夕礼拝

主イエスの名

「主イエスの名」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第99編1-3節
・ 新約聖書:使徒言行録 第19章8-20節
・ 讃美歌:58、356

<エフェソの地で>
使徒言行録の説教は前回から少し間が空きました。前回は、キリストの福音を宣べ伝えているパウロが、第三回目の伝道旅行に出て、エフェソという場所に来たところでのエピソードでした。
パウロはこのエフェソという地に、特に長期間滞在しました。今日のところでも、8節に「パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ」た、とあり、またそこで「この道」つまり、主イエスが救い主であると信じることを非難する人々がいたので、パウロは会堂を出て、「ティラノという人の講堂で毎日論じ」、このようなことが二年も続いた、と書かれていました。これだけでも、二年と三か月、エフェソにいたことになります。また、この後の使徒言行録20章では、エフェソの長老たちにパウロが「わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」と語るところがあります。つまり、パウロは約三年もの間、エフェソの地で、多くの者たちに「主の言葉」、つまりイエス・キリストの福音を語り続けたのでした。

<神の国、神のご支配>
 さて、パウロは8節で「神の国のことについて大胆に論じ」ていた、とありました。神の国というのは、神のご支配のことです。この神の国を告げ知らせることは、イエス・キリストの十字架と復活の福音を宣べ伝えることであり、また10節にあるように、だれもが聞くことになった「主の言葉」を語ることです。

わたしたち人間は、神に逆らい、自分を中心にして歩み、罪に支配されていました。しかし、神の御子である主イエス・キリストが、わたしたちの罪を代わりに担って下さり、ご自分の十字架の死によって、わたしたちの罪を贖って下さいました。ご自分の命を代価として、わたしたちの命を買い取って下さり、わたしたちを罪の支配の中から、御自分の支配のもとへ、つまり、神の恵みの支配の中へと移して下さったのです。
その、主イエスの十字架と復活のみ業によって、あなたの上に実現した神のご支配、神の国を信じなさい。あなたも、キリストのご支配の中で生きる者となりなさい。そのことをパウロは宣べ伝えていたのです。

わたしたちは、「支配される」というと、とても不自由で窮屈なこと、力任せに従わせられること、強い者が王となり、弱い者を搾取すること、そのようなイメージを持ちます。そして実際に、わたしたちの住む世界で、人が人に対して行う「支配」とは、そのようなものでしょう。
しかし、神のご支配は違います。神のご支配は、神がわたしたちを愛し、養い、守って下さる、そのようなご支配です。神から離れ、罪に支配されたわたしたちが、神の恵みの中で生きる者となるために、神の御子が、人となり、低く、貧しく、弱くなってわたしたちのところに来て下さいました。そして、わたしたちを救うために来て下さった主イエスは、わたしたちに仕え、わたしたちのために命を捨てて下さいました。神の国の王、主イエス・キリストとは、そのような王です。愛と憐みによって、わたしたちを支配して下さる王なのです。その方に、わたしたちは従い、自分自身をすべてお委ねして、生きることが許されているのです。

<目覚ましい奇跡>
 このキリストの救いの恵み、神の国、主の言葉をパウロは宣べ伝えていました。
そして、その主の言葉に伴って、11節に、「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行なわれた」と書かれています。12節には、それが具体的にどのような様子だったかが記されています。パウロが身につけていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった、とあります。

これらの奇跡の出来事は、病を癒すことそのものや、悪霊を追い出すことが目的なのではありません。まず、救いの神のみ言葉があり、そのみ言葉の証しとして、み業が行われるのです。主の言葉が語られ、聞かれるところには、確かに神のご支配がある。そのことの証しとして、起こった奇跡の出来事です。
主の言葉、主イエスの救いのみ業を信じ、神の恵みを受け入れる者には、この世のものからは得ることが出来ない、神による真の癒しと慰めが与えられます。その神のご支配の中では、悪霊も人を支配することが出来ず、居場所を失い、出て行くしかないのです。

そして、ここで重要なのは、これらの御業を行なわれるのは「神ご自身である」ということです。パウロが不思議な力を持っていたという訳ではありません。パウロも、主イエス・キリストの十字架によって救われた、一人の罪人です。
しかし、パウロは、主イエスと出会い、その救いを信じて神に従う者となり、自分の主義主張を通すような、自己中心の生き方をやめて、ただ主イエス・キリストを中心として生きる者に変えられました。そのようなパウロを、神はご自分の救いを宣べ伝える器として、用いることをお決めになりました。パウロは自分自身を神に完全に明け渡しています。神のご支配に、自分を委ねています。その中で、神はパウロの手を用いてご自分の力を表して下さり、これらの奇跡の業を行なわれたのです。

それは、11節で「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行なわれた」というように、「神」が主語になっていることからもはっきりと分かります。
また、これらの出来事によって、パウロが崇められたり、人々に尊敬されるようになったとは書かれていません。17節にあるように、これらの出来事の末に起こったのは、「主イエスの名は大いにあがめられるようになった」ということです。すべては神の力であり、主イエスの救いを指し示しているのです。
パウロ自身も、これらの業が神によってなされるものであり、自分に特別な力があるとか、自分の功績として誇ることはありませんでした。パウロが誇ったのだとすれば、それは自分自身ではなく、自分を救って下さった主イエスの名を誇ったのです。

<ユダヤ人の祈祷師たち>
 さて、そのようにパウロの手を通して、神が目覚ましい奇跡を行なわれていることを、見たか聞いたかした、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちがいました。それはユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちであった、と書かれています。
「祈祷師」という言葉は、以前の口語訳聖書では「まじない師」と訳されていました。彼らはまじない、呪術、魔術などを行なう者です。

 この祈祷師たちは、パウロがしていることを見て、13節にあるように、「悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて『パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる』」と言ったとあります。
 パウロの時には、悪霊はパウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けを当てるだけで、取りついた人から出て行った、とありました。神ご自身がパウロを通してなさった業です。
 しかし今回、祈祷師たちの場合はどうだったでしょうか。
彼らはパウロが語っている「イエス」という人にどうやら力があるらしいと考えて、「イエスの名」を唱えれば、悪霊を追い出せるのではないか。試しにやってみよう、と考えました。「名」とは、その名を持つ人自身を表します。主イエスの名、という時、それは主イエスご自身を指すのです。彼らは、主イエスご自身の力を、自分たちで使ってみようと思ったのです。
ところが、彼らは逆に悪霊に問い返されます。
「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」  

 悪霊は、主イエスのことはよく知っていました。すべての支配者であるこの方の前では、悪霊は退散する他ありません。また、この主イエスに従っているパウロのことも、よく知っていました。主イエスを信じ、全身全霊、すっかり主イエスのものとされているパウロです。このパウロが主イエスの名を語るとき、そこには主イエスご自身が共におられる。神ご自身がパウロを選び、パウロを通して働いておられる。だから悪霊は、パウロの手ぬぐいにさえ手が出せません。

 しかし、悪霊は、祈祷師たちが同じように「イエスの名」を言っても、パウロとは違う、ということをはっきり見抜きます。
「試みにイエスの名を語るお前たちは何者だ。お前たちはイエスとどういう関係だ。」
そのことを悪霊は問うたのです。祈祷師たちは答えることが出来ません。すると、16節にあるように、「悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した」のです。

<お前は何者だ>
 パウロと祈祷師たちの大きな違いは、主イエスとの関係であると言えるでしょう。それは、「お前は何者だ」と問われた時に、自分が何者であると名乗るか、ということに繋がります。

パウロは主イエスを信じ、服従し、心から信頼しています。自分を罪から救って下さった方、自分に新しい命を与えて下さった方です。この方に生かされている。この方に立たされている。そうして主イエスに仕え、主の言葉を宣べ伝えているパウロです。

 しかし、祈祷師たちは、主イエスを信じるどころか、そのような不思議な業が出来るのならば、自分たちも試しにイエスの名を使ってやろう、と考えました。信じることもせず、自分たちのために、神の御子である主イエスご自身を利用しようとしたのです。
十戒の三つ目、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めは、まさにこのことを禁じています。祈祷師たちがしようとしたことは、神に従うどころか、「イエスの名」を利用し、神の力を自分のものにし、神を従わせようとする行為です。
自分が支配者であろうとするところ、自分が主人であろうとするところで、すべてを支配しておられる神が、その力を表して下さることはありません。むしろ、そのように神を神とせず、自分が神のようになろうとするところで、悪霊の力は大いに発揮されます。悪霊の目的とは、人を神から引き離すことだからです。

 このような祈祷師たちが、悪霊に「いったいお前たちは何者だ」と問われた時、彼らは自分が何者であるかを答えることが出来ませんでした。
もしわたしたちも「いったいお前は何者か」と問われたら、どのように答えるでしょうか。
ここで、国籍を名乗ったり、職業を名乗ったり、これまでの自分の功績をもって自分が何者であるかを語ることは、まったく意味がありませんし、悪霊に対して何の力もありません。  

それでは、もしパウロがそのように問われたなら、どう答えたでしょうか。
おそらくその答えの一つは、「わたしは、キリスト・イエスの僕です」と言うのではないかと思います。新約聖書に収められているパウロのいつくかの手紙の冒頭で、パウロは自分の名を名乗りますが、そこでは「キリスト・イエスの僕」「キリスト・イエスの使徒」と自己紹介をしています。「キリスト・イエスの囚人」と言っているものもあります。パウロの自己紹介は、常にキリスト・イエスと結び付いており、自分はキリストに属する者である、というのが、パウロのアイデンティティなのです。  

 イエス・キリストは、わたしのために、人となって来て下さり、わたしの罪のために十字架で血を流し、ご自分の命によって、わたしをご自分のものとして下さった。わたしを罪の支配から解放し、神の恵みの支配の中に入れて下さった。キリストの復活の命に結び付けて下さり、わたしを神と共に生きる、新しい者として下さった。
そのイエス・キリストがわたしの主人です。わたしは、イエス・キリストの僕、イエス・キリストのものです。
 キリストの救いに与った者は、そのように感謝と喜びと共に、イエス・キリストの名をもって、自分自身が何者であるかを名乗ることが出来るのです。

<神に支配されているなら>
 さて、17節には、これらの一連の出来事が、「エフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった」とあります。神は、主イエスによる救いを信じる者と共にいて下さり、悪霊を退け、その力から解放して下さるということ、神の力強いご支配が明らかにされたからです。

そして続けて18~19節には、「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた」とあります。ここでの「悪行」とは、魔術を行っていた、ということでしょう。
信仰に入った大勢の人が、主イエスを信じて生きる者となったにも関わらず、なお、魔術や占い、まじないに頼っていたということです。
エフェソは異教の神々を拝む土地であり、人々の間には、自然に魔術やまじないが根付いてしまっていたのかも知れません。だからと言って、それは仕方のないことではありません。それは、命を与え、罪から救い出し、恵みを注いで下さっている、目の前にいらっしゃる、生きておられる神を知っていながら、その方に頼らず、無視をして、脇を向いて、意味のない呪文や、まじないに、自分を委ねるということだからです。

しかも、これはわたしたちにとって他人事ではないかも知れません。日本に住むわたしたちの生活の周辺には、占いも、縁起を担ぐことも、まじないも、迷信も、当たり前のように溢れかえっています。目に見える形に安心したり、予測できないことを知ろうとしたり、得体の知れない力で災いを遠ざけられると考えたりして、神に自分自身を委ねきることが出来ないわたしたちの心の弱さに、これらの魔術はいつでもすぐに付け入って来ます。そうして、わたしたちの目をますます曇らせ、神の恵みのご支配からさらに遠ざけるのです。

また、わたしたちは祈祷師たちのようにもなりかねません。神の力を、自分の望みを達成するために求めたり、自分の都合の良いように神が動いて下さることを求めているかも知れません。
わたしたちは、何でも神に求めて良いし、神に願って良いのです。しかしそれは、自分の思い通りになることではありません。自分自身がただ神にのみ生かされ、養われ、導かれていると信じ、その神に自分を委ねることによって、神がわたしに求めておられることを、わたしも願い求めていくことなのです。

実際に、とても弱く不信仰なわたしたちです。しかし、そのようなわたしたちの現実をも、神はよくご存じです。神はわたしたちを見捨てることなく、助け、導いて下さります。神はみ言葉を語りかけて下さいます。
わたしたちが、主の言葉に耳を傾ける時、わたしたちは信仰によって、神の恵みのご支配をしっかりと見つめることが出来るようにされます。主イエス・キリストの福音が語られるところでは、聖霊なる神が、わたしたちの目を開き、耳を開き、心を開いて下さって、わたしたちに神の恵み、神のご支配を明らかにして下さるのです。

 その時、エフェソの人々のように、頼っていた虚しいもの、魔術や、その書物は、焼き捨てても良いものになります。魔術やまじないから、解放されるのです。今日の箇所では、焼き捨てられた書物の値段は、銀貨五万枚にもなった、とあります。魔術に頼っていた時は、魔術を行なうことも、また書物そのものも、彼らにとってとても価値あるものだったに違いありません。しかし、彼らは「神の国」、神のご支配をはっきりと示され、それらはまったく価値のないものだと分かったのです。魔術も、その手引書も、彼らには必要ありません。彼らは、何も持っていなくても良いのです。

 なぜなら、主イエスを信じる者は、「主イエスの名」を持っているからです。それは、主イエスが共にいて下さるということです。復活の主イエスが共にいて下さり、共に歩んで下さり、罪にも、悪にも、死にも、すべてに勝利し、すべてを支配しておられるその力で、守って下さるのです。わたしたちはただこのお方だけを主人として従い、他の一切を捨てて、「わたしはイエス・キリストの僕です」「わたしはイエス・キリストのものです」「イエス・キリストはわたしと共におられます」と言うことが出来るのです。

その真の支配者が共にいて下さるなら、わたしたちは何も恐れなくて良いし、目に見えるものにも、魔術にも、他の何ものにも頼らなくて良いのです。
神の恵みのご支配の中で、何があっても、どんな時でも、主イエスが共にいて下さる慰めと平安の中で、神の力に支えられて、生きていくことが出来るのです。

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