夕礼拝

ヨナにまさるもの

「ヨナにまさるもの」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:ヨナ書 第3章1-10節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第11章29-32節
・ 讃美歌:

天からのしるしを求める者に対して
 ルカによる福音書11章14節で、主イエスが口を利けなくする悪霊を追い出されたことが語られていました。悪霊が出て行くと、口の利けなかった人が話し始めたので群衆は驚いたとも語られています。その群衆の中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(15節)と言う者がいました。これに対する主イエスの反論が17節以下で語られています。悪霊の頭の力で悪霊を追い出すような内輪もめをすればサタンの国は成り立たなくなる。だから悪霊の頭の力ではなく神の力で悪霊を追い出している、と言われたのです。また群衆の中には「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者」(16節)もいました。本日の箇所で主イエスは、この「天からのしるしを求める者」に対して語られているのです。

今の時代の者たちはよこしまだ
 冒頭29節に、「群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた」とあります。主イエスが悪霊を追い出し、口の利けない人を癒されたことを聞きつけた人たちが集まってきたのだと思います。私たちはご自分のもとに集まる人たちを温かく迎え入れてくださる主イエスのお姿を思い浮かべがちですが、このとき主イエスは自分のところに集まってきた多くの群衆に対して「今の時代の者たちはよこしまだ」と、開口一番言われたのです。「よこしま」と訳された言葉は「悪い」という意味の言葉ですから、主イエスは「今の時代の人たちは悪い」と言われたことになります。それは、新聞で専門家が、あるいはテレビでコメンテータが「今の時代」について論評しているのとはだいぶ違います。主イエスは目の前に集まっている群衆に対して、「この時代の人たちは悪い」、「あなたたちは悪い」と突きつけられ、ご自分のもとに集まった人たちを突き放すような言葉を語られたのです。

しるしを欲しがる
 29節の後半で主イエスは「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われています。主イエスが「今の時代の人たちはよこしまだ」と言われたのは、彼らがしるしを欲しがるからです。「ヨナのしるしのほかに」がなにを意味するかは後から見ることにしますが、この言葉を括弧に入れるなら、ここで主イエスは、今の時代の人たちはしるしを欲しがるが、しるしは与えられない、と言われていることになります。主イエスが口の利けない人を癒されたのを見た人たちの中には「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者」がいました。「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める」とは、主イエスが救い主である証拠を求めるということです。主イエスの癒しのみ業を見ても、それだけでは主イエスが救い主だと信じられなかったのです。「天からのしるしがなければ、神からの証拠がなければ信じられない」あるいは「信じてあげない」、そのような思いがあったのではないでしょうか。しかもそのような人が数名いるということではありません。今の時代の多くの人たちが「天からのしるし」を欲しがるのであり、それが「今の時代」の特色であり、全体的な傾向だと言われているのです。

エビデンスに基づいて決める
 しるしを欲しがるのは、主イエスの時代だけの特色ではないでしょう。今、私たちが生きている時代の特色でもあり、全体的な傾向でもあるのではないでしょうか。この三年に亘るコロナ禍にあって、度々「エビデンスに基づいて決める」という説明がなされてきました。どのような感染対策を行うべきか、ある程度は科学的(統計的)根拠(エビデンス)に基づいて決められてきたのだと思います。もちろん私たちはこのような科学的根拠に基づく判断や決断を疎かにするべきではありません。たとえ同じ状況であっても、その状況に対する私たちの感じ方は様々だからです。根拠なしに判断し、決断するなら、なぜそのように判断し、決断したのかを説明できません。説明できなければ納得してもらうことも、合意を形成していくことも難しいでしょう。しかし根拠があれば、たとえ感じ方に違いがあったとしても、その根拠に基づいて説明することによって合意を形成していけるかもしれないのです。

救いのエビデンスを求める
 しかしこのようなエビデンスを求める今の時代の傾向を、私たちの救いに関わる事柄に持ち込んでしまうなら、私たちの時代も「天からのしるし」を欲しがる時代、よこしまな、悪い時代ということになります。主イエスのところに集まった群衆たちは、目の前におられる主イエスご自身のお言葉を聞き、み業を見たのに、主イエスが救い主であることを信じようとせず、もっと確かな証拠を、「天からのしるし」を欲しがりました。ここに主イエスの前で自分を低くしようとしない彼らの姿を見ることができます。「イエスを試そうとして」と言われていたように、彼らは主イエスの前で自分を低くするどころか、自分を高くして、主イエスが救い主なのかどうかを見定めようとしたのです。
 私たちは彼らの姿を他人事のように眺めているわけにはいきません。確かに主イエスのところに集まった群衆とは違い、私たちはみ言葉を語ってくださる主イエスをこの目で見ることはできません。しかしそれは、今、主イエスが語りかけていてくださらないということではありません。主イエスは今も生きて働かれ、聖霊のお働きによって語りかけてくださっています。それにもかかわらず私たちは、しばしば主イエスの前で自分を低くすることができず、主イエスのお言葉を信じようとせず、自分の納得できる救いを求めて神に「しるし」を、エビデンスを要求しようとするのです。それは、神に対してまことに思い上がった振る舞いです。自分の納得できる救いを求めるとは、結局、自分の頭の中に神を、そして神の救いのみ業を閉じ込めてしまおうとすることにほかなりません。そのとき私たちは神のみ業が私たちの思いをはるかに越えていることを忘れ、自分たちの思った通りに神がしてくださると勘違いしているのです。

「ヨナのしるし」だけは与えられる
 しかしだからといって神は私たちに何も与えてくださらないのではありません。神が私たち与えてくださっているものがある。それが本日の箇所では「ヨナのしるし」と言われています。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われていました。しるしを欲しがっても、しるしは与えられない。けれども「ヨナのしるし」だけは与えられるのです。私たちは神が与えてくださる「ヨナのしるし」にこそ目を向けていかなくてはならないのです。
 続く30節で主イエスは、「つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる」と言われています。つまりヨナのしるしが与えられるとは、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子である主イエスが、今の時代の人たちに対してしるしとなることなのです。このことが何を見つめているのかを、主イエスは続く31-32節で旧約聖書の二つの物語を通して語られました。まず31節では南の国の女王について、続く32節ではニネベの人々について語られています。

南の国の女王
 31節にこのようにあります。「南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである」。南の国の女王とは、旧約聖書列王記上10章に登場するシェバの女王のことです。そこではシェバの女王がイスラエルの王ソロモンを表敬訪問したことが語られています。ダビデの子ソロモンの時代に、イスラエル王国は最も繁栄しました。列王記上5章1節にはソロモンの統治について「ソロモンは、ユーフラテス川からペリシテ人の地方、更にエジプトとの国境に至るまで、すべての国を支配した。国々はソロモンの在世中、貢ぎ物を納めて彼に服従した」とあります。イスラエル王国に従属していた国々から納められた貢ぎ物は、イスラエル王国の国庫を潤したに違いありません。豊かな富があったからこそ、9章10節に「ソロモンは、二十年を費やして二つの建物、主の神殿と王の宮殿を建て終わった」とあるように、長期間に亘って、膨大の物資と労働力を投入して、エルサレム神殿と宮殿を建築することができたのです。またソロモンはその知恵によっても周辺諸国に知れ渡っていました。5章9節以下にはこのように記されています。「神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった。ソロモンの知恵は東方のどの人の知恵にも、エジプトのいかなる知恵にもまさった。彼は…最も知恵ある者であり、その名は周りのすべての国々に知れ渡った。彼の語った格言は三千、歌は千五首に達した…あらゆる国の民が、ソロモンの知恵をうわさに聞いた全世界の王侯のもとから送られて来て、その知恵に耳を傾けた」。シェバの女王も、そのようなソロモンの名声を聞いた一人です。シェバは現在のイエメンのあたりですが、女王はそこからエルサレムのソロモンを訪ねたのです。彼女はソロモンに難しい質問をして彼の知恵を試しましたが、ソロモンは彼女の質問にすべて答えました。「王に分からない事、答えられない事は何一つなかった」(3節)と言われています。

莫大な富と労力、時間を投じて
 ソロモンの名声や知恵がこれほど知れ渡っていたのであれば、シェバの女王がソロモンを訪ねたことは驚くべきことではないと思うかもしれません。しかしこの訪問は、私たちが思うほど簡単なことではなかったはずです。現在のイエメンはアラビア半島の南端で、イエメンの首都サナアからエルサレムまで地図上の距離で2,000キロ以上はあります。当時は、簡単に往復できる距離ではありませんでした。だからこそ主イエスは「この女王は…地の果てから来た」と言われたのです。ソロモンの名声が知れ渡っていたと言っても、インターネットなどない時代ですから、うわさにどれほどの信憑性があるかは分かりません。SNSにソロモンが建てた神殿や宮殿の映像がアップされていたわけでも、彼の語った格言や歌がアップされていたわけでもないのです。エルサレムに来て、ソロモンの知恵と彼の建てた宮殿を目の当たりにした女王自身がこのように言っています。「わたしが国で、あなたの御事績とあなたのお知恵について聞いていたことは、本当のことでした。わたしは、ここに来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じてはいませんでした」(10章6-7節)。信じていなかったにもかかわらず、それでもこの女王は、「ソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来た」のです。しかも10章2節には「彼女は極めて大勢の随員を伴い、香料、非常に多くの金、宝石をらくだに積んでエルサレムに来た」とあります。シェバの女王はソロモンの知恵を聞くために、莫大な富と労力、時間を投じてエルサレムへやって来たのです。

神の知恵を求めていない
 この女王の姿は、天からのしるしを欲しがる今の時代の人たちの姿とはまったく異なるのではないでしょうか。しるしが与えられなければ信じられない、エビデンスがなければ、確証がなければ動くことができないという今の時代の人たちの姿とは、つまり私たちの姿とはまったく異なるのです。確証がなくても、莫大な富と労力、時間を献げてまで、この女王はソロモンの知恵を聞きに行きました。それは、神がソロモンに授けた知恵を聞きに行ったということであり、つまり神の知恵を聞きに行ったということにほかなりません。しかし今の時代の人たちは、私たちはそれほどまでに神の知恵を求めているでしょうか。シェバの女王のように、確証がなくても多くのものを献げて神の知恵を求めようとしているでしょうか。求めていないのではないか。神の知恵が本当に役に立つと分かっているなら聞いても良い。でもそうでないならわざわざ時間を割いてまで求めなくても良いと思っているのです。神の知恵に頼らなくても自分の知識でなんとかなると思っているからです。主イエスは、今の時代の人たちとシェバの女王を比べて語っています。神の知恵を求めず、したがって神の知恵を畏れず、神の前で自分を低くしようとせず、自分の力でなんとかしようとする今の時代の人たちを、この女王は世の終わりの裁きの時に罪に定めると言われたのです。

ニネベの人々
 続く32節にはこのようにあります。「ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである」。ニネベの人々がヨナの説教を聞いて悔い改めた出来事は、本日共に読まれた旧約聖書ヨナ書3章に語られています。主なる神はヨナにアッシリアの首都ニネベに行って、主の言葉を告げるよう命じられました。ヨナは主が命じた通りニネベに行きます。3章4-5節にこのように語られています。「ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。『あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。』すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった」。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」というヨナの言葉を聞いたニネベの人たちは悔い改めたのです。彼らが断食し、身に粗布をまとったのは彼らが悔い改めたことのしるしです。悔い改めるとは、反省することではありません。「あと四十日すれば滅びる」と聞いて、自分たちのこれまでの生き方を反省したのではないのです。そもそも生き方を反省したぐらいで、神による滅びを免れるはずがありません。悔い改めるとは、神からそっぽを向いていたのに神の方に向き直ることです。ヨナの言葉を聞いたニネベの人たちは、神を信じ、神の方に向き直り、神に背く悪の道から離れたのです。しかもニネベにいた一部の人たちだけが悔い改めたのではありません。ニネベにいるすべての人たちが悔い改めました。いえ人間だけではありません。7-9節に「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない…人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ」とあるように、ニネベの王は家畜に至るまで断食と粗布をまとうことを命じたのです。4章11節にニネベには「十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいる」とありますが、ニネベの都全体が、その時代にニネベに暮らす十二万人以上のすべての人たちが、「あと四十日すれば滅びる」というヨナの言葉を聞き、神を信じ、方向転換して神の方に向き直ったのです。
 ヨナはなにか特別なことをしたわけではありません。ニネベの人たちの前で驚くべき奇跡を行ったわけでも、彼らに丁寧に語りかけたわけでもありません。ただ、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と叫びながらニネベの都を歩き回っただけです。しかもヨナは、ニネベの人たちが悔い改めることを願っていたのではありません。むしろ滅ぶことを願っていた、少なくとも滅んでも仕方がないと思っていたのです。

主イエスの言葉を聞いても信じない
 このニネベの人たちの姿も、天からのしるしを欲しがる今の時代の人たちの姿とはまったく異なるのではないでしょうか。主イエスは悪霊を追い出し口の利けない人を癒されました。そのみ業を目の当たりにしても、今の時代の人たちは主イエスが救い主であることを信じず、しるしを求めたのです。「神の国はあなたたちのところに来ている」という主イエスのお言葉を聞いても、今の時代の人たちは、そして私たちは、それなら神の国が来ている証拠が欲しいと求めるのです。ここでも主イエスは今の時代の人たちとニネベの人たちを比べて語っています。主イエスのみ業を目の当たりにしても、主イエスのお言葉を聞いても、神を信じようとしない今の時代の人たちを世の終わりの裁きの時に、ニネベの人たちは罪に定めるのです。

ソロモンにまさりヨナにまさる神の国の到来の現実
 主イエスは、「この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである」と語った後で、「ここに、ソロモンにまさるものがある」と言われ、また「ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである」と語った後で、「ここに、ヨナにまさるものがある」と言われました。「ここに」ある、ソロモンにまさるもの、ヨナにまさるもの、とは何でしょうか。それは、主イエスによって実現した、すでに神の国が私たちのところに来ているという現実のことです。ソロモンにもヨナにもまさる、神の国の到来の現実が「ここに」あるのです。それにもかかわらず、今の時代の人たちは、そして私たちは、シェバの女王のように時間と労力を献げて神の知恵を求めようとしないし、ニネベの人たちのように神の言葉を信じ、神に立ち帰ろうともしないのです。

私たちに与えられているしるし
 私たちはシェバの女王ほどに神の知恵を求めようとせず、ニネベの人たちほどに神の言葉を信じようとせず、むしろ天からのしるしを欲しがり、神に証拠を求め、エビデンスを求めてしまいます。しかしそのような私たちに、神は「ヨナのしるし」を与えてくださっているのです。しるしが欲しいと、エビデンスが欲しいと思い上がってしまう私たちに、主イエスは「あなたたちはよこしまだ」と言われるだけではなく、「ヨナのしるし」が与えられていると言われます。私たちに与えられている「ヨナのしるし」。それは、主イエスの言葉です。主イエスを通して語られる神の言葉と知恵です。ヨナの語った言葉がニネベの人たちに対してしるしとなったように、主イエスが語る言葉が私たちに対するしるしとなるのです。主イエスを通して私たちに語りかけられる神の言葉と知恵こそが、「今の時代の人たち」に、つまり私たちに与えられているしるしなのです。「人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる」とは、このことを見つめているのです。私たちに与えられているしるしは、群衆が期待していたようなしるしでも、私たちが求めるようなエビデンスでもありません。私たちが救いについて合理的に納得するためのエビデンスではないのです。そうではなくそのしるしは、私たちの思いを越えた、私たちを本当に生かす救いの現実を告げています。主イエスを通して私たちに語りかけられる神の言葉と知恵は、ソロモンにもヨナにもまさる、神の国が私たちのところに来ているという救いの現実を告げているのです。主イエス・キリストの十字架によってすでに神の国が実現し、私たちがその神の国に入れられて生きていることを告げているのです。神の国に入れられて生きるとは、神のご支配のもとで、世の終わりの神の国の完成を待ち望みつつ、希望を持って生きることにほかなりません。この希望こそが、私たちの人生を支え、私たちを本当に生かし続けるのです。

神の言葉と知恵を求める
 私たちは毎週の礼拝で、神のみ前に自分を低くし、神の言葉と神の知恵を聞きます。主イエスは「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(11章28節)と言われました。だからこそ私たちは神の言葉と知恵をこそ求め、それを受けとめていきたいのです。シェバの女王のように、労力と時間を献げて神の言葉と知恵を求めていきます。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」というヨナの一言を聞いて悔い改めたニネベの人たちのように、私たちも与えられたみ言葉を受け入れ、み言葉によって神の方に向き直っていきます。私たちに与えられているしるし。私たちが求めるべきしるしは神の言葉です。主イエスの語りかけです。私たちが生きている「ここに」、ソロモンにまさりヨナにまさる、神の国の到来の現実があります。救いの恵みの現実があるのです。私たちは毎週の礼拝で与えられる神の言葉と知恵から、私たちがこの救いの恵みの現実に生かされていることを告げ知らされ、支えと慰めと希望を与えられて歩んでいくのです。

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