夕礼拝

思い悩むな

5月7日(日) 夕礼拝
「思い悩むな」 副牧師 川嶋章弘
・詩編第55編23節
・ルカによる福音書第12章22-34節(1)

よく知られているみ言葉
 ルカによる福音書12章22-34節をお読みしました。本日と来週の二回に亘ってこの箇所を皆さんと味わっていきたいと思います。
 この箇所で主イエスは繰り返し「思い悩むな」と言われています。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(22節)。「何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな」(29節)。この「思い悩むな」という主イエスのお言葉はよく知られているみ言葉です。しかし私たちがこのお言葉を「悩むことなんてない。心配ない。きっとなんとかなる」と受けとめるなら、私たちは主イエスが本当に伝えようとしていることを聞き損なうことになります。よく知られているみ言葉だからこそ、私たちは丁寧に主イエスが語ることに聴いていく必要があるのです。

主イエスが前提としている状況
 22節で主イエスは弟子たちに「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」と言っています。それは、たくさんの選択肢の中から、何を食べようか、何を着ようか思い悩むな、ということではありません。そうではなく今日一日を生き延びるための食べ物のことで思い悩むな、衣服のことで思い悩むな、ということです。言うまでもなく生きていくためには食べ物が必要です。また外界から体を守って生きるためには衣服が必要です。だからわざわざ「命のことで」、「体のことで」と言われているのです。今日、命を養うための食べ物があるか分からない。今日、体を守るための衣服があるか分からない。主イエスはそのような状況を前提として語っています。そしてそのような状況にあっても、何を食べようか、何を着ようか思い悩むな、と言われているのです。

私たちの状況
 私たちも日々の生活の中で「何を食べようか」、「何を着ようか」としばしば思い悩みます。テレビでは頻繁にグルメ番組が放映されていて、人気の店、隠れ家的な店が紹介され、出演者がいかにも美味しそうに料理を食べています。テレビだけでなく雑誌やネットでもグルメについての情報が溢れています。ファッションについても同じです。そのような情報の洪水の中で、私たちは「何を食べようか」、「何を着ようか」と悩むのです。このような私たちの状況は、主イエスが前提としている、今日を生きるための食べ物があるか分からないという状況とはまったく違います。私たちの「何を食べようか」、「何を着ようか」という悩みは、とても恵まれた状況での贅沢な悩みなのです。もちろん現代にあっても、今日、食べる物があるか分からないという状況で生きている方は少なくありません。世界では「1日あたり1.90米ドル以下(いわゆる「極度の貧困状態」)」で暮らしている方々が7億人以上いるとされます(unicef.or.jp より。2020年のデータ)。日本においても貧困の問題、とりわけ子どもの貧困の問題は極めて深刻ですし、世界でも日本でも貧富の格差がますます広がっています。私たちはこのことをしっかり受けとめ、それぞれに出来ることを模索していかなくてはならないし、なによりもこのことを覚えて執り成し祈り続けていかなくてはなりません。しかしそれでも私たちの多くは、今日、食べる物があるだろうか、着る物があるだろうかと悩むことはないのではないでしょうか。

私たちも思い悩んでいる
 そうであるならば、主イエスの「思い悩むな」というお言葉は、私たちに関わりのない言葉なのでしょうか。主イエスは、私たちに語りかけてくださっているのではない、ということなのでしょうか。そうではありません。主イエスが前提としている状況とは違っていても、私たちは確かに日々の生活の中で思い悩んでいます。今日、食べられるかどうか分からないという悩みには直面していなくても、もう少し長いスパンで見れば、私たちも様々な悩みに直面しているのです。そのような思い悩みについて、幾つか具体的に取り上げて思い巡らしたいと思います。

自分が認められるために思い悩む
 先ほど、グルメやファッションについての情報の洪水の中で、「何を食べようか」、「何を着ようか」という私たちの思い悩みは、とても恵まれた悩みだと申しました。確かにそうなのですが、しかしそのような悩みのすべてが、深刻でないとは言い切れないようにも思えます。若い人たちを中心として、おしゃれで素敵な料理や衣服の写真をSNSに投稿することが盛んに行われています。いわゆる「インスタ映え」する写真をアップするのです。そのような方たちの中には料理や衣服を楽しむことより、インスタ映えする写真を投稿することに心血を注いでいる方もいるようです。そうするとその方たちは、インスタ映えする写真を撮るために「何を食べようか」、「何を着ようか」と思い悩むことになります。悩んでまでインスタ映えする写真を投稿したいという思いの裏側には、できるだけ多くの人から「いいね」をもらいたい、という強い思いがあります。それのどこが深刻か、と思う方もいるでしょう。しかしそれこそが深刻だ、と思っている方もいるのです。「いいね」をもらうことで自分が認められているように思え、もらえなければ自分が拒絶されているように思えるからです。突き詰めれば、「いいね」をもらえれば、自分は存在価値があり生きていて良いと思えるのであり、「いいね」をもらえなければ、自分は存在価値がなく生きていてはいけないように思えるのです。皆がそうだと言っているのではありません。でもそういう方もいる。その方たちにとって、インスタ映えする写真を撮るために「何を食べようか」、「何を着ようか」と思い悩むことは、自分の存在価値がかかった、生きるか死ぬかの悩みなのです。

心身の重荷を抱える中で思い悩む
 また、たくさんの選択肢の中から「何を食べようか」と思い悩むのは、確かに贅沢な悩みに違いありません。しかし必ずしもそうではないことがあります。心身の重荷を抱えると、「何を食べるか」を考えるのがとても苦しくなります。抑うつ状態の中で、その日の献立を考えるのは本当に苦しいことです。たくさんの選択肢の中から選び、あるいは組み合わせなければならないからこそ、その苦しみと悩みは大きくなるのです。今まで当たり前に献立を考えることができていたのに、心身の重荷によって急に献立を考えることが難しくなるとき、こんなこともできない自分には生きる価値がないのではないかと思います。食べ物が豊かにあって恵まれているからと言って、「何を食べようか」という思い悩みが必ずしも贅沢な悩みとは限りません。現代にあっても、主イエスの時代と状況は違っていても、「何を食べようか」という思い悩みが、深刻で苦しい悩みであり得るのです。

将来について思い悩む
 「何を食べようか」、「何を着ようか」という思い悩みだけが、深刻な悩みなのではありません。私たちが日々の生活の中で直面する悩みは、ほかにも様々なものがあります。今、私たちは将来について思い悩んでいるのではないでしょうか。ある人が、若い人たちが積極的に選挙に行かないことについて、今日の生活で精一杯の若い人たちが将来に希望を持てるはずがない。だから将来のあり方を決める選挙に行こうとしないのは当然だ、と言っていたのを印象深く覚えています。その主張が正しいかどうかはさておき、希望が持てない将来への思い悩みがこの社会を覆っているのです。若い人たちには、ほかにも受験や就職の思い悩みがあります。また働き盛りの人たちには、家族の介護の思い悩みがあります。そして歳を重ねた人には、自分の老後についての思い悩みがあります。私たちの人生は、実に様々な思い悩みで満ちているのです。主イエスの時代と状況は違っても、私たちは日々、思い悩みながら生きている。それが私たちの現実なのです。

烏と野の花に目を向ける
 そのような私たちに主イエスは「思い悩むな」と言われます。そして主イエスは私たちの目を烏と野原の花に向けさせるのです。24節でこのように言われています。「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だか、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」。また27-28節でこのように言われています。「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがにはなおさらのことである」。主イエスは、烏や野の花が思い悩むことなく気楽に生きているように、あなたたちも同じように生きなさい、と言われているのではありません。ここで主イエスが見つめているのは、烏や野の花は思い悩まないということではなく、神様が烏を養っていてくださり、野の花を装っていてくださる、ということです。烏は種を蒔くことも、その実りを刈り入れ、納屋や倉に納めることもしないけれど、つまり自分の力で自分の糧を作るわけではないけれど、しかし神様が烏を養っていてくださる。野の花も、働いたり紡いだりして自分を装うわけではないけれど、神様が装っていてくださる。その神様の養い、神様の守りに目を向けなさい、と主イエスは言われているのです。

神は私たちを養い、装ってくださる
 烏に対しては、あまり良い印象を持っていない方が多いかもしれません。しかしそのような私たちが持つ印象とはまったく異なる次元で、ユダヤ人にとって、烏は避けるべきものでした。律法の定めによれば、烏は「汚らわしいもの」(レビ記11章15節)だからです。食べてはならない汚らわしいものであり、それゆえに売る価値のないものでした。しかしその「汚らわしいもの」とされた烏をも神様が養っていてくださる、と主イエスは言われます。ユダヤ人である弟子たちは、この主イエスのお言葉に大きな衝撃を受けたに違いありません。24節後半で主イエスは、「あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか」と言われています。ここでは「烏」が「鳥」に変わっていますが、いずれにしても律法において「汚らわしいもの」とされた烏ですら養ってくださる神様が、ご自分に似せてお造りになった私たち人間を養ってくださらないはずがない、と主イエスは言われているのです。

 野の花についても、主イエスは「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである」と言われています。なぜ、野の花や草が炉に投げ込まれるのだろうか、と思うのではないでしょうか。このことの背景にはイスラエルの風土が関係していて、薪が貴重で希少なイスラエルでは、野の花や草も炉の燃料として用いられていたようです。ですからユダヤ人にとって野の花や草は、そのような燃料として炉に投げ込まれてしまうものであったのです。しかしその野の花や草ですら神様は装ってくださる。そうであるならば、神様が人間を装ってくださらないはずがない、人間に心を配ってくださらないはずがない、と主イエスは言われているのです。

神を信じることから切り離せない
 主イエスは私たちの目を烏と野の花に向けさせることによって、神様が私たちを見守っていてくださり、養っていてくださることを示されました。その神様を信じて生きる歩みに、思い悩みからの解放が与えられていくのです。主イエスは「思い悩まなくても大丈夫」とか「思い悩むことなんてない」と私たちに言われたのではありません。「思い悩むな」と私たちに命じられているのです。「思い悩んではならない」と命じられているのです。それは、別の言い方をすれば、神様を信じなさい、ということです。烏と野の花に目を向けさせることを通して、主イエスが示されたのは、思い悩まずに生きることは、私たちを養ってくださる神様を信じて生きることから決して切り離すことができない、ということだからです。確かに「思い悩むな」という主イエスのお言葉はよく知られています。教会に来たことがない方でも、聖書を読んだことがない方でも、神様を信じていない方でも知っているかもしれません。しかし神様を信じることなしに、この主イエスのお言葉を受けとめることはできないし、それゆえ本当に思い悩むことなく生きることはできないのです。

 だから30節で「それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ」と言われています。「世の異邦人」とは神様を信じない人々のことです。神様を信じることなしに生きるとき、飽くことなく「何を食べるか」、「何を飲むか」を切に求めて、思い悩まなくてはならないのです。また、本日の箇所の冒頭22節で「それから、イエスは弟子たちに言われた」とあることも見逃すことはできません。前回お話ししたように、12章の冒頭で、大勢の群衆に囲まれる中で主イエスは弟子たちに向けて話し始められました。ところが13節以下では、そこに割り込んで来た群衆の一人に対して、主イエスが話されていました。しかし本日の箇所の冒頭では、改めて、主イエスが弟子たちに話されたことが示されているのです。それは主イエスが、本日の箇所で、主イエスの弟子として主イエスに従い、神様を信じている人たちに向かって語りかけているということにほかなりません。洗礼を受けて、主イエスの弟子とされた私たちに語りかけているのです。もちろん礼拝には洗礼を受けておられない方も出席されています。その方々は、せっかく礼拝に出席しているのに、洗礼を受けていない自分には「思い悩むな」という主イエスのお言葉は関係ないのか、とがっかりされるかもしれません。しかしそうではありません。神様によって招かれ、礼拝に出席していることそれ自体が、その方たちの心の内に神様を信じる信仰が芽生えていることだからです。ですからこの礼拝で、洗礼を受けている方だけでなく、まだ洗礼を受けておられない方にも、神様を信じて生きる歩みにこそ思い悩んで生きることからの解放がある、と告げられているのです。

私たちを愛してくださる神を信じる
 私たちが信じるこの神様は、得体の知れないお方ではありません。独り子を十字架にかけてまで私たちを愛してくださっているお方です。主イエス・キリストの十字架と復活によって私たちの救いを実現してくださり、世の終わりの復活と永遠の命の約束を与えてくださったお方なのです。25-26節で主イエスは「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか」と言われています。私たちは自分の命をわずかでも延ばすことができません。私たちの命は私たちのものではなく神様のものだからです。神様こそが私たちに命を与えてくださり、その命を養い守ってくださり、お定めになっているときにそれを終わらせられ、そして世の終わりに復活と永遠の命を与えてくださるのです。その神様を信じて生きるとき、私たちに思い悩まない人生が与えられるのです。神様が本当に自分を愛し、認め、大切にしてくださっていることを信じて生きるとき、「いいね」をもらえることに自分の存在価値を見いだすことから解放されます。神様の養いと守りの下で生かされていると信じて生きるとき、心身の重荷によって、当たり前に出来ていたことが出来なくなってしまったとしても、そのことを受けとめていくことができます。神様が地上における死を超えて復活と永遠の命を約束してくださっていると信じて生きるとき、将来に希望が持てないときも、受験や就職に思い悩み、家族の介護や自分の老後に思い悩むときも、絶望することなく生きていけるのです。

思い悩みが決定的に支配することはない
 だからと言って、神様を信じたらすぐに私たちは思い悩むことがなくなる、ということではありません。神様を信じたら、受験や就職の悩みが、家族の介護や自分の老後の悩みが消えてなくなるわけではないのです。しかし私たちが神様を信じて生きていくならば、なお悩みがあり、苦しみや悲しみがあったとしても、その悩みや苦しみや悲しみが、私たちを決定的に支配することはもはやありません。私たちの人生を支配しているのは、私たちに命を与え、その人生を導き、支え、守り、お定めになっているときにそれを取り去られ、そして世の終わりに復活と永遠の命を与えてくださる神様にほかならないからです。私たちがこのことを信じて歩んでいく中で、思い悩みからの解放が与えられ、私たちは思い悩みから自由になって生きることができるようになるのです。

与えられる信仰を小さいものにしない
 しかし私たちはそれほどまでにしっかり神様を信じて生きることができるだろうか、と思います。そんな信仰は自分にはないと思うのです。そのような私たちに主イエスは「信仰の薄い者たちよ」と言われます。「薄い」とは「小さい」ということです。ですから「信仰のない者たち」と言われているのではなく、「信仰の小さい者たち」と言われているのです。信仰が小さいとは、私たちがなかなか神様を信じきれずに疑ってしまうとか、なかなか神様のみ心に従って生きることができないとか、そういうことでもあるでしょう。しかしそれだけでなく、信仰が小さいとは、「そんな信仰は自分にはない」と言って、自分で自分の信仰を小さいものにしてしまうことでもあるのです。私たちは自分が信仰を持つようになる、あるいは自分が信仰を持っていると考えがちです。確かにそのような面もあります。しかし信仰は、根本的には神様が私たちに与えてくださるものなのです。ですから私たちが神様を信じて生きるとは、神様が私たちに与えてくださっている信仰を受け入れて生きることです。神様が私たちに与えてくださっている信仰は、決して小さいものではありません。まことに大きなものです。烏をも養い、野の花をも装ってくださる神様が、私たちを養っていてくださる。独り子を十字架にかけてまで私たちを愛してくださっている神様が、私たちを支え、守っていてくださる。このことを信じる信仰が私たち一人ひとりに、礼拝に集うすべての人に与えられています。その信仰を私たちは小さいものにするのではなく、小さいままにするのでもなく、豊かに受け入れて生きていくのです。

思い悩みを神に委ねる
 共に読まれた旧約聖書詩編55編23節にこのようにあります。「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる」。神様を信じて生きるとは、こういうことです。神様が与えてくださっている信仰を受け入れるとは、このように告白しつつ生きることです。私たちの重荷を、思い悩みを、神様に委ねます。私たちを養い守ってくださる神様に、私たちに命を与え、人生を導き、それを取り去られ、そして世の終わりに復活と永遠の命を与えてくださる神様に委ねます。その私たちを、神様は必ず支えてくださるのです。なお私たちが様々な思い悩みに直面するとしても、神様は私たちに動揺しない歩みを、思い悩みから解放された歩みを与えてくださるのです。私たちはこのことをこそ信じて生きていくのです。

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