夕礼拝

丸太を取り除け

「丸太を取り除け」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第50編1-7節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第7章1-6節
・ 讃美歌: 214、294

「あなたはその人を裁くな」「あなたはその人を赦し、受け入れなさい」「わたしがその人の裁きを受けたの だから」とイエス様はわたしたちに伝えようとされています。

「人を裁くな」とはっきりと今日イエス様はわたしたちに教えられます。ここで語られている「裁き」とは 、裁判において、有罪や無罪の判決を下すという、裁判の時だけに有効な言葉ではなく、日常において、「価 値を判断する」こと、つまり「これは良い品物だ、粗悪品だ」と決定することをも意味しています。その「良い 悪い」を品物などではなく、人に対して行うことが、ここで言われている「人を裁くことです」。イエス様は わたしたちに、今この世において存在している司法制度や裁判制度を止めなさいと言われているのではありま せん。またこの時期に行われている入試や試験をして、合格や不合格を判断することを止めなさいと言ってい るのではありません。多くの説教者は、この裁きは、人に対して面と向かって「あなたは良いとか悪い」とか言 うのではなく、陰で人のことを裁く、「あいつは意地が悪い」というような「陰口」「うわさ話」が裁きであ ると言っています。わたしたちは、「人の良し悪し」を判断する言葉が日常的に語ります。ですから、わたし たちは日常の中で、「人の良し悪し」を語り、裁きを行っていると言えます。そのような意味で、イエス様の 「人を裁くな」と命令を受け止めると、わたしたちは単に「良し悪しを語ることをやめる」ことをすればいい ということでしょうか。また、それだけでなく、ここをより厳しく解釈して、心に良し悪しを思うことが裁き になると考えるのならば、イエス様が「思考停止させて人のことを良いも悪いも判断しないようにしなさい」 とそれをわたしたちに求められておられるということになるのでしょうか。そうではないでしょう。

その問題はすこし脇に置いておき、なぜ人を裁いてはいけないのかということを考えていきたいと思います。 本日の箇所でイエス様は、「あなたがたも裁かれないようにするためである。」と語られています。わたした ちが、人を裁いてはいけない理由は、わたしたちが「裁かれないためである」とイエス様は言われています。「 わたしたちが裁かれる」ということになっていますが、ここには誰から裁かれるということが明らかになってお らず、ここでは誰がに当てはまる主語が語られていません。2節で、「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ 、自分の量る秤で量り与えられる」と書かれています。これは自分の物差し、定規で判断したのならば、あな たもその物差し、定規で判断されるということです。しかしこれも、誰によって、判断されるということが明 確ではありません。これは、自分が他者を自分の物差しで判断したら、その他者から同じ物差しで判断される 。ということではありません。もしそうなると、「自分が寛大に判断すれば、相手から寛大に判断してもらえ、 厳しく裁けば、自分も他人から厳しく裁かれる。だから、寛大な心をもちましょう」という、ただの倫理道徳的 な話になってしまいます。または、これは逆手にとることもでき、自分はストイックに生きて、自分に厳しく し、そのように自分を裁いているから、他人も厳しく裁いても他人にその厳しさを要求しても問題ないという ことになります。
ここで見つめられているのは、そういう人との間での「裁いたり裁かれたり」ということではなくて、神様によ って自分が裁かれる、ということです。イエス様は神様の裁きを見つめています。イエス様の教えはこの神様 の裁きを見つめて、語られています。わたしたちもそのことをしっかり見つめることによってこそ、この教え の本当の意味もわかってきます。
2節に「自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」とありました。これは、「自分が人を裁 く、それと同じように神様が自分をお裁きになる」「だから、人のことを厳しく裁いていると神様も自分のこと を厳しく裁くし、人に対して寛大な心を持てば、神様も自分を寛大に扱ってくれる」ということでしょうか。人 にやさしくすれば、神様も自分にやさしくしてくれる、人の罪を赦せば、神様も自分の罪を赦してくれる、そ うなると、そのような神様はなんだかプログラミングされたロボットのような存在になってしまします。わた したちがどれだけ寛大な、やさしさをもって人に対することができるかで、神様のわたしたちに対する態度も 決まるというわけです。人に態度を決定される神様であるのならば、それは人に操られている神様です。神様 は人に操られません。イエス様は、あなたたちの態度や姿勢に応じて、神様が姿勢を変えてくださるという教 えをされようとしているのでありません。イエス様がこのことによってわたしたちに見つめさせようとしてお られるのは、神様がわたしたちをお裁きになる、ということです。わたしたちが人を裁こうとする、その時に 、あなたがその人に対して抱いているのと同じ思いをもって神様があなたをお裁きになるとしたらあなたはど うなるか、「そのことを考えなさい」と言っておられるのです。
3~4節に、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太が あるではないか。」とあります。兄弟の目にあるおが屑というのは、その裁きと対象となる人の過ちや欠点で す。その人を裁いている自分の目の中に丸太があるとイエス様は言われます。イエス様は、兄弟の目にはおが屑があり 、あなたの目には丸太がある、と言っておられます。それはおが屑よりも丸太の方が大きいから、裁くあなた の方が過ちや欠点が多いのだ、ということではありません。「目の中に丸太がある」というのは、わたしたちに は理解できないような状態です。ですから、まず「目の中の丸太」の「目の中にある」という状態を考えてみ ましょう。目の中のなにかものがあると状態はわたしたちの感覚からはわかりません。もし、目の中になにかあ るのだとすれば、それはわたしたちの手では取り出せないものです。またもし、その目の中にあるものを取り 出すとするならば、目を破らなくてはなりません。そうすると、その者は真っ暗闇になり、闇に包まれるとい うことが起こります。「目の中にある」という状態は、自分の手では取り出し不可能という意味と、もし取り出 すのならば代償が伴うということを指し示しています。さらにイエス様が、丸太とおが屑と言っているこの2 つの関係を考えるとわかることがあります。おが屑とは、材木となる物から生み出されるものです。それらを 、切ったり、加工したりした時にでる屑がおが屑です。すなわち、おが屑の原材料、その源は材木である丸太 だということです。人の弱さや欠けがおが屑であると言いました。わたしたちが、わたしたちの弱さや欠けとい うのは、自分たちの罪の中から生まれるものです。もし自分中心になってしまっているとしら、その自分中心 とう生き方がおが屑であると言えます。その原材料となっているのが罪ということです。その罪は、目の中に あるということが示しているように、自分の手では取り出せないものであるということです。無理に取り出す ならば、わたしたちは暗闇に包まれます。これは視力を失うということだけでなく、死という暗闇、永遠の滅 びという暗闇を引き受けるということです。死と永遠の滅びという交換条件でしか、罪は取り出せないという ことです。わたしたちは、人が持つ罪から生まれる、言い換えると丸太から生まれる、他者のおが屑を批判し 、裁こうとします。イエス様は、「その罪の現れをあなたが批判することによって、取り除けるのか」と今わ たしたちに問われています。それはできないでしょう。わたしたちは他者から指摘されて、自分の過失や弱さ に気付くことが出来ます。しかし、その過失や弱さを、指摘されただけでは、無くすことはできません。指摘 されて反省はするものの、弱さ故にミスはしてしまうし、迷惑をかけてしまうことをしてしまいます。そのよ うに、わたしたちが裁いたり、批判したりしても、相手の目に現れるおが屑を生み出すこと止めることはでき ないのです。相手の目の中にある丸太をわたしたちがどうできましょう。わたしたちは、わたしたちの目の中 になる丸太という罪をも、死ななければ、滅びなければ、取り出させないのです。
わたしたちの目の中の丸太もまた、おが屑を生み出しています。そのようなわたしたちにイエス様は、「目 の中にある丸太を取り除きなさい」と言われています。これは優しくいわれていません。「取り除け」という 強い命令の言葉として言われています。つまり、今までの話の流れで言えば、「死になさい」ということにな ります。イエス様は、わたしたちに死を要求されている。これはある意味間違いないと思います。わたしたち は、死んで完全に滅びなければ、罪を取り除くことはできません。しかし、イエス様は、ただ死んで滅びなさ いということではなく、そこに救済の道を敷いてくださいました。
イエス様は御自身の命を十字架の死によってささげ、わたしたちが目の中の丸太を取り除くときの代償とし てくださいました。イエス様は死なれ、完全な暗闇、完全な滅びを、わたしたちの代わりに受けてくださいま した。そのイエス様の死に共に与ることで、わたしたちが一度完全に滅びたことになると聖書は語ります。し かし、聖書は、同時にその死に与ったものは、イエス様の復活の命にも与ると書いています。ですからイエス 様がわたしたちに丸太を取り除きなさいと言われる時、それは「わたしと共に死になさい」と言われており、 同時に「わたしと共に生きなさい」といわれているということです。そのイエス様の死と命に与ること、イエ ス様に一つになることが示さているのが洗礼です。洗礼において、わたしたちははっきりと、イエス様とひと つになっていることが示されます。つまり、目の中の丸太はイエス様によって、形としては洗礼を通して、取 り除かれるのです。
ここで洗礼を受けている信仰者は、「しかし、わたしはまだ罪を犯すし、弱さもあります」こう考えると思 います。そうです。わたしたちは根本にある丸太は取り除かれましたが、わたしたちは丸太があった頃に生み 出された、大量のおが屑がまだまだ目に残っているのです。だから、そのおが屑によって目が霞んだり、濁っ たりして、「正しい正しくない」をちゃんと判断することもできないのです。
イエス様は「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目から おが屑を取り除くことができる」と言われました。自分の目のおが屑だって取り除けないわたしたちが、どう やったら隣の人のおが屑を取り除くことができるのでしょうか。イエス様はわたしたちの丸太を取り除かれれ ば、隣の人のおが屑を取ることができるといっております。わたしたちがイエス様によって罪を赦されている 事を知り、またその赦しの恵みに与っていれば、隣人のおが屑を取り除くことができるとイエス様は言われます 。わたしたちが、隣人のおが屑をわたしたちが批判することで取り除けることはないとはわかっています。で はどうすればいいのか。それは、イエス様がしてくださったように、わたしたちがその人のおが屑を受け入れ 赦すということでしょう。批判し裁くのではなく、そのおが屑と呼ばれる弱さ、過失を受け入れ赦す時に相手 のおが屑は、取り除けるでしょう。しかし、わたしたち隣人を一回ゆるすことで、その人のすべてのおが屑を 受け止めるということはできません。わたしたちは、その時、その時に生み出さている隣人のおが屑を受け入れ 、取り除くことで精一杯です。しかし、その時その隣人は、主の愛に基づいたゆるしを知り、そのゆるしを通 して、イエス様と出会うことがあると思います。その時、その人がイエス様と出会い、イエス様のしてくださ ったことを信じ受け入れ洗礼を受けた時、その人のおが屑を生み出す丸太はイエス様によって取り除かれるの です。わたしたちが、おが屑を受け止めることで、隣人はイエス様と出会っていく可能性が開かれるのです。

洗礼を受け、罪の赦しに与ったもの目にも、まだ与っていないものの目にも、おが屑はあります。つまりわ たしたちの目にはおが屑が残っています。赦しにあずかっているものでも、そうでもないものも、弱さや欠け 、ミスも犯してしまいます。しかし、わたしたちが神様から裁かれないといけない裁きをイエス様が受けてく ださったことによって、その罪の丸太を取り除く手段、その救いの道が開かれました。イエス様はいま「丸太 は取り除け」と言われています。そして、「共に死」に「共に生きよう」と招いておられます。その招きに応え た時、わたしたちは「裁くな」と言われたイエス様の言葉が分かります。イエス様は、わたしたちの罪の丸太 のために、裁きを受けられたのです。また、わたしたちの隣人の罪の丸太のための裁きを受けるために死なれ たのです。だからわたしたちが、その人を裁く理由はもはやないのです。イエス様は、わたしたちは裁くので はなく、御自身の赦しと救いの業を見つめ、その人のおが屑を受け入れることを、わたしたちに望まれています 。裁いてばかりいたわたしたちが、隣人を赦したその時、隣人は赦しを知り、イエス様の愛を間接的に知るの です。それを通して、その人がイエス様と出会い、イエス様と隣の人が、直接的なつながりを持ち、イエス様 に結ばれて、その人の丸太は取り除かれるのです。
わたしたちの目にはおが屑があります。しかし、それを生み出す丸太は取り除かれています。この世で生きて いる間にすべてのおが屑がわたしたちからなくなるということはありませんが、聖霊なる神様によって、新し く造り変えられていく中で、わたしたちの目のおが屑は少なくなっていくでしょう。それは、わたしと隣人の 間で、その間に聖霊なる神様いてくださり、赦し合い、互いに愛し合うことの中で、おが屑を取り除きあうこ との中で少なくなっていくことでしょう。終わりの時、つまりわたしたちの完成の時、わたしたちの目は完全 に澄み渡った目になり、その全く誤りのない目で愛する隣人を見つめることができ、神様の御顔を見つめるこ とができるでしょう。隣の人とわたしたちの目が澄み渡る日を待ち望みながら、そしておが屑が受け入れあい ながら歩んでまいりたいと思います。

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