夕礼拝

天下にこの名だけ

「天下にこの名だけ」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編第118編22-25節
・ 新約聖書:使徒言行録第4章1-12節
・ 讃美歌:16、401、75

 「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」   

 わたしたちを救って下さる方のお名前は、天下にたった一つだけです。   
 それは、「ナザレの人、イエス・キリスト」のお名前です。この方だけが、わたしたちを罪と死から、救うことがお出来になります。     

 ペトロは、堂々とこのことを宣言しています。ペトロは一体、どこで、このことを力強く語ったのでしょうか。   
 それは、エルサレムの議会です。現在で言えば、最高裁判所のようなところです。そのようなところで尋問されることになったのは、ペトロたちが、この主イエス・キリストの名を、宣べ伝えていたからでした。      

 それはこのような経緯でした。   
 午後三時、祈るためにペトロとヨハネが神殿に行った時に、四十年間、生まれつき足の不自由な男が、物乞いをしているのを見ました。そこでペトロが、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と、言って男の手を取ると、男は躍り上がって立ち、歩き出して、神殿の境内に入って神を賛美しました。男はそれまでずっと、境内に入ることができませんでしたが、主イエスの名によって足が癒され、神の前に踊り出て、礼拝する者となったのです。そして、その男はペトロとヨハネにつきまとっていました。     

 人々はこのことに驚いて、たくさん集まってきました。  
 そこで、ペトロは説教を始めます。   
 この男が癒されたのは、ペトロの力ではない。ナザレの人イエス・キリストの名によるのだ、ということです。そして、そのイエスという方がどのようなお方か、ということを語りました。ナザレの人イエスは、人々に十字架で殺されましたが、神が主イエスを死者の中から復活させられ、そして天に上げられました。ペトロはその復活の主イエスに出会っています。ペトロは、それが本当のことであるという、証言者なのです。   
 そしてこれらのことは、旧約聖書に預言されていたことであり、主イエスによって預言が成就した、ということを語りました。この方こそ、皆が待ち望んでいた、神から遣わされた方である。それは、地上のすべての者が、神に祝福されるため、救われるためである。  
 ペトロは、このような内容を語ったのでした。   

 その説教の途中で、ユダヤ人の中でも権力のある人たち、祭司たち、神殿守衛長、そしてサドカイ派という人たちがやってきて、二人を捕えて牢に入れてしまったのです。   
 まず、二人が民に勝手に新しいことを教え、人がたくさん集まってしまっていたので、神殿の秩序を乱す恐れがあると思われたのかも知れません。さらに2節には「二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち」二人を捕えた、と書いてあります。     

 「サドカイ派」という人たちは、ユダヤ人の中でも貴族や祭司の家柄の支配階級の人々で、教養もある人たちのグループでした。彼らは霊や天使、そして復活ということを否定していました。死者が復活するというのは、理性的ではないと考えていたのです。   
 その一方でファリサイ派という人々がいて、彼らは自分たちが民衆の指導者であると自負している人々でした。そして体の復活を信じ、そのことに希望をおいている人々でした。ユダヤ人の中でも、このような対立があり、さまざまな考え方のグループがあったのです。   
 そしてこの支配階級であったサドカイ派の人々は、ペトロたちが、主イエスが復活したということを宣べ伝えているので、いらだった、と書かれています。   
 そこで彼らも、祭司たちや神殿守衛長と一緒にやって来て、説教を中断させ、ペトロとヨハネを逮捕したのでした。      

 これは、主イエスを宣べ伝える人々の群れである教会が始まってから、初めて伝道を妨害された事件であると言えます。   
 復活の主イエスが使徒たちに現れ、そして天にあげられた後、使徒たちは聖霊を受けて、主イエスの十字架と復活について証言し始めました。しかしあまり時が経たないうちに、その中心人物が捕らえられてしまったのです。しかし裏返せば、それほどに、主イエス・キリストについての教えに力があり、勢いがあったということでしょう。   
 教会が始まって初っ端から、このような反発や、妨害に遭ってしまったら、普通に考えれば教会の活動は委縮してしまいそうなものです。      

 ところが、決してそうではありませんでした。   
 4節には、「しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった」と書かれています。大変な人数です。   
 主イエスを宣べ伝えた二人が、捕まえられ、牢に入れられた一方で、主イエスが救い主であるということを聞き、実際に癒された男を見た人々の中で、こんなにも多くの人々が、主イエスが救い主であると信じたのです。      

 主イエスが宣べ伝えられる、ということは、主イエスご自身がそこにいて働いて下さる、ということです。ただ、ニュースが流れているわけではないのです。そして、主イエスが救い主であると信じる、ということは、そこで主イエスの救いの業が、その人の身に起こる、ということです。その神ご自身のお働きは、人や権力の妨害によって、止めることはできませんでした。むしろますます広まって、主イエスの名は多くの人々を救い、教会は成長していったのです。   

 さて、捕まったペトロとヨハネはどうなったのでしょうか。   
 捕まえられたときにはすでに日暮れだったので、翌日まで牢に入れられた、と書かれています。   
 5節には次の日になって、議員、長老、律法学者たち、そして大祭司一族が集まったと書かれています。これは、議会を開くため、つまり、裁判を行うためです。      

 実は、これと似たような状況が、この数か月前にも起こっていました。   
 それは、使徒言行録と同じ著者によって書かれた、ルカによる福音書の22章66節に記されています。   
 「夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して『お前がメシアなら、そうだと言うがよい』と言った」と書かれています。   
 主イエスを邪魔に思ったユダヤ人たちが、殺そうと企んで、主イエスを捕えて、裁判をした場面です。そこで主イエスは死刑の判決をお受けになり、十字架につけられることになったのです。      

 それはたった数か月前の出来事です。その当時、ペトロや他の使徒たちはどうしていたでしょうか。誰ひとり、主イエスに従って一緒にいた者はいませんでした。   
 その前にペトロは主イエスに、「主よ、ご一緒になら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております」と勇ましく宣言していたのです。しかしいざ、主イエスが捕まってしまうと、自分にも逮捕の手が伸びるのを恐れて、自分を守るために主イエスを裏切り、「わたしはあの人を知らない」と三度も繰り返したのでした。      

 そのペトロが今や、堂々と、かつて逃げ出した場所に立っています。牢に入れられ、そして裁判をする人々の前に引き出されています。それは、かつて主イエスを「知らない」と言ったペトロが、いまや「主イエスは復活した。この方こそメシア、救い主だ」と証言しているためです。   
 まるで180度変わったペトロです。一体、何が彼を変えたのでしょうか。裏切ったことを後悔して、心を入れ替えたのでしょうか。改めて決意をし直したのでしょうか。   
 そうではありません。ペトロが自分で努力して変わったのではありません。   
 ペトロが変わったのは、復活の主イエスに出会ったからです。ペトロ自身が、主イエスの十字架によって罪を赦され、復活の主イエスに出会い、救いに与ったからです。そして、聖霊を送られたからです。救いの御業を成し遂げて下さった、復活の主イエスが、いつもペトロと共におられるからです。   

 生まれつき足の不自由な男が、主イエスの名によって立ち上がったように、ペトロも、主イエスを裏切り、見捨ててしまったという、大きな挫折の中から、罪の中から、主イエスご自身が立ち上がらせてくださったのです。   
 今、自分を立たせて下さっている方を、ペトロは確信をもって、救い主であると証言しているのです。      

 かつて、ペトロ自身の決意や覚悟では、主イエスに従っていくことはできませんでした。  
 それはわたしたちにとっても同じです。主イエスを信じ、従うことが、もしわたしたち自身の決意や、覚悟にかかっていたなら、それはすぐに折れてしまって、消え去ってしまうでしょう。弱く、臆病で、いつも自分中心になってしまう、罪深いわたしたちだからです。   
 しかし、主イエスが、わたしたちの罪を十字架によって担って下さり、そして死者の中から甦って下さった。その復活の主が、わたしたちと出会って下さる。罪の赦しを宣言し、死を克服された、永遠の命に、わたしたちもあずからせて下さる。   
 生きておられる主イエスが、いつも、わたしたちと共にいて下さるのです。わたしたちの決意や覚悟などではなく、主イエスがわたしたちを捕らえて下さる。手を取って、立ち上がらせて下さる。その復活の主イエスと共に歩んでいくのです。   
 そして、「今このわたしを立たせ、歩ませて下さっているのは、『主イエス・キリスト』という方です」と証言するとき、それは力強い伝道の言葉になります。      

 ペトロは主イエスが立たせて下さるがゆえに、恐れず主イエスが救い主であると宣べ伝えます。
 そうして、ペトロたちは議会で議員や長老たちの前に立ち、尋問が始まりました。   
「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか。」      

 これは、最初の逮捕理由と食い違っています。初めは、「イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので」捕えられたのです。   
 翌日になって、サドカイ派のほかに、律法学者、つまりファリサイ派と呼ばれる、復活を認めているグループの人たちがやってきました。復活を否定しているサドカイ派の逮捕理由は、復活を認めているファリサイ派の人たちが来たことで、通用しなくなってしまったのです。   
 ペトロはその食い違いを指摘しつつ、このように答えました。   
「民の議員、また長老の方々。今日のわたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」      

 8節にはペトロは、このことを、聖霊に満たされて言った、とあります。   
 ルカによる福音書の12章11節以下には、主イエスご自身が、このことを予告しておられました。   
「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」   
 ペトロはこの主イエスの言葉を思い出したでしょうか。   
 聖霊の力によって、大胆にペトロは語ります。      

 まず、ペトロは、自分たちは「病人に対する善い行い」によって取り調べを受けている、と言っています。このことで捕らえられるいわれはない、ということです。   
 そして、「何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」という質問に、「ああいうこと」というのが、その男が何によっていやされたかということであるなら、それは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものだ、と言いました。      

 ここでの「いやされた」という言葉は、原文では「救われた」という言葉が使われています。男は、ただ歩けるようになったというのではありません。主イエスの名によって、神の前に立ち、礼拝する者となったのです。男が与えられたのは、「癒し」がメインではありませんでした。癒しは「しるし」であり、彼が本当に与えられたのは、罪の赦しを与える「イエス・キリストの名」でした。復活のイエス・キリストと共に生きることが、この男に与えられたのです。      

 そのナザレの人イエス・キリストとは、数か月前にこのユダヤの議会の人々が死刑判決を下し、十字架につけて殺し、そして神が死者の中から復活させられた方でした。      

 ペトロは、旧約聖書を引用し、このことが預言されていたことであり、ユダヤ人たちが捨ててしまったこの方こそが、救い主である、ということを示します。   
 主イエスこそが、「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石」である、と。   
 これは今日お読みした旧約聖書の詩編118編に書かれています。隅の親石とは、石造りの建物を建てる時に、アーチを造る際、一番最後にアーチの頂上に押さえとして置く要石、キーストーンのことです。   
 この親石がなければ、建物全体は固定されず、崩れてしまいます。建物を完成させる最も重要な石が、この隅の親石なのです。      

 ユダヤ人たちは、神の民イスラエルであり、本来は神の家を建てる者たちです。しかし、その家を完成させるための親石である、主イエス・キリストが来られても、彼らはそのお方を受け入れず捨ててしまった。十字架につけて殺してしまったのです。   
 しかし、神の救いのご計画は進められました。主イエスは父なる神に死者の中から復活させられて、神の右に座し、救いの御業を完成させて下さいました。そうして、十字架で殺されたナザレの人イエスは、すべての人の罪を赦し、救いを完成させて下さる、隅の親石となられました。救い主となられたイエスが、新しい神の民の家、教会の、親石となられたのです。      
 この方だけが、救い主です。世界のすべての人々の救いが、ナザレの人、イエス・キリストの名によって与えられたのです。
ペトロは言います。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」      

 ほかではだめなのです。   
 ある人が、どうしてキリスト教でなくてはならないのか、他の宗教でも同じような考えや教えがあるし、登山口やルートが違うだけで、結局はどの道を通っても、同じ山の頂上に行くのではないか、と言っていました。様々な宗教を比較して、共通点を発見し、そのように主張する人は多くいます。   
 しかし、そうではないのです。主イエス・キリストの十字架と復活の道を通る以外に、わたしたちに救いの道はないのです。   
 いくつかの宗教の中で、どれを選んでも最終的には一緒、というのではなく、またキリスト教がより良い、とか、他より優れているから、選択肢の中からわたしはキリスト教にしよう、というのでもありません。   
 救いはキリストにしかないと、聖書は語っているのです。自らがキリストに罪を赦され、立たされている使徒たちが、そのように証言しているのです。   

 わたしたち人間には計り知ることができない、神の救いの御計画を、神がわたしたちを愛してくださっているということを、わたしたちの元に来られて、現して下さったのは、この天下で、神の御子であり人となられた、主イエス・キリスト、ただお一人だけなのです。   
 この方だけが、わたしたちを罪の中から救い出して下さる。死から引き上げて、永遠の命を与えて下さる。わたしたちが弱くても、臆病でも、倒れても、この方が、立ち上がらせて下さいます。   

 このただお一人の救い主の名を、すべての人々が知らなければなりません。   
 主イエスはそのために使徒たちを、そしてご自身の体なる教会を、世にご自分の名を告げ知らせるために、地の果てまで遣わされたのです。   
 救いを成し遂げられた主イエスが教会の親石であり、教会を固く支えて下さいます。聖霊を送り、力を与えて下さいます。復活の主イエスがここにおられるのです。本日は聖餐がありますが、これは復活の主の食卓です。主がここにおられ、わたしたちは主と一つにされる、その出来事が起こります。この確かなしるしによって、わたしたちはいつも主が共におられることを味わい知るのです。わたしたちの救い主が、いつも中心におられて、わたしたちを支え、立たせて下さいます。だから教会は、ペトロのように、聖霊に満たされ、大胆に、確信を持って、十字架と復活の主イエスの名を、語ることが出来ます。   
 そうしてすべての民が、主イエスの名によって救いにあずかり、主イエスと一つに結ばれるために、終わりの日まで、教会は救い主の名を、宣べ伝えるのです。      

 わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、与えられていません。   
 このお一人の方の名前に、すべての人間の救いがかかっています。   
 わたしたちには、このナザレの人、イエス・キリストの名が与えられています。   
 この名だけに希望を置き、この名だけを呼び求め、この名を大胆に宣べ伝えましょう。

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