主日礼拝

祈りの家に生きる

「祈りの家に生きる」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第56章1-8節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第11章12-25節(2)  
・ 讃美歌:299、152、512

宮清めとは
主イエスが、エルサレムの神殿の境内で、売り買いしていた人々を 追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返したとい う、いわゆる「宮清め」の出来事が、マルコによる福音書第11章1 5節以下に語られています。先々週の礼拝においてそこをご一緒に読 みました。主イエスの激しい怒りのお姿が語られているわけですが、 その怒りが何に向けられたものだったのかを先々週確認しました。主 イエスは、単に神殿が商売の場となっていることに対して怒られたの ではありません。神殿の境内と呼ばれているこの場所は、「異邦人の 庭」といって、神殿の中に入ることのできない異邦人たちのための礼 拝の場だったのです。その場所が、ユダヤ人たちが礼拝でささげる動 物を買ったり、献金にするためのお金を両替する場になってしまって おり、異邦人たちの祈りと礼拝が妨げられている、そのことに対して 主イエスは激しくお怒りになったのです。主イエスがここで「わたし の家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」という旧 約聖書の言葉を引いておられることがそのことを示しています。本日 は、この言葉が語られているイザヤ書第56章1~8節を共に読まれ る旧約聖書の箇所としました。そこに語られていることを先ず確認し ておきたいと思います。

すべての民の祈りの家
この箇所には「異邦人の救い」という小見出しが付けられていま す。実際には、異邦人のみでなく、宦官の救いについても共に語られ ています。3節にこう語られています。「主のもとに集って来た異邦 人は言うな/主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言 うな/見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と」。異邦人も宦官も、主 なる神様の救いの外にあると考えられていました。異邦人は神様に選 ばれた民ユダヤ人ではないからです。また、子供を生むことが神様の 祝福の印と考えられていたユダヤ人においては、去勢することによ ってその能力を捨てた宦官は祝福から落ちた者、まさに枯れ木のよう に実を実らせることのできない者とされていたのです。しかしここに は、それらの人々が主なる神のもとに来て、そのみ心に従い、主の民 となることを熱心に求めるなら、主は彼らをご自分の民に加えて下さるということが語られています。宦官には、5節にあるように、息 子、娘を持つにまさる記念の名を、主の家の城壁に刻んで下さり、そ の名が消し去られることのないようにして下さるのです。異邦人に も、7節にあるように、「わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なるこ とを許」して下さり、彼らの献げ物を受け入れて下さるのです。その 7節に「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」というみ 言葉が出てきます。つまりこの言葉は、異邦人が神様の民に加えら れ、共に主に祈ることを許される、神殿が、異邦人も含めた全ての人 々の祈りの家となる、ということを語っているのです。主イエスはそ のみ言葉を引いて、異邦人のための祈りの場がユダヤ人の商売の場と なっているエルサレム神殿のこの様子は何か、と批判しておられるの です。

主イエスこそ神殿の主
宮清めとはこのような出来事でした。そしてこのことを聞いた神殿 の祭司長たちや律法学者たちは、18節にあるように、「イエスをど のようにして殺そうかと謀った」のです。宮清めは神殿当局者たちの 激しい怒りと敵意をもたらしました。それは彼らが主イエスのこのみ 業に、自分たちへの批判を感じ取っただけでなく、主イエスが、祈り の家、神への礼拝の場であるべきこの神殿の本当の主人は自分である と主張しておられることを感じ取ったということです。主イエスは 「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」 というイザヤ書の言葉を引用なさいました。その「わたし」とは、主 なる神様であると同時に、その独り子であられる主イエスご自身でも あります。主イエスこそ神殿の主であり、神殿は主イエスにとって 「わたしの家」なのです。そこに来られた主イエスは「わたしの家は すべての国の人の祈りの家でなければならない」と宣言なさったので す。全ての人々の祈りの家を打ち立てるために、主イエスはこの世に 来られ、今エルサレムに来られたのです。

祈りについての教え
このことを見つめる時に、本日の箇所の後半、20節以下に語られ ていることの意味が見えてきます。22節以下に主イエスの教えが語 られていますが、そのテーマは「祈り」です。祈りに関して二つのこ とが教えられているのです。第一のことは、22~24節です。主イ エスはこうおっしゃいました。「神を信じなさい。はっきり言ってお く。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言 い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得ら れたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」。つまり、少し も疑わずに信じて祈るなら、必ずその通りになる、祈りは聞かれる、 ということです。その具体例として、山に向かって「立ち上がって海 に飛び込め」と言えばその通りになる、と語られているのです。

山が動く
「山が動く」という言い方があります。山というのは、とうてい動 きようのないもの、私たちが動かすことのできない現実としてそこに あるものです。それが動くというのは、とうてい不可能と思われるこ とが実現することです。山が立ち上がって海に飛び込む、ということ が意味しているのはそういうことでしょう。その山とは、私たちにと って何でしょうか。それは私たちの人生において立ち塞がり、歩みを 妨げ、前に進むことができなくしている障害物かもしれません。自分 の力で到底乗り越えられそうにない苦しみや悲しみかもしれません。 あるいは、私たちが自分の力でどうしても取り除くことができない、 私たちの内に深く巣食っている罪がその山かもしれません。そういう 山が、祈ることにおいて動くのです。これ以上前に進むことができな いと思われた現実の中に道が開かれていくのです。乗り越えられない と思われた苦しみ悲しみに耐える力が与えられるのです。そして、自 分で拭い去ることができず、赦されることもないと絶望していた罪が 赦され、新しく歩み出すことができるのです。祈ることにおいて、そ のようなことが起るのだと主イエスは言っておられるのです。

神に信頼して祈る
それは私たちの祈りに、どうにかすればそういう力が宿る、という ことではありません。山を動かして下さるのは主なる神様です。私た ちにはとうてい動かすことのできない山を動かして下さる主なる神様 がおられ、自分の人生がその主の導きと支えの下にあることを信じ て、その主に祈り求めていく時に、山が動くのです。いや、この主な る神様を私たちが信じて祈るということができるならば、それ自体 が、既に山が動いていることなのです。22節の主イエスのお言葉の 冒頭に、「神を信じなさい」とあります。神を信じる者は、山が動く ことを体験するのです。これ以上前に進むことができないと思われた 現実の中に、神が備えて下さっている道が見えてくるのです。乗り越 えられないと思われた苦しみ悲しみに耐える力が、神によって与えら れるのです。そして、自分で拭い去ることができず、赦されることも ないと絶望していた罪が、神の恵みによって赦され、新しく歩み出すことができるのです。神を信じるとは、神がこの世界と自分の人生と を支配し、導き、歩むべき道を備え、その道を歩んでいく力を与えて 下さると信じることです。そのように信じる時、私たちにとって山は もう既に動いているのです。24節の「だから、言っておく。祈り求 めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとお りになる」というみ言葉はそういうことを語っていると言えるでし ょう。祈りというのは、神様を動かして自分の願いを叶えるためにあ るのではなくて、神様が既に備え、与えて下さっている恵みを信じて 求め、それを見出していくためにあるのです。このことは、マタイに よる福音書第6章25節以下のあの「何を食べようか、何を飲もう か、何を着ようかと思い悩むな」という教えと通じます。思い悩まず にはおれない現実の中でも、「あなたがたの天の父は、あなたがたに 必要なものをご存知であり、それを与えて下さる」ということを信じ ることによって、山のように動きそうにない思い悩みから解放され、 先ず神の国と神の義とを求める者とされるのです。また同じく7章7 節以下の「求めなさい、そうすれば与えられる」という教えもこれと 通じます。求めれば与えられるのは、神様が私たちの天の父として、 子である私たちに本当に必要な良いものを与えて下さるからです。そ の神様の恵みのみ心を信じて、求めなさい、探しなさい、門をたたき なさい、と語られているのです。祈りとはこのように、神様の恵みの み心、導き、養い、支えを信じて、それを求めていくことです。その ように神を信頼して祈り求める者たちの群れこそ、主イエスが打ち立 てようとしておられる「祈りの家」です。全ての人をこの祈りの家へ と招くために、主イエスは今エルサレムに来られ、十字架の死への道 を歩んでおられるのです。主イエスの十字架の死と復活によってこそ 私たちは、神様が私たちの天の父となって下さり、私たちを子として 愛し、導き、養い、支えて下さっているその恵みのみ心をはっきりと 知ることができます。そしてその神様が私たちに、死の力に勝利する 復活の命の希望を与えて下さっていることを知ることができます。そ の恵みと希望を信じることによって私たちは、自分の願いを実現する ために神を動かそうとする祈りではなくて、神の恵み、導き、養い、 支えに信頼してそれを求めていく祈りをすることができるのです。そ のようにして私たちも、主イエスが打ち立てて下さる祈りの家に招か れ、その一員となるのです。

祈ることと罪の赦し
祈りに関して教えられている第二のことは25節です。「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦して あげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ち を赦してくださる」。ここには、祈ることと、人の罪を赦すこと、そ して自分の罪を神様によって赦していただくことの結びつきが語られ ています。この第二のことは、第一のことと深く結びついています。 なぜなら罪や過ち、そしてそこに生じる恨みの思いこそ、私たちの前 に最も動かし難く存在している山だからです。私たちは、人の罪や過 ちに対する恨み、怒りという山を自分の力で動かし、取り除くことが 出来ません。また自分自身の罪を自分で償い、きれいさっぱり解決し てしまうこともできません。もしも私たちが、恨みに思っている人の ことを赦してあげることができたとしたら、それはまさに山が動いた ということなのです。そういうことが、祈りにおいて起る、祈ること によって、私たちの前に立ちはだかっている罪の山が動き、私たちが 人の罪を赦し、恨みを乗り越えるということが実現していくのだ、と 主イエス・キリストはこの第二の教えにおいて語っておられるので す。

赦すことと赦されること
しかし祈ることによって、どうして人の罪を赦すことができるよう になるのでしょうか。この25節は、祈る時に、人の罪を赦してあげ なさい、そうすれば天の父である神様もあなたがたの罪、過ちを赦し て下さる、と語っています。私たちが人の罪を赦すことと、神様が私 たちの罪を赦して下さることとが結び合わされているのです。神様が 私たちの罪を赦して下さる、それは主イエス・キリストによって神様 が既にして下さったことです。主イエスはそのために、エルサレムに 来て、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さった のです。主イエスの十字架の死によって、私たちの罪という、私たち が自分では償うことも取り除くこともできない山を、神様は既に動か して下さり、乗り越えて下さったのです。私たちは神様を礼拝し、み 言葉を聞き、祈ることによって、神様が私たちの罪を赦して下さって いることを知らされ、その神様との交わりに生きる者とされるので す。そのように主イエスの十字架の死によって私たちの罪と過ちを赦 して下さった神様の恵みによって生かされる中で私たちは、人の罪に 対する恨みという動かし難い山が動くことを体験していくのです。私 たちがその山を自分の力で動かすのではありません。主イエスが、十 字架の苦しみと死による赦しの恵みによってその山を動かし、私たち に、恨みを乗り越えて新しい交わりを築いていく道を開いて下さるのです。自分自身の罪も、人が自分に対して犯している罪も、私たちが 自分の力で動かし、取り除くことは到底出来ない山です。その山が動 くことを、私たちは、主イエス・キリストを遣わして下さった父なる 神様に祈ることの中でこそ体験し、味わっていくことができるので す。

祈りの家に生きる
この25節は、主イエスが私たちに教えて下さった祈りである「主 の祈り」の中の、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪 をも赦したまえ」と同じことを語っています。主の祈りにおいても、 神様に自分の罪を赦していただくことと、私たちが人の罪を赦すこと が不可分に結び合っています。私たちが人の罪を赦すことが、神様に 赦していただくための交換条件なのではありません。神様は独り子イ エス・キリストの十字架の死によって、罪人である私たちを赦して下 さっているのです。しかし私たちがその赦しの恵みを本当に知り、そ の恵みにあずかっていくことは、私たち自身が、人の罪を赦すことが できるようにと、主イエスの父である神様に祈りつつ、神様との交わ りに生きることの中でこそ与えられていくのです。
主イエス・キリストは、私たちをそのような祈りに生きる者として 下さるために、そして祈ることの中で山が動くという体験をさせて下 さるために、十字架の死への道を歩んで下さいました。その主イエス を父なる神は復活させ、新しい、永遠の命を与えて下さいました。今 も生きておられる主イエスは、私たちをご自分のもとに集め、ここ に、全ての人々のための祈りの家を築こうとしておられます。教会こ そ、全ての人々のための祈りの家です。私たちはこの祈りの家の家族 として共に生きていくのです。

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