主日礼拝

誰が私を救ってくれるのか

「誰が私を救ってくれるのか」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編第107編1-9節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第7章7-25節
・ 讃美歌:116、280、474

パウロの自己分裂  
 ローマの信徒への手紙を礼拝において読み進めて来て、第7章に入った時に、この第7章は昔から多くの人に愛され、親しまれてきた箇所だ、ということを申しました。それは、パウロがここで自分の信仰における葛藤、自己分裂を赤裸々に告白しているからです。そこに私たちは親しみを感じ、あの偉大なパウロも私たちと同じ弱さを持ち、罪をかかえていたのだ、という親近感を覚えるのです。パウロが抱えていた葛藤、自己分裂は15節に示されています。「わたしは、自分のしているころが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」。あるいは21節の「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます」、ここにもそれが語られています。その自己分裂の極みが24節の「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」です。こういうパウロの叫びに私たちは、自分と同じ弱さ、嘆きを見出して親しみを覚えるのです。しかしその説教においても申しましたが、そのように読むことは決して間違いではないが、パウロがここで語っている信仰の弱さ、嘆きを、私たちが感じている弱さ、嘆きとあまり簡単に重ね合わせてしまうと、パウロが語っていることを正しく捉えることができなくなってしまいます。例えば「善をなそうと思う自分にいつも悪が付きまとっている」ということを私たちが感じる時、それは、善いことをしよう、神に従い、み心に適う生活をしようと心では思うのだが、ついいろいろな誘惑に負け、生活上の事情に流されてしまってそれができない、いつも神に背くようなことばかりをしてしまう、というようなことでしょう。しかしパウロの嘆きはそれとは違うのです。パウロは15節で「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする」と言っています。彼は、善いことをして神に従って生きることを心から望み、神に逆らうことを憎んでいるのです。私たちは果してそう言えるでしょうか。私たちが「善いことをしようと心では思うんだけど、神様に従った生活をしなければとは思うんだけど」と言う時、私たちは果してそれを本当に望んでいるでしょうか。「望んでいる」とは「そうしたくてうずうずしている」ということです。しかし私たちはむしろ、「そうしなければならない、それが人間として、また信仰者としての義務だ」と感じているのではないでしょうか。「そういう義務感はあるのだが、それを実行する力がない」というのが私たちの実情ではないでしょうか。そしてその「力がない」というのは、実は力がないのではなくて、その気がない、のではないでしょうか。つまり、善いこと、神様に従うことを本当には望んでいない、それが義務だとは感じているが、本心ではむしろ逆のことを、神に従うのではなくて自分の思いや欲望に生きることの方を望んでいる、だからそれができないのです。ですからパウロは19節で「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」という自己分裂を語っていますが、私たちの場合には「自分の望まない善は行なわず、望んでいる悪を行なっている」と言った方が正確なのではないでしょうか。そして私たちはそのことを、ああ自分は弱くてダメな人間だなあと嘆いてみせている、しかし本当に嘆いているだろうか、本当に自分が惨めな者だと思っているだろうか、パウロが言っているように「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」という思いで救いを求めているだろうか、それははなはだ疑問だと言わなければならないのではないでしょうか。ですから私たちは、パウロがここで語っている信仰の葛藤、自己分裂、それによる惨めさを、私たちが抱いている自分の弱さへの嘆きと重ね合わせて分かったようなつもりになってはならないのです。

キリスト信者の嘆きか、未信者の嘆きか?  
 パウロがここで語っている嘆きをどのように解釈するかについては、古来議論が絶えません。つまり教会の歩みにおいて、このパウロの嘆きは決して簡単に「分かった」と思われては来なかったのです。この嘆きについてなされてきた議論の中心は、一言で言えば、この嘆きはキリストを信じた信仰者の嘆きなのか、信じていない人の嘆きなのか、ということです。なぜそういう議論が起るのかというと、もしも24節の嘆きの叫びが、信仰者となり、さらには伝道者、使徒として生きているパウロの嘆きであるとするなら、キリストを信じている者が、自分は死に定められていると嘆いている、ということになるからです。そうであれば誰もキリストを信じようとは思わないだろう、と私たちは思ってしまいます。現に、ある仏教徒が、キリスト教を批判するためにこの24節の嘆きを引き合いに出して、「キリスト教では人は救われない、その最大の指導者であるパウロですらこんなことを言って嘆いているではないか」と書いているのをどこかの本で読んだことがあります。だからキリストを信じている者がこのような嘆きを抱くというのでは伝道ができない、と思う人がいても不思議はないでしょう。そのように思う人たちは、パウロがここで語っている嘆きを、「これはパウロが以前キリスト信者たちを迫害していた時に心の中で抱いていた嘆きを振り返って語っているか、あるいは、まだ信仰を持っていない人が抱いている嘆きを代弁してこのように語っているのだ」と読もうとするのです。そしてそのような読み方によれば、続く25節の「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」は、そのような嘆きの中にあった者がキリストを信じる信仰を得たことによってその嘆きから解放されて語っている感謝だ、ということになります。つまり24節の嘆きが25節の感謝に転換しているのは、未信者が信者になり、信仰を持っていなかった者が信仰者となったことによる、と理解するのです。  
 これはまことに都合のよい読み方です。キリストを信じる信仰を持たずに生きている人は嘆きと惨めさの中にいるが、キリストを信じればその嘆きや惨めさから救われて感謝に生きることができるようになる、そういう手前味噌な読み方をして喜んでいられたらこんなに楽なことはありません。しかしこの読み方には決定的な問題があります。それは25節の後半です。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と語ったパウロはそれに続いて、「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」と言っているのです。これはその前の22、3節に語られていたことと同じです。そこには「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」とありました。これを受けて24節で「わたしは何と惨めな人間なのでしょう」と語られていたのです。つまりパウロは25節のあの感謝を語った後、再び元の嘆きに戻っているのです。キリストを信じる者になって、もう嘆きは無くなった、嘆きは過去のものとなった、だから感謝しているのではなくて、むしろキリストによる救いを与えられた感謝の中でもう一度、あの嘆きを語っているのです。ですから私たちは、このパウロの嘆きを、決して、これは信仰を得る前のことで、キリストを信じればこの嘆きは無くなる、と考えてはならないのです。24節に語られている彼の嘆き、惨めさは、キリストを信じている信仰者自身の嘆きであり惨めさです。イエス・キリストを信じて生きるとは、このような嘆き、惨めさを常に自分の現実として意識しつつ生きることなのです。だとしたら、あの仏教徒が言ったように、やはり聖書の教え、キリスト教によって人は救われないのでしょうか。そんなもの信じる価値がないのでしょうか。先週に続いて7~25節を読むことによってそのことを考えていきたいのです。

キリストとの出会いによって嘆きが始まった  
 パウロがここで語っている嘆きが、キリストを信じる者となる以前の嘆きではない、ということはこれまでにも既に何度も語ってきました。彼は、復活して生きておられる主イエス・キリストと出会う前には、このような嘆きや惨めさを覚えてはいなかったのです。ユダヤ教の中でもファリサイ派のエリートとして、律法を熱心に守り、それによって神の前に正しい者であることができる、という確信を持っていた彼は、嘆きや惨めさどころか、自信に満ちて、意気揚々と生きていました。そして、律法を守ることによってではなく、十字架につけられて処刑されたイエスという男を救い主と信じることによって救われると説いているキリスト教会を、この世から撲滅することが神に仕えるための自分の使命だと信じて、教会への迫害の先頭に立っていたのです。そのパウロが、教会撲滅の使命を果すためにダマスコという町へ向かっていた時、主イエス・キリストが彼に現れ「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と語りかけたのです。このことは使徒言行録の第9章に語られており、サウルというのはパウロの元々の名前です。生きておられるキリストとのこの出会いによって彼は、自分が、神に仕えているという確信をもってキリスト信者たちを迫害し、教会を撲滅しようとしていたことが、実は神に対するとんでもない反逆であり、神が遣わして下さった救い主イエスご自身を迫害することだった、と示されたのです。これによって彼はまさに目の前が真っ暗になりました。使徒言行録9章によれば、彼はこのキリストとの出会いによって目が見えなくなったのです。それは、自信に満ちて意気揚々と生きていた彼の人生から突然光が失われ、道が見えなくなり、方向が分からなくなったということでしょう。律法を守り行なうことこそが善であると信じ、それを望み、そのために精一杯努力してきた、そのことが実は神に敵対する悪だったことが示されたのです。自分が善を望み、それを熱心に行なっていたはずなのに、実は望んでいない悪を行なってしまっていたことに気づかされたのです。このキリストとの出会いから、パウロの嘆きが始まりました。「善をなそうと思う自分にいつも悪が付きまとっている」ということに、彼はここで初めて気づいたのです。それは、「善をなそうとは思うのだけれど、弱さのゆえに、すぐに誘惑に負けてしまってできない」というのとは全く違うことです。善をなすことを心から望み、そのために人一倍努力し、熱心に励んでいる、そういう自分の善への努力そのものが、罪に支配されてしまっており、罪に利用されてしまっており、神のみ心とは正反対の結果を生んでしまっているのです。

善いことに励む中で罪を犯す  
 私たちが、パウロの嘆きを自分自身と重ね合わせていくべきなのはむしろこのことにおいてです。善をなし、神に従って生きようと努力する、その努力そのものが罪に支配され、み心に反する結果を生んでしまう、そういうことが私たちにも起っているのです。私たちにどのようなことが起っているのでしょうか。実は聖書の中には、そのことを具体的に語り示している話が沢山あります。例えば、ルカによる福音書第15章の「放蕩息子」のたとえ話における兄の姿がそれに当ります。あの話は「ある人に息子が二人いた」と始まるのです。兄と弟、二人の息子の話です。兄は、放蕩息子である弟とは違って、父の家にずっと留まり、父に仕えて働いていました。一生懸命父に仕えている孝行息子だったのです。ところが、放蕩に身を持ち崩し、乞食のようになって帰って来た弟を、父が何も責めることなく喜んで迎え入れたことを知るや、彼は怒りを露にします。父の弟に対する愛を彼は受け入れることが出来ないのです。そのことが示しているのは、彼が父のもとで立派な息子として生きてきたことの裏には、自分は弟とは違って立派な善い人間だ、だから自分には、それに相応しい報いを受ける権利がある、という思いがあったということです。だから彼は、父が弟を無条件で愛し、その罪を赦し、死んでいたような息子が帰って来たことを喜ぶことを受け入れることができないのです。父のその愛は実は兄である彼にも向けられているのですが、彼はそれを感じ取ることができずに、弟を裁き、父をも裁いてしまっているのです。立派な、善い人間として神に従い仕えようとしている者が、そのことのためにかえって、神が愛して下さっている兄弟を受け入れることができなくなり、裁いてしまう、この兄の姿はそういうことを描いているのです。  同じルカ福音書の10章にある「マルタとマリアの話」のマルタの姿は、今の話の女性版であると言えます。主イエスへの接待に忙しくしているマルタが、主イエスの足元でみ言葉に聞き入っているマリアを非難した、それは、主イエスをもてなすという善いこと、主に仕える業を一生懸命している中で彼女が、その自分の働きに協力しないマリアを裁き、批判した、ということです。しかし、本当に無くてならないのは、むしろマリアがしたように、主イエスの足元に座ってそのみ言葉に聞き入ることだったのです。マルタもまた、自分が考える善いことを熱心にしていく中で、み心に従って生きている人を迫害する者になってしまったのです。  
 これもルカ福音書ですが、18章の「ファリサイ派の人と徴税人の祈り」の話も同じことを語っています。ファリサイ派の人は、わたしは律法をしっかり守って熱心に神に仕えています、ということを祈りにおいて誇り、この徴税人のような罪人でないことを感謝します、と祈りました。徴税人の方は、遠くに立って、目を天に上げようともせずに、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」とだけ祈ったのです。神様が祈りを受け止め、義として下さったのは、ファリサイ派の人ではなくこの徴税人の方でした。ここにも、善いことをして神に仕えようと熱心に励んでいる人が、そのことの中で、人と自分とを見比べて誇り、人を軽蔑し裁く思いに陥って、神のみ心に反する罪に陥ってしまうことが語られているのです。  
 パウロは主イエス・キリストとの出会いによって、自分が放蕩息子の兄であり、マルタであり、ファリサイ派の人であることに気づかされたのです。彼の嘆き、惨めさはこのことによるのです。私たちも、日々様々な場面で、放蕩息子の兄であったり、マルタであったり、ファリサイ派の人のようであったりしているのではないでしょうか。善をなそうとし、神に従い仕えようとしている私たちの努力が、自分の働きを誇り、人を見下し、裁くような思いや言葉を生み、神が罪人を迎え入れて赦し、愛して下さるその愛を受け入れようとせず、神が愛して下さっている人を受け入れようとしない頑さを生んでいるのではないでしょうか。パウロ自身がそうだったように私たちも、自分がこのような罪に陥っていることになかなか気づきません。そしてパウロと同じように、自分と同じように善いことをしない者が悪い、同じように神に仕えない者は間違っている、と人を裁き、実は神に従いその救いにあずかっている人々を迫害する罪に陥ってしまうのです。パウロは、復活して生きておられる主イエス・キリストとの出会いによって、そういう自分の本当の姿に気づかされました。それで「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と叫んだのです。それは謙遜でも何でもない、彼の心からの叫びです。主イエスと出会い、主イエスによる救いを示されたことによって彼は、善いことをして神に仕えようとしている自分を知らず知らずのうちに捉えている罪の本当の恐ろしさを知らされたのです。

主イエスの思いやり  
 パウロはこの自分の惨めさを主イエス・キリストとの出会いによってこそ示されました。主イエスと出会ったから、このような嘆きを知る者となったのです。そしてこの主イエスとの出会いによってこそ、この惨めさからの、死に定められたこの体からの救いもまた彼に示されたのです。彼はあのダマスコへの道で、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という主イエスの語りかけを聞きました。それによって、それまで自分が正しいこと、善いことだと確信し、自信を持っていたものが、見るも無惨に崩れ去ったのです。しかし彼にご自身を現し、語りかけた主イエスは、「今までよくも私を迫害してくれたな」と彼に報復し、滅ぼそうとしたのではありませんでした。使徒言行録の26章には、パウロがこの時のことを振り返って語っている所があります。そこで彼は、主イエスが先程の言葉に続いて、「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」とおっしゃったと語っています。つまりパウロは主イエスのお言葉に、あなたはとげの付いた棒を蹴飛ばして、自分に傷を負っている、自分自身が痛い目に遭っている、もう自分を傷つけるのはやめなさい、という語りかけを聞いたのです。つまり自分が敵対し、迫害していた主イエスが、自分のことを思いやって下さっており、自分を救おうとして下さっていることを知らされたのです。

主イエス・キリストを通しての感謝  
 私たちも、自分は善いことをして神に仕えている、という思いの中で人を裁き、見下し、傷つけ、殺してしまう、そういうことによって自分自身も傷つき、痛い目に遭い、喜んで生きることが出来なくなっています。主イエス・キリストは私たちをそのような痛みから救い出そうとして、私たちに出会って下さるのです。主イエスとの出会いによって私たちは、善いことをして神に仕えようとしている自分が罪の力にどうしようもなく捕えられてしまっている現実を見つめさせられて愕然とします。しかし私たちに出会ってそのことをお示しになる主イエスは、私たちをその罪から救うために十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さった方なのです。パウロに出会って下さったのも、罪人である彼のために十字架にかかって死んで下さり、復活して永遠の命を生きておられる主イエス・キリストでした。この主イエスによって彼は、罪に支配されている自分の本当の惨めさを示されて24節の嘆きを語ると同時に、25節のあの大いなる感謝をも語ることができたのです。この感謝は、「わたしたちの主イエス・キリストを通して」の感謝です。十字架の死と復活によって罪の赦しを実現して下さったイエス・キリストが私の主となって下さっている、そこにこの感謝の根拠があるのです。そしてこの救い主イエス・キリストを自分の主として信じ受け入れたパウロは、その救いへの心からの感謝と共にもう一度、「心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」という自分の罪に支配された惨めさを見つめることが出来たのです。その惨めさが無くなって自信に溢れて生きることが救いなのではありません。むしろキリストによって自分の本当の罪を示されつつ、その惨めな自分を救って下さるキリストが主であられることを喜び、感謝する者へと変えられたことこそ、パウロが与えられた救いだったのです。 ★★★本当の感謝  ★★ 何度も言っているように、パウロは主イエスと出会う前は、自分が惨めだとは思っていませんでした。その時彼は、本当の感謝も知りませんでした。自分が一生懸命善いこと、正しいことをしている、ということに依り頼んで生きている間は、そこに生まれる感謝は、あのファリサイ派の人の祈りにおける感謝、「私はこの徴税人のような罪人でないことを感謝します」という、感謝ならぬ感謝、自分の誇りの延長でしかない感謝です。主イエス・キリストとの出会いは私たちに、それまで気づかなかった罪を示して目の前が真っ暗になる思いを与えると同時に、主イエスの十字架と復活による罪の赦しを与えてくれます。その時私たちはあの徴税人のように、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈る者となります。その祈りは、主イエス・キリストを通して神に届くのです。そして私たちは神の憐れみによって罪を赦され、本当の感謝に満たされていくのです。

関連記事

TOP