夕礼拝

話さないではいられない

「話さないではいられない」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編第105編1-6節
・ 新約聖書:使徒言行録第4章13-22節
・ 讃美歌:10、402

 話すな、と言われても、絶対話すなと脅されても、誰がなんと言おうとも、話さずにはいられない。みなさんには、今までの人生でそこまで「話したい」と思うことがありましたか?  
 主イエスの使徒であるペトロとヨハネには、ありました。国の権力者に話すなよ、と脅されても、「いや、わたしたちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と言い返します。彼らが話さないではいられない、見たこと。聞いたこと。そしてそれは、わたしたちにとっても、話さないではいられなくなるはずのことなのです。  

 今日の聖書箇所は、全体の話の途中からでしたので、それまでの経緯を簡単にお話ししたいと思います。   
 主イエスの使徒であるペトロとヨハネは、生まれた時から足が不自由だった男を、「主イエス・キリストの名によって」癒しました。歩けなかった男が歩き回って、神殿の境内で神を賛美していたので、驚いた人がたくさん集まってきました。ペトロがその人々に、足の不自由な人を癒した名前の持ち主、主イエス・キリストが、神の民が待ち望んでいた救い主だ、いうことを教えていると、祭司たちや、神殿守衛長、サドカイ派という人々がやってきて、二人を捕えて牢に入れてしまいました。    

 翌日には、今で言う高等裁判所にあたるユダヤ人の議会で、議員や長老、律法学者、大祭司などを集めて、裁判が始まりました。尋問の内容は、「お前たちは何の権威によって、だれの名によって、足の不自由な男を癒したのか」ということでした。   
 ペトロとヨハネは、そのような裁判の席で委縮したり、弱気になったりはしませんでした。むしろ大胆に「主イエス・キリストの名がこの人を癒した」と述べ、そして、旧約聖書の一節が、主イエスが救い主であることを預言しており、そのことが実現しているのだということを、説いてみせたのです。   
 さらには、「ほかの誰によっても救いは得られない。天下に、人間を救うのはイエス・キリスト以外にはいないのだ」ということを堂々と言いました。  

 そして、今日の聖書箇所です。「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚いた」と書かれています。      

 驚いた一つの原因は、ペトロとヨハネのその大胆さです。ペトロとヨハネが引き出されている議会は、最高裁判所のようなところです。   
 ペトロはかつてこの数か月前、主イエスが同じようにユダヤ人の指導者たちに捕えられた時、自分も捕まることを恐れて、主イエスを「知らない」と言って逃げ出してしまいました。   
 そして、使徒たちは皆主イエスを見捨ててしまい、この裁判の場所に、主イエスはお一人立たれて、死刑の判決を受けて、十字架で殺されることが決まったのでした。   
 しかし今、ペトロとヨハネは、その場所で、堂々と議員たちの前に立ち、何も恐れず大胆に、主イエスの復活と、この方こそ救い主だということを語るのです。   
 また、もう一つは、ペトロとヨハネが無学な普通の人であることを知って、驚いたとあります。   
 議会に集まった人々は律法学者や祭司などで、彼らは、長年、聖書に書かれていること、律法や預言書を研究して、それらを解釈し、民衆に教えたり、また儀式を行ったりして実践してきたエリートたちです。その道の専門家です。   
 一方で、ペトロはどのような人物だったでしょうか。彼は、一人の漁師でした。字の読み書きもできなかったかも知れませんし、ましてや聖書の専門的な教育など受けていないのです。   
 そのペトロが、聖書の専門家たちの前で、確信をもって、ナザレの人イエスが救い主であると語り、旧約聖書に書かれている預言が、主イエスによって実現したということを見事に語って聞かせたのです。   
 一体、このペトロの大胆さは、そして神についての知識は、どこからきたのでしょうか。   
 議員たちは驚かずにはいられませんでした。      

 そしてさらには、彼らは、ペトロとヨハネが「イエスと一緒にいた者である」ということが分かったのです。二人を連れてきた時には、議員たちは彼らが主イエスの使徒であることに気が付かなかったのでしょう。しかし、自分たちが邪魔に思い、捕えて死刑にした、あのナザレの人イエスと一緒に行動していた者たちだったと、分かったのです。   
 色々と目論んでやっと死刑にしたイエスの使徒たちが現れ、これほど大胆に、十字架で死んだイエスは復活したと言い、神に遣わされた救い主であると語り、旧約聖書の預言を明らかにし、しかも目を見張るような神の癒しの業を行っているのです。      

 ペトロとヨハネは、主イエスと一緒にいた者でした。   
 そして実は、主イエスは、この時もずっと、ペトロとヨハネと一緒におられたのです。   
 十字架の死から、父なる神が復活させられた主イエスは、その後、使徒たちに姿を現されました。そして、彼らの目の前で天に昇られ、もはや地上ではお姿を見ることは出来なくなりました。しかし、主イエスは聖霊を使徒たちに送り、ご自分を証言する力をお与えになりました。そして、使徒たちを伝道するために遣わされたのです。聖霊のお働きによって、天に挙げられた主イエスは、いつでも、どこでも使徒たちと共におられ、共に働かれます。この救いを宣べ伝える業を推し進めておられるのは、主イエスご自身なのです。      

 ペトロとヨハネを大胆に立たせているのは、復活した、生きておられる主が共におられるという確信です。「大胆」というギリシャ語の単語には、確信、信頼、という意味も含まれています。   
 救い主が共におられる。彼らは主イエスの十字架の死を見て、復活の主イエスに出会って、天に挙げられるのを見た、キリストの証言者なのです。確かに出会った復活の主イエスによって彼らは立ち、聖霊に満たされ、力を与えられ、遣わされているのです。      

 また、使徒言行録と同じ著者が書いた、ルカによる福音書の21章では、主イエスは彼らに、世の終わりの前に迫害が起こるが、それはあなたたちの証の機会となる、と話されて、「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」と約束しておられました。   
 彼らは主イエスが共におられる確信によって大胆に、そして主イエスに約束され、授けられた知恵に満ちた言葉で、主イエスこそ救い主であると証しているのです。         

 そして、最終的に議会を黙らせてしまう、決定的だったことがあります。それは、40年間、生まれながらに足の不自由だった男が、ペトロとヨハネのそばに立っていた、ということです。   
 彼は、どうしてここにいたのでしょうか。二人が捕えられた時に、付きまとっていたので、一緒に連れてこられたのでしょうか。もしくは、自分で付いて来てしまったのでしょうか。   
 この男は、何も言いません。ただ、ペトロとヨハネのそばに立っているだけです。      

 しかし、この男が立っているのは、当たり前のことではありません。主イエスの名による奇跡なのです。ペトロがこの男に「主イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じたので、彼は立っているのです。この男は、主イエスの名によっていやされ、神の業によって立っている人なのです。   
 このエピソードは使徒言行録の3章に書かれていますが、この男が癒された時、「神を賛美した」ということが書かれています。主イエスの名によって立ち、神を賛美している。主イエスの名によって癒された、一人の礼拝者がそこに生まれ、立っている。それは、主イエスが神から遣わされた救い主であることの、生きた「しるし」です。      

 この男は神殿で物乞いをしていたので、議員や律法学者や祭司たちも、男のことをよく知っていたでしょう。人生で一度も立ったことのなかった男が、主イエスの名によってペトロとヨハネのそばに確かに立っている。   
 彼らはそれを見て一言も言い返せなかった、と書かれています。その男の存在が、主イエスがどなたであるかを、最も力強く証していたのです。     

 一人の信仰者が、主イエスの名によって立っている、ということは、強い説得力を持っています。それは、体の足が癒されて立っているというだけの話ではありません。主イエスの名によって生きているということです。主イエスの名によって、神に向かって立ち、神を礼拝する人生を歩んでいるということです。そういう意味では、ペトロもヨハネも、この男と一緒に、主イエスの名によって立っていたのです。      

 わたしたちも、教会も、そのようにして世の中に立つことができます。主イエスの名によって救われた群れの存在が、教会がそこにあって神を賛美し礼拝していることそのものが、主イエスが救い主であることを証しています。教会は、罪の中に座りこんで立てなかった者が「立ちなさい」と主イエスに声をかけられ、手を取られ、立ち上がらせて頂いた、そのような人々の集まりです。      

 主イエスの名は、わたしたちを救い、この世に立ち人生を歩む足を、強くします。   
 現実の歩みの中では、人間関係の破れや、孤独や、挫折など、わたしたちの足を挫こうとするものは数多くあります。悩んだり、傷ついたり、悲しいことがあったり、また弱さの故に人を傷つけてしまうこともあります。体が病気になることもあるし、落ち込んだり、心が弱くなったりもします。      

 しかし、主イエスの名を知っているならば。わたしたちが歩いているのは、世の中の暗く悲惨な道ではなくて、神の救いの御手の中なのだと知っているならば。わたしたちは世の困難の中でも、絶望的に思える状況でも、主イエスによって立つことができます。死ということすらも、人生の終わりにわたしたちを支配するものではなく、既に主イエスが勝利して下さったものとなっているのです。   
 そして、わたしたちは毎週、共に神を賛美し、礼拝しに、教会に戻って来ます。ここには真の平安があります。それは、わたしたちが、世の悪や罪や死の虜なのではなくて、わたしたちは主イエス・キリストのものである、ということ。主イエスの恵みの中に、立っているということ。そのことが、何度でも知らされるからです。      

 自分が罪深く、小さく、弱く、何もできないものであると知る時、わたしたちは神の前で悔い改め、謙遜にならざるを得ません。また神に自分のすべてを委ねて生きるとき、わたしたちは自分の強さや世の強さではなく、罪にも死にも勝利された復活の主イエスの名によって、強く、大胆に、勇敢になることが出来ます。   
 そうして、主の名によって立ち、神を礼拝し、立たせて下さる方を大胆に証しすることが出来るのです。   

 この使徒たちの主にある大胆さと、主によって癒され、立っている男の前で、議員たちはもう為す術がありませんでした。どうしたらいいか分からなかったのです。議員たちは二人を一旦退場させて、どう対処するか相談しました。   
 彼らが行った癒しの業自体は、律法を破ったことにはなりません。   
 またつい昨日には、5000人もの人が、ペトロの説教を聞いて主イエスのことを信じたし、エルサレム中に「目覚ましいしるし」、この足の不自由な男に起きた癒しの話は、既に広まっていました。彼らを罰すれば、民衆の大きな反感を買うかも知れません。      

 議員たち、律法学者や祭司たちは、民衆の顔色を伺っていたのです。彼らは、ペトロの説教を聞いた人々のように、信じることはありませんでした。かたくなな心で、これだけ証を聞いても、奇跡を見ても、まだ主イエスを受け入れることが出来ないのです。教会に仲間が加えられていく恵みと同時に、人間の罪の深さ、心のかたくなさも、ここには描かれています。   
 議会では、「このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう」ということになりました。そして、二人を呼び戻し、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」と命令しました。      

 ところが、ペトロとヨハネはこの命令に対して、またもや大胆に答えます。   
 「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」   
 彼らは議会の命令を拒否しました。議員や長老、律法学者、そして大祭司は、この議会において権威ある者です。その決定は、大きな力と強制力を持ちます。しかしそれは本来、神の前に神の民が正しくあるため、民が神に従うために与えられた権威であったはずなのです。   
 しかし、議会は主イエスが神から遣わされた方であると信じません。主イエスこそ、神が人を救うために与えて下さった方なのだということを認めません。旧約聖書もそのことを示しており、神の業によって、主イエスの名によって癒された人がここに立っており、十字架と復活の目撃者が、ここにいるにも関わらずです。      

 ペトロとヨハネは、神に従うことを宣言しました。それが、神の前に正しいことであるからです。そして、「見たこと、聞いたことを、話さないではいられない」からです。   
 ペトロとヨハネは、何を見たのでしょうか。それは、主イエスの十字架の死であり、そして死人の中から復活させられた主イエスご自身のお姿です。   
 何を聞いたのでしょうか。それは聖書の神の言葉であり、主イエスの教えです。   
 使徒たちは、自分たちが神ご自身から与えられ、受けたものを話さないではいられないのです。それはまさに、「福音」そのものです。      

 使徒たちが、そして教会が宣べ伝えている「福音」とは、人間の人生についての考え方や、生きるための倫理や、死についての哲学などではありません。   
 福音とは、神が、御子である主イエス・キリストを通して、この世で、わたしたちに与えて下さった救いの出来事そのもの、主イエス・キリストその方ご自身のことなのです。救いとは、主イエス・キリストがわたしに与えられること。その十字架による罪の赦しと、復活の命が、与えられることなのです。      

 この救い主である主イエス・キリストが、自分たちに、そして、すべての人に与えられたのだということを、使徒たちは話さずにはいられないのです。その福音は、見て、聞いた、確かなものです。   
 神が旧約聖書の時から約束して下さっていた、この救いの出来事が、主イエスによって起こった。自分たちも、その主イエスの名によって、今この神の救いの中に立っている。そしてあなたも、主イエスの名によって神の救いの中に立つことができるのだ、この救いに招かれているのだ、そのことを話さずにはいられないのです。      

 「福音」は「良い知らせ」という意味ですが、という元の言葉は、ギリシャ語で「ユーアンゲリオン」と言います。これは、戦に勝った、という戦勝報告を指す言葉です。決定的に勝利が確定しても、その戦地から離れたところにいて、勝利をまだ知らされていない人々は、ずっと恐怖と心配と不安の中にいます。一刻も早く、この勝利の知らせを届けなければならない。もう戦いは終わったと知らせなければならない。戦勝報告とは、そのような、急いで伝えたい、伝えなければならない、喜びの知らせです。   
 「福音」は、一刻も早く、多くの人々に知らされなければなりません。主イエスによって罪は赦された。神の御子が来られて、わたしたちを罪から救って下さった。主イエスが、神と人との関係を回復して下さった。だから、悔い改めて、神のもとに帰って来なさいと、呼んで下さっている。新しい命を与えると言って下さっている。   
 しかし、そのことを知らず、神から離れたままの人が多くいるのです。福音を知らず、苦しみ、悩み、絶望している者が多くいるのです。この福音は、すべての人に与えられようとしています。そして、「主イエスの名によって立ちあがり、歩きなさい」と、主イエスの救いへ、主イエスの体と一つになることへ、招かれているのです。まだ洗礼を受けていない人も、この救いの中へ招かれています。福音が差し出され、救いを信じなさい、福音を受け取りなさいと、語りかけられているのです。      

 そして、福音を受け取った者は、聖霊の力を受けて、主イエスが再び来られる日まで、そのことを宣べ伝えなさいと命じられます。また、福音を受けた本人も、その喜びを黙っていられないのです。救って下さった神を喜び賛美しつつ、まだ知らない人に早くこの喜びの知らせを伝えたい。そして共に喜びたい。福音の喜びによって語ることが促されます。「見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」これこそが、教会の伝道の姿ではないでしょうか。   
 見たこと、聞いたこと、それはわたしたちに与えられた、主イエス・キリストの福音です。この良い知らせを、わたしたちも話さずにはいられないのです。今日も、主イエスはわたしたちと共におられ、今日も、わたしたちは主イエスによって立ち、神を礼拝することがゆるされているからです。

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