夕礼拝

知ってください

「知ってください」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:ヨエル書第3章1-5節
・ 新約聖書:使徒言行録第2章14-36節
・ 讃美歌:4、283

【説教とは】
 ペトロは、「知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。」と人々に呼びかけました。
 そうしてペトロが語ったのは、説教です。今日の箇所の副題に「ペトロの説教」と書いてあります。これは、キリスト教の教会の初めての説教と言うことができます。
 「説教」と聞いて、たいていの人は聞きたくない、面倒くさい、というイメージを持つでしょう。しかし、教会の「説教」は、子どもが大人から叱られる「説教」とは全く違います。目下の者に教えたり教訓を言うことを「説教」と言いますが、元々は宗教で使われていた言葉で、「教えを解き明かして、人を導くこと」が「説教」の意味です。ペトロが語ろうとしているのは、誰かを叱るための説教ではなくて、主イエスについて明らかにし、人々を主イエスへ導こうとする説教です。

 ペトロの説教以降、いつの時代も、世界中のどこの教会でも、説教は礼拝の中で語られてきました。説教は、聖霊の働きによって、神の偉大な業について語り、神を賛美するものです。教会では、聖書の様々な箇所を取り上げ、旧約聖書、新約聖書から説教されますが、すべては一つのことを伝えるために語られています。それは、「神の偉大な業」のこと、ペトロの言葉で言うと、2:36にあるように「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさった」ということです。これはペトロの時から現在まで、教会で語られ続けていることです。そしてイエスが主であり、メシア(救い主)であるということこそが、わたしたちへの良い知らせ、「福音」なのです。

 さて、ペトロは「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」ということを知ってもらうために、語り始めました。

【ヨエル書の預言の成就】
 最初に「酒に酔っているのではありません」とペトロが話し始めたのには、いきさつがあります。主イエスが復活されて、天に上げられる前、主イエスは使徒たちに、「聖霊を待ちなさい」「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける、そして…地の果てにいたるまで、わたしの証人となる」と約束されました。そして主イエスが天に上げられた後、一同が約束を待っていると、五旬節の日に聖霊が降り、一同が、様々な国の言葉で、神の偉大な御業を語り出す、ということが起こりました。

 この騒ぎにエルサレムにいたユダヤ人たちがたくさん集まってきました。人々は驚いたり、戸惑ったりしたのですが、一部の人は、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざけりました。ペトロは、まだ朝の九時で、早い時間なのに、酔っ払いがいる訳がないでしょう、と言った上で、この不思議な出来事は、聖書(当時はまだ新約聖書が書かれていないので、聖書は旧約聖書だけでしたが)に預言されていたことなのだと言って、語り始めたのです。

 このエルサレムに集まっていたのは、14節で「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち」とペトロが語りかけているように、五旬祭のお祭りのために各地から集まって来たユダヤ人たちでした。ですから、みんな旧約聖書のことはとても良く知っていました。ペトロは、旧約聖書でヨエル書に預言されていたことを引用します。
「神は言われる。
終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。
 わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。
 すると、彼らは預言する。」
 旧約聖書の時代には、神に選ばれた特定の人、王様や、祭司や、預言者が、神の霊を注がれて、神の言葉を託され、語っていました。そのことを預言と言います。預言は、ノストラダムスのように未来の予知をする予言ではなく、神の言葉を預かる、という意味の預言です。引用に出て来る、「幻」や「夢」は、神がそのことを通して語られるとされていました。ヨエル書は、終わりの時には、その神の言葉を語らせる神の霊が、すべての人に注がれるのだと、預言されていたのです。

 そして今や、神の霊がすべての人に注がれ、彼らが預言している、ヨエル書に書かれていたことが、聖霊が降った出来事によって実現しているのだ、とペトロは言います。聖霊が降った出来事は、神がかねてからご計画し、預言されていたことだったのです。

 2:11には、霊を受けた一同が「神の偉大な業を語っている」と書かれています。聖霊は主イエスの約束にあったように、主イエスを証させる霊です。主イエスのことを、地の果てまで語らせる霊です。ペトロたちは、酒で呂律が回らず訳の分からないことを言っているのではなく、霊を注がれて、「神の偉大な業」について、主イエスの出来事について、語り始めたのです。

【ナザレ人イエスは神から遣わされた方】
 22節でペトロは「イスラエルの人たち」と呼びかけます。彼らは、ユダヤ人であり、イスラエルの民、神に選ばれた民です。彼らは、自分たちを救ってくれる、神から遣わされた救い主、メシアを待ち望んでいました。ペトロは、ナザレの人イエスこそ、その神から遣わされた方、救い主なのだ、と言います。神は、奇跡や業やしるしで、そのことを証明なさった。それらのことを、あなたがたは知っているはずだ、と言います。だから本当は、このナザレのイエスという方は、あなたがたイスラエルの民が待ちに待っていた方であり、大歓迎して喜んで自分たちの所へ迎えるはずの救い主なのに、あなたがたが、その方を拒み、あなたがたが十字架につけて殺してしまったのだ、とペトロは言うのです。

 聞いていた人々は衝撃を受けたでしょう。自分たちが待ち望んでいた救い主を、自分たちが十字架につけて殺したのだと言われたのです。いいや、あの人は救い主などではなかったと、否定できれば良かったでしょう。しかし、そのナザレの人イエスが、確かに神から遣わされた方であるということが、聖書や、数々の出来事によって、証明されているのです。

 神が、自分たちを救うために遣わして下さった方を、自分たちで殺してしまったとは、神に対する何という反逆でしょうか。神が選んでくださった民である自分たちが、先頭に立って神を拒んだのです。これまで、ある人は、ナザレの人イエスを十字架で殺すということは、律法学者や祭司長という人たちが勝手に相談して謀ったことだし、実際に手を下したのはローマの兵隊だし、自分は直接関与していないと思っていたでしょう。またある人は、多くの人々と一緒に「イエスを十字架につけろ」と叫んだかも知れません。その時はナザレの人イエスのことを、単に民衆を惑わした犯罪者だと思っていたでしょう。むしろ神を騙ってけしからんと、怒りを覚えていたかもしれません。でも、十字架につけられた方が、神から遣わされた方だと知った今、その方を十字架につけて殺した責任を、自分が負っているのだと言われたのです。自分が、神の御子を十字架につけて殺した。そう自覚させられるのです。

 ペトロは、人ごとのように、イスラエルの人々をそのように責めたのではありません。なぜならペトロもイスラエルの民、ユダヤ人であったし、ペトロも主イエスを裏切り、十字架につけた一人であったからです。

【あなたがたが十字架につけた】
 そしてこれは、ここにいるわたしたち一人一人にも突き付けられていることです。ペトロの言葉は、わたしたちにも向けられています。
 「あなたがたが、十字架につけて殺してしまったのです。」

 教会に来たばかりの人が、教会ではみんなが罪人だ、罪人だと言って、身に覚えがないのにそう言われて嫌だ、と言っているのを聞いたことがあります。教会の人が、「主イエスを十字架につけたのはわたしだ」と語るのを、不思議に思うのは当然のことです。イエスは2000年前の人物だし、その人が殺すわけがないし、自分も殺したことなんてないし、ましてや十字架などという残酷な刑など、見ていることさえ出来ないと言うでしょう。
 しかし、主イエスの十字架は2000年前の他人事ではありません。わたしたち一人一人に関わりのあることなのです。

 わたしたちは神に対して、わたしたち自身の命では償いきれないほどの罪を負っています。それは、神に背くという罪です。神に従うように造られたのに、神から離れて生きようとしているのです。そのため、わたしたちは、罪の報酬である死に引き渡されていました。自分に神に背いた覚えがなくても、罪の自覚がなくても、それは創造主である神を忘れ、神を神と認めずに、無視して生きているのです。
 また、「罪」を意識しなくても、むしろ身近にいつもある「死」について、わたしたちは考えます。それは恐怖の対象であり、永遠の終わりのようであり、絶望や、あるいは無が、人生の最後に口を開けて待っているかのようです。それは、わたしたちが命を造られた神に、背を向け、神から離れ、反対方向へ、罪の方へと進んでいるからです。
 旧約聖書では罪を犯したら、動物の犠牲によってその罪を贖っていましたが、神に対するわたしたちの罪は、わたしたち自身が命を捧げても贖いきれないほどの罪なのです。

 しかし神は、ご自分の方にわたしたちが向き直り、帰ってくるのを待って下さっています。そしてわたしたちが、神と共に永遠に生きることを、望んで下さっているのです。
 ところが、わたしたちは、自分たちの悲惨さのため、罪のために、いつも神を見上げていることが出来ません。神を正しく知ることが出来ません。そして自分で負いきれない罪と死の中で、神を呪い、隣人を傷つけ、絶望し、悲惨の中で苦しみ、恐れながら、もがいているのです。

 しかし神は、高みの見物で、そのような悲惨なわたしたちを、見下ろしておられる方ではありません。自分の力では、どうにもできないわたしたちのために、神ご自身の御子を遣わし、わたしたちの悲惨の中まで降って来て下さいました。そうして神は、ご自身をわたしたちに知らせて下さいます。神の御子である主イエスは、人と同じになって下さり、悲惨の中にいるわたしたちといつも共におられ、「苦難と罪をすべて負ってあげるから、父なる神の許へ帰りなさい、そしてわたしと共に、生きて歩みなさい」と言って下さるのです。主イエスは、わたしの罪を贖うために、十字架に架かられたのです。

【神のご計画】
 ペトロは、この主イエスの十字架は、神がお定めになった計画であったと語ります。それは神が、主イエスを十字架に架けるように人々を仕向けた、という意味ではありません。人は、自分の罪によって神に背き、御子を十字架につけたのです。また、十字架が神の想定外だったのでもありません。
 しかしその出来事は、神が選ばれた民を救おうとされるご計画に定められていたことでした。十字架のように木に架けられる死は、神の呪いであり、裁きであると旧約聖書にあります。主イエスがこれを引き受けられる時、血のような汗を流して父なる神に祈られた、とあります。本当はわたしたちに向けられるはずであった、神の激しい怒りの審きを、主イエスが引き受けて下さったのです。最初に神に罪を犯したアダムから、わたしたちも含む、すべての人の罪を負われたのです。すべての人の罪を赦し、救う。それが神のご計画でした。

 そして、神は主イエスを、死の苦しみから解放し、復活させられた、とあります。復活は神によってなされた業です。「イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかった」。そう、ペトロは言っています。

 主イエスは、わたしたちの罪を贖うために、人となり、確かに苦しみの中で、十字架で死なれました。そしてわたしたちと同じように墓に葬られました。
 しかし、神の力で、主イエスは体をもって死人の中から復活させられました。そうして罪に、死に勝利されたのです。主イエスの十字架の死がわたしたちのためであったということは、同時に、主イエスの復活も、わたしたちのためであるということです。神が、わたしたちをも終わりの日に復活させて下さると約束して下さっているのです。

 キリスト教になったから、死なないわけではありません。クリスチャンでもいつか必ず死んで、墓に葬られます。しかし、死は、もはやキリストを信じる者にとっては、滅びを意味しません。主イエスが勝利してくださったものなのです。主イエスはわたしたちと同じ人となって、苦しみも、死も、そして墓に葬られることもされました。わたしたちが行くべきところで、主イエスがおられなかったところは一つもありません。わたしたちは、主イエスの歩かれた後を、ただ従っていくのです。主イエスに従って、復活にもあずかるのです。主イエスは終わりの日に再び来られて、ご自分の復活にわたしたちもあずからせ、栄光の体と、永遠の命を与える約束をして下さっています。
 洗礼によって、主イエスの十字架と共に罪は死に、わたしたちは新しくされて、罪にも死にも勝利された、復活の主イエスと共に生きるのです。
 復活の主イエスは天に昇られ、天に、わたしたちの場所を用意して下さっています。
 また今、生きておられる主イエスは天におられるゆえに、聖霊を送ってくださり、わたしたちといつでも、どこでも、共におられます。

 神はご計画によって、ご自分の御子を、わたしたちの罪を贖うためにお遣わし下さるほど、わたしたちを愛して下さっています。神と共に生きることを望んで下さっています。わたしたちはそのことを信じ、神に選ばれた新しいイスラエルの民として、神と共に生きることを、赦されているのです。

【復活と聖霊降臨の証人】
 さて、ペトロは、25~31節までで、旧約聖書の詩編から引用して、主イエスの復活のことも、ダビデが預言していたことが成就したのだと語ります。
 また、主イエスが神の右に上げられるということも、ダビデの子孫の一人を王座に着かせると神が誓って下さっていたことをダビデは知っていて、預言していたのだ、と述べます。ペトロは、主イエスが、確かに聖書に預言されていた方であると、繰り返し証明しているのです。

 32節で、「神は、このイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」と、ペトロたち自身が、それが確かに起こったことだと証言します。
 そして33節で「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いで下さいました。あなたがたは今このことを見聞きしているのです。」と述べます。ペトロたち一同は、主イエスが天に上げられたことも、はっきりとその目で見たので証言することが出来ます。
 そのようにすべては、神の救いのご計画が主イエスによって行われたと、聖書に示されており、またその出来事を目撃し、証言する者が立てられているのです。

 ペトロは語ります。 神のご計画によって遣わされたイエスを、あなたがたが十字架につけた。しかし主イエスは神に復活させられ、天に上げられ、聖霊を送って下さった。そうして主イエスの出来事が聖霊を受けた人々によって語られ、証される。主イエスの名を呼び求める者に救いが与えられる。そのように、預言された通り、神の救いのご計画が進められている。あなたがたは、その出来事を、神の偉大な御業を、見聞きしているのだと、ペトロは人々に語っているのです。

 【はっきり知らなくてはならない】
 「だから」とペトロは言います。36節「だから、イスラエルの全家ははっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
 これこそが、ペトロが知って欲しいことです。   

 「主」とは、神のこと、21節で語られたように、救われる者が呼び求めるべき名前です。
 「メシア」とは救い主、キリストということです。
 ナザレの人イエスは主であり、キリストである。わたしたちが「主イエス・キリスト」とその名を呼ぶとき、このことを言い表しています。  

 主イエス・キリストの十字架と復活によってのみ、わたしたちは悲惨から救い出され、罪と死から解放されます。この方にのみ、永遠の命と復活に与り、神と共に生きる者とされる、慰めと、平安と、希望があります。

 ペトロの初めての説教から、今日まで、すべての教会は、この福音を説教し続けているのです。主イエスが聖霊を送って下さって起こった事は、まさにこの福音を語らせること、そして地の果てまで、主イエスの救いをもたらすということなのです。

 だから、このことを、知ってください。
 「主イエス・キリスト」
  この名前こそ、救いを呼び求めるべき名前です。
  この方に、わたしたちの存在すべてがかかっているのです。

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