夕礼拝

偽証してはならない

「偽証してはならない」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第5章20節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書第8章31-32節
・ 讃美歌:141、393

法廷の場での発言の責任
 私が夕礼拝説教を担当する日は、旧約聖書申命記第5章に記されている十戒を読み進めています。本日は第九の戒め「隣人に関して偽証してはならない」をご一緒に読み、味わいたいと思います。偽証とは基本的には法廷において、つまり裁判の場で偽りの証言をすることです。その証言は、被告人への判決を左右することになります。その人の人生を、場合によっては生死を分けることになるのです。だから、被告人である「隣人に関して偽証してはならない」と言われているのです。裁判の場でそのような証言を求められることは、私たちにはめったにあることではありません。一生に一度もそのような体験をしない人の方がずっと多いでしょう。そういう意味ではこの第九の戒めは私たちにとってあまり切実なこととは思えないという面があります。もっとも現在日本にも「裁判員裁判」が取り入れられ、一般市民が裁判に関わることが始まっています。裁判員として指名される可能性は原則として全ての人にあるわけです。それは証人として証言することとは違いますが、しかし被告の人生に大きく関わる発言を求められるという意味では同じです。今や、法廷の場で隣人に関して語ることを求められることが私たちの誰にでも起り得るのです。「隣人に関して偽証してはならない」という第九の戒めは、そのような発言の重大な責任を自覚させようとしているのです。

十二人の怒れる男
 裁判員裁判は、アメリカなどで行われている「陪審員制度」を部分的に導入したものです。陪審員制度とは、一般市民の中から無作為に選び出された陪審員たちが、裁判における審議を聞いた上で別室で協議し、有罪か無罪かを決めるというものです。日本の裁判員裁判は、裁判員たちが裁判官と共に判決を決めるという中途半端なものですが、アメリカでは徹底していて、陪審員だけで協議して判決を決めるのです。検事と弁護士は、その陪審員たちに被告の有罪をあるいは無罪を確信させるために審議を展開します。裁判長はその審議が法に基づいて公正になされるように導きます。しかし彼らは判決を決めることには参加しないのです。この陪審員裁判を題材とした映画やドラマが多くあります。その一つに、1957年の古い白黒の映画ですが、「十二人の怒れる男」というのがありました。ある殺人事件の裁判における、十二人の陪審員たちの審議の模様を描いたものです。彼らはお互いに初対面であり、年齢も職業も、社会的地位も違う人々です。自分から志願して陪審員になったわけではありません。こんなめんどうなことは早くすませて家に帰りたいと思っている人も多いのです。そのような陪審員たちの審議は、はじめ、十二人の内の十一人までが被告の有罪を主張していました。いろいろな状況からして、有罪だと思われて仕方がないようなケースだったのです。ところがその中の一人、若かりしヘンリー・フォンダ演ずる主人公だけは、かすかな疑問を抱いていました。確証があったわけではありませんが、被告席の若者の顔が、自分はやっていない、と必死に訴えていたように思えたのです。それで彼は、有罪の結論を簡単に下してしまうのではなくてもっと話をしようと主張します。陪審員の結論は全員一致で下されなければならないので、彼が同意しない限り結論を出せないのです。無罪と言っているのはお前だけではないか、と反発する人も多い中で、彼は提出されている証拠や状況の小さな疑問を検証していこうとします。その話し合いの中で、次第に他の陪審員たちも彼の主張に動かされていき、最後には、全員によって無罪の決定がなされるのです。終始この陪審員たちの部屋の中での議論の様子だけによって展開するという異色の映画です。感銘を受けるのは、主人公が、自分たち陪審員の下す結論は、被告の人生を左右する重大なものだという意識をしっかりと持っていることです。それゆえに、ほんの少しでも、疑問を残したまま結論を出してしまってはならない、どんなに時間がかかっても、ということは自分たちの仕事や生活が犠牲になっても、それらの疑問を解明した上でなければ決定を下してはならない、という強い責任感を持っているのです。つまり彼は、法廷において隣人に関して語る自分の言葉の重さ、責任を知っているのです。「隣人に関して偽証してはならない」という第九の戒めが求めているのは、このような感覚を持って生きることです。そして陪審員制度というのは、市民一人一人がこのような、隣人に関する自分の言葉の責任を自覚していることを前提として成り立っている、と言うことができます。日本の裁判員制度はそういう前提に立ってはいません。裁判官の判決に一般市民の裁判員も加わらせる、というだけで、結局は専門家である裁判官の判断に引きずられることが多いでしょうし、場合によっては裁判官の責任逃れのために利用されかねない制度となっています。そしてそれは制度の問題というだけでなく、根本的には、日本人の一般的な感覚の中に、隣人に関する自分の言葉に対する責任の自覚が確立していない、という問題があると思うのです。

隣人に関して語る言葉の重さ
 隣人に関する自分の言葉の重さ、責任は、裁判の場においてのみ自覚されればよいものではありません。私たちは日々、隣人に関する言葉を語りながら、隣人のことを様々に評価し判断しながら生活しています。また、隣人が自分に関して語る言葉を聞かされながら、つまり隣人によって評価され判断されながら生きています。そういう中で、私たちの隣人に関する言葉が人を傷つけたり、逆に人が自分に関して語った言葉によって傷つけられることがしばしば起ります。そして私たちは、自分が人の言葉によって傷つけられることには敏感であるのに対して、自分の言葉が人を傷つけていることには鈍感でなかなか気がつかないという傾向があります。そのような私たちに対してこの戒めは、隣人に関して語る言葉が大きな影響をもたらすことを覚えさせ、その責任を自覚させようとしているのです。
 宗教改革者カルヴァンは『ジュネーヴ教会信仰問答』において、この戒めのそのような意味を見つめています。カルヴァンは先ず、この戒めは裁判という一つの例をあげることによって一般的に隣人に対して偽りの悪口を言わないこと、また中傷や偽りによって隣人の財産や名誉を傷つけないことを教えているのだと語り、隣人の悪口を言ったり誹謗中傷することは、やがて裁判で偽証することにつながる、と言っています。さらには、隣人を悪く「言う」ことだけでなく、悪く「思う」ことも禁じられているのだとも言っています。そして最後に第九の戒めの意味をこのようにまとめています。「神はわたしたちに、わたしたちの隣人を悪く思ったり、けなしたりする傾向に陥らないで、真実の許すかぎり、隣人を良く思い、わたしたちの言葉で、かれらの名声が保たれるようにと教えています」。カルヴァンは、私たち人間の中に、隣人を悪く思い、けなそうとする傾向があることを見つめているのです。それは罪の思いです。その罪と戦っていくために、事実が許す限り、隣人のことを良く思い、隣人の評判を落とすのではなくむしろその名声を保つような言葉を語るように努めることが大事だと言っているのです。「事実が許す限り」とあるように、これは事実をねじ曲げて相手をかばうことではありません。批判すべきことに目をつぶってほめたりおだてたりすることは、隣人を重んじているのではなくて、むしろ自分のために相手のご機嫌を取っているだけです。隣人を重んじることには、批判すべきことをきちんと批判することも含まれています。しかしそこには、私たちの罪が働く絶好の機会があることを意識しなければなりません。単なる噂や思い込みによって人を批判し、悪口を言うことを私たちは慎まなければならないのです。

陰口、中傷、軽率な断罪
 求道者会において学んでいる『ハイデルベルク信仰問答』におけるこの戒めの解説も読んでおきたいと思います。問112「第九戒では、何が求められていますか」に対する答えはこうなっています。「わたしが誰に対しても偽りの証言をせず、誰の言葉をも曲げず、陰口や中傷する者にならず、誰かを調べもせずに軽卒に断罪するようなことに手を貸さないこと。かえって、あらゆる嘘やごまかしを、悪魔の業そのものとして神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ、裁判やその他のあらゆる取引においては真理を愛し、正直に語りまた告白すること。さらにまた、わたしの隣人の栄誉と威信とをわたしの力の限り守り促進する、ということです」。ここにおいても、「偽証」は裁判におけることだけでなく、陰口や中傷、調べもせずになされる軽率な断罪を含むことが指摘されています。またここでは、あらゆる取引における嘘やごまかしも偽証であると言っています。IOCの総会で福島第一原発の汚染水問題について「The situation is under control.」と語って東京にオリンピックを招致した安部総理の発言は偽証だと言わなければならないでしょう。そして「ハイデルベルク信仰問答」も「ジュネーヴ教会信仰問答」と同じように、悪口や中傷を言わないだけでなく、「隣人の栄誉と威信とを力の限り守り促進する」ことこそが、この戒めを守って生きることだと語っているのです。

詮索好きなおしゃべり、噂話
 信仰の先達たちによるこれらの解説によって、私たちが人について軽率に、何気なく、あるいは悪意をもって語る噂話のたぐいも「偽証」であるということを示されます。ローマの信徒への手紙の第1章29、30節には「陰口を言い、人をそしる」ことが人間の罪として語られています。またテモテへの手紙一の第5章13節には「彼女たちは家から家へと回り歩くうちに怠け癖がつき、更に、ただ怠けるだけでなく、おしゃべりで詮索好きになり、話してはならないことまで話しだします」とあります。詮索好きなおしゃべり、つまり噂話が人間関係を、特に教会における交わりを破壊するものとなるのです。これらの二つの箇所は、ウイリアム・バークレーという人の「十戒」についての解説書に引用されていたものです。バークレーはこれらの引用の後でこう書いています。「うわさ好きで、うわさを楽しんでいる人たちは、お前たちは悪意をもったうそつきだなどといわれるとショックを受けるかもしれないが、まさにその通りなのであって、悪意ある偽りこそ聖書がきびしく非難しているものなのである」。人についての噂話を好む思いは、私たちの中にある隣人を悪く思いけなそうとする傾向によって、悪意ある偽りを生んでいくのです。それもまた隣人に関する偽証であることを自覚して、軽率な噂話をくれぐれも慎まなければならないのです。

隣人に関する良い言葉を語る
 隣人に関する言葉の重さ、責任を自覚するということは、このように私たちが、隣人に関して語る時に非常にしばしば罪に陥るという事実を自覚することです。しかしその罪を自覚する時、私たちはもはや隣人に関して一言も語れなくなるのではないでしょうか。人を悪く思い、けなそうとする傾向に陥らずに隣人に関する言葉を語ることは殆ど不可能であるように感じられます。そのような私たちに、「ジュネーヴ教会信仰問答」も「ハイデルベルク信仰問答」も、隣人に関して積極的に語るための励まし、勧めを与えてくれています。それは、隣人に関して語る時に、「かれらの名声が保たれるように」しなさいとか、「わたしの隣人の栄誉と威信とをわたしの力の限り守り促進する」ように、という勧めです。つまり偽証を禁じているこの戒めは、私たちが隣人に関して一切口を閉ざして何も語らなくなることを求めているのではなくて、むしろ隣人に関してより積極的に語り、隣人の名声、栄誉、威信を高め、保つような、つまり隣人を良く思い、その人に与えられている賜物を認め、喜び、受け入れるような、隣人と良い関係を結び築いていくための言葉を語っていくことをこそ求めているのです。隣人に関してそのような良い言葉を語ることはどうしたらできるのでしょうか。

本当のことを語ることと愛することのジレンマ
 隣人を良く思い、その人の存在を喜び受け入れるような言葉を語ると申しましたが、私たちはいつもそのように隣人のことを良く思い、喜び受け入れることはできません。極力、良く思うように努力するとか、軽卒な噂話に加わることをしないことは私たちの努力でできます。しかし、そのように努力していくとしても、やはりどうしてもその人を良く思えないことがあります。つまりその人の罪や弱さが、それによって自分や人々が受けている迷惑がどうしても見えて来てしまうことはあるのです。それを見ないふりをして相手を良く思っているような言葉を語ることは、これも偽りであり偽証ではないかと感じます。つまり私たちはしばしば、隣人に関する言葉を語ることにおいて、偽証をせずに本当のことを語ることと、相手を愛し、受け入れることとの板挟みになるのです。そしてある場合には本当のことを語ることが中心となり、その結果、私たちの言葉が人を裁く厳しい言葉になることがあります。またある場合には、相手を愛すること、受け入れようとすることが中心となり、その結果私たちの言葉が罪や問題を覆い隠したまま問題を先送りするような、その場を繕っているだけの言葉となってしまうこともあります。私たちはそういうジレンマの中を生きています。偽証をせずに本当のことを語ることと、隣人を愛し、良く思い、受け入れることとがなかなか両立しないのです。つまりこの第九の戒めによって私たちに与えられている課題はまことの重く困難なものであると言わなければならないのです。

主イエス・キリストにおいて
 しかし私たちは、本当のことを語り、しかも同時に人を徹底的に愛し受け入れるということを、私たちのために両立させて下さった方を知っています。それが主イエス・キリストです。主イエス・キリストは、真理を携えてこの世に来られました。主イエス・キリストにおいて、この世界の、私たちの、本当のこと、真実の姿が明らかになったのです。私たちの真実の姿、それは私たちが、神を神として信じ受け入れ従うのでなく、自分を中心に生きようとしているという罪の姿です。生まれつきの私たちはその罪のゆえに、神をも隣人をも、愛することができずにむしろ憎んでしまう傾向に陥っているのです。だから、人のことを悪く思い、けなそうとする思いにすぐに捕えられてしまうのです。そういう私たちの罪の姿は、主イエスが神の国の福音を宣べ伝え、神の愛を奇跡によって示して歩まれたのに、結局人々から捨てられ、捕えられて十字架につけられて殺されてしまったことに明確に表れています。主イエスの十字架の死において、神の愛を受け入れず、従おうとせず、むしろ憎んでしまう私たち人間の罪が明らかになったのです。しかしその主イエスの十字架の死において、同時に、主イエスが私たちの罪をすべて背負って、私たちの身代わりとして死んで下さったという救いの恵みもまた示され、明らかにされました。そこには、主イエスを遣わして下さった父なる神が、私たちの罪にもかかわらず徹底的に愛して下さっており、独り子の命を犠牲にすることによって私たちを受け入れて下さったことが示されているのです。主イエス・キリストにおいて、このような真理が、私たちの本当のことが明らかにされました。その真理とは、私たちが主イエスを十字架にかけるような滅びるべき罪人であると同時に、神がその私たちを徹底的に愛し、受け入れ、赦し、救いを与えて下さった、という恵みを明らかにしているのです。本日共に読まれた新約聖書の箇所、ヨハネによる福音書第8章31、32節の「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」という主イエスのみ言葉は、主イエスの示して下さる真理が私たちを自由にし、解放し、新しく生かすことを語っています。真理、本当のことを語ることと、相手を愛し受け入れることは、私たちにおいてはなかなか両立しませんが、主イエスにおいてはそれが一つとなっているのです。

主イエスの私たちに関する証言
 主イエスにおいて、真理、本当のことを語ることと、愛すること、罪人を受け入れることが一つとなっているのは何故でしょうか。それは主イエスが、私たちが罪人であることを示すと同時に、その罪を全てご自分で背負って下さり、十字架にかかって死んで下さることによって、罪人である私たちの赦しを実現して下さったことによってです。主イエスの十字架において、私たちが神に背き逆らう罪人であるという真理と、神が私たちを受け入れ、救いを与えて下さったという神の愛とが結び付けられているのです。そして主イエスは今、復活して天に昇り、父なる神の右に座して、そこで私たちのためにとりなしをして下さっています。主イエスが、罪人である私たちのために、父なる神の前で、私たちに関してとりなしの言葉を語って下さっているのです。つまり主イエスは父なる神による裁き、その法廷において、私たちに関して証言して下さっているのです。主イエスはそこで私たちに関する本当のことを語っておられます。私たちの罪を覆い隠して、偽って私たちを良い者として語るような偽証はなさいません。むしろ私たちの罪を全て神の前で明らかになさるのです。しかしそこで同時に主イエスは、この人のこれらの罪を全て私が背負って、十字架にかかって死にました。それによってこれらの罪の償いは終わっています。だから彼らは罪を赦された者です、と証言して下さっているのです。この主イエスの証言、とりなしの言葉によってこそ、私たちは神を礼拝し、神の民として生きることができているのです。

偽証からの解放
 主イエスのこのとりなし、証言は、この私のためにだけでなく、隣人たちのためにもなされています。私たちはこの主イエスのとりなしを共に受けつつ、隣人と共に生きていくのです。その時、私たちの、隣人に関して語る言葉が変えられていきます。隣人の罪や問題を見ないふりをする偽りの愛、ご機嫌取りや問題を先送りするだけの言葉ではなくて、それをしっかりと指摘し、悔い改めを求めて行くような言葉へと、しかも隣人を断罪し、裁いて切り捨てるような愛のない言葉でもなく、真実に相手を愛し受け入れ、交わりを築いていこうとする言葉、主イエスによる罪の赦しに裏付けられた、相手のためのとりなしの言葉を語っていくことができるようになっていくのです。私たちの隣人に関する言葉が、本当のことを語りつつ、人を赦し受け入れる愛の言葉となっていくのは、主イエス・キリストのとりなしの恵みの中でこそなのです。隣人に関してそのような言葉を語っていくために、ヨハネ福音書が教えているように、主イエスの言葉にしっかり留まり、主イエスの真理を知らされていくことを求めていきたいと思います。それによってこそ、私たちの隣人に関する言葉は偽証から救われていくのです。

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