「神の国に入る」 副牧師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: エレミヤ書 第3章19―22節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第21章28―32節
・ 讃美歌 : 231、214
問い返される主
私たちは主イエス・キリストの誕生を待ち望む、アドヴェントの第二週を迎えました。本日はご一緒にマタイ福音書第21章28節から32節の御言葉をお聞きしたいと思います。今私たちはアドヴェントの時を過ごしておりますが、私たちにとって、アドヴェント、主イエスを待ち望む時とはどのような時でしょうか。その一つの答えが本日の箇所に示されています。私たち一人一人が、主イエスから問いかけられるということです。本日の箇所は主イエスの「ところで、あなたたちはどう思うか。」と問いかけから始まります。主イエスは続けて「2人の息子のたとえ」を話されます。この場面で、主イエスが実際に問いかけている相手は、祭司長や民の長老です。祭司長、民の長老とのやり取りは本日の箇所の直前の、前回お読みした箇所は23節から27節から続いております。そこで主イエスは祭司長や民の長老から「何の権威でこのようなことをしているのか、だれがその権威を与えたのか。」と問われました。祭司長や民の長老たちは主イエスに対して、主イエスの権威を問いました。主イエスはそのような祭司長や民の長老たちの問いかけに対して、主イエスは本日、2人の息子のたとえを用いて問い返していかれるのです。
2人の息子のたとえ話
そして、主イエスは2人の息子の譬えを語られます。そんなに難しい譬えではないでしょう。「ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい。』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考えなおして出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった」。(28-30節)という話しです。私が今お読みしたのは新共同訳聖書ですが、以前の口語訳聖書とは違うところがあります。現在用いられている新共同訳聖書によりますと、父親の頼みを受けたとき、兄は最初断ったけれども後で出かけたとあります。ところが、弟は初め調子よく引き受けたけれども、実際には出掛けませんでした。ところが、以前の口語訳聖書では、この兄と弟の反応がそっくり入れ替わっているのです。なぜ、そのような違いが生まれたのかと言いますと、それぞれの翻訳の元になった聖書の本文の版が違い、採用された写本が異なっているからなのです。
翻訳の違い
口語訳聖書がここで採用している読み方というのは、後の神学的関心に基づいて書き換えられている可能性が強いと言われています。最初は父親に従うことを承知したけれども、結局背いた方の息子をユダヤ人になぞらえ、最初は拒絶したけれども、後で考えを変えて従った方の息子を異邦人になぞらえるのです。その際、神の救いの歴史に照らして考えれば、ユダヤ人の方が先に選ばれたのですから、こちらを兄と呼ぶ方が自然です。そのため、新共同訳が採用した読み方とは、兄と弟の返答が入れ替わってしまうわけです。しかし、これには後の時代の解釈が入っています。それよりは、話の筋としてより単純な方がオリジナルに近いと判断されたのです。そこで、新しい翻訳である新共同訳聖書の元になる聖書本文が定められるときには、今の形が採用されました。更に言いますと、ここでは兄と弟の反応が入れ替わるのですから、31節において、主イエスの問いに対する祭司長たちの答えも、それに合わせて入れ替わります。主イエスは尋ねて言われました。「この二人のうち、どちらが父親の望み通りにしたか」(31節)。新共同訳聖書では、彼らは「兄の方です」と答えたことになります。しかし、口語訳聖書では、彼らは「あとの者です」と答えたと記されています。つまり、どちらにしても初めは断ったけれども、後で考え直してぶどう園に出かけていった方が、結局のところは、父の望み通りにしたということなのです。
自分の思い通りではない
本日の箇所は、ユダヤ人と異邦人という枠組みの中で語られているわけではありません。明らかなことは、主イエスはこの譬え話しの中で、父である神の招きを受けている二種類の人たちについて語っています。一度承知しながら、結局は父の望みに背いた弟は、祭司長や民の長老たちを指しています。一方、初めは断ったのに、後で考え直して出かけていった兄は、徴税人や娼婦たちを指しているのです。そして主イエスは、祭司長たち自身から、本当に父親の望み通りにしたのは兄であるという答えを引き出しました。その上で、きっぱりと言われました。31節の後半です。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」。当時の宗教的指導者たちは、何が正しいことであるかを知っていました。兄と弟のどちらが、本当に父親の望み通りに振る舞ったことになるのかを、正しく判断しました。しかし、それにもかかわらず、自分たちは父である神の望みに背いているのです。神様の招きに対して、信仰をもって応える従順に欠けているのです。更には、自分たちの思い通りに振る舞わない神様に対して、腹を立てました。そして、主イエスにつまずき、主イエスを亡き者にしようとしたのです。それは自分たちの信じている真理に合わないからです。自分たちの待ち望んでいた救いに合わないからです。
どちらの息子も
主イエスは祭司長や民の長老たちにお尋ねになりました。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」。(31節)祭司長たちは「兄の方です」。(31節)と答えました。確かに、父の望みに応えたのはどちらかと問われたならば、実際にぶどう園に出かけた兄の方だ、と答えるしかありません。しかし、よく考えてみますと、どちらの息子も完璧ではありません。二人の兄弟に共通していることがあります。それは、父親が二人それぞれに、ある責任的な働きを求めたときに、根本においては、二人ともそれに反抗したということです。もっとも、兄は明らかにに「いやです」と拒絶しました。それに対して、弟は、その反抗心を隠して、上辺だけは丁寧に、父親の言いつけを聞きました。けれども実際には従っていないのです。主イエスの言い方に従いますと、この二人の息子によって、全ての人間が現われされています。私たちもまた、この兄弟のどちらかではないでしょうか。ある時は兄、ある時は弟のように、その時によって違うかもしれません。いろいろな言い訳をしたくなるかもしれません。知識は得たいけれども、信じようとは思わない。聖書の話を聞いて、自分の人生に役立つような教えを学びたいとは思うけれども、何かを命令されてそれに従うというのはご免だ、と思っているかもしれません。あるいは、喜んで従いたいと思って返事したのだけれども、急な用事が入って結局実行できませんでしたということもあるでしょう。本当は、神さまの招きに答えて、真剣に礼拝生活を守りたいと思う、けれども、この世の付き合いも大事で、日曜日にも仕事が入るのです。更には、神さまの呼びかけには答えたいけれども、あの人とは一緒に働く気にはならない。あの人がいる間は、私は出かけていきません。いろいろな言い方で、さまざまな言い訳をしながら、結局のところ、神の招きを拒絶しているのです。あからさまに拒絶した方が、まだ正直だとも言えます。しかし、いずれにしても、この二人の息子には、それぞれに、父の望みに逆らう思いが働いているのです。
罪の姿
確かに、どちらかと問われれば、後から考えを変えて、実際にぶどう園に出かけていった息子の方が、父親の望みに従ったということになります。しかし、物語の枠組みを越えて考えますと、一番望ましいのは、父からぶどう園へ行って働くようにと求められたとき、「はい、承知しました」と答えて、実際に喜んで出かけていくことではないでしょうか。主イエスはここで、私たちの現実を離れて、理想的な話をしておられません。主イエスこそ私たちの現実の姿をよく御存知のお方です。そして人間の本質を鋭く見抜いておられます。それは私たち人間の罪の現実を鋭く見抜いておられるということです。私たち人間の心の奥底にある、父である神に対する反抗心を見抜いておられるのです。あからさまであれ、隠された形、どんな形であれ、私たちの中には、父である神に逆らう力が働いているのです。何か道徳的な欠点があるとか、性格的に問題があるというようなことではありません。ましてや、社会的に過ちを犯しているということでもない。そうではなくて、この父のために働くように、この父と共に生きるようにと招かれているにもかかわらず、その招きを拒絶すること、それが罪なのです。この父を自らの父と認めずに、自分の思いで生きること。あるいは、この父親の望みどおりにではなく、自分の望みどおりに生きようとすること罪なのです。
父なる神様の望み
父親の望みは何だったでしょうか。それは私たちが、父のぶどう園に行って、この父と共に働くことです。二人の息子の中には、この父の望みに逆らう思いがありました。ところが、兄の方は、後で考え直して、ぶどう園に出かけていった、と言われています。一体何によって、その変化が引き起こされたのでしょうか。たとえ話自身の中には、その理由は何も記されていません。兄息子が考え直し、心を変えることができたのは、もう一人の息子に出会ったからに違いないのです。洗礼者ヨハネが証しした人、たとえ話には登場していないもう一人の息子、いや、このたとえ話を語っておられる方ご自身です。この息子こそは、父である神の望みを完全に担われた方です。父は、この息子に、ぶどう園に行くように求められました。この息子は、父の望みに従って、神のぶどう園にやって来られました。神のぶどう園である神の民のところにやって来られたのです。父の望みを果たすためです。造り主であり父である御自身のもとから迷い出て、反抗している子どもたちを、もう一度、神のぶどう園で共に働く者として招くために、神は独り子である主イエスを遣わされたのです。聖書は、この方について証しして言います。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(フィリピの信徒への手紙第2章6-8節」。この御子の従順によって、神の望みが貫かれました。私たちが罪の中に滅びていくことをよしとせず、私たちを真の命の中に取り戻そうと願われた、その切なる神の望みが、御子イエスによって成し遂げられたのです。
今日
父の招きを拒絶していた兄息子は、ヨハネに出会いました。ヨハネが指し示す義の道を信じました。父である神のもとへと至る、まことの命の道であるイエス・キリストを信じました。反抗を重ねるうちに、神のぶどう園へと至る道筋さえ分からなくなっていたのかもしれません。罪の茨が道を阻んで、行きたくても行けない状態だったのかもしれません。しかし、御子イエスは、私たちのために、ぶどう園へと続く道を切り開いてくださいました。主イエスは私たちが、ぶどう園において、神の御業のために共に働き、その収穫を共に喜ぶ者となるようにして下さいました。そして、私たちが神に喜ばれる者となるように、御子イエスは救いの道を開いてくださったのです。この御子イエスのもとに共に集うとき、私たちは改めて、父である神が私たちに望んでおられること示されます。それは、私たちが救われること、私たちがまことの幸いを得ることです。頑な思いを捨て去り、神の愛を素直に受け止め、その愛の中に留まる。そして、神の独り子であるイエス・キリストを信じて、キリストと一つに結ばれるとき、私たちは、はばかることなく、御子に結ばれた兄弟姉妹として、神を父と呼ぶことができるのです。私たちも、このもう一人の息子、いや、一番初めにお生まれになった御子に出会うとき、考え直すことができます。心を改めることができます。それは、明日ではありません。そのうちいつかでもありません。父は言われます。「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」。私たちは今日、この時、神様に招かれているのです。