「福音に共に仕える」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書: 詩編第112編1-10節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙第2章19-24節
・ 讃美歌 : 231、540
パウロ自身の計画
本日朗読された聖書は、牢獄に捕らえられている使徒パウロがフィリピ教会に宛てた手紙の中で、自分のもとにいるテモテをフィリピ教会に遣わすということを記している箇所です。この箇所は、これまで記されてきた手紙の語調と少し異なります。直前までの箇所には、パウロの教会の人々に対する教えが記されていました。しかし、ここに記されているのは、パウロ自身のこと、パウロが今、どのような計画を立てているのかです。フィリピの信徒への手紙は、実際に書かれた手紙ですから、その中には、教会に対する教えと共に、パウロ自身のことも記されているのです。これまで読まれて来た箇所を振り返ってみても、例えば、1章の12-26節が、そのような箇所です。そこでは、パウロが福音を伝えたことによって牢獄に捕らえられてしまったこと。しかし、そのことによって教会の人々熱心にキリストを告げ知らせるようになり、福音が前進したこと等が語られていました。更に、そのような宣教の熱心さの背後には人々の善意だけでなく、悪意もあったけれども、パウロ自身はキリストが宣べ伝えられていることを喜ぶと語られていたのです。それを受けて、1章の27節からは、今度は、教えが語られます。キリストの救いにあずかった者は、キリストにならって互いにへりくり従順に歩むようにとの教えが語られます。そして、再び、本日の箇所からは、パウロ自身のことが語られているのです。このようなパウロ自身のことについて語られる箇所は、教会に対する教えが語られている箇所と比べると、あまり重要ではないように感じてしまうかもしれません。しかし、そうではありません。このような箇所にこそ、パウロが教会に語った教えが、実際の教会において生きられて行くとはどのようなことなのかが示されるのです。教えを語る箇所と、パウロ自身のことを語る箇所は密接に結びついているのです。テモテを派遣すると言うパウロの思いを記す本日の箇所から、教会が福音に生きる姿について示されていきたいと思います。
死を超えた喜び
本日の箇所から、パウロは、自分のことについて記していると申しましたが、少し前の2章17節からといった方が良いかもしれません。17節には次のようにあります。「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを捧げ、礼愛を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」。パウロは、フィリピ教会において、信仰に基づいて、真実に礼拝が捧げられるのであれば、その背後で、自分の命が犠牲になっても、そのことを喜ぶというのです。命が犠牲になると言うと少し大袈裟にも聞こえます。しかし、この時、パウロは事実、牢獄に捕らえられており、殉教するかもしれない状況にあったのです。明日にでも、自分の命が取り去られるかもしれないという中で、もし、ここで死ぬことになったとしても、それを喜ぶと語ったのです。更に、その喜びを教会が共にして欲しいと願っているのです。ここで、パウロは、投獄生活の苦しみに耐えかねて、死に急いでいるのではありません。本日お読みした、24節にも、「私自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています」とある通りです。パウロは、この世で教会の人々と共にいることによって、福音を伝えようとしているのです。しかし、もし、死ぬことになっても、それを喜ぶと言うのです。つまり、ここで見つめられていることは、教会において、真実な礼拝が捧げられることは、死を超えた喜びであると言うことです。牢獄の中でパウロが何より求めているのは、自分の命が助かることではありません。ただ、キリストがあがめられ、真実な礼拝の交わりが形作られることです。言い替えれば、教会の民がキリストに倣ってへりくだり互いに仕え合う交わりを形成しながら、神様を真実に礼拝するようになることです。生きている時は、もちろん、そのために働きます。そして、たとえ自分の命がなくなることになっても、それが、真の礼拝が捧げられる教会の群れが形作られるためのものであるのならば、喜びなのです。そのようなパウロの願いは1章20節後半~21節に次のように記されていました。「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い希望しています。わたしにとって生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」。
テモテの派遣
パウロは、フィリピ教会においても、真の礼拝をする共同体が形成されることをのみ求めているのです。そして、事実、そのような礼拝の共同体を形成し、真の喜びを共にしていくためにパウロが計画していることが、テモテをフィリピに遣わすと言うことなのです。19節には、次のようにあります。「さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています」。ただ、自分の思いによってそうしたと言うのではありません。「主イエスによって希望しています」と言われている通り、テモテの派遣がキリストの思いにも適うことであることが見つめられています。 このテモテと言う人はパウロの弟子のような人で、パウロの片腕となって伝道に励んでいた人です。パウロが牢獄に捕らえられてしまったこの時も、パウロの身の回りの世話をしていたのだと考えられます。そのような、テモテをわざわざ教会に送るのは、パウロがフィリピ教会のことを知って力づけられたいからです。テモテが、パウロの下にいて世話をしているよりも、フィリピ教会に行くことの方がパウロの力になるのです。ただ、パウロが一方的にフィリピの教会の様子を知り、それによって励まされたいと言うのではありません。ここでは、パウロだけでなく、フィリピ教会の人々を励ますという目的もあったことでしょう。もし、フィリピ教会が、テモテによってパウロの戦いを知り、又、パウロが、フィリピ教会の人々が真実に礼拝を捧げているということを知ることが出来るのであれば、それは、互いに、励まされ強められることになるのです。 聖書の信仰は、抽象的な教えの中にあるのではありません。事実、福音が生きられ、教会が形成されることの中にあるのです。実際に教会において主にある人々の交わりが形作られることによって、キリストがあがめられ信仰が息づいて行くと言っても良いでしょう。パウロは、使徒であり、教会の指導者ですが、自分が、真に教会の交わりの中に入れられており、その中で生かされていることを良く知らされている人でした。信仰の戦いの中にあって、何より教会の交わりの中で力づけられ励まされようとしているのです。そのためにテモテを遣わすのです。
同じ思いを抱いている者
ここで注目したいことは、この務めを果たすためにはテモテこそ適格であったと言うことです。20節には次のようにあります。「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです」。テモテがパウロと同じ思いを抱いていると記されています。ここで、テモテが、パウロと主義、主張が一致しているということを語っているのではありません。キリスト者にとって、「同じ思いを抱く」というのは、2章3節以下にあるように、共にキリストに倣ってへりくだり、互いに相手を自分よりもすぐれた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払うと言うことに他なりません。つまり、テモテは、キリスト者としてへりくだると言うことに生きていた人なのです。この時、誰もが、テモテのように歩んでいた訳ではありません。事実、フィリピ教会には、自分の利益を求めて、利己心や虚栄心からキリストを告げ広める者がいたのです。そのような者のことが、21節では次のように記されています。「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」。信仰生活、教会生活において、自分のことを追い求めていたというのです。それは、自分の利益のため、或いは、自分の満足を得るために信仰に励む態度と言っても良いでしょう。そのような信仰と、本当にへりくだるのではなく、自分を高めようとして、利己心や虚栄心に縛られて信仰生活を送るということは密接に結びついているのです。しかし、テモテは、そうではなかったのです。テモテは、イエス・キリストのことを負い求めていたのです。それは、言い替えるのであれば、キリストに倣い、キリストの十字架の死と復活にあずかりながら生きていたのです。そして、そのような者こそ、教会の交わりを形作り、教会を真実な礼拝を捧げる交わりにするための働きをなす者とされるのです。つまり、テモテは、パウロのことを教会に知らせ、教会のことをパウロに知らせるというような、情報を伝達するための伝達係ではありません。そのような働きであれば、テモテでなくても出来ずはずです。しかし、この働きはテモテにしか出来ないのです。キリストを求め、キリストに仕えるという仕方で福音に生きることを通して、パウロと教会を結びつけているのです。
共に福音に仕える
22節には次のようにあります。「テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めることであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」。パウロは、ここでテモテを「確かな人物」と呼んでいます。ここで言われている確かな人物とはどのような人でしょうか。一般的に、私たちが誰かを「確かな人物」という時、それは、他人より優れた才能を持っている人であったり、清廉潔白な歩みをしている人であったりします。又、自分と同じ主義、主張をもっていて、そのためにはどんなことをする人であるかもしれません。しかし、ここで言う確かな人物とはそのような人のことではありません。ここでパウロが、「わたしと共に福音に仕えました」と言っていることに注目したいと思います。この時、パウロとテモテは子弟関係とでも言うべき間柄にありました。パウロは、聖書の他の箇所では、テモテのことを「わたしの子」とまで呼んでいるのです。しかし、ここにおいてパウロは、「テモテは、わたしに対して、出来の良い子のように、熱心に仕えてくれた。そのような意味で確かに信頼できる」とは言っていないのです。「わたしと共に福音に仕えた」と言うのです。つまり、共に、父なる神様の子となって、福音に仕えているということこそ、確かな人物であることの根拠なのです。教会における確かな人物とは、パウロの言葉を借りれば、共に福音に仕えている人ということになります。信仰生活、教会生活において、利己心や虚栄心に縛られて歩むのではなく、へりくだっている。そのような意味で真の礼拝を捧げている人こそ教会における確かな人なのです。どんなに人間的に見て素晴らしく、様々な能力をもっていても、その人が、利己心や虚栄心から行動していたとするならば、それは、本当にキリストを証ししていく業は生まれません。しかし、たとえ、人間的に見て多くの欠けがあっても、その人が、本当に、共に福音に仕えようとしているのであれば、その人の働きはキリストを示すものになり、それによって、教会が形成されて行くのです。なぜなら、人々が共々にキリストの福音に仕えている時、初めて、人々との間でも仕え合う交わりが形成されます。そして、そのような、互いにへりくだる交わりの中でこそ、真に神様を礼拝する共同体が作られていくのです。
自らに死んでいく
ここで語られている、「共に福音に仕える」と言うことは、言い替えるのであれば、自らに死んで行くことであると言っても良いでしょう。私たちはパウロのように明日、殉教するかもしれないというような状況にあるのではありません。しかし、パウロが語ったように、神様に対する真実な礼拝が捧げられる背後で、自分が血を流す、即ち、自分が死ぬと言うことは、決して、私たちと無縁のことではありません。嫌、むしろ、この世で、信仰に生きる者全ての姿がここにあると言っても良いのではないでしょうか。私たちが真の礼拝を捧げるとは、死を経験することと言っても良いのです。実際に、肉体の死を経験すると言うことではないかもしれません。しかし、真の礼拝が捧げられる時、そこには、必ず、自分の思い、自らの利己心や虚栄心が打ち砕かれて、自分の思いや満足ではなく、神様の御心を求めていく者とされていくからです。それを、聖書の言葉で言えば、罪に死ぬ、古い自分に死ぬと言うことになります。キリストの救いにあずかり、真の礼拝を捧げる共同体が形成されると言うのは、皆が、それぞれ、キリストの十字架の死にあずかりつつ、古い自分に死ぬことなのです。そして、それは、ただ死にあずかるだけではなく、キリストによって与えられる復活の命に生かされていくことにもつながって行きます。私たちは、そのようにして、自分に死に、福音に共にあずかって行くことによって、テモテのように、教会における確かな人とされるのです。その姿は、同じ信仰の群れに加えられている人々を力づけ励ますのです。そのような人が、教会の人々の間で事実、遣わされて行き人々を福音によって結びつけ、礼拝する群れが生まれていくのです。 もし、私たちが、今、信仰の交わりに入れられ、真の礼拝を捧げているのであれば、私たちは、決して、一人でそのような信仰に生きているとは言えないのです。そこには、キリストに従い、自分に死ぬことで、共に福音に仕えた多くの人がいるのです。同じ教会に属する教会員だけではありません。時代と場所を越えて、この地に建てられた全てのキリストの体である教会に属し、キリストに倣いへりくだって歩んだ多くの人々が、私たちにとってのテモテとなって、私たちの信仰を力づけ励ましているのです。その上に、私たちの真の礼拝は成り立っているのです。
真の喜び
そして、そのような交わりの中に入れられ、そのような交わりを形成して行くことこそ、真の救いにあずかることであり、本当の信仰者の喜びなのです。聖書の信仰は現世利益の信仰ではありません。この世でキリストに従って歩むことは、キリストに倣って自らの罪に死んで行くことです。それは、人間的に見れば苦しみも伴うのです。自分の思いを成し遂げ、自分の満足求めることを断念しなくてはならないこともあるのです。しかし、そこでキリストの十字架と復活にあずかった者として、事実へりくだって歩んでいくのであれは、死を超えた命の希望を与えられるのです。だからこそ、パウロが語ったように、真の礼拝が捧げられていく時、そこで、自らの命が捧げられても、それを喜ぶことが出来るのです。その死は、無駄な意味のないものではなく、共に福音に仕える人々を力づけ、真にキリストを礼拝する交わりが生まれるということにおいて、大きな意味のある死だからです。
聖餐の食卓から
本日、共に聖餐にあずかります。聖餐は、キリストの死に共にあずかっていることのしるしです。私たちのためにキリストが命を捨てられたことを覚えつつ、私たちも自らの古い自分、罪に死んで行くのです。この聖餐によって私たちは、信仰が、抽象的な教えではなく、共に福音にあずかって行くことによって、真の礼拝共同体を形成して行くものであることを示されます。今日も聖餐に共にあずかり、共に福音に仕える者としての歩みを始めたいと思います。そうすることによって、私たちは、テモテのように、信仰生活における一人の「確かな者」として、事実真実な礼拝の交わりを形作り、死を超えた命に生きる喜びに生かされて行くのです。