夕礼拝

本国は天に

「本国は天に」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: 詩編第16編1-11節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙第3章17-第4章1節
・ 讃美歌 : 55、503

わたしに倣う者
 使徒パウロは、フィリピ教会の人々に宛てた手紙において、「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」と記します。パウロは信仰者たちに、自分に倣うようにと言うのです。この言葉は、少なからず、私たちを驚かせます。自分に倣う者になれ等と言うことは、よほど自信がある人でなければ言えないことです。少なくとも私たちの内に、信仰という点において、このようなことを自信に満ちて語ることが出来る人はいないでしょう。そして、もし教会において、このようなことを語り出す人がいたとするならば、何と傲慢な人なのだと眉をひそめることでしょう。そのように感じるのは、ただパウロのような立派な信仰者を周囲に見いだせないからではありません。そこには、キリストを見つめて歩むキリスト者が、キリストのお姿から、生き方を指し示されることはあっても、神様から見たら罪人に過ぎない特定の人を模範にして歩むことは信仰の姿勢としてはどうなのだろうかとの思いがあるのではないでしょうか。しかし、私たちが忘れてはならないことは、信仰は具体的なものであると言うことです。それは、教義や聖書の言葉を通してなされる、キリストについての知識の伝達によってのみ私たちに示されるものではなく、まさに、人々の実際の生活、生き方の中で示されていくものです。私たちは、自分一人で聖書を読み、聖書の知識を得て行くことによってのみ、キリストを知らされ信仰生活が整えられて行くのではありません。私たちの信仰生活は、事実信仰に生きる人々、使徒パウロを始め、教会に連なり信仰に生きている信仰者たちの姿を模範とすることで整えられて行くのです。もちろん、キリスト者は、皆、キリストの愛に生かされ、キリストに倣って歩みます。しかし、その歩みは、具体的な信仰者の姿によって示され、整えられて行くのです。私たちは、今日、使徒パウロの姿の中にある、信仰者の模範を示されつつ、その姿に倣う者として歩み出したいと思います。

自らの不完全さ
 一般的に、模範と聞くと、私たちは、自分が目指すべき完成された姿を想像します。例えば、小学生時代の習字の授業の時に示されたお手本を思い浮かべて見ると良いかもしれません。習字の教科書には、均整の取れた、美しい文字が記されています。生徒は、その見本と同じように書くことは、到底出来ません。けれども、少しでも、それに近づけるように努力し、練習するのです。パウロも、これと同じような感覚で、自分が模範であると言っているのでしょうか。そうではありません。確かにパウロは、人間的に見ても大変優れた人です。ユダヤ人としてのエリートの家計に生まれて、律法を熱心に守り、良い教育を受けていました。更に、キリスト者となってからも、使徒として誰よりも熱心に異邦人たちにキリストの福音を伝道したのです。そのような意味で、賜物を豊かに与えられた優れた信仰者に違いありません。しかし、それは信仰者として完全であることを意味しません。使徒パウロも、神様から見れば私たちと変わらず、不完全さを持った人間です。ですから、パウロはここで、自分にこそ信仰者の完全な姿があると主張して、皆、その完全な姿に極力近づけるように努力しろと言っているのではないのです。この言葉を語った時、パウロは、自分の歩みの素晴らしさや完全さを見つめているのではありません。むしろ、自分の不完全さを見つめているのです。前回お読みした、直前の箇所を振り返ってみたいと思います。3章12節には次のようにあります。「わたしは、既にそれを得たというわけでなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」。更に13節の後半以下には次のようにあります。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。パウロにとって、救いは、自分の内側に見いだせるものではなく、自分の外側にあり、それ故、自分はまだ獲得していないものなのです。だからこそ、自分の不完全さを見つめつつ、救いの完成を目指して走り続けているのです。そして、そのような姿勢に倣えと言うのです。

私たちに目を向ける
 更に、パウロは、ここで、自分の歩みのみが、信仰者の模範となるものだと言ってはいないことに注目したいと思います。17節の後半には、「また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」とあります。ここでパウロは、自らを模範としている人にも目を向けるようにと言うのですが、ここでの記述が「わたしたち」と複数形で示されていているのです。「わたしたち」と言われているのは、パウロの身近にいて共に歩んでいた同労者たちのことで、共にキリストに仕えていた人々のことでしょう。パウロは、自分と共に同じ信仰に歩んでいる人々、更には、その自分たちを模範としている他の人々にも目を向けるようにと言うのです。又、ここで「あなたがたと同じように」と言われていることにも注目したいと思います。このことから、既に、フィリピ教会の人々が、パウロや、キリストの救いにあずかる者たちを模範としている歩みをしていることが分かります。あなたがたは私たちを模範としている、それと同じように、私たちを模範としている他の人々にも目を留め、その歩みに倣いなさいと言うのです。即ち、信仰者の歩みとは、キリストの救いにあずかり、キリストによる救いを求めて歩んでいる者同士が、互いの歩みに目を留めて、それを模範とし合うものだと言うのです。ここにこそ、信仰において教会という共同体が形成されることの一つの意味があると言って良いでしょう。パウロが、「皆一緒に」倣う者になれと言っていますが、信仰は個人的なことではありません。個人が修練して、お手本に近づいて行くと言うのではなく、教会に集められた人々が、共に倣い模範とし合うことによって、育まれて行くのです。

完全さを主張する態度
 パウロは、信仰者が、自分が完全でないことを知らされて走り続ける姿を示しつつ、自分に倣う者となれと言うのですが、このようなことを語るのは、フィリピ教会の中に信仰における完全さを主張する人々がいたからです。具体的には、自分たちが律法に従って割礼を受けていることを根拠にして、完全な救いを獲得していると主張し、それを誇っている人々がいたのです。そのような人々に対して、パウロは、人間は、自分の業や、自分の行いによって、救いを獲得することは出来ない。信仰とは、自分の不完全さを知らされて、神様の救い、神様が救いの御業を完成させて下さることを求め続けて行く歩みをすることなのだと言うのです。ここで見つめられている、自分の信仰の完全さを主張し、そのような意味で救いの完成を求めて行くのを止めてしまう歩みは、割礼を受けるか受けないかと言うことにおいて問題となるのではありません。それは様々な形で私たちの信仰生活の中に生じるのです。又、その信仰に生きている人が人間的に見て完璧な歩みをしているかどうかと言うこととも関係ありません。人間が、自分の行いや、熱心な信仰生活、信仰歴、自分が学び取った聖書の知識等、即ち、自分が内側に獲得したものによって自ら救いを得ていると思う時、自分の力で信仰的にしっかりと立とうとする時に、神様の救いを完全に得ていると主張する人々と同じ態度に陥っているのです。それは、信仰において走っていない、立ち止まってしまっている態度です。立ち止まっていると言っても、神様によって与えられる救いを求める姿勢を失っているということであって、何もしていないというのではありません。自分の中にある救いの確かさをより堅固なものとするためにあくせくと自らを高めて行くことに励むと言うことも起こるのです。そして、そのような場所では、自分に対する誇りが生まれます。人間が自分を誇りとすることと、自分は救いの完成を得ていると言う態度は結びついています。そして、そのような歩みの中で、他者と自分を、どちらが、より完成に近い信仰者かという視点で見比べて、優越感や劣等感に捕らえられることになるのです。そこでは、確かに、周囲の信仰者に目を向けていますが、救いの完成を求めて走っている姿を模範とするのではなく、自分の獲得したものを誇りとするために、目を向けているのです。そのような場所には、パウロが示している、共に、同じ救いにあずかって、救いの完成を求めて歩んでいくという信仰の歩みは生まれないのです。

キリストの十字架に敵対する者
 パウロは18節で、信仰者を模範とし、目を向けなくてはならない理由を語ります。「何度も言って来たし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」とあります。ここで、自らの完全さを主張する者が、キリストの十字架に敵対する者と言われています。キリストの十字架と言うのは、神の一人子が、十字架で死ぬことによって人間の罪を贖って下さり、終わりの日の救いにあずかることを約束して下さったという恵みの出来事です。つまり、それは、神様が恵みによって差し出して下さっている、人間の救いの約束です。自分自身の獲得したものによって救いの完全さを主張することは、キリストの十字架の救いにあずかりつつ、キリストが約束して下さっている、救いの完成を拒むことになります。救いの恵みを無にするということによって、十字架に敵対することになるのです。ですから、ここで十字架に敵対する者とは、教会の外にいる人々のことではありません。この言葉は他でもなく、教会にいる人々に向けられているのです。実際にキリストの十字架を知らされ、それにあずかる者とされていながら、その恵みに生かされることが無くなってしまうことがあるのです。キリスト者とされていながら、その歩みが本当にキリストの救いの恵みにあずかって行くことではなく、自分の信仰の熱心さや教会生活に打ち込む姿勢によって自分の救いの完成を主張しようとする歩みをしているのであれば、そのことによって、キリストの十字架に敵対しているのです。パウロは、ここで、「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが」と語ります。ここから、フィリピ教会の事態が悪化していることが分かります。つまり、ここで見つめられている間違った姿勢は、教会において根強く現れて来るものなのです。そして、敵対する者が多いと言われているように、私たちの誰しも、ここで語られている、完全さを獲得する信仰の姿勢に陥ることがあるのです。

この世のことしか考えない
 パウロは、キリストに敵対して歩む人々の、信仰の姿勢の本質を、19節で見つめています。「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」。彼らは、真の救いに至らせる主なる神ではなく、自らの腹を神としていると言うのです。腹と言うのは、人間の肉を徹底化させた言葉で、自分自身の業や、それによって生じる誇りと言い替えても良いでしょう。自分の業を、救いの確かさにしているのです。そして、そのような歩みは、実は、恥ずべきもの、本当に人間を救うことが出来ない、過ぎゆく一時的なものを誇りとしているのです。そして、そのような滅び行くものを誇りとする人々は、結局は、「この世のことしか考えていない」のです。この世を超えた所にある救いに目を向けていないのです。信仰生活も、この世の歩みを少しでも良いものにするために、自分を高め、自分の誇りとしていくためのものになってしまうのです。この世のことしか考えないと言う時の「考える」と言う言葉は、本来、キリストの体という共同体における一致を現すために用いられる言葉です。つまり、ここでは、キリストの救いではなく、この世と一致し、この世と結びついている事態が現されているのです。そして、そのような態度は、結局、滅びに通じるのです。十字架の敵対者が主張する自らの完全さは、本来、救われるために依り頼むべきものに依り頼んでいないということによって、将来の滅びにつながるのです。

わたしたちの本国は天にある
 パウロは、そのような信仰の姿勢を退けつつ、20節では次のように語ります。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」。自分の完全さを主張する人々が、この世に結びついているのに対して、教会の信仰に生きる者は、天と結びついていると言うことです。かつて、使用していた口語訳聖書は、この「本国」と言う言葉を「国籍」と訳していました。国籍と言うのは、私たちがこの世で生きていくために不可欠なものです。人間は、共同体に属し、共同体の中に生きることによって、自らのアイデンティティを見出します。近代社会においては、国家が、共同体の単位を形成していますから、国籍は、まさに、自分が、一つの共同体の中で生きていることのしるしであり、自らのアイデンティティを示すものなのです。だから、実にしばしば、人間は、国家に自らの誇りを見出そうとするのです。
 ここで本国、国籍は天にあると言うのは、信仰者は天に属し、それ故に、アイデンティティは地上にではなく天にあるということです。それは言い替えれば天にある救いを自らの救いとし、誇りとしているということです。この世においては、未だ完全な救いに与ってはいない。キリストが救い主として神の右の座についておられる所にこそ、真の救いがあるのです。そして、将来、「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを」待っているのです。将来、終わりの日に救いに与ることを待望して歩むのです。21節では、次のように語られます。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」。その終わりの時、キリストが働いて下さり、死に定められている罪の支配の中にある体が、主イエスの復活の体に変えられるのです。自らの不完全さを知らされつつも、この救いの完成を待ち望みつつ走り続けるのです。

教会共同体の中で
 この本国は天にあると言うことは、具体的な現実の中で示されて行きます。つまり、私たちが、天から来る救いを求めて走り続けることは、ただ、共に、そのような信仰に生かされて歩んでいる信仰者の姿を見つめて行くことによって生まれて行くのです。国籍が天にある者の歩みは、自分を見つめ、自分の完全さを主張し合うのではなく、不完全な者が神様による救いを求めつつ礼拝を捧げて行く群れの中で進められていくのです。私たちは、周囲の信仰者が、自らの不完全さの中で、キリストの救いにあずかりつつ、約束された救いの完成に希望をもって歩んでいるのを見つめ、その姿を模範とする時に、自らの信仰生活を整えられます。自分も、皆と共に、神の前に悔い改めつつ、将来の救いの完成を目指して、救いを求めて走る者とされて行くのです。逆に、他の信仰者に目を向けていない時、即ち、自らの不完全さの中で神の救いを求める者を模範としていない時、自分にのみ目向けているのです。そして、自分の中にのみ救いの根拠を見出そうとし、自分が完全な救いを得ている者として振る舞い始めるのです。つまり、救いを求めて走る歩みと、共に同じ信仰に生きる人々に目を向け、模範とし、倣って行くことは密接に結びついているのです。

主によってしっかりと立つ
 だからこそ、パウロは、自分自身に倣う者となれと言うのです。4章の1節には、「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」とあります。「兄弟たち」と言う呼びかけは、「わたしが愛し、慕っている兄弟たち」と更に親しみを込めた呼びかけになっています。そして、この愛する人たちが、パウロの喜びであり、冠であるこというのです。この言葉には、終わりの日の救いに喜びを現していると言うことが出来ます。終わりの日の救いを求める信仰者の生活は、共にキリストの救いにあずかる人々に目を向け、共に歩む時に整えられて生きます。ですから、信仰者が真の救いにあずかることは、天を国籍として共に歩む人々がいることによって可能なのです。それ故、パウロにとってもフィリピ教会の人々は、信仰の模範であり、共に救いにあずかる人々であり、喜びであり冠である人々なのです。パウロは、決して、自分の完全さを誇示して、それに倣う者となれと言っているのではありません。不完全な者が共に、完全であるキリストの救いを求めて行く者となる道を示しているのです。パウロは、最後に、「このように主によってしっかり立ちなさい」と語ります。自分の力によって立ち、自分のみを見つめるのではなく、共に、主によってしっかりと立つことこそ、パウロが言おうとしていることなのです。自分に目を向け、自分の中に救いの確かさを見出そうとしていく歩みは、自分自身の小さな誇りを保つための信仰生活になるでしょう。そこには、真の交わりは生まれません。天にある救いを見つめ、キリストのみを誇りとする時、同じ救いを求める者としての真の交わりが形成されていくのです。自分を誇りとするのではなく、ただ、キリストを誇りとし、キリストによって約束された救いの完成を求める人々の姿を模範として行く中で、私たちは、自分の力によってではなく、主によって立つ者とされて行くのです。そのような歩みによってこそ、地上にあって、天に国籍を持つもの、天にある約束された救いを求めて行く者としての信仰の歩みを続けて行くのです。

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