夕礼拝

神の招きを断るな

説 教 「神の招きを断るな」 副牧師 川嶋 章弘
旧 約 イザヤ書 第55章1-7節
新 約 ルカによる福音書 第14章15-24節

神の国で食事をする
 ルカによる福音書14章を読み進めてきて、本日は15-24節を読みます。前回もお話ししたように、1-24節は一つの場面です。安息日にファリサイ派のある議員が催した食事会に招かれた主イエスが、ほかの招待客(その多くは律法の専門家、ファリサイ派の人たち)と共に食事をしている場面が、本日の終わりまで続いています。本日の箇所の冒頭15節に「食事を共にしていた客の一人は」とありますが、この人は、ファリサイ派の議員が催した食事会に招かれた客の一人であり、主イエスと共に食事をしていたのです。この人が「これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言った」、と語られています。「これを聞いて」とは、7-14節で主イエスがお語りになったことを聞いて、ということでしょう。特にその後半12-14節で主イエスは、食事会に客を招待する人、つまり会の主催者(ホスト)に向かって、宴会を催すときには、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」を招くようお語りになりました。そして「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(14節)と言われたのです。それは、世の終わりに、正しい者たちが復活させられ、永遠の命を与えられて、神様が催される宴会に招かれる、つまり神の国の食事に招かれる、ということです。世の終わりの救いの完成に与るとは、神の国の食事に招かれることにほかならないのです。主イエスがこのように話されたのを聞いて、食事会に招かれた客の一人は「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったのです。

盛大な宴会への招待
 それに対して、主イエスの話されたことが16節以下で語られています。まず16-17節でこのように言われています。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた」。主イエスの時代、盛大な宴会を開くときには、宴会への招待は二段階でなされたようです。まず宴会に招待します。それから宴会の準備が整い、宴会の時刻になった時に、主人は僕を送って、改めて「おいでください」と招待するのです。ということは、最初に宴会に招待されたときに、その招待を断らなかった人だけが、改めて、宴会の時刻になった時に、主人の僕から招かれたはずなのです。そもそも宴会への招待を断った人たちに、主人が僕を送るはずはないからです。今の時代に、パーティーの招待状に出席の返事を出した人にだけ、改めてそのパーティーの詳細な案内が送られてくるのと似ているかもしれません。要するに、すでに主人の招待を受けているのだから、主人が送った僕が改めて「おいでください」と招いたとき、その招きを断る人は、本来はいないはずなのです。

自分の財産を適切に管理するために
 ところが18節の冒頭に「すると皆、次々に断った」とあります。宴会に招待され、最初はその招待を受けたはずなのに、皆、次々に断ったのです。三人の人については、その理由が語られています。最初の人は「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください」と言いました。もう一人は「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」と言いました。この二人は、おそらくある程度のお金を持っている人たちだったのだと思います。広さは分かりませんが畑を買うにしても、牛を二頭ずつ五組、つまり十頭買うにしても、それなりにお金が必要だからです。もっとも二人がお金を持っていたことが悪いという話ではありません。彼らは手に入れた畑や牛を大切にしているからこそ、買ったばかりの畑を見に行く必要がある、買ったばかりの牛を調べに行く必要がある、と言っているのです。この二人は、自分たちが持っているお金を無駄遣いして、浪費しているのではありません。自分が購入した畑や家畜をきちんと管理しようとしている、つまり自分の財産を適切に管理しようとしているのです。この人たちは良識のある人たちであり、自分の財産に責任を持っている人たちなのです。私たちの多くは畑や牛を買うことはないとしても、それぞれに与えられているお金を始めとする財産を適切に管理しようとするのではないでしょうか。ですから私たちにとって、この二人の行動は突拍子もないものではないのです。

家族との時間を大切にするために
 もう一人の人は「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言いました。ここではこの人がお金持ちであるかどうかは関係ありません。結婚したばかりなので妻との時間を持ちたい、と言っているのです。アツアツの新婚生活なのは羨ましいけれど、少し自分勝手が過ぎると私たちは思うかもしれません。しかしもう少し広く捉えるならば、この人が言っているのは、家族との時間を大切にしたい、ということなのではないでしょうか。そうであれば私たちはこの人の行動を、ただ自分勝手な行動と受け止めるわけにはいかないと思います。夫婦であれ、親子であれ、きょうだいであれ、家族との時間を大切にすることは重んじられて然るべきだからです。

優先すべきことがあったから
 この三人だけが招待を断ったのではありません。「すると皆、次々に断った」とあるように、招かれていた人たちが皆、次から次へと断ったのです。ほかの人たちが招待を断った理由は分かりませんが、この三人の理由が、ほかの人たちの理由を代表していると考えれば、ほかの人たちが招待を断った理由も、宴会に出席するよりも優先すべきことがあったからではないでしょうか。そしてその優先すべきことというのは、三人がそうであったように必ずしも自分勝手なことではない、むしろ良識的なこと、説得力のあることであったのではないかと思うのです。私たちは、招待されているのに、皆、次々に断るなんて、なんてひどい人たちだと思いがちです。しかしもし自分が同じような状況に立たされたら、宴会に出席するよりも、財産を適切に管理することを優先したかもしれないし、家族との時間を優先したかもしれないのです。

単なる宴会ではなく、神の国の食事
 単なる盛大な宴会なら、それでも良かったのかもしれません。しかしここで主イエスが語っているのは単なる宴会ではないのです。この盛大な宴会を催し、大勢の人を招いた主人とは神様であり、それゆえにこの宴会は、単なる宴会ではなく神の国の食事なのです。ここで主イエスは、神様が神の国の食事に大勢の人々を招かれることを語っているのです。盛大な宴会を催し、大勢の人を招いたと言われているところに、神様が一人でも多くの人たちを神の国の食事に招きたい、救いの完成に招きたいと願っておられることが表れています。小さな宴会を開いて、決まったメンバーだけを招こうというのではないのです。神様の御心は、一人でも多くの人が救われることにあり、そのために多くの人を招いてくださるのです。

神の招きをこそ優先する
 しかし私たちはこの神様の招きを断ってしまうことがあります。この神様のみ心を蔑ろにしてしまうことがあるのです。神様の招きに応えるよりもほかのことを優先してしまうからです。畑を見に行くことを、牛を調べに行くことを、妻との時間を過ごすことを優先してしまうのです。確かに財産を適切に管理することは大切です。家族との時間を大切にするのも重んじられるべきです。しかしそれらは、神様の招きに応えることより優先すべきことなのでしょうか。神の国の食事に招かれることより、救いの完成に与ることより優先すべきことなのでしょうか。そうではないはずです。私たちは神様の招きに応え、神の国の食事に招かれ、救いの完成に与ることをこそ優先し、その優先順位を第一とすべきなのです。神の招きに応えることなしに、救いに与ることなしに、私たちは本当に財産を適切に管理したり、家族との時間を大切にしたりすることはできません。私たちは救いの恵みの中でこそ、神様が私たちにお金を始めとする財産を預けてくださり、よく用いるよう願っていてくださることに、また家族を与えてくださり、その家族を大切にして生きるよう願っていてくださることに気づかされるからです。たとえどれだけ大切なことであっても、重んじられるべきことであっても、私たちが神様の招きよりもそれらのことを優先するとき、私たちは結局、自分の関心や興味を優先し、あるいは自分の気持ちを優先しているだけになってしまうのです。

一人の僕
 主人は、宴会に招待した人たちのところに、自分の僕を送りました。ここで「僕」と訳されている言葉は単数形なので、「一人の僕」を意味します。主人が招待した客は色々なところにいるはずなので、通常であれば主人は何人もの僕を送って、それぞれに「もう用意ができましたから、おいでください」と言わせるはずです。しかしあえて「一人の僕」を送った、と語られています。この「一人の僕」こそが、神様が遣わした一人の僕、主イエス・キリストにほかならないからです。想像をたくましくすれば、主イエスが、神様から招かれていた大勢の人たち一人ひとりのところに遣わされていく姿を思い浮かべることができるのではないでしょうか。主イエスがある人のところに行って、「もう用意ができましたから、おいでください」と招かれる。しかしその人は、「畑を見に行かなくてはならないので」と、その招きを断るのです。そこで主イエスは、別の人のところにも行って同じように招かれる。しかしその人もほかに優先すべきことがあるからと、その招きを断る。そうやって主イエスは、神様から招かれていた大勢の人たち一人ひとりのところに行って、一人ひとりに語りかけ、招かれるにもかかわらず、皆から断られるのです。この主イエスのお姿に、皆から拒まれて十字架に架けられ死なれた主イエスのお姿を見ないわけにはいきません。神の招きよりもほかのことを優先してしまう私たちが、主イエスを十字架へと追いやるのです。「どうか、失礼させてください」と丁寧に挨拶はする。しかし私たちは丁寧な挨拶をもって、神の招きを断り、神様が遣わした主イエスを拒む者なのです。

お返しができない人たちを招く
 さて、主人の僕は、宴会に招待した人たちが皆、その招待を断ったことを主人に報告します。21節にこのようにあります。「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい』」。この主人の言葉は、つまり神様のお言葉は、前回12節以下で、主イエスがお語りになったことを思い起こさせます。最初にお話ししましたが、そこで主イエスは、食事会に客を招待する人に向かって、宴会を催すときには「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」を、つまり当時の社会では「お返しができない人」を招くようお語りになりました。しかし21節では、神様こそが主イエスを遣わして、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」を、神の国の食事に招くと言われているのです。そうであるならば、12節以下でも、単に宴会を催すときにどういう人を招いたら良いかについて語っているだけではありません。そうではなく神様が、このような「お返しができない人たち」を、神の国の食事に招いてくださることを見つめているのです。

神の招きを真剣に受け止めていない
 私たちが神の招きを断り、ほかのことを優先してしまうのは、私たちこそが、「お返しができない人」であり、神様から招かれるにまったくふさわしくない者であり、それにもかかわらず、その私たちを神様が無条件に招いてくださっていることに気づけていないからです。あるいは気づいていても真剣に受け止めていないからです。食事を共にしていた客の一人は、主イエスの話を聞いて「神の国で食事をする人は、なんと幸いな人でしょう」と言いました。自分も神の国の食事の席に着くことができたら、なんと幸いなのだろうか、と思ったのです。素直な気持ちと言えるかもしれません。しかし主イエスはこの人の言葉を喜ばれたのではありませんでした。むしろ厳しく受け止められ、これまで見てきたように、神様が神の国の食事に多くの人々を招かれたけれど、誰もがほかのことを優先して、その神の招きを断った、と話されたのです。それはこの人が、神の招きを断ってほかのことを優先した人たちと変わらないからです。神の招きを分かっていない、真剣に受け止めていないという点で、なにも変わらないからです。この人は自分が宴会を開くときに、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」を招くことによって、つまりそのような善い行いによって、自分は神の国の食事に招かれる、と思っていたのではないでしょうか。自分は「お返しができない人」ではなく、「お返しができる人」であると、神様から招かれるにふさわしい者であると思い込んでいたのです。そのような思い込みが、神の招きを真剣に受け止めることを妨げるのです。

虚しい人生から救い出されることへの招き
 だからこそ私たちは神の招きとはどのようなものなのかに目を向けなくてはなりません。共に読まれた旧約聖書イザヤ書55章1-2節に、神の招きがこのように語られています。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め 価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか、わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」。神様は私たちを「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」と招いてくださいます。そして神の招きに応えて、神のもとにやって来る人たちに、銀を払うことなく穀物を与え、価を払うことなくぶどう酒と乳を与えてくださるのです。銀を払うことなく、価を払うことなくとは、「ただで」ということです。神様はただで、無償で、なんの条件もなく穀物を与え、ぶどう酒と乳を与えてくださいます。それは、単に肉体を養う食べ物や飲み物を与えてくださるということではなく、私たちの存在の根底にある渇きと飢えを満たす恵みを与えてくださるということです。別の言い方をすれば、私たちを虚しい人生から救い出してくださり、豊かな恵みで満たしてくださる、ということなのです。しばしば私たちは日々の生活の中で、「糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労」しています。言い換えるならば、私たちを虚しい人生から救う神の招きよりも、ほかのことを優先して労してしまっているのです。しかし私たちはこの神の招きをこそ真剣に受け止め、人生の優先順位の第一とするのです。

神の招きを断るな
 本日の説教題を「神の招きを断るな」としました。厳しい言葉の説教題にしてしまったかなとも思いました。教会に来たことがない方が、掲示板の説教題を見て、教会は「神の招きを断るな」と高圧的に言っていると受け止めるかもしれない。それだけならまだしも、神様ご自身が「私の招きを断るな」と高圧的におっしゃっているよう受け止められたらどうしようとも思いました。しかし「神の招きを断るな」というのは、教会に来たことがな
い方ではなく、むしろすでに神様から招かれている私たちこそが聞くべき言葉だと思います。なぜなら自分は神様から招かれて当たりまえと思い込んでいる人こそが、神の招きを断るからです。本日の箇所で、主イエスがお語りになったのは、すでに神様から招かれていた人たちが、主イエスが遣わされたとき、神の招きを断ってほかのことを優先した、ということでした。すでに招かれているのだから、今回は断っても、次があると思ったのかもしれません。そもそも自分は神様に招かれるにふさわしいから、招かれてあたり前だから、断っても良いと思ったのかもしれません。しかしそのように神様から招かれて当たりまえと思い込んでしまうとき、私たちは神の招きを軽んじてしまい、神の招きを真剣に受け止めようとしなくなるのです。

神の真剣な思いを受け止めて
 主人の僕は、主人に言われた通り、「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」を宴会へと招きました。しかしそれでもまだ宴会の席には空きがありました。すると主人は言います。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」。「無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」。この主人の言葉に、この神様のお言葉に、なんとしても私たちを神の国の食事へと招きたい、救いの完成へと招きたいという神様の熱い思いが、真剣な思いが込められています。その私たちへの熱い思いのゆえに、真剣な思いのゆえに、神様は主イエスを私たちのところに遣わしてくださり、十字架に架けてまで、私たちの救いを実現してくださったのです。神様は私たち一人ひとりを主イエスによって実現した救いへと招いておられます。私たちはなにか条件をクリアすることによってこの救いに与るのではありません。ただ神の招きを受け入れ、その招きに応えることによって救いに与るのです。私たちがなすべきことは、神の招きを軽んじることなく、真剣に受けとめることだけなのです。神の招きに応え、救いに与るとき、私たち自身の奥底にある渇きや飢えが満たされます。私たちの人生が虚しさから解放されて、救いの豊かな恵みで満たされるのです。神様がただならぬ思いで、独り子を十字架に架けてまで、私たちを招いてくださっています。そうであれば私たちも、この神の招きを真剣に受け止めずにはいられないはずです。私たちは神様の真剣な思いを受け止め、神の招きを断ることなく、その招きに応えて、喜んで神の国の食事の席に着くのです。

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