夕礼拝

目標を目指して

「目標を目指して」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: 詩編第37編23-29節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙第3章12-16節
・ 讃美歌 : 278、528

ひたすら走る
 本日朗読された箇所で、パウロは、信仰生活を走ることにたとえています。14節には、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」とあります。信仰生活は、目標を目指してひたすら走ることなのです。このことは、信仰生活を送る者が、日頃少なからず感じていることではないでしょうか。信仰生活と言うと、御言葉を学びつつ、信仰者として相応しい生活を心がけていくことによって、救いに到達することのように思います。信仰生活は、まさに目標を目指して走るように自分を向上させて行くことであると感じるのです。そのように感じるのは、信仰生活に限らず、私たちの人生の旅路そのものが、目標に向かって自分を高めて行くことだからであると言えるでしょう。新しい年が始まりました。多くの人が今年の目標を掲げている時です。具体的な目標を掲げていない人であっても、新しい年の歩みを少しでも良いものにして、自分が向上して行けるようにと願っていることでしょう。私たちは、地上の生活において、自分の目標を掲げて、それを実現して行く歩みをしているために、信仰生活も又、それと同じような意味で、即ち、自分の努力によって、この世での生活を少しでも良くしていく、自己実現の一つの在り方として把握してしまうかもしれません。しかし、目標を目指して走ると聞いて、そのようなことをイメージするのであれば、そこには聖書の信仰に対する誤解が生じます。パウロはここで、人間が目標に向かって努力するような歩みを信仰生活においてもすることを勧めているのではありません。努力することを怠けてしまう者に向かって、聖書の信仰の立場から、一生懸命努力を続けるようにと激励しているのではないのです。パウロが語る、目標を目指して走ると言うのは、私たちが一般的に考えることとは少し異なります。今日は、パウロの記述から、ひたすら走る信仰生活について示されつつ、新しい年の信仰生活に向かって歩み出したいと思います。

与えられる賞
 パウロは、信仰生活を走ることにたとえる時、そのことによって何を見つめているのでしょうか。パウロが、ここで「ひたすら走る」と言っていることに注目したいと思います。このような言葉から思い浮かぶのは、夢中になって走り続ける姿です。つまり、ここで語られているのは、人間が目標を定める時にするように、自ら目標を定め、それに向かって計画を練って、自分自身の中に、それを実現するための知識や必要なことを着実に身につけて行くというような歩みではありません。そもそも、ここで語られている目標は、人間が自分で設定するものではありません。それは、14節の前半の言葉で言えば、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞」です。つまり、この目標は、自分で獲得する賞ではなく、神が私たちを上へ召すことによって与えられるものなのです。それは、自分自身で上を目指して上って行くことによってではなく、神様によって上へ召されることによって与えられるものなのです。
 人間が自分で目標を立てて、そこに向かって行こうとする時、その目標が達成できるかできないかは別にしても、達成不可能な目標を掲げることはありません。一応、自分が努力することによって達成できるであろうことを目標にします。しかし、ここでパウロが見つめている賞は、人間がその実現可能性を保持しているような性質のものではないのです。その可能性は、全て神にあり、それ故に、人間が自らの力で到達することができるようなものではないのです。

信仰における不完全さ
 ここから言えることは、信仰生活において、人間は不完全、不十分であり続けるということです。12節でパウロは「わたしは、既にそれを得たというわけでなく、既に完全な者となっているわけでもありません」と語ります。ここで、「それ」と言われているのは、聖書が語る救いの完成です。具体的には、直前の11節に語られていることです。そこには「キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したい」とあります。パウロは、ここで、確かに、自分の目標は見据えています。それはキリストの姿にあやかりつつ、死者の中からの復活の命に到達することだと。しかし、その目標を自分が既に獲得しているとは思っていないのです。そして、自分が目標に到達していないからこそ、ひたすら走らなくてはならないと言うのです。パウロが信仰を、目標を目指して走ることであると言うのは、人間が努力して救いを獲得して行く歩みを示すためではなく、救いを獲得できず、目標に到達していない人間の不完全さを示すためなのです。
 それにしても、なぜパウロは、この手紙において、救いにおける不完全さを強調するのでしょうか。それは、この時、フィリピ教会に信仰における完全さを主張する人々がいたからです。本日朗読された箇所の直前の箇所、3章の2節でパウロは次のように語っています。「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」。この時、教会の中には、ユダヤ教の律法に従って割礼を受けている者たちがいて、割礼を受けていることによって、既に自分たちは、「完全な者」であり、救いの完全さを得ていると主張していたのです。パウロは、そのような人々を批判しつつ、信仰は「ひたすら走る」ことだ、不完全な者が救いを求め続けることだと言っているのです。パウロは、割礼による救いの完全性を主張する者は完全だが、自分は不完全であると言って、敗北宣言をしているのではありません。他ならぬパウロ自身、割礼を受け、誰よりも熱心に律法を遵守する歩みをしていたのです。しかし、パウロは、それらが本当の意味で救いの完全さを人間に約束するものではないことを見つめているのです。人間は誰であっても、自分と同じ不完全さの中にあると言うことを示しているのです。

立ち止まる信仰
 ここで、割礼を受けることによって完全さを主張している人々の姿勢は、信仰者が誰でも陥ることがある姿勢です。私たちは、パウロや当時の割礼を受けていた人々ほどに、信仰熱心ではないかもしれません。しかし、誰であっても、信仰の歩みにおいて、自分は既に、確かな、完全な救いを得ていると言う思いをもつことがあるのです。「もつことがある」と言うよりも、私たちが、信仰生活を、自らを高めつつ獲得して行くことによって走って行くことだと捕らえようとすることの背後には、必ず、このような態度が潜んでいると言って良いでしょう。
 人間が自分の目標を掲げ、上を見上げて努力して行き、それによって、目標が達成される時、人間は走ることを止めて、自分がやり遂げた自己満足と達成感に浸ります。もちろん、そこから新たな目標を立てると言うことはありますが、少なくとも、そこで、一度は、走ることを止めるのです。それと同じように、信仰においても、「神様の救いとはこういうものなのか」と納得し、聖書の真理を捕らえたと思う時があります。聖書や信仰にも、知識と言う側面がありますから、御言葉を学んでいく中で、事実、自分が獲得したことに基づいて、救いの確信を得ると言うことはあるのです。そのようなことは悪いことではありませんが、そこで、救いの確信は常に上から与えられるものであることが忘れられ、それが与えられることを求め続けなくなるのであれば、割礼を受けていなくても、自らが獲得したものによって信仰における完全さを主張しているのです。そのような時、信仰において、走ることを止め、立ち止まってしまうのです。そして、私たちが、救いにおける不完全さを見つめる時、私たちがひたすら走っているのに対して、不完全さを忘れ完全さを主張する時、立ち止まっているのです。そして、信仰生活において立ち止まってしまう態度に、必ず付随しているのだ、人間の自らを誇る思いです。自分を誇ることは、他者との区別の中において起こりますから、救われている者と救われていない者の区別も生まれます。自分は確かに救われている、正しい、完全な信仰に立っている。しかし、周囲のあの人たちは間違った、不完全な信仰に立っていて、救いを得ていないというような思いになったりするのです。「走るのを止める」とか「立ち止まる」と言うと、信仰生活において何もしないことのようにも思います。しかし、そうではありません。上からの救いを求めて行くのを止める時、自分が上に立って周囲にいる人々を裁き始めるのです。ですから、走るのを止め、立ち止まってしまう時に、しばしば見られるのは、自分の信仰の確かさを掲げつつ行われる人間同士の争いです。例えば、信仰の確信に基づいて、激しい活動を展開する人々の中や、宗教紛争の中にも、人間の立ち止まってしまう信仰の一つの形が現れていると言っても良いでしょう。パウロは、そのような、信仰生活において立ち止まってしまうことを警戒しつつ、走り続ける歩みを指し示すのです。

キリストに捕らえられて
 この不完全さの中で走り続ける歩みは、救いを全く知らされない中で闇雲に走ることとは違います。12節の後半でパウロは、「何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリストに捕らえられているからです」と語ります。ここで決定的に重要なことは、「自分がキリストに捕らえられている」と語っていることです。パウロが現在、救いの完成を捕らえようと努める根拠は、パウロ自身が既に救いに捕らえられていることにあるのです。既に、キリストの救いにあずかった者として走るのです。キリストの救いとは、キリストの十字架と復活による救いです。しかし、この救いにあずかるということは、既に、完全な救いを与えられると言うことではありません。この世にあっては、尚、罪の中にあり、それ故に絶えず救いを求めつつ、未だ実現していない救いの完成を目指して行く者とされるのです。
 では、この世にある限り、人間を支配し続ける罪とはどのようなものでしょうか。人々が、主イエスを十字架につけたのは、主イエスが「神を冒涜した」という理由でした。つまり、自分たちが神の救いを完全に得ているという人間の傲慢さが、真の神である主イエスを十字架につけたのです。つまり、主イエスの十字架は、信仰生活において、立ち止まってしまう人間によって引き起こされたのであり、この立ち止まってしまうということこそ、人間がこの世にある限り、逃れることが出来ない罪の現実なのです。主イエスは、十字架の死を克服して復活して下さることによって、人間に救いを与えて下さっています。自分は完全さを得ていると主張する、そのような意味で罪に支配されている人間に、真の救いである復活の命を示して下さっているのです。しかし、私たちは、その救いと共に、この世にある限り、尚、罪と不完全さの中にあることをも示されるのです。だからこそ、主イエスの救いにあずかった者は、常に、救いにおいて自分が獲得していると思っているものを捨てさり、主イエスによって与えられる真の救いを求めて走り続けて行くのです。

ただ一つのこと
 パウロは、13節で、キリストに捕らえられた者が走る時の姿勢を語っています。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」。この言葉を私たちの常識から判断すると、今まで行って来た、失敗は水に流して、新しい思いで出発しようという意味に取れます。しかし、そうではありません。ここでは、自分が今までに積み上げて来たものにしがみつき、自分を誇りとしていくことを止めて、キリストによって与えられる救いの完成をひたすら求めて行く歩みが語られているのです。しかも、ここで「なすべきことはただ一つ」と言われています。信仰生活において大切な唯一のことが言われているのです。それは、立ち止まらないで、走ることなのです。つまり、自分で獲得したものによって立ち、自らを誇り、完全さを主張している者が、主イエスの十字架と復活の力によって、不完全な者の罪が赦されていることを知らされて、キリストによって与えられる救いの完成を求めて行く者にされると言うことなのです。

完全な者は誰でも
 15節では、「だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別な考えがあるなら、神はそのことをも明らかにして下さいます」とあります。もし、自分が本当に完全な者と言うのであるならば、パウロがここで語っているように考えるべきであると言うのです。そこにこそ本当の完全な救いに至る道があるからです。そして、もし、パウロが語っていることとは別の考えがあったとしても、そのような人に対しては、神が、その考えの間違いを正し、本当の救いを明らかにして下さるだろうと言うのです。ここから分かるのは、パウロはここで「完全さを主張する人々」と「不完全さに留まる人々」を区別し、正しい人たちと間違った人たちを峻別しているのではないということです。もし、そうであれば、「不完全さに留まっている我々こそ、完全な救いを得ている」というような、やはり、自らの完全さを主張する信仰の態度に陥ってしまうでしょう。全ての人は、ここで言う「完全な者」となってしまうことがあるのです。そして、その「完全な者」の間違いを示すと共に、真実を示して正して下さるのは神様であることを見つめているのです。パウロ自身も、かつては、自分の完全さを主張する信仰に生きていました。しかし、キリストと出会い、神様によって変えられたのです。つまり、パウロは、ここで、単純に自分と異なる主張をする人々を非難しようとしているのではありません。キリストが捕らえていて下さること、神様が御業を行って下さることに信頼しているのです。人々が、パウロが語る、真の救いに至る信仰の道を歩み出すのは、神様の御業が起こり、神様が隠された救いの真理を顕して下さる時のみであることを見つめているのです。

到達したところに基づいて
 16節には、「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」とあります。私たちは、この世の歩みの中で、キリストの救いを示されて、その救いにあずかりつつ、終わりの日を待ち望みながら歩む者とされて行きます。それぞれの信仰生活を進めて来ました。パウロと同じ考えであるにせよ、別の考えがあるにせよいずれにしても、神様が、それぞれに、信仰の歩みを示して下さっているのです。「到達したところ」と言う言葉は、信仰者が途上にあることを示しています。更に、「進むべき」と言う言葉は、しっかり立つと言う意味があります。それは救いの完成をしっかりと見据えると言っても良いでしょう。私たちは、後ろを振り返る時、自分で救いを獲得しつつ自己満足に陥って行く、罪人としての歩みしか見出すことが出来ないかもしれません。立ち止まっている自分自身の姿を見出すのです。しかし、キリストがご自身の救いを示して下さるが故に、既に示されているキリストの復活の力を繰り返し知らされつつ、最終的な救いの完成を目指して走る者とされているのです。私たちは、信仰生活において立ち止まっていることの多い者です。この世で歩む以上、私たちは、常に立ち止まろうとしていると言っても良いかもしれません。自己満足と、自らの誇りの中から動こうとしないのです。そのような者に、御言葉を持って、キリストが語りかけて来るのです。そこで、既に示されている救いの確かさが示され、同時に、私たちの救いが完全になることを求めて行く者とされて行くのです。今日も、御言葉に聞きつつ、立ち止まろうとする足を踏み出して、走り出したいと思います。

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