主日礼拝

約束の聖霊

「約束の聖霊」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、第33篇 1節-22節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第1章 1節-5節

 
使徒たちとの旅立ち
 本日から、礼拝において、使徒言行録をご一緒に読み、み言葉に聞いていくことになりました。これは長老会で決定したことです。昨年の9月に私がこの教会に着任して以降、テサロニケの信徒への手紙一を礼拝において読んできまして、2月でそれが終わる、その後のことをどうしようかと相談して、私が候補として使徒言行録ともう一つの書を挙げ、長老方のより多くの希望があった使徒言行録に決定したのです。私自身も使徒言行録の方を第一の候補と考えていたのですが、長老方からは、これまでにあまり使徒言行録の説教を聞いたことがないから、という声がありました。この教会の過去の礼拝の記録を調べてはいませんのでわかりませんが、一般的に言って確かに、使徒言行録は説教で取り上げられることの比較的少ない書物かもしれません。部分的に取り上げられることはあっても、全体を連続して講解説教していくことはそう多くないように思われます。その理由の一つには、これはあまり説教のしやすい書ではない、ということがあります。使徒言行録に語られているのは、教会がどのようにして誕生し、どのように歩んでいったか、ということです。そのことが、何人かの使徒たち、伝道者たちの働きを描くことによって語られていきます。「使徒たちの言行録」という呼び方はそこから来ているわけです。そういう意味では、生まれたばかりの最初の教会の様子を知ることができる貴重な史料であると言えるし、教会の誕生と成長を描いた物語として面白いと言うことができます。しかし礼拝の説教として語られるべきみ言葉をそこに聞き取っていこうとするとなかなか難しい面があるのは事実です。ですから私のこれからの説教もどういうことになっていくのか、不安があります。しかし私がそれでも敢えて使徒言行録を第一の候補としたのは、この書をご一緒に読み、味わっていくことの中で、主イエス・キリストによる救いにあずかり、主イエスに結び合わされて生きる者とされた人々が、教会という群れへと結集され、そしてそこから押し出されてみ言葉を宣べ伝えていき、その働きによって主イエスの福音が広まり、多くの人々が主イエスを信じて共に歩むようになり、あそこにもここにも、信じる者の群れである教会が生まれ、育っていった、そういう初代の教会の伝道の息吹を、活力を、皆さんとご一緒に体験し、それにあずかりたいと思ったからです。使徒言行録を読むことは、使徒たちと共に伝道の旅に出ることです。今日から、皆さんと共に、そういう新しい旅に出たいのです。旅路の先に何が待っているのか、どんな素晴らしい体験が、喜ばしい出会いが与えられるのか、とても楽しみです。しかしまた、旅路の途上にはいろいろと苦しいこと、つらいことがあると予想されます。行き詰まってしまうこともあるかもしれません。その時は共に祈り合い、支え合い、助け合って苦境を乗り越えたいと願います。ですから私の説教のためにどうぞお祈り下さい。この旅は、説教する者と、それを聞く皆さんとが共に手をたずさえて歩んで行くものです。説教がこの旅路を導くのですが、その説教は皆さんの支えなしには語ることができません。旅のお仲間として、どうぞこれからよろしくお願いします。

第一巻
 さて、使徒言行録は、このように書き始められています。「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」。「先に第一巻を書いた」と著者は言っています。これから書くのは第二巻だというわけです。その第一巻とはルカによる福音書のことだと考えられています。ルカによる福音書の冒頭にも、これと同じような、テオフィロという人への献呈の辞があるのです。従って、使徒言行録の著者は、ルカ福音書の著者と同じ人、つまりルカだと考えられます。ルカ福音書と使徒言行録を合わせて「ルカ文書」と呼んだりもするのです。ルカは、この1、2節で、自分が先に書いた第一巻であるルカ福音書の内容をまとめています。「イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」。これが、ルカが自分の書いた福音書の内容をまとめた文章です。イエス・キリストの行いと教えの始めから、天に上げられた日、つまり昇天までのことを書き記した。ルカ福音書の冒頭には、主イエスの誕生の物語と、さらにその前に洗礼者ヨハネの誕生の物語が記されていますが、そこから既に、主イエスの行い即ちみ業と教えが語り始められているということでしょう。そのようにしてこの世に来られた神の独り子主イエスが、様々な教えを語り、み業を行われた末に、捕えられ、十字架につけられて殺されたこと、しかし父なる神様が主イエスを三日目に死者の中から復活させて下さったこと、それらの大いなる出来事を経て、主イエスが天に昇られたことまでを、ルカは第一巻である福音書に書き記したのです。使徒言行録はそれに続く第二巻です。つまり、福音書で語られた主イエス・キリストのみ業と教え、それによって実現された神様の救いの恵みが、これから語って行く使徒言行録の土台、前提となっているのです。ですから、使徒言行録を読んでいくに際して、私たちは、ルカによる福音書との連続性、結びつきをいつも意識していなければなりません。主イエスのみ業と教え、十字架の死と復活と昇天と切り離して使徒言行録を読むことはできないのです。

使徒の選び
 さらに注目したいのは「お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え」という言葉です。主イエスが「お選びになった使徒たち」、彼らが、この使徒言行録の主人公です。その使徒たちとは、主イエスがお選びになった者たちであることが強調されているのです。そのことは、第一巻ルカによる福音書の第6章12節以下に語られていたことです。その13節には「朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」とあります。主イエスが弟子たちの中から12人を選び、彼らを「使徒」と呼んだということが既にここに語られているのです。このことは、他の福音書における12弟子の選びの箇所と比べて、ルカの特徴となっています。マルコ福音書の3章14節には、同じように「使徒と名付けられた」という文章があるのですが、細かい話になってしまいますが、この文章は多くの有力な写本にはないので、もともとマルコ福音書にはなかったものが後から挿入されたと考えられています。主イエスご自身が12人を「使徒」としてお選びになったことは、ルカ文書に特徴的なことなのです。

派遣
 「使徒」という言葉の意味は、「遣わされた者」ということです。主イエスが彼らを使徒と名付けられたということは、彼らを遣わす、派遣する、という意志表示です。その派遣の目的は、既にルカ福音書の最後のところに語られていました。第24章45~48節です。そこを読んでみます。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる』」。苦しみを受け、三日目に死者の中から復活するメシア、即ち主イエス・キリストによる罪の赦しを得させる悔い改めが、主イエスのみ名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられるのです。使徒たちは、この主イエス・キリストによる罪の赦しの福音を宣べ伝える証人、証し人として、エルサレムから始めて、あらゆる国の人々のもとへと遣わされるのです。この主イエスのご意志によって、使徒たちが派遣されて福音を宣べ伝えていった、その働きを記しているのが使徒言行録です。使徒たちの言行、言葉や行い、伝道の全ては、彼らが自分で思い立ち、計画し、実行していったことではなくて、主イエスによって使命を与えられ、派遣されてしたことなのです。ですから私たちが使徒言行録を読み、使徒たちと共に伝道の旅に出るというのは、主イエスによって遣わされた者、使命を与えられて派遣された者たちの歩みに同行する、ということなのです。

聖書を悟らせる聖霊
 「聖霊を通して指図を与え」と言われているのはどういうことでしょうか。それはおそらく先程読んだルカ福音書24章45節の、「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」ということを指しているのだと思います。使徒たちに聖霊が降り、彼らが力を与えられて全世界へと派遣されていったのは、使徒言行録第2章の、聖霊降臨、いわゆるペンテコステの出来事によってです。本日のところではまだその聖霊は彼らに与えられていません。むしろ、父なる神様が約束して下さっている聖霊を待ちなさい、ということが4節に言われているのです。まだ聖霊を受けていない使徒たちに、聖霊を通して既に指図が与えられたというのはおかしなことのようにも思われます。けれども実際には少しもおかしいことはありません。彼らが全世界へと伝道のために遣わされていく、その力を与えた聖霊はペンテコステの出来事において降ったのですが、しかしその前から、聖霊なる神は既に彼らに働き、導いておられたのです。「聖書を悟らせるために心の目を開いて」というのがまさにその聖霊の働きです。聖書を悟る、つまり、聖書に書いてあることが分かるようになる、それは、聖霊の働きによってこそ起こることなのです。聖書に書いてあることとは、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということです。主イエス・キリストの苦しみと死と復活によって罪の赦しが実現しており、悔い改めて主イエスを信じる者にはその恵みが誰にでも豊かに与えられるということが、聖書に書かれているのです。その前の44節には、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」とあります。モーセの律法と預言者の書と詩編、それは今日のいわゆる旧約聖書のことです。ルカによる福音書が今書かれているところなのですから、新約聖書はまだ成立していません。当時の聖書とは旧約聖書です。そこには、「わたしについて」つまり主イエス・キリストのことが書かれているのです。そのことが分かり、主イエスの十字架と復活による救いが分かることが、聖書を悟ること、聖書に書いてあることが分かることです。それは、聖霊が心の目を開いて下さることによってこそ実現するのです。聖霊なる神様の第一のお働きは、私たちの心の目を開いて聖書を悟らせ、主イエス・キリストによる救いを信じさせて下さることなのです。ここでは主イエスが彼らの心の目を開いたと語られていますが、それは聖霊の働きによって実現することです。「お選びになった使徒たちに聖霊によって指図を与え」というのはまず第一にはこのことを言っていると考えられるのです。同じ聖霊は私たちにも働いています。私たちが、聖書のみ言葉を聞き、主イエス・キリストによる救いを信じ、主イエスを遣わして下さった父なる神様の愛を信じる信仰を与えられるならば、そこには既に、聖霊のお働きがあるのです。聖霊が導いて下さっていなければ、私たちは教会の礼拝に来ることも、主イエスを信じることも、あるいは信じたいと思うことすらもなかったでしょう。私たちが今こうして共に礼拝を守っているということが、ここにいる一人一人に既に聖霊が働いていて下さることの印なのです。

聖霊こそ主人公
 聖霊はこのように既に使徒たちに働き、信仰を与えています。しかし主イエスがその聖霊を通して彼らに与えたさらなる指図があります。それが、ルカ福音書24章49、50節のみ言葉です。父なる神様が約束して下さっているものがまもなく送られるから、都にとどまってそれを待っていなさい、ということです。その指図が、使徒言行録の第1章4節で繰り返されています。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」。「父の約束されたもの」、それは次の5節の「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」という言葉からも分かるように、聖霊です。聖霊を通して与えられた指図とは、約束された聖霊を待て、ということでもあるのです。この指図が、ルカ福音書の最後にも語られ、使徒言行録の最初にも語られていることに注目しなければなりません。ここに、ルカ福音書と使徒言行録を結びつけているものがあるのです。聖霊が与えられる約束は、ルカ福音書が語ってきた主イエスのご生涯、み業とみ言葉の全て、また十字架の死と復活という恵みの出来事全体の最終的帰結でした。主イエスによって成し遂げられた恵みは、聖霊が与えられるという約束をもって終わっているのです。そして使徒言行録は、聖霊が与えられるという約束から始まり、その約束の聖霊が天から降り、使徒たちを伝道へと遣わしていったことを語っていきます。聖霊が、使徒たちを選んだ主イエスの意志を実現し、彼らを本当に使徒、遣わされた者としたのです。先程使徒言行録の主人公は使徒たちだと申しましたが、正確に言うならば、それは使徒たちではなくて、聖霊です。使徒言行録は、使徒たちの働きを語っているようでいて、実は聖霊の働きを語っているのです。使徒言行録は聖霊言行録だ、という言い方もあります。ルカによる福音書の主人公は主イエスであり、主イエスの行いと教えを語っていたのに対して、第二巻である使徒言行録は、聖霊が主人公であり、聖霊のみ業、働きを語っているのです。第二巻の主人公である聖霊は、第一巻の主人公である主イエスによって成し遂げられた救いのみ業を受け継ぎ、それを押し進め、実現していきます。ルカ福音書において語られた、神様が独り子主イエスによって成し遂げて下さった救いのみ業が、使徒言行録において、聖霊の働きによって継続され、前進していくのです。ルカが第一巻の福音書に続いて第二巻の使徒言行録を書いたことの意味はここにあります。ですから、使徒言行録を読むことは、使徒たちと共に伝道の旅に出ることであると同時に、聖霊によって前進していく神様の救いのみ業に同行することでもあるのです。

聖霊を待つ
 使徒たちは主イエスから、エルサレムを離れず、約束の聖霊を待つように命じられました。主イエスによって選び出され、聖霊によって使徒として遣わされていく彼らに、先ず命じられたことは、じっと留まって待つことだったのです。これはとても大切なことです。み言葉を宣べ伝え、主イエス・キリストを証ししていく使徒たちが、その使命を果たすために先ず第一になすべきことは、聖霊を待つことなのです。聖霊が降り、働いて下さらなければ、使徒は使徒となることができません。遣わされた者としての働きは、人間の力や努力や工夫によってなされていくものではないのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第33編の16節以下にも、「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させてくださる」とあります。人間の力や才覚で本当の勝利は得られないのです。私たちを本当に救うことができるのは、私たちの持っている豊かさや力ではなくて、主なる神様です。主なる神様が慈しみをもって目を注いで下さる、そのことによってこそ私たちは生きることができ、救いにあずかることができ、与えられた使命に邁進することができるのです。それゆえに大切なことは、この詩の20節以下に歌われているように、主を待つことです。「我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。我らの心は喜び、聖なる御名に依り頼む。主よ、あなたの慈しみが我らの上にあるように。主を待ち望む我らの上に」。これが、約束の聖霊を待っている使徒たちの姿であると言ってもよいでしょう。私たちが先ずなすべきことは、自分の能力や工夫で何かをしようという思いを捨てて、静まって聖霊のお働きを待つことです。信仰とは基本的に、神様がして下さること、神様のみ業を待つということなのです。ところが私たちは実にしばしば、待つことができずに自分であれこれ動きたがります。私のようなせっかちな人間は特にそうなのですが、神様がして下さるのを待っていないで、自分で何でもしてしまおうとするのです。しかしそこには、この使徒言行録に語られているような生き生きとした、聖霊の息吹に満たされた歩みは生まれてきません。使徒言行録に描かれている初代の教会の生き生きとした姿は、人間がしゃかりきになって頑張って成果を挙げているという姿ではなくて、聖霊の働きを信じて待っているところに神様が与えて下さった成長と発展の姿なのです。私たちは使徒たちと共に伝道の旅に出るに際して、先ず、彼らがエルサレムに留まり、約束の聖霊を待っている、その静かな、落ち着いた姿を見倣い、それを共有することから始めたいのです。

約束の確かさ
 けれどもここで大切なことは、彼らは何の保証もなしにただ待っていたのではないということです。言い換えれば、主イエスは彼らに約束の聖霊を待てとお命じになるに際して、その約束の確かさをきちんと示して下さっているのです。そのことが3節に語られています。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」。ここに、主イエスが復活されてから四十日にわたって使徒たちに姿を現し、ご自分が生きておられること、体をもって復活なさったことを、確かな証拠を示して彼らに確信させて下さったことが語られています。ルカによる福音書の24章には、復活された主イエスが焼き魚をむしゃむしゃとお食べになった、ということが語られていますが、例えばそのようにして、主イエスはご自分が復活して今も肉体をもって生きておられることを使徒たちにはっきりとお示しになったのです。それはただ死んでしまったはずの主イエスが今も生きている、というだけのことではありません。「神の国について話された」とあります。神の国とは神のご支配という意味です。つまりそれは、遠くのどこかに、あるいは死後の世界として神の国、天国があるぞという話ではなく、主イエスが十字架にかかって死に、父なる神様が死の力に勝利して主イエスを復活させて下さったことによって、今や神様のご支配が死の力に対しても勝利している、人間を、この世界を本当に支配しているのは、神様に敵対する罪や死の力ではない、主イエスの復活によって神様の恵みのご支配が既に確立しているのだ、ということです。主イエスが復活して生きておられるというのはそういうことなのです。そのまことの支配者であられる神様が、聖霊を送ると約束して下さっている、だからその約束は確かなのです。この確信があったからこそ、使徒たちはその主イエスが約束して下さった聖霊を静かに待つことができたのです。

約束の聖霊を待つ私たち
 私たちはどうでしょうか。私たちは、主イエスが目に見える姿で現れてご自分が生きておられることを示して下さるのを見ているわけではありません。そういう恵みを与えられたのは、主イエスの復活の後のあの特別な四十日を体験した使徒たちだけです。その後主イエスは天に昇られ、目に見えるお姿としては今は天に、父なる神の右に座しておられるのです。しかし今私たちは、使徒言行録の主人公である聖霊のお働きの下にあります。聖霊は、天に昇られた主イエスに代って今私たちを導き、主イエスによって成し遂げられた救いのみ業を受け継ぎ、前進させて下さっているのです。その聖霊は、先程申しましたように、私たちの心の目を開いて、聖書を悟らせて下さいます。聖書に語られている主イエス・キリストの十字架の死と復活が、この自分のためであり、神様が独り子の命さえも与えて下さるほどにこの私を愛していて下さり、主イエス・キリストによる救いにあずからせようとしていて下さるのだ、ということを、私たちは今この聖霊のお働きによって確信させられるのです。そしてそれを確信するときに、父なる神様が私たちにさらに約束の聖霊を遣わして下さり、使徒たちにして下さったのと同じように私たちをも、聖霊の力によって強め、私たちを用いて、主イエスの恵みを、福音を前進させ、告げ広めさせて下さることを信じて、静かに待つことが出来るようになるのです。つまり、私たちが約束の聖霊を静かに待つことも、聖霊のお働きによって与えられることなのです。何だかややこしいことを言っていますが、言い換えればこういうことになります。本日の箇所で使徒たちに約束された聖霊が、第2章のペンテコステの出来事において与えられて誕生したのが教会です。私たちは今その教会へと招かれ、教会に連なる者とされています。つまり私たちは今もう既にこの約束の聖霊のお働きの下に置かれているのです。その私たちが今、使徒言行録を読み始め、使徒たちと共に旅立とうとしています。その旅立ちに当って私たちは、既に働いておられる聖霊が私たちの心の目を開いてこのみ言葉を悟らせて下さること、そして私たちにも新たに、約束の聖霊が与えられ、使徒たちが経験したのと同じように、聖霊による主イエス・キリストの救いのみ業の前進を体験させて下さることを信じてよいのです。約束の聖霊のお働きを信じて待ちつつ、これからご一緒に使徒言行録を読み進めて参りたいと思います。

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