夕礼拝

確固たる神の愛

「確固たる神の愛」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:ホセア書第11章1-9節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書第3章16-21節
・ 讃美歌:218、475

 神様は今夕、ホセア書のみ言葉を通して、私たちに対する愛を余すこと無く、伝えようとされます。今、神様は、御自身のわたしたちに対する感情を隠そうとはなさらず、包み隠さず、すべてを語ってくださいます。愛する子どもたちに対する御自身の愛と苦悩の体験を、直接わたしたちに語り、御自身の愛の深さをわたしたちに示してくださろうとされています。その神様の深い愛の情景とそこにある愛のメッセージを、今この時、まっすぐに正直に、わたしたちは受け止めていきたいと思います。  

 このホセア書に書きだされている神様の言葉は、旧約時代の神の民に向けられた言葉です。旧約時代の神の民への神様の深い愛がここに書かれています。しかし、その愛のメッセージは、イスラエルの民だけでなく、イエス様を信じ神様を信じるに至った新しいイスラエルの民であるわたしたちにも、共通に向けられています。今から聞いていきます愛の言葉は、直接は古いイスラエルの民に向けられている言葉ですけれども、今のわたしたちにも向けられている言葉であると念頭に置いて聞いてまいりましょう。1節「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」はじめに神様は、出エジプト以前のイスラエルの民のことを、幼い子どものよう見ておられたということが語られています。神の民はまだ幼くて何もわかっていませんでした。幼い、神の民は自分がエジプトの奴隷となっていることもわからず、苦しいということはわかっているけれども自分ではどうすることもできないからただただ嘆いていました。それは、まるで、生まれて数ヶ月しか経っていない赤ちゃんのようです。赤ちゃんは、お腹が空いて苦しいけど、自分ではどうすることもできないから、ただただ泣きます。神様は、そのように苦しんでいる幼いイスラエルを憐れに思われ、見捨てることをせず、ご自分の子となさいました。苦しんで泣いている幼子をその腕に抱き、愛してくださいました。抱きしめ、安心させ、食べ物を与えてくださいました。小さなイスラエルは、エジプトの支配、という自分ではどうすることもできない苦しみの状況から、神様のみ手によって救いだされ、解放されたのです。実はこの神様の愛は、旧約聖書のイスラエル民だけでなく、わたしたちにも、与えられています。わたしたちも、キリスト者となる前は、自分がなんで苦しんでいるのか、わからない者でした。わたしたちはかつて罪に支配されて、その罪の支配の下に生きていたために、自分が高められることばかりを望み、他者を傷つけ、自分も同様に他者から傷つけられることで、恨んだり、人を恐れるようになったりしていました。そのような傲慢と暴力、恨みと恐れという暗い世界に閉じ込められ苦しんでいるのに、なぜそうなっているのかも、そこから救われる方法もわからない者でありました。しかし、わたしたちもまた、イスラエルと同様に、神様のほうが御手を伸ばして抱きしめてくださったことで、その支配から救い出されました。わたしたちにとっての、救いの御手は、イエス様です。その救いの御手によって抱きしめられ、わたしたちも神様の子とされています。  

 イスラエルは、エジプトという苦しみから救い出された後に、3節4節で語られるように、神様のみ腕を支えられて、神様から歩き方を教わります。また時に傷ついた時には、癒やしも与えられていました。さらに、神様の方が低くなってくださって、イスラエルの口に食べ物を与えてくださっていたということも、ここには書かれています。神様は、小さな子どものイスラエルの成長をいつも見ていてくださり、その御手でもっていつも支えてくださっていました。そのようにしてくださったのは、子であるイスラエルを愛してくださっていたからでした。イスラエルが特別、神様に対して何かをしていたから、このような愛を与えられたのではありません。イスラエルは、特別なことを神様に対してしていたわけではありませんでした。むしろ逆に、神様を無視したり、神様から離れようとしたり、違う神を信奉したりしていました。初めに無償の愛によって救い出され、支えられ、育まれ、守られていたのに、イスラエルの民は、2節に語られているように、神様のもとから去って行き、バアルという偶像を信じるようになってしまったのです。わたしたちも、愛する人であったり愛する子だったりのために、やさしくしたり、その者が困っている時は助けたりします。しかし、その者が助けてあげたり、なにかしらのことをしたりした時だけ反応して、そうではない時には無反応であったり、助けてもらったことも忘れて自分ではない他の人に媚を売っていたらどういう思いになるでしょうか。さらにそれが何度も続いたらどんな気持ちになるでしょうか。わたしたちが、そのようなことを味わうと落胆しますし、心がモヤモヤして穏やかではいられなくなったり、イライラしてしまったりすると思います。その者に対する愛が大きければ大きいほど、ショックは大きくなます。わたしたちだったらもう愛することも、支えること、助けることもやめてしまうこともあるでしょう。このような思いを、神様もイスラエルに対して、またわたしたちに対して味わわれたのです。神様も私たちが人との交わりの中で味わう裏切られた時の気持ちを味わったということを1~4節で語っています。  

 わたしたちは、神様のことを、感情が昂ぶることなど一切ない、穏やかでやさしい方だと決めつけて考えていることがあります。けれども、今日の神様のメッセージを聞いていると、どうやらそうでないということに気付かされます。8節で神様は御自身の言葉で、「わたしは激しく心を動かされ」とあるように、神様も心が大きく揺れるような激しい気持ちを、私たちとは比べ物にならないほど強く感じて、苦しんでおられるのです。  

 神様はイスラエルの人々を我が子として選んで呼び出し、過酷なエジプトの生活から救い出したのに、そのイスラエルの民は、神様と共に生きるどころか、そんなことも忘れて神様以外のものを神として拝んでいる。その結果、イスラエルの人々は、その神ではないものに近づいて、神様から離れてしまい、そのことが原因でアッシリアという大国に支配されたということが5節に書かれています。神様は、イスラエルの人々が「立ち帰ることを拒んだ」だから、そうなったのだと説明しています。イスラエルの人々は、かつてエジプトにいた時と同様に、アッシリアの力による支配、恐れによる支配のもとで生きなくてはならなくなったのでした。  

 これはイスラエルの人々の自業自得によって起こったことであり、神様から離れることを選んだ故の正しい結末といえます。もし、アッシリアの理不尽な支配によって、民が傷つけられても、死んでしまっても、ある意味仕方ないことです。これで、民が死んでしまったとしても、神様が責任を負わせられるなどということは決してありえません。これは、わたしたちにも言えることです。神様を信じ、救われ、神様と共に歩む者となったわたしたちが、神様と共にいることを止め、他の者を神としたり、偶像に頼ったりしている時に、直面する苦しみは、自分のせいで起きているのです。既に神様と出会っていて神様に立ち帰ることができるはずなのに、立ち帰ることをしていない故に、再び高慢や暴力、恐れや苦しみの世界に支配されてしまうのです。  

 しかし、神様は、そのような愚かなわたしたちやイスラエルの民を、無視なさらず、見つめておられました。ご自分が民から、無視されていても、裏切られても、離れられても、わたしたちのことを忘れるようなことはなく、ずっと気に掛けておられました。わたしたちの裏切りの故に、心から苦しまれた神様が、裏切りのために起こる苦しみを味わっているわたしたちの姿、罪に溺れて沈みかけている姿を見て、さらに神様が苦しまれたのです。この苦しみは、裏切りによってではなく、憐れみによって起こったことです。愛する者が苦しんでいる、ただその姿をみて、憐れみに胸が焦がされ、激しく心を動かされたのです。その激しい心の動き、神様の思い、熱情が8節ですべて語られています。「ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。イスラエルよ お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる。」神様を捨て神様から離れ自業自得で苦しんでいるわたしたちを御覧になった神様は、「罪の報いを受けることが正しい」と割りきって見捨てるのではなくて、わたしたちが苦しんでいる姿を見て、わたしたちを愛していてくださっているが故に苦しまれ、憐れまれたのです。そして、見捨てるのではなく、救い出すこと決断されたのです。このように憐れんでくださり、見捨てることをせずに、救い出すことを神様が決断なさったのは、人に対する愛。わたしたちに対する愛故にです。それ以外の理由はありません。愚かなわたしたちやイスラエルが立ち帰ったから、見捨てないのではなく9節にあるように、神様が「神であり、人間ではない。」からです。神様が愛なる方だからです。神様の救いの決断は、9節の「お前たちのうちにあって聖なる者」ということに言い表されています。神様が人の間にいてくださる。ここで罪を持つ愚かなわたしたちと共にいてくださるという決断をしてくださったのです。その愛の決断の実現が、あのクリスマスの出来事、御子が人となって来てくださったことに現れています。イエス様は「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ」、最後に十字架にかかり、わたしたちの罪を贖われました。ここに、主なる神様が、神として尊厳や沽券をかなぐり捨ててもわたしたちの立ち帰りを願っている神様の愛が示されているのです。  

 神様は、わたしたちを罪から救うために、たった一つの方法である神様の子イエス様を、罪をゆるすための捧げものとして十字架につけて死なせ、わたしたちを赦してくださいました。その神様の愛が見える形になってあらわされたのが、イエス様の十字架と復活の出来事です。わたしたちは、自分の子どもを捧げてまで赦したい、救いたいと思うことも困難です。そのことを想像しただけでも苦しくなります。神様は実際に独り子であるイエス様を十字架につけ、人間を罪から救うために、ご自分の子を見捨てられたのです。本当は見捨てられなくてはいけないのは、わたしたちであるはずなのに、です。そのように父として、わたしたちのために苦しまれたのです。そうまでしてくださったのが神様の愛なのです。  

 今、その壮大で偉大な、そして憐れみに溢れている、深い神の愛をわたしたちは与えられました。今、その神様の愛を受け入れる者となり、今一度悔い改めて主のもとに立ち帰りましょう。そして、今から、その深い神の愛のうちに生きて行き、愛なる方と共に歩んでまいりましょう。

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