夕礼拝

人知を超える神の平和

「人知を超える神の平和」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: イザヤ書第57章14-19節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙第4章2-9節
・ 讃美歌 : 18、543

手紙の結び
 フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロがフィリピ教会に宛てて送った3通の手紙が編集されて出来たものであるとされています。これまで読んできた所には、その内の2通の手紙が含まれています。前半の1:1節~3章1節前半までが一つの手紙です(手紙A)。そして3章1節後半から、直前の4章1節までが、もう一つの手紙です(手紙B)。本日朗読された、箇所は、それら二つの手紙の結びの部分です。前半の4章2~7節が、手紙Aに続く結びの部分、そして、後半の8節~9節までは、手紙Bに続く結びの部分なのです。フィリピの信徒への手紙は、二つの手紙の本文を並べて記した後に、両方の手紙の結びを並べて後ろにくっつけたのです。そして、その後に、教会への感謝を語っている三つ目の手紙が続いているのです。そのようにして、三つの手紙を一つの手紙であるかのように編集していると考えられるのです。本日の箇所が手紙AとBの結びであると考えられるのは、手紙の内容を語る部分と、それぞれの結びの部分に内容の一致、連続があるからです。例えば、本日、中心に取り扱う4章2~7節には、手紙Aで語られていたことと同じことが繰り返されています。手紙Aで語られていた内容を示す、特徴的な言葉は、「同じ思いを抱く(1:27、2:2)」とか、「喜ぶ」(1:18)、更には、「祈り」や「感謝」という言葉です。つまり、そこでは、教会の人々がキリストの下に同じ思いを抱きつつ、共に喜び、祈りと感謝を捧げて歩むようにという教えが語られていたのです。そのようなテーマは、手紙Bでは明確には出てきません。そして、本日朗読された、4章2~7節では、再び、そのテーマが語られているのです。2節には「主において同じ思いを抱きなさい」とあり、その後には、「喜び」「祈り」「感謝」が語られて行くのです。この結びにおいては、手紙Aで教えられていた内容が、具体的に教会の中で生きられるようにと言う勧めが語られているのです。パウロが語る福音の教えは、抽象的なものではなく、教会の中で具体的に生きられて行くものです。ですから、教えには、その教えに基づく具体的な勧めが続くのです。

主にある平和
 本日朗読された箇所が、二つの手紙の結びからなっていることを見て来ました。それらは、別の手紙で語られていたことを受けて、それぞれの教えについての勧めが語られているのですから、両方の結びには共通点がないようにも思います。しかし、両者を結びつける一つの言葉があります。それは「平和」と言う言葉です。手紙Aの結びの最後、7節には、「そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」とあります。又、手紙Bの結びの最後である9節の後半には「そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」とあるのです。平和という言葉は、平安とも訳せる言葉です。つまり、福音の教えが具体的に生きられる時、そこには、主による真の平安が支配するのです。私たちが生きている具体的な現実は、平安とは程遠いものです。自分の将来に対して漠然とした不安を抱くことがあるでしょう。そして、何よりも、人間関係の中で生じるトラブル等に心を煩わせることがあります。日々、様々なことに心を騒がせていると言って良いでしょう。そのような心労によって疲れ果て、病になってしまうというケースもあるのです。そのような意味で、心穏やかに平安に暮らしたいという願いは誰しももっているのではないでしょうか。聖書は、主イエスの福音が私たちの間で、具体的に生きられていくのであれば、そこには、真の平安が与えられて行くと語っているのです。この平安について、7節では、「人知を超える」と言われています。福音によって与えられる平安は、私たちの思いや、私たちが理性で捉えられる範囲を超えていると言うのです。私たちが考える平安は、心配事からの解放や、人々との争いがなくなり、意思疎通が上手く行くようになる事等かもしれません。しかし、聖書が語るとは、そのような私たちの考える平安とは異なるのです。本日の結びを通して、福音による平安とはどのようなものなのかを見て行きたいと思います。

対立の中で同じ思いとなる
 4章2節には次のようにあります。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」。ここには、フィリピ教会において生じていた二人の婦人の対立、仲違いという非常に具体的な状況が取り上げられています。二人の婦人が名指しされ、しかも、両者に向かってそれぞれに「勧める」とあるのです。それぞれに福音に生きる勧めがなされているのです。ここで、関係が壊れてしまった二人の婦人がどのような人物であったかについては、多くを知ることが出来ません。しかし、この二人の間に仲違いが、教会の中で、個人的な問題であるばかりでなく教会全体にとっての問題となっていたことは明らかです。そうであれば、この二人は、教会の中でも重要な役割を担っていた人であるということも考えられます。教会のことに熱心であり、その熱心さの故に、衝突が起こってしまったのかもしれません。このようなことは、私たちの現実の中で実に頻繁に起こることです。人間関係の破れが、私たちの心の平安を妨げる最も大きなものと言っても良いかもしれません。そのような中で人々は、疑心暗鬼になり、憎しみに捉えられ、それによって関係が破壊されて行くのです。それは、人間の集まりである以上、教会でも起こるのです。パウロは、そのような日常の具体的な状況に向かって、「主において同じ思いとなりなさい」という福音の教えを語りかけているのです。ここで同じ思いとなるとは、十字架の主イエスのお姿に倣って、へりくだることによって、共同体の一致を形成するということです。信仰者は、主イエスが神の子でありながら、人間の罪のためにへりくだって世に来て下さり十字架で死んで下さったという救いにあずかっています。そして、その救いにあずかった者は、へりくだる姿に倣うことで、同じ思いとなるのです。私たちは、キリストに倣うというと、困難の中にある人のために祈ったり、手を差し伸べて歩むこと等を想像するかもしれません。もちろん、そのようなことも主に倣うことです。しかし、最も大切なのは、私たちの日常の中で起こる対立の中で、相手の前でへりくだり、その人を受け入れることなのです。それは、キリストが、ご自身に敵対して来る罪人のためにへりくだって下さったからに他なりません。自分のためにキリストがへりくだって下さった。それによって今の自分があることを知らされる時、自らも、自己主張のみをするのではなく、人々に対してへりくだるのです。

真実な協力者
 パウロは、ここで仲違いの当事者にのみに勧めを語っているのではありません。パウロは3節で、次のように語るのです。「なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」。同じ福音に生かされている人々、即ち教会の人々にも、二人の婦人を支えるようにとの勧めが語られているのです。「真実の協力者」と言う言葉には、同じ軛につながれた者というような意味合いがあります。つまり、二人の婦人の問題は、同じ福音に生かされている者にとっては他人事ではないのです。自己主張する二人が、共に、へりくだることによって同じ思いとなる時、両者には、それぞれに自分の思いが打ち砕かれるということが起こります。自らの誇りや、自分自身が保とうとしていたものを捨てるのですから、そこには少なからず、苦しみが生じるのです。その苦しみを共に担うようにというのです。信仰者の群れが、共に、同じ思いとなって行くために必要な重荷を担って行くと言われているのです。そのように語る理由は、この二人が、「他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれた」、即ち、福音のために戦った者であるからに他なりません。福音のために戦うと言うのは、伝道に励む中での様々な戦いを担うということでもありますが、その本質は、人間を支配する罪、人間を神様から引き離し、教会の一致を妨げようとする力との戦いです。罪の力は、人間に自らの誇りを保たせ、自らの思いによってのみ生きさせようとします。そのような罪がある所には、必ず、一致を破壊しようとする力が働くのです。そのような罪の力との戦いが信仰には必ず生じるのです。この戦いは自分だけが向き合う個人的なのものではありません。人々との関係の中で問題となることですから、当然、他の人も共に同じ戦いを戦っているのです。そのような意味で、信仰者は皆戦友なのです。教会において、私たちの間で仲違いが生じるのは、このことが忘れられる時に他なりません。仲違いの中に本来戦うべき罪の力が働いていることが見失われているからです。自分たちを支配し、人間を高ぶらせ、傲慢にし、対立させようとする罪の力に対して共に戦っているという事実が忘れられる時、戦うべき敵の力に捉えられ、むしろ戦友との戦いに奔走してしまうのです。信仰者たちは、共に戦うべき敵を見すえつつ同じ戦いを戦っていくことが大切なのです。

広い心が知られるように
 3節では、それらのことを受けて「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」とあり、主イエスの救いにあずかりつつ歩む者が喜んでいるようにとの勧めが語られます。これは、自分の思いが満たされて満足が与えられることによって生じる喜びではありません。人々がキリストに倣いつつ罪の力と戦う中で、そこで自分には苦しみが加わり、重荷を負うことになっても、そのことによって主にある交わりが形成されることを喜ぶのです。そして、「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」とあるように、共に主の救いにあずかり同じ戦いを戦っているということの喜びに満たされている時、そこには、「広い心」が生まれるのです。「広い心」とは、へりくだることによる真の寛容に生きることを可能にする心です。すべての人に本当の寛容を示すのは、私たち人間にとっては簡単なことではありません。しかし、主イエスによって、その真の寛容に生きることが出来る心の広さが与えられて行くのです。そして、この心の広さは、まさに、キリストによって与えられる広い心に生きる人々の具体的な姿によって示されて行きます。人間が罪に支配されているだけであれば、そこには、互いの自己主張による対立のみが支配します。そこで、どんなに、キリストの福音が知識として示されても、そこには平安は生まれません。キリストを伝えるとは、ただ知識としてのキリストを語り伝えるということにおいてのみではなく、キリストの救いにあずかることによって生まれる広い心が知られるということにおいても行われることなのです。事実、対立や仲違いが生じる現実の中で、キリストの救いにあずかった者が、広い心で生きていくことによって、それが伝えられて行くのです。

主の接近の信仰に生きる
 信仰者が、このような心の広さに生きて行く時に大切なことは、続いて見つめられる、「主はすぐ近くにおられます」との言葉に表されています。これは、終わりの日、即ち、キリストの救いが完成する時が近づいて来ていることを示す言葉です。本日の箇所は、はっきりと終末の救いの完成を見つめています。3節には、「命の書」に名が記されているということが語られていました。それは、終わりの日の救いが約束されているということです。つまり、キリストが成し遂げて下さる救いの完成が接近しているという信仰こそ、私たちを喜びで満たし、広い心を生むのです。ここで語られる喜びや広い心というのは、人間が自らの努力によって達成する徳目ではありません。終わりの救いの完成の日が近づいているとの信仰の中で与えられるのです。主が近くにおられるというのは、人間が考え得る近い将来、後数年後に世が終わるから、それに備えて厳格な生活を送れというような信仰ではありません。救いの完成は自分たちの内側にはなく、キリストの下から与えられるものであり、それを常に待ち続けるという信仰です。この世にあって、人間は罪に支配され続け、常に不完全です。しかし、完全な救いは、神様の下から来るのです。当時のフィリピ教会には、自分たちこそは、完全な救いを得ている、救いの完全さをもっていると主張し、主が約束して下さっている終わりの日を待ち望む信仰に生きない人々がいました。仲違いと言うのは、人間が、少なからず確かな救いを得ていると言う思いに捉えられ、神様から来る救いを求めなくなり自己完結する時に生じると言って良いでしょう。そのような信仰は、人間の心をどんどん狭くし、対立を生んで行くのです。キリストを信じる信仰においては、自分の不完全さを示されつつ、救いの完成の接近を待ち望む信仰に生きることが大切なのです。そのような時にこそ、福音のために共に戦っていると言うことを思い起こし、真の広い心で生きることになるのです。

感謝と祈りに生きる
 信仰者は、この世にあっては、救いの完成と言う終わりの日に与えられる約束を信じて共に神様に委ねつつ走っています。そして、そのような歩みは、私たちを様々な世の思い煩いから自由にします。だからこそ、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と勧められるのです。思い煩いとは、人間が神の導きを信じることが出来ずに、神の救いに委ねることをしないで、自分の力にのみ頼って生きようとする時に生まれるものです。もし、主の救いに自らを委ねるのであれば、思い煩いから自由にされるのです。そして、そのような場所には、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いとをささげ、求めているものを神に打ち明け」るという歩みが生まれて行きます。人間的に見れば思い煩いに支配されてしょうがいないような状況な中で、尚、神様が成し遂げて下さる救いに委ねる時、感謝の思いを抱かずにはいられないのです。逆に、神を正しく支配し、導かれる方として受け入れられない時には、感謝を込めた祈りは捧げられることはありません。ここで勧められていることは、神の救い御支配に対する信頼に生きる歩みなのです。

主にある平和
 そして、その信頼こそが、私たちに真の平安を与えるのです。それは、私たちが考える平安ではありません。苦しみから完全に自由になることではありません。しかし、どのような罪の現実が迫っていようとも、主の接近の信仰に生かされる中で、心を煩わせることからは自由にされるのです。隣人との対立が生じる時にも、そこで罪と戦いつつ、へりくだって同じ思いとなることによって、自分は、今、共に真の救いにあずかるために歩んでいるということを知らさるのです。その時に生じる苦しみ、負うべき重荷は、神様の救いにあずかることの中で、積極敵な意味のあるものとなり、担うべきものとなるのです。
 「あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守る」と言われています。この「守る」とは、守備隊が都市の門を見張る時に使われる言葉です。私たちの心や考えは乱されやすいものです。しかし、主の救いに委ねる時、そこを真の混乱が支配することはありません。意味のない苦しみや重荷を負うこと、そのような中で心乱されることはなくなるのです。そのような力が侵入して来る門が神様によってしっかりと守られるのです。私たちは、主が近いという信仰の中で神様にすべてを委ねていない時、人間の思いによる平安を求めます。そこでは、かえって心を乱され、思い煩いに支配されます。しかし、主が近いという信仰の中で、神に委ねる時、どんな苦しみの中にあっても、人間の思いや理性を超えた神の平和が心と考えを守るようになるのです。たとえ日常において激しい対立が生じても、そこで、キリストに倣いつつへりくだることを喜びとし、救いのための戦いとして受けとめて行くことの中で、真の平安が与えられて行くのです。

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