夕礼拝

勇者ギデオン

「勇者ギデオン」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:士師記 第6章1-40節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第4章1-11節
・ 讃美歌:140、458

士師ギデオン
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書からみ言葉に聞いておりまして、先月から「士師記」に入りました。「士師」とは何でしょうか。聖書の後ろの付録にある「用語解説」の「士師」の項にはこのように語られています。「本来は『裁く』という動詞の分詞形であるが、『士師』と訳される場合は、イスラエルの歴史において、カナン占領から王国設立までの期間、神によって起こされ、イスラエル人たちを敵の圧迫から解放する軍事的、政治的指導者を指す。士師記には12人の名が挙げられている」。この12人の士師たちの物語が士師記であるわけですが、本日読む6章から8章にかけてのところには、ギデオンという人のことが語られています。ギデオンは士師たちの中で最もよく知られた人の一人です。この人のことについて、これから何回かに分けて見ていきたいのです。

主の目に悪とされることを行った
 さて先月も申しましたが、士師はイスラエルの民の軍事的、政治的な指導者という面では後の王と同じですが、王とは違っていつもいたわけではありません。イスラエルが危機に陥った時にだけ立てられたのです。ですから士師が現れる時は、イスラエルが大きな苦しみに陥っている時です。ギデオンが登場したのもそういう時でした。その苦しみが6章の1-6節にこのように語られています。「イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された。ミディアン人の手がイスラエルに脅威となったので、イスラエルの人々は彼らを避けるために山の洞窟や、洞穴、要塞を利用した。イスラエルが種を蒔くと、決まってミディアン人は、アマレク人や東方の諸民族と共に上って来て攻めたてた。彼らはイスラエルの人々に対して陣を敷き、この地の産物をガザに至るまで荒らし、命の糧となるものは羊も牛もろばも何も残さなかった。彼らは家畜と共に、天幕を携えて上って来たが、それはいなごの大群のようで、人もらくだも数知れなかった。彼らは来て、この地を荒らしまわった。イスラエルは、ミディアン人のために甚だしく衰えたので、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫んだ」。ここにミディアン人という民族が出てきます。彼らがどこから来たのかは、これも付録の地図の2「出エジプトの道」を見ていただくと、イスラエルのずっと南の方、シナイ半島の東、アカバ湾の対岸にミディアンとあります。この辺りから来た民族であると考えられています。彼らは5節にあるようにらくだに乗ってすごいスピードでやって来ては略奪をしていたようです。彼らによってイスラエルの民は、2節にあるように「山の洞窟や、洞穴、要塞」に隠れて住まなければならなくなりました。イスラエルがこのような苦しみに陥ったのは、1節にあるように「イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された」からです。イスラエルの人々が主の目に悪とされることを行ったので、主がお怒りになり、彼らをミディアン人の手に渡されたのです。イスラエルは、主なる神によってエジプトでの奴隷の苦しみから救い出され、苦しい荒れ野の旅を導かれ、今住んでいるカナンの地を与えられました。主が彼らを選び、契約を結んでご自分の民として下さったのです。その恵みに感謝して、主のみを神として拝み、主に従うことがイスラエルのあるべき姿です。ところが彼らは、カナンの地に定住するようになると、その地の先住民が拝んでいた偶像の神々に心を引かれ、主を忘れてそれらの神々を拝むようになっていったのです。その神々が25節に出てくるバアルとかアシェラです。これらは豊作を約束する農耕の神々であり、豊かさと繁栄を求める人間の思いを満足させる神々です。定住して農耕を始めたのに伴ってイスラエルの人々はこれらの神々を拝むようになったのです。しかしそれは、「あなたにはわたしをおいてほかに神があってはならない」という十戒の第一の戒めへの違反であり、彼らをエジプトから救い出して下さった主なる神への裏切りです。「主の目に悪とされることを行った」とはそのことであり、主がこの悪に対してお怒りになったためにこの苦しみが民に及んだのです。

申命記的歴史
 ここに、士師記もその一つである「申命記的歴史」の基本的な考え方が現れています。ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記は、申命記の信仰に基づいてイスラエルの歴史を記述しています。その信仰とは、イスラエルの民が主なる神に従い、主をのみ礼拝し仕えるならば平和と繁栄がもたらされるが、主に背き、他の神々を拝むようになるなら、敵に敗北して苦しみに陥る、ということです。その苦しみの決定的なものがバビロン捕囚です。申命記的歴史は、このバビロン捕囚の苦しみの中で成立しました。神の民であるはずのイスラエルがなぜ敵に滅ぼされ、捕囚の苦しみに陥ったのか、という深刻な問いに対して、それは民が主なる神を裏切り、他の神々を拝み仕えたから、主ご自身によってもたらされた苦しみなのだ、という答えを語っているのです。そういう信仰に基づいてイスラエルの歴史を振り返り、語っているのが申命記的歴史なのです。
 そしてそれは、だからこそこの苦しみの中にはなお希望がある、ということでもあります。そのことをこの士師記も語っています。イスラエルは自らの罪によって神の怒りを招き、苦しみに陥ったが、主はその都度士師を立て、遣わして民を苦しみから救って下さったのです。そこには、主なる神がご自分の民であるイスラエルを基本的に愛して下さっており、その愛のゆえにこそ彼らの裏切りに対して怒っておられるのだ、ということが示されているのです。

勇者ギデオン
 このたびはギデオンがその士師として選ばれ、立てられました。主の御使いがギデオンに語りかけたことが11、12節に語られています。「さて、主の御使いが来て、オフラにあるテレビンの木の下に座った。これはアビエゼルの人ヨアシュのものであった。その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の御使いは彼に現れて言った。『勇者よ、主はあなたと共におられます』」。御使いはギデオンに「勇者よ」と語りかけています。「勇者」と呼ばれたギデオンはその時何をしていたのでしょうか。彼は「ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた」のです。酒ぶねとは、ぶどうの実を踏んで搾ってぶどう酒を作るための大きな桶のようなもので、彼はミディアン人を恐れて、その中に隠れて小麦の脱穀をしていたのです。これはあまり「勇者」らしくない姿です。ミディアン人の支配に抵抗して戦おうという気概はこの姿から全く感じられません。ギデオンは元々戦いに長じた大勇士などではなくて、苦しみの中でこそこそと身を隠して細々と日々を送っていた普通の人だったのです。

主はあなたと共におられます
 御使いは彼に「主はあなたと共におられます」と語りかけました。主イエスの母となったマリアに天使が現れて、あなたは救い主の母となる、と告げた時に語ったのと同じ挨拶です。主なる神があなたと共にいて下さる、という祝福を天使は告げたのです。しかしこの挨拶を受けたギデオンはこう答えます。「わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。先祖が、『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました」。ギデオンにとって、「主はあなたと共におられます」という天使の言葉は虚しい絵空事に思われたのです。主が共におられるなんて、そんなことこの現実の中でどうして言えるのか。昔先祖たちがエジプトから解放された頃はそうだったのかもしれない。でも今はもう主は私たちを見放してしまって、共にはおられない。それがギデオンの正直な思いなのです。
 「主はあなたと共におられる」。この言葉は、「神は我々と共におられる」という意味である「インマヌエル」という言葉と繋がります。主イエス・キリストの誕生において、その名はインマヌエルと呼ばれる、と天使が告げました。それは主イエス・キリストが私たちにもたらして下さる恵みです。キリストを信じる信仰者は、「インマヌエル」というみ言葉が自分に対して語られていることを信じています。主イエスの十字架と復活による救いのみ業のゆえに、今や神が聖霊の働きによって私たちと共にいて下さる、と信じて私たちは生きているのです。しかしその信仰は、この世の様々な厳しい現実の中で動揺します。苦しみ悲しみを味わう時、私たちもギデオンと同じように、神が共にいて下さるなんて絵空事ではないか、と思うのです。それは私たちが不信仰だと言うよりも、この世の現実がそれほど厳しいということでしょう。神が共にいて下さることを、この世の具体的な現実において実感し、納得することはなかなかできないのです。そこに私たちの信仰の戦いがあります。神が共にいて下さるというみ言葉と、目に見える現実とのギャップの中に私たちの信仰の歩みは常にあるのです。別の言い方をするならば、「神は我々と共におられる」というみ言葉は、何の苦労も苦しみもなく順調な人生を送っている人に向けて語られている言葉ではなくて、いったい神はどこにおられるのか、と嘆かざるを得ない現実の厳しさの中にいる私たちに対して語られており、その私たちを慰め、励ましてくれる言葉なのです。

あなたのその力をもって
 ギデオンはここで御使いに、「なぜこのような苦しみが私たちにふりかかったのですか。昔のあの恵みのみ業はどうなってしまったのですか」と問い掛けていますが、御使いはその問いに答える代りに彼に、イスラエルの民をミディアン人の手から救い出す士師としての使命を与え、「わたしがあなたを遣わす」という主の言葉を告げました。14節です。「主は彼の方を向いて言われた。『あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか』」。「あなたのその力をもって行くがよい」、これは、あなたは自分の力でイスラエルをミディアン人の手から救い出せ、ということです。神がこのような使命へと人を遣わす時にはよく「わたしがあなたに代って戦うのだから安心せよ」ということが語られます。しかしここではそうではなくて、あなたが自分の力で戦え、と言われているのです。このことは、私たちが信仰に生きる上で確認しておくべき一つの大事なことを語り示していると思います。私たちは、神による救いにあずかり、神の民とされて、この世の現実の中で、神から与えられた使命を果すために努力していくのです。それが私たちの信仰の生活です。そこにはいろいろな苦しみが起ってきます。「神を信じて生きている自分になぜこんな苦しみが」という疑問が起ります。その答えはなかなか得られません。そういう現実の中で私たちは、自分に与えられている力を精一杯用いて戦っていかなければならないのです。自分の力を尽して戦うことなしにただ神の助けを求めるのは正しい信仰のあり方ではないのです。それは勿論、私たちの力でその戦いに勝利できるとか、使命を成し遂げることができるということではありません。「わたしがあなたを遣わすのではないか」と主は言っておられます。主が遣わして下さり、用いて下さるからこそ、私たちは力を尽すことができるのです。私たちの力はまことに小さなものでしかないけれども、主はその私たちの力を用いてみ業を行って下さるのです。そのみ心に応えて私たちも、自分の力を尽して努力していくことを主は求めておられるのです。

主の約束の中で
 そういうことがまだ分かっていなかったギデオンは15節でこう言っています。「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です」。イスラエルの民の中で最も貧弱な者でしかない自分がどうしてあの強大なミディアンを倒すことなどできるだろうか。それに対して御使いはこう言いました。16節「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる」。「わたしがあなたと共にいる」、つまり「主はあなたと共におられる」という御使いが最初に告げた約束が主ご自身の口からもう一度繰り返されています。「主が共にいて下さる」という約束が先ず御使いによって、そして主ご自身によって語られ、この主の約束に挟まれて、「私があなたを遣わすのだから、あなたは自分の力でイスラエルをミディアンの手から救い出すことができる」という使命が告げられているのです。私たちも同じように、インマヌエル、神は我々と共におられる、という主ご自身の約束を与えられ、その中でこの世の歩みへと遣わされて、自分に与えられている力を尽くして、信仰の戦いを戦っていくのです。

しるしを求めるギデオン
 ギデオンは17節で御使いに、「あなたがわたしにお告げになるのだというしるしを見せてください」と言いました。本当に主なる神が自分にこのことを告げておられることのしるし、証拠を見せてほしい、ということです。彼が用意した供え物に御使いが杖の先で触れると、岩から火が燃え上がってそれらを焼き尽しました。このしるしによってギデオンは、自分は主からの語りかけを受けていたのだということをはっきりと知ることができたのです。このようにしるし、つまり目に見える証拠を求めるということは、御使いの言葉を完全に信じることができずに疑っているということです。だからこれは主がお怒りになっても不思議はない求めです。しかし主はこの求めに応えて下さって、しるしを与えて下さいました。それは、主が驚くべき寛容をもって彼を導き、士師として立てようとしておられるということです。このことはこの第6章の最後のところにも語られています。

人間が造り出した偶像の神
 さて、このようにして士師として立てられたギデオンが最初にしたことは、父であるヨアシュのものだったバアルの祭壇を壊し、アシェラの像を切り倒して、砦の頂上に主なる神のための祭壇を築き、切り倒したアシェラ像を主への献げ物を焼くための薪とした、ということでした。バアルやアシェラを拝んでいるイスラエルの民に、それらはまことの神ではないことを示し、主なる神へと立ち帰らせるための行動を起したわけです。しかし27節にあるように彼は「父の家族と町の人々を恐れて日中を避け、夜中にこれを行った」のです。これも、あまり勇者らしからぬ行為です。酒ぶねの中に隠れて麦を打っていた時と同じように、士師となってからも彼は、夜陰に乗じてこそこそとバアルの祭壇を破壊し、アシェラ像を切り倒したのです。
 町の人々はギデオンがこのことをしたのに非常に腹を立てました。それは、とんでもない罰当たりなことをしてくれた、ということです。バアルやアシェラは豊作の神であり、豊かな実りをもたらすとされている神です。そのようなご利益をもたらす神というのは、ご機嫌を損ねたら災いや不幸をもたらす神となります。町の人々は、ギデオンのしたことによって町全体に大きな災いが起ると恐れたのです。そうならないためには、犯人を自分たちの手で処刑しなければならないと考えた彼らはヨアシュに、「息子を出せ。息子は殺さねばならない」と詰め寄りました。それに対して父ヨアシュが語った言葉は興味深いものです。31節「あなたたちはバアルをかばって争うのか、バアルを救おうとでもいうのか。バアルをかばって争う者は朝とならぬうちに殺される。もしバアルが神なら、自分の祭壇が壊されたのだから、自分で争うだろう」。ここには、人間が造り出した偶像の神とはどのようなものかが印象的に語られています。町の人々は、バアルの祭壇が壊されたことに怒り、バアルの名誉回復のために、「バアルをかばって争」おうとしているのです。そこに偶像の神の本質があります。それは人間が名誉を回復させなければならない、かばって争わなければならない神です。人間が造り出した神はそのように、人間が守り、支え、名誉が傷つけられたなら人間がそれを回復しなければならない神です。しかし生けるまことの神ならば、「自分の祭壇が壊されたのだから、自分で争うだろう」。自分の祭壇を壊し、名誉を傷つけた者には自分で裁きを下すことができるのが生けるまことの神です。人間が神をかばうなどということは、神にとっては本来余計なお世話であり、「馬鹿にするな」ということであるはずなのです。「バアルをかばって争う者は朝とならぬうちに殺される」というのはそういうことを言っているのでしょう。人間が神を守り、かばおうとするというのは、神を人間の下に置く、ということなのです。
 神を守り、かばおうとするのは、人間の側においては罰が当たるのを恐れるからです。その恐れは、自分たちが神を自分の下に置いて利用しようとしている、という後ろめたい思いから生じるものです。人に支配され、利用されることは面白くありません。神もそのことに気づいたら怒って罰を、災いを下すでしょう。そうならないために、丁重にお祀りして神をなだめるのです。これが、人間が造り出した偶像の神と人間との関係です。そこにあるのは愛と信頼ではなくて、相手を利用している後ろめたさとその裏返しとしての恐れです。ヨアシュの言葉からは、偶像礼拝のそのような本質が見えて来るのです。

主が選び、養い、育てて下さる
 このようにして士師としての活動を始めたギデオンは、イスラエルの同胞に呼びかけ、ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族との戦いに備えていきました。36節以下には、その備えの中で彼が再び、主にしるしを求めたことが語られています。しかも今度は二度続けて、正反対のしるしを示して下さいと願っています。主はその願いをも聞き入れて下さって、彼の求めるしるしを与えて下さったのです。このようにしてギデオンは、主の寛容の中で士師として育てられていったのです。第6章から分かるのは、ギデオンは元々決して勇士ではない、まことに弱く、疑い深く、恐がりの、一言で言えば情けない男だったということです。そのギデオンを主は選び、「勇者よ、主はあなたと共におられます」と語り掛け、数々のしるしを示して、士師として育てていって下さったのです。私たちも、この主なる神によって選ばれ、教会へと導かれ、主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、インマヌエル、神は我々と共におられる、という恵みの中で歩んでいます。私たちも勿論勇士ではない、まことに弱い、疑い深い、情けない者です。み言葉を聞いても納得せず、この世の目に見える現実に心奪われてしまう者です。しかしそのような私たちを、主は選んで下さり、寛容をもって大切に育て導いて下さっているのです。

まことの勇者キリスト
 本日の新約聖書の箇所はマタイによる福音書第4章1-11節です。主イエスが荒れ野でサタンの誘惑を退けた話です。5節以下に語られている第二の誘惑は、神殿の屋根から飛び降りて見せろ、というものでした。そうすれば自分が神に立てられた救い主であることを自分も確信できるし、人々にもその証拠を示すことができるぞ、ということです。それに対して主イエスは「あなたの神である主を試してはならない」という聖書の言葉をもってこの誘惑を退けました。つまり主イエスは、神にしるし、証拠を求めることをなさらなかったのです。何度もしるしを求めたギデオンとは正反対であり、この主イエスこそ、まことの勇者です。まことの勇者である主イエスが、私たちを捕えている罪の力、サタンの力と戦って下さり、十字架と復活によって勝利して下さったのです。この主イエスの勝利によって、インマヌエル、神は我々と共におられる、という救いの恵みが私たちに与えられたのです。この勇者主イエスの勝利による救いを与えられているのだから、私たちは勇者でなくてよいのです。弱く、疑い深く、罪深い、まことに情けない私たちが、主によって立てられ、信仰もってこの世を歩むことができ、主のみ業のために用いられるのです。私たちはそのことを信じて生きることができるのです。

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