主日礼拝

神の子イエス

「神の子イエス」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 申命記第8章1-10節
・ 新約聖書: ルカによる福音書第4章1-13節
・ 讃美歌:233、284、356

聖霊の導きによって
 アドベント、待降節の第3主日を迎えました。いよいよ来週の主の日には、クリスマスを記念する礼拝が行われます。そして来週には、讃美夕礼拝など、一連のクリスマスのお祝いが行われます。クリスマスに備える私たちの歩みも佳境に入っている中、本日の礼拝においては、ルカによる福音書の第4章の最初のところ、主イエスが、荒れ野で、悪魔による誘惑をお受けになったところを読みます。アドベントの時にこの箇所を読むことの意味については、後で触れるとして、先ずは、このいわゆる「荒れ野の誘惑」の箇所を読んでいきたいと思います。
 1節に、「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」とあります。「イエスは聖霊に満ちて」とあるのは、3章22節を受けてのことです。3章21節に、主イエスがヨハネから洗礼をお受けになったことが語られていました。ヨルダン川で洗礼を受け、水から上がった主イエスが祈っておられると、天が開けて、聖霊が鳩のように目に見える姿でその上に降って来たのです。このことによって、主イエスは聖霊に満たされました。そしてヨルダン川から帰り、いよいよ活動を開始なさるのです。しかしその最初に語られているのは、主イエスがご自分の意志で何かをしたということではなくて、1節後半にあるように、「荒れ野の中を、“霊”によって引き回され」たということです。この「霊」は主イエスに満ちた聖霊、神様の霊です。その聖霊に主イエスが「引き回される」とはどういうことなのでしょうか。「引き回される」というと、行きたくもない所にあちこち連れ回される、という感じです。しかしいくつかの英語訳の聖書を読むとここは「霊によって導かれて」となっています。ある訳では「霊に導かれて荒れ野を彷徨った」となっていました。つまりこの「引き回され」は、主イエスが荒れ野で四十日を過ごされた、それは「彷徨った」とも表現されるような歩みだったけれども、しかしそれは聖霊に導かれてのことだった、と語っているのです。聖霊を受け、聖霊に満たされた主イエスが、その聖霊に導かれて、荒れ野で四十日を過ごされたのです。そして2節には、その四十日の間、「悪魔から誘惑を受けられた」とあります。この書き方は、聖霊に導かれて荒れ野で過ごした四十日が、同時に悪魔から誘惑を受けた四十日だったという意味になります。荒れ野における悪魔による誘惑のことを詳しく語っているのはマタイとルカの二つの福音書ですが、このあたりの書き方には違いがあります。マタイにおいては、霊に導かれて荒れ野に行き、そこで四十日間断食して空腹を覚えた主イエスのところに、悪魔が来て誘惑を始めるのです。ところがルカにおいては、四十日間悪魔から誘惑を受けたことが先ず語られ、その後に、この四十日間「何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」とあり、3節に入ってその空腹を覚えられた主イエスに悪魔が誘惑の言葉を語りかけて来るのです。つまりルカにおいては、2節の、荒れ野での四十日の間の誘惑と、3節以下の、四十日の期間が終わって空腹を覚えられてからの誘惑とが区別されているように読めます。四十日の間に受けた誘惑とはどんなものだったのだろうか、という問いが生まれるような書き方です。ルカがこのような書き方をしたのは、四十日間とその後の誘惑を別のものとして描くためではないでしょう。主イエスが荒れ野で悪魔から受けた誘惑の内容は3節以下に語られているのです。それでは2節は何のためにこのようになっているかというと、先ほど申しましたように、聖霊に導かれて荒れ野で過ごした四十日が、同時に悪魔から誘惑を受けた四十日だったということを示すためです。ルカの意図がはっきり分かるように言い換えるならば、主イエスは荒れ野で悪魔の誘惑をお受けになったけれども、それは聖霊の導きの中でのことだった、ということです。聖霊に満たされた主イエスが、その聖霊の導きの中で、悪魔からの誘惑をお受けになったのです。悪魔は主イエスを誘惑し、救い主としての働きを挫折させようと働きかけましたが、それも実は聖霊の導きの中で起ったことなのであって、主イエスは聖霊に満たされてその誘惑と戦い、打ち勝たれたのです。

三つの誘惑
 主イエスが戦い、打ち勝たれた悪魔の誘惑とはどのようなものだったのでしょうか。悪魔はここで三つのことを主イエスに語りかけました。第一は3節の「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」ということです。第二は6、7節の「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」ということです。第三は9~11節の「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」ということです。悪魔はこの三つのことによって主イエスを誘惑しようとしたのです。この三つはどれも、私たちにとっては誘惑になるようなことではありません。「石にパンになるように命じる」にしても、「神殿の屋根の端から飛び降りる」にしても、もともと私たちにはできないことですし、第二の「国々の一切の権力と繁栄」も、私たちがそれを手に入れることなど考えられないのです。つまりこれらは三つとも、私たち普通の人間には誘惑にならないような事柄です。これが誘惑になるのは、相手が主イエスだからです。主イエスだとなぜこれが誘惑になるのか。それを示しているのが、第一と第三の誘惑に出てくる、「神の子なら」という言葉です。これらは「神の子」である主イエスにのみあてはまる誘惑なのです。悪魔は、「神の子」である救い主としてこれから活動を開始しようとしておられる主イエスを、神の子としての歩みから逸らさせ、それによって救い主としての働きを挫折させようとしているのです。ですから私たちはこの話から、主イエスが神の子であるとはどういうことなのかを教えられるのです。

神の子イエス
 主イエスは一人の人間としてこの世にお生まれになり、育ってこられましたが、同時に神の子でもあられました。これまで読んできた所にそのことが強調して語られていました。先週読んだ3章の終わりのところも、人間の先祖をたどっていって最後は神に至る主イエスの系図を示すことによって、主イエスが先祖たちを父とする人間の子であると同時に神の子であることを語っていました。その前のところ、主イエスが洗礼を受けたことを語る箇所には、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声が与えられたことが語られていました。多くの人々と共に悔い改めの印である洗礼を受けた主イエスが、神様によって、「わたしの愛する子」と宣言されたのです。また2章の終わりにあった、主イエスが十二歳の時の話は、主イエスが神を自分の父として明確に意識しておられたこと、その神の子イエスが、しかし三十歳までは人間の子として両親に仕えて歩まれたことを語っていました。そしてさらに1章において、母マリアに天使が現れ、あなたは救い主の母となると告げたその言葉の中で、「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と語られていました。マリアは聖霊によってみごもり、神の子を生んだのです。それがクリスマスの出来事でした。このようにルカによる福音書は一貫して、母マリアより生まれ、両親のもとで育てられた人間イエスが、同時に神の子であられることを語っているのです。その神の子主イエスがいよいよこの第4章から、救い主としての働きをお始めになるのです。それに先立って、この荒れ野における悪魔の誘惑によって、主イエスが神の子であられるとはどういうことなのか、主イエスはどのように歩むことによって神の子であろうとしておられるのか、が示されるのです。この箇所をクリスマスに備えるアドベントの時に読むことの意味はそこにあります。私たちが今お迎えしようとしている神の子主イエス・キリストはどのような方なのか、主イエスが神の子であられることを、私たちはどこに見ていったらよいのか、ということをここから学ぶことによって、主イエスをお迎えする準備をすることができるのです。

第一の誘惑
 さて、悪魔の誘惑を一つずつ見ていきたいと思います。第一の誘惑は、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」ということです。神の子である主イエスは、石に命じてパンに変える力を持っておられるのです。その神の子としての力をどのように用いるのか、というこれは問いです。マタイによる福音書第4章の同じ場面と読み比べると、悪魔の言葉の違いに気づきます。マタイにおいては、「これらの石が」と複数になっているのに対して、ルカでは「この石に」と単数なのです。マタイの方で考えられているのはおそらく、神の子としての力によってそこらの石をどんどんパンに変えて、それで貧しく飢えている人々を救ったらよいではないか、そのようにして救い主としての働きをしていけ、ということでしょう。これは大変魅力的な、あるいは切実なことです。今も世界には飢えている人々が大勢おり、餓死する人が毎日出ていることを私たちは知っています。そこらの石をどんどんパンに変えることができたらそういう人々を救うことができるのに、と私たちも思います。その方がよほど人々を直接的に救うことができる、と思ったりします。しかし主イエスにとってそれは悪魔の誘惑なのです。主イエスはその誘惑を退けられます。神の子としての力をそのように用いることはなさらないのです。そこで主イエスが語られたのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所である申命記の第8章3節の言葉です。「人はパンだけで生きるものではない」。マタイにおいてはその続きまで語られています。「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。マタイにおいてそこまでが引用されているのは、主イエスが神の子として行う救いの業は、人々にパンを与えて生かすことではなくて、神様のみ言葉、福音によって人々が生きるようになることだ、ということを示すためでしょう。それに対してルカにおいて「この石にパンになるように命じたらどうだ」と言われているのは、空腹を覚えている主イエスに、目の前の一つの石をパンに変えて食べたらよいではないか、ということです。つまりルカはマタイよりも主イエス個人の事柄としてこの誘惑を捉えているのです。そこで悪魔が言っているのは、「神の子としての力を自分のために、自分の飢えを満たすために用いろ」ということです。主イエスはその誘惑を、「人はパンだけで生きるものではない」というみ言葉によって退けました。それは「神の子としての力を、自分の飢えを満たすために用いるつもりはない。その力は、自分のためではなく、人々の救いのためにのみ用いるのだ」、ということです。ご自分のためではなく、私たち罪ある人間の救いのために神の子としての力を用いて下さる、主イエスの神の子としての歩みはそのようになされていったのです。その行き着く先が、十字架の死だったのです。

第二の誘惑
 第二の誘惑において、悪魔は主イエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せたとあります。そして、「もしわたしを拝むなら、その権力と繁栄の全てを与えよう」と言いました。この誘惑のポイントは、悪魔を拝め、ということです。悪魔を拝むなら、この世の権力と繁栄が得られるのです。このことは、「ファウスト」を始めとしていろいろな文学作品の題材ともなっています。いわゆる「悪魔に魂を売る」ということです。その前提にあるのは、この世における権力や繁栄、富は悪魔がそれを司っており、悪魔に魂を売ることによってそれらを手に入れることができる、という感覚です。そこには、この世の権力や富の持つ悪魔的な性格、それにとりつかれると人間性が損われ、人に対する愛や思いやりを失い、残酷なことをも平気でするようになるという、これは人種や民族を超えた人類に普遍的な経験が生きていると言えるでしょう。そういう意味では、この第二の誘惑は私たちも受けるものであると言うことができます。主イエスはその誘惑を、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という申命記6章13節のみ言葉によって退けました。権力や繁栄という悪魔的な力の虜になることから逃れるための唯一の道がここに示されています。主なる神様を拝み、つまり礼拝し、神様にのみ仕えることです。神様を礼拝することによってのみ私たちは、権力や繁栄という悪魔的な力の誘惑から逃れることができるのです。本当に拝むべき方を拝んで生きることによってこそ、拝むべきでない、私たちを奴隷とする力を拝むことから解放されるのです。
 しかしこの第二の誘惑はさらに深い意味を持っています。神の子であられる主イエスは、本来、この世界の全ての国々を支配するべき方なのです。世界のまことの王なのです。その王としてのご支配をどのように実現するかが主イエスの課題です。悪魔は、自分を拝むことによってその課題を実現することができる、と語っているのです。その根拠として悪魔が語っているのが、この世の一切の権力と繁栄とは自分に任されていて、これと思う人に与えることができるのだ、ということです。この世の権力や力は悪魔に任されている、だから悪魔を拝むことによってこの世界への支配を実現できる、と言っているのです。この世の権力や繁栄は悪魔の手に握られているということは、先ほども申しましたように、私たちが素朴に感じていることです。悪魔に魂を売りでもしない限りそれを手にすることはできない、と私たちは感じています。しかし悪魔はここでぽろりと重大なことを漏らしています。それは「任されていて」という言葉です。今悪魔が握っているこの世の権力や繁栄は、任されたものなのです。それらを悪魔の手に任せた方がおられるのです。それは主イエスの父である神様です。悪魔は、この世の権力や繁栄を、神様から一時任されているに過ぎないのです。それらを本当に所有し支配しておられるのは悪魔ではなくて神様なのです。そして神様は最後にはそれらを悪魔から取り上げて、み子キリストにお与えになるのです。この世界は、最終的には主イエス・キリストのご支配の下に置かれるのです。悪魔が漏らしているこの言葉を私たちは耳聡く聞き取らなければなりません。今この世界が、その権力や繁栄が、悪魔の支配下にあり、まさに悪魔的な力としてそれが猛威を振るっているように思われても、それらを最終的に支配し、導かれるのは主なる神様であり、そのご支配は最後にはみ子イエス・キリストのものとなるのです。悪魔を拝むのか、主なる神様を拝むのか、ということがここで問われていますが、それは、この世界を最終的に支配するのは、主イエスの父である神様なのか、それとも悪魔なのか、という問いです。主イエスは、ご自分の父である神様こそが世界を本当に支配しておられる方であると信じ、悪魔を拝むことを拒み、神様のみを礼拝することによって、神の子としての歩みを全うされたのです。その歩みを貫かれたことによって、主イエスはこの世界を最終的に支配する方となることができたのです。それによって私たちの救いが実現しました。もしも主イエスが拝むべき方を間違えて、神の子として歩めなくなってしまったとしたら、主イエスは父なる神様からこの世界の支配を受け取ることが出来なくなり、その結果この世界はいつまでも悪魔の手に任されたままになってしまうところだったのです。主イエスがこの第二の誘惑に打ち勝って下さったことによって、悪魔ではなく主イエスこそが私たちの最終的な支配者となって下さるという私たちの希望が確かなものとなったのです。

第三の誘惑
 第三の誘惑は、神殿の屋根の端から飛び降りてみろ、というものですが、私は以前にはこれは、「こんなすごいことができるのだ」ということを人々に見せて、それで自分を信じさせて救い主としての働きをしていったらよいではないか、という誘惑ではないかと思っていました。しかし聖書を丁寧に読めば、それは違うということが分かります。そのことは、主イエスが何と言ってこの誘惑を退けられたかに示されています。主イエスは、「あなたの神である主を試してはならない」という、これも申命記6章16節の言葉によってこの誘惑を退けられたのです。つまり主イエスがここで拒んだのは、「神を試す」ことです。悪魔のこの誘惑は、神を試させようとする誘惑なのです。神を試す、それは、本当に神様がおられ、自分を守り導いて下さるのか、神様を信じ依り頼んで本当に大丈夫なのか、ということを、試して確かめようとすることです。そして自分で確信が持てたら、大丈夫と安心できたら新しく歩み出すことができる、ということです。ある人はそういう信仰のことを、「瀬踏みの信仰」と呼んでいます。川を歩いて渡る時に、「この石はぐらつかないだろうか、乗っても大丈夫だろうか」と確かめながら歩くことを「瀬踏み」と言います。川を渡る時にはそれが必要でしょうが、信仰においては、それでは向こう岸に渡れないのです。神様の救い、恵みを本当に知ることができないのです。信仰において大切なことは、神様に信頼して自分を委ねることです。試して、確かめてからではなくて、信じて、一歩を踏み出すのです。しかし私たちには、なかなかそれが出来ません。どうしても、神様を試したくなるのです。確かめて安心したくなるのです。主イエス・キリストがこの世に来て下さったのは、そのような私たちのためです。神の子である主イエスが、人間となってこの世を歩んで下さり、そして悪魔のこの誘惑を受け、聖霊の導きの中でそれに打ち勝って下さったのです。それは主イエスが、神の子として、父である神様を深く信頼して、神様を試したりその恵みを確かめたりすることを拒んで、ご自分を委ねて歩んで下さったということです。私たちにはなかなか出来ないことを、まことの神の子である主イエスが、私たちの先頭に立ってして下さったのです。私たちはこの主イエスを信じ、この主イエスと結び合わされて、この主イエスと共に生きていくのです。そのことによって、私たちも神の子とされます。神の独り子である主イエスが人間としてこの世に生まれ、人間として生きて下さったのは、主イエスを信じる私たちも、神の子となり、神の父としての愛に信頼して生きるようになるためです。一人の人間としてこの世を生き、同時にまことの神の子として悪魔の誘惑を退けて、神の子としての力をご自分のためではなく私たちの救いのためにこそ用いて下さり、この世界の本当の支配者である神様をのみ拝みつつ、神様に信頼して歩み通して下さった主イエス・キリストを信じることによって、私たちもまた、悪魔のあらゆる誘惑を退けて、神様をのみ拝みつつ、神様に信頼して自らを委ねて生きていくことができるのです。

悪魔の誘惑に立ち向かいつつ
 私たちの歩みは、常に悪魔の誘惑にさらされています。主イエスにおいても、荒れ野の誘惑に失敗した悪魔は、しかし「時が来るまで」、つまり一時的に主イエスを離れただけだったと最後の13節にあります。悪魔は再び襲ってくるのです。その時とは、主イエスの十字架の苦しみと死の時です。しかし荒れ野の誘惑を退けた主イエスが、神の子としての歩みを、十字架の死に至るまで歩み通して下さったことによって、私たちにも、神の子として悪魔の誘惑を退けて生きる道が開かれているのです。今年のクリスマス、神の子としてお生まれになった主イエス・キリストをお迎えして、主イエスと共に私たちも、悪魔の誘惑に立ち向かいつつ歩んでいきたいのです。

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