主日礼拝

栄光

「栄光」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第24編1-10節
・ 新約聖書:フィリピの信徒へ手紙 第4章19-20節
・ 讃美歌:203、353、358

<手紙の終盤>
 パウロがフィリピの信徒へ宛てた手紙も、最後の部分に差し掛かってきました。今日読んで頂いたところの次の箇所、21~23節は、最後のあいさつの言葉ですから、今日のところが実質、手紙本文の締めくくりに当たる部分、ということになるでしょう。

 この直前の箇所では、フィリピの教会の人々が、牢獄に囚われているパウロに送った援助、贈り物に関して、感謝の言葉が語られていました。
 しかしそれは、フィリピの人々への直接の感謝というのではありませんでした。フィリピの人々がパウロの伝道を助けるために送った贈り物は、単にパウロのためなのではなく、むしろ神の伝道の業が進むため、福音が前進するために、神に「捧げられた」ものであり、それを、神は喜んで受けて下さるでしょう、ということを語ったのです。
 パウロが生きるため、またキリストの福音を告げ知らせるために必要なすべてのものは、神が与え、神が満たして下さいます。フィリピの人々からの贈り物も、パウロは神から与えられたものとして受け取りました。
 そうして、パウロも、フィリピの人々も、一緒にお一人の神に仕え、また生かされているのです。

 そのように、神の福音の前進のために、パウロに贈り物を届けてくれたフィリピの教会の人々に、パウロは、あなたたちに必要なものも、神がすべて満たして下さいます、ということを伝えます。
 19節にはこうあります。「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たして下さいます。」
 そして、20節で父なる神をたたえます。「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」

 このように、神の栄光をほめたたえることを「頌栄」と言います。手紙の最後を、パウロはこの頌栄で閉じようとするのです。

<頌栄>
 週報を見て頂くと、わたしたちも、礼拝の最後に「頌栄」といって讃美歌を歌い、神の栄光をほめたたえます。お祈りもそうです。毎週みんなで祈る「主の祈り」は、最後に「国と力と栄えとは、限りなく、なんじのものなればなり、アーメン」と、神をほめたたえて終わります。
 礼拝や、祈りが、そのように最後には必ず、神の栄光をほめたたえることに向かっている、ということは、キリスト者の生活のすべてが、人生そのものが、神の栄光をほめたたえるところに向かっている、ということです。

 わたしたちの教会の信仰のルーツである改革派教会のカルヴァンが、ジュネーヴ教会のために整えた「ジュネーヴ教会信仰問答」というものがあります。その問1~5には、このように書かれています。少し長いですが、お読みしてみます。
問1 人生の特に目指す目的は何ですか。
答え 人をお造りになった神を知ることです。
問2 そのように言う理由は何ですか。
答え 神が私たちを創造され、この世界に置かれたのは、私たちによって御自身が崇められるためでありました。しかも、私たちの生は神御自身がその初めであられるのですから、神の栄光にこれを帰するのは当然であります。
問3 では、人間の最高の幸いは何ですか。
答え それと同じであります。
問4 どうして、あなたにとってそれが最高の幸いなのですか。
答え 神を知ることがなければ、私たちの状態はどこかの獣よりも不幸になるからです。
問5 だから、神に向かって生きないという以上の不幸は人間にはあり得ない、と私たちは十分に悟らせられるのです。
答え そのとおりであります。

 神を知り、神を崇める時、神に栄光を帰する時、それは人間の最高の幸いだと教えています。みなさんそれぞれ、これまで人生を歩んできた中で、最高に幸せだと感じた瞬間を思い出してみて下さい。それを超える幸いが、神に栄光を帰する時、神の栄光をほめたたえる時に、それはつまり、礼拝のたびに、祈るたびに、そして生活の中に神を思うたびに、いつもあるのだ、ということです。

 神の栄光をほめたたえる、というのは、何となく、神さまは偉大で、素晴らしい方だから、賛辞を贈る、というのではありません。ただ褒め言葉を言うことではないのです。それは人生をかけて、わたしたちがなすべきことですし、最高の幸いなのです。
 そして、わたしたちが神の栄光をほめたたえる者とされるために、神がどれほどのことをなさって下さったかを、わたしたちはよく心に留めておかなければならないと思います。

<栄光>
 しかし、まず「栄光」とは何でしょうか。
 例えば「主の祈り」の最後の「国と力と栄えとは、限りなく、なんじのものなればなり」という部分は、旧約聖書の歴代誌上29章10節以下(旧669頁)が元となっていると言われます。
 そこには、こうあります。「わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。」

 旧約聖書に出て来る「栄光」を意味するヘブライ語はいくつかありますが、最も使われているのは「カーボード」という言葉です。これは「重いこと」、人や物の「重さ」の意味があって、重要さや尊さ、価値の重さを表すといいます。ですから、富とか、力も、この言葉で言い表すことが出来るそうです。
 そして、これらの「栄光」は元来、神のものです。万物をお造りになった神の栄光、神の力は、人の命の源です。人の中には、そのような栄光も、力もありません。お造りになった方に、すべて属しています。

 また、栄光は、神がご自身を現される時の輝きとして表現されます。人は、聖なる方である神を、直接見ることが出来ません。旧約聖書の時代、人は神を見ると死ぬと言われていましたし、神と出会う時、人は神から輝き出る栄光を見たのです。
 例えば出エジプト記で、神がモーセに十戒をお与えになる場面はこのように書かれています。「主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた」。ですから、「栄光」は「神のご臨在」とも結び付いています。

 本日の19節によれば、パウロは、神が、この御自分の栄光の富、豊かに溢れ出す、すべての源であり、永遠の力である、その栄光の富に応じて、フィリピの教会の人々に必要なものを、すべて満たして下さる、と言っています。それは、パウロ自身も受けているものです。パウロが、贈り物や、生きるために必要なものを、すべて神から受けている、と言っているのと同じことです。

 命そのものも、具体的に今日一日の命を支えるパンも、そのあらゆるものは神から来ていて、それは神の栄光の富から、与えられています。
 また、栄光が神御自身のご臨在の輝きなのであれば、わたしたちが神の栄光の富に生かされているところ、豊かに満たされるところには、生きた神が臨んでおられるのであり、わたしたちと神との関係性がそこにある、ということが言えます。
 そして、注目すべきは、神がその栄光の富を満たして下さるのは、「キリスト・イエスによって」である、ということです。

<キリスト・イエスによって>
 聖書の「栄光」について見てきましたが、わたしたちは、この世の生活において「栄光」と聞くと、成功者や、豊かで栄華を極めているということや、地位や名誉がある、というような、何か目に見えるきらびやかなものや、世の多くの人々に認められている、というようなものを思い描いたのではないでしょうか。
 そしてそれは、普段のわたしたちには、あまり関係ない、と思えることです。

 でも、神の栄光は、そのように遠い存在で、他人事のように感じるべきものではありませんし、この世の目で見るべきものでもありません。
 なぜなら、神の栄光は、神に属するものであり、信仰によって見るべきものだからです。
 しかもそれは手の届かない、はるか遠くに見える輝きなのではなく、わたしたちのところにまで届けられたのだということです。

 神は、わたしたちに、御自分の栄光の富を受けさせるために、天から、人のところへ降って来られるという方法を選ばれました。それは、このフィリピの信徒への手紙2:6以下で語られていたことです。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

 神の独り子であるイエス・キリストは、天を後にして、御自分を無にして、僕、つまり奴隷の身分になられました。それも死に至るまで、十字架の死に至るまでです。わたしたち人間と同じ者になられたということは、神の永遠の栄光の輝きとはまったく正反対の暗闇を、人の恥と、惨めさと、弱さと、貧しさを、主イエスはその身にすべてお引き受けになったということです。神の栄光は、地上の主イエスのお姿においては隠されています。

 そのようにされたのは、わたしたちの救いのためです。神が、罪と死に支配されているわたしたちを、御自分の救いのもとに、恵みのご支配のもとに招いて下さったのは、はるか遠く彼方に輝く光を見つけて、自分でこっちへ来なさい、という仕方ではありませんでした。
 神の独り子である主イエスご自身が、神の光を携え、人となり、低く低く降ってこられて、身動きが出来なくなっているわたしたちのところまでやって来られたのです。
 自分中心に歩み、神を忘れ、神から離れてしまって、まったく光の届かない、険しく深い谷底まで来てしまったわたしたちのところへ、そして神に見捨てられたと叫ぶ、嘆きと絶望の底の底まで、主イエスはわたしたちを見つけ出すためにやってこられました。主イエスはわたしたちの死に至るまで、さらには墓の中にまで、そしてついに、陰府にまで下られたのです。わたしたちは「ここにキリストはおられなかった」などと言うことは一切できません。人の歩むところで、主イエスがご存知ないところなど、どこにもありません。

 そして、御自身の苦難と十字架の死によって切り拓いて下さった、神の御許に帰る道へ、神の栄光に与る道へと、導いて下さったのです。暗闇を光で照らし、立ち上がらせ、手を取り、担い、神のもとへと連れ帰って下さったのです。
 この方の全人格、ご生涯、その名によって、神の栄光の富がわたしたちを満たしてくださるのです。

 わたしたちは低くへりくだって下さり、そして今や天へと高く上げられた復活のキリストと、信仰によって一つに結ばれます。私たちの心が高く上げられ、神の子とされ、新しく生きる者、神の栄光を現す者とされます。
 キリスト者は、祈りにおいてよく「神の栄光を現すものとして下さい」と祈りますが、神の栄光を現すものとは、まさに、「神がわたしと共におられ、神がわたしを生かしておられると信じて生きること」、と言ってよいでしょう。

 わたしたちは、神の栄光を、キリストにおいて信じ、またキリストにおいて受け取ります。キリストの御業によって、その救いを信じる信仰によって、わたしに必要な一切のものが、今日一日の食べ物も、慰めも、平安も、そして永遠の命も、すべて神の栄光の富から出ているのであり、わたしを満たして下さるのだと、信じてよいのです。

<アーメン>
 さて、パウロは19節で「わたしの神」と言い、また20節で「わたしたちの父である神」と言っています。
 「わたしの神」。創造主であり、全地全能の神、豊かな栄光に満ち溢れる方を、パウロは「わたしの神」と呼ぶことが出来るのです。そして、わたしたちにもそれが許されています。
 これは、神が、わたしたちを救い出し、わたしたちの神となって下さり、わたしたちを神の民として下さったからです。そのような神との関係へと、招いて下さったからです。
 さらに、神の御子主イエスにおいて、罪を赦され、神の子とされたわたしたちは、神を「わたしの父」と呼び、顔を上げて、親しく呼び、交わることが許されています。

 キリストを信じるということは、わたしと神との関係が変わる、ということです。キリストの十字架と復活の出来事は、わたしの救いであり、わたしのために起こったことであり、神が、わたしの神となられ、わたしの父となられる、ということなのです。
 このように、低くへりくだられ、また天にあげられたキリストによって、どこまでもわたしを愛し抜いて下さる神を知ります。この神と共に生きる喜びに溢れて、救われた神の民は共に、「わたしたちの父なる神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」と心から神を礼拝し、栄光を讃えるのです。

 また、この最後の「アーメン」という言葉は、とても大切な言葉です。
 わたしたちは今日も礼拝で何度も口にしましたし、みなさんが普段家で祈られる時にも、必ず「アーメン」を口にしていると思います。

 これは、まことです、本当です、真実です、という意味です。「然り」と訳されることもあります。主イエス・キリストの救いによって、罪人であったわたしたちは、「然り」と肯定される者となり、神の御前に立つことが赦されました。
 また黙示録には、「アーメンである方、誠実で真実な証人」と書かれています。アーメンである方とは主イエス・キリストご自身のことです。「アーメン」と唱える時、それは主イエス・キリストのみ名を唱えているのと同じことです。
 この方こそ、神が遣わされた「真実である方、アーメンである方」であり、またこの方によって、神に逆らうわたしたちは罪を赦され、「然り、アーメン」とされたのです。
 「アーメン」は、信仰の告白であり、神への信頼であり、わたしたちの救いの保証です。

 礼拝する時、祈る時、賛美する時、わたしたちは、不確かな思いや、不安の中でこの言葉を口にするのではありません。神が真実な方であるから、その神の真実に基づいて、わたしたちは確信と信頼を持って、神をほめたたえ、礼拝し、祈り、賛美することが出来るのです。

 しかし、わたしたちの現実は、本当に破れかぶれです。貧しさや、欠けを感じて、もう少し豊かにしてほしいと自己中心的な願いを祈ることもあるし、耐えがたいと思うことや、困難に襲われて、もうだめだと思うこともあるし、自分に弱さや、不信仰を抱えているし、また隣人との関係の破れや、葛藤だって、いつも身の回りに溢れています。

 しかしなお、わたしたちはこのように礼拝に招かれ、「アーメン」と言って、キリストの名によって、神の前に出ることが許されています。
 これは、わたしたちの確かさによるのではなく、アーメンである方の確かさによってです。わたしたちは頼りない自分の足場を捨てて、この方に自分の全体重を委ねなければなりません。神は、一人一人の必要を十分にご存知で、私たちの苦しみ、悩み、恐れも主イエスがすべてご存知で、最も良い仕方で、最も良い時に、最も良いものを、わたしたちに満たして下さる方だからです。

 また、わたしたちは、互いに破れや弱さを抱えながらも、ただキリストによって「アーメン」と唱えるところで、一つとなり、声を合わせて、共に神をほめたたえることが出来ます。
 キリストの心を自分の心として、同じ思いとなり、一つとなりなさい、とは、パウロがこの手紙で教会の人々に対してずっと語ってきたことでした。
 わたしたちはそれぞれ、様々な思いを抱えてここに集っているかも知れませんが、キリストにあって「アーメン」と共に唱える時、そこにキリストが臨んで下さり、一つにされて、共に神を見上げて、ほめたたえることができるのです。

 このように礼拝に集わせ、神の栄光を見る信仰の目を開いて下さり、わたしたちをキリストに一つに結び合わせて下さるのは、聖霊なる神です。
 わたしたちの礼拝は、世の目で外から見るならば、人が語る足りない言葉が語られ、また一かけらのパンと小さな杯が提供される貧しい食卓です。
 しかし、聖霊なる神のお働きによって神を礼拝するところでは、そこでは神の罪の赦しと、永遠の命への招きが語られるのであり、また食卓は、天の国に連なる主イエスの聖餐の祝いの食卓なのです。
 主イエス・キリストのご臨在が、神の栄光が、聖霊によって、今日もこの礼拝にあります。
 この神との交わりの中で、神を知り、神を崇め、神に栄光を帰する、人間の最高の幸いへと招かれていることを、確かにされていくのです。
 神に向かって生きないという以上の不幸は人間にはあり得ません。そして、神に向かって生きるという以上の幸いは、人間にはあり得ないのです。この恵みを、味わいましょう。

 「国と力と栄とは、限りなくなんじのものなればなり、アーメン」
 「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」
 キリストにあって、わたしたちのすべてが、日常生活も、人間関係も、祈りも、奉仕も、人生も、神の栄光をたたえるところへ向かっていきますように。

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