのできない心の扉を主イエスによって開かれるのです。ザアカイはそういう喜びを体験したのです。

新しく生き始めたザアカイ  
 主イエスはザアカイに「急いで降りて来なさい」とおっしゃいました。ザアカイはそのお言葉によって、いちじく桑の木から「急いで降りて来た」のです。いちじく桑の木に登っていた彼は、先ほど申しましたように、自分の本当の問題、課題を避けて、本当の解決にはならない、その場しのぎの安易な道に逃げ込んでいました。また主イエスとの間にある距離を取って、眺めるだけ、と思っていました。しかし主イエスはその距離を乗り越えて彼に語りかけて来られたのです。それによって彼は登っていた木から降りて、主イエスを家にお迎えしました。そして彼は主の前で立ち上がり、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言ったのです。この言葉は、彼が自分の一番根本的な問題をしっかり見つめるようになり、そこから逃げずに、一番大事な問題と取り組むようになったことを意味しています。彼の一番根本的な問題は、町の人々との人間関係でした。彼は徴税人として町の人々を苦しめ、それで金持ちになり、貧しい人々を顧みずに自分だけ贅沢な暮らしをしていたのです。その罪こそが彼の根本的な問題でした。その罪のために彼は町の人々から嫌われ、憎まれ、だから彼もさらに町の人々を憎み、ますます苦しめていくという悪循環の中で、罪はどんどん膨れ上がり、人々との間の敵意の壁もどんどん高く、厚くなっていたのです。この罪の壁は、いちじく桑の木に登っても乗り越えることはできません。主イエス・キリストが、「今日私はあなたのところに泊まる」と宣言して彼のところに強引に押し掛けて来られたことによって、彼はその木から降りることができたのです。つまり安易なその場しのぎの生き方をやめて、自分の問題の根本と、つまり自分の罪と、逃げずに正面から向き合うことができるようになったのです。いやもっと正確に言えば、彼は主イエスによっていちじく桑の木の上から引きずり降ろされて、自分の根本的な問題である罪と直面させられたのです。そしてそこには、深い喜びがあった。これで、本当に生き始めることができる、という喜びを彼は体験したのです。本当に生き始めた彼は、貧しい人々のために施しをする者、つまり人を愛する者となり、また自分が苦しめていた人々に償いをすることによって人々との関係を築き直していく道を歩み始めました。つまり罪を悔い改めて新しく生き始めたのです。主イエスの到来によってザアカイはこのように新しくされ、本当に生き始めたのです。主イエスはこのことを受けて、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」とおっしゃいました。「今日、救いがこの家を訪れた」。ザアカイの家を訪れたのは主イエスです。主イエスの到来によって、救いがこの家を訪れたのです。ザアカイもアブラハムの子、つまり神の民であるイスラエルの一員です。しかし罪によって神のもとから失われ、同胞たちと共に生きることができなくなっていました。神の民の群れから失われていたそのザアカイを捜して救い出すために、彼が悔い改めて人々との良い関係を取り戻し、神の民として本当に生きる者となるために、主イエス・キリストは彼のところに来られたのです。

私たちへの救いの訪れ  
 罪によって神のもとから失われ、しかも自分の罪という根本的な問題を見つめることを避けて、その場しのぎの生き方に逃げ込んでいたザアカイの姿は、私たち一人一人の姿であると言わなければならないでしょう。私たちの根本的な問題は、人を愛することができないという罪であり、人との間に憎しみの壁を築き、良い関係を失ってしまうことです。それによって私たちは人を傷つけ、自分も孤独に陥っていきます。その根本的な問題である罪を見つめ、悔い改めることこそが私たちの課題なのです。しかし私たちは、自分でそれをすることができません。ザアカイがそうだったように、自分の罪を見つめて悔い改め、人々との関係を回復するのではなくて、いちじく桑の木に登ろうとするのです。その時私たちは、自分は生まれつき背が低いんだから仕方がないではないか、と言い訳をしたり、人々が意地悪をして立ち塞がっているからだ、と人のせいにしたりします。そのようにして私たちはいつも、自分の根本的な問題である罪から目を背け、逃げてしまうのです。しかしそのような私たちのところに、主イエス・キリストが来られます。主イエスは「今日私はあなたの家の泊まる」と宣言して、私たちが置こうとしている距離を乗り越え、私たちが自分を守るために築いている壁を破壊して入って来られます。そして私たちを、自分の罪を正面から見つめ、悔い改めて新しく生きる者、人を愛して本当の人生を生きる者として下さるのです。そこにこそ私たちの救いがあります。私たちが自分では実現することができないその救いを、本当の人生を生きる喜びを、主イエスがもたらして下さるのです。

主イエスの十字架の死による救いの恵み  
 主イエスの到来によってこのことが起るのは、主イエス・キリストが、私たちの根本的な問題である罪をご自分の身に背負って下さる方だからです。ザアカイの話においても、主イエスが彼の家に入ったのを見た人々が「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」とつぶやいたと語られています。ザアカイの客となることによるこのようなつぶやき、批判、悪口、攻撃を主イエスは引き受けて下さったのです。このようなつぶやきが積み重なって、主イエスは十字架にかけられていきました。つまり主イエスが私たちのところに来て下さったのは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さるという覚悟の上でだったのです。私たちの根本的な問題である罪を全て背負って十字架にかかって肉を裂き、血を流して死んで下さるために、主イエスは私たちのところに来て下さったのです。本日共にあずかる聖餐はそのことの印です。聖餐にあずかることによって私たちは、ご自分を徹底的に低くして私たち罪人のところに来て下さった主イエスの恵みを味わうのです。そしてその主イエスの恵みによって私たちは、自分の根本的な問題である罪から目を背けることをやめて、正面からそれを見つめ、そして悔い改めて新しく生きる者とされるのです。人との間に憎しみの壁を築いていくのではなくて、人を愛する者、施しをする者、人を傷つけてしまった罪を悔い改めて、新しい関係を築くために努めていく者とされるのです。主イエスの到来によって私たちに、このような救いが、新しい人生が訪れます。そのことを信じて待ち望み、主よ、来てください、と祈りつつアドベントの日々を過ごしたいのです。

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