夕礼拝

何を恐れ、どこに立つのか

「何を恐れ、どこに立つのか」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:マラキ書 第3章19-24節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第6章14-29節
・ 讃美歌:203 、521

<恐れるべき相手>  
 先ほど読まれた旧約聖書のマラキ書には「わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。」とありました。天地の造り主である、神を畏れ敬うこと。それは、神に造られたわたしたち人間の、本来の自然な姿であり、神さまと人間との正しい関係です。
 わたしたちが神に向かい、神にすべてを求め、神からすべてを与えられて生きる時、わたしたちは神への感謝、喜びと共に、他の人々とも、共に神の前に立ち、共に生かされている者として、本当のよい関係を築いていくことが出来ます。  

 しかし、今日の新約聖書のところでは、神を畏れるのではなく、人の目を恐れた「ヘロデ」という一人の権力者の罪の姿が語られています。  
 彼は本当に恐れるべきものに気付きながら、人の目、人の評価の方を重んじました。彼は喜んで聞いていた神の御言葉に耳を閉ざし、自分の心を偽り、洗礼者ヨハネを殺して、人に気に入られ、自分の立場を守ることを優先しました。  
 ヘロデは、途中で「王」と書かれていますが、実際にはローマの領地の一部を預かっている「領主」に過ぎません。しかし、彼は人々を支配し、また自分の判断で命を奪うことも出来てしまう、そのような権力を持っていたことは事実です。その力で、ヘロデは神に遣わされた人、洗礼者ヨハネを殺してしまったのです。  

 今日の箇所の直前の6~13節には、主イエスが弟子たちを派遣したことが語られていました。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」との救いの知らせを告げるためです。人が支配する世に、主イエスによって実現する「神のご支配」「神の国」が告げられ、悔い改めて信じなさいと、招きの言葉が響きます。
 しかし今日の箇所では、その神の招きを前にしながら、人の目を恐れて神に背く、そんな人間の罪の深刻さが、ヘロデの姿を通して語られています。
 そして、わたしたちに、あなたはどうなのかと、問いかけてくるのです。

 わたしたちも、世の中で生きるにあたって、人間関係や、立場における上下関係や、社会での自分の位置など、様々な人と相対しています。実際、周囲の人々と上手くやっていくことは、とても大事なことですし、ある程度、人の目を気にすることが必要な時もあります。人の目なんか気にしなくていい、何でも自分のやりたいように、思った通りにすればいい、という訳にはいかないこともあるのです。

 でも、聖書がここで問うているのは、何よりもまず「常に神の御前に立っているか」「神を畏れているか」ということです。人の目を気にして、神の存在を忘れてはいけないのです。いつもわたしに向けられている神の眼差しを、軽んじてしまったり、神よりも人の方を恐れてはいけないのです。
 どのような時にも、まず第一に従うべき方は神です。自分を神さまより上にしたり、人を神さまより恐れたりしないこと。ただお一人の神のみを神とすること。その神さまとの正しい関係の中でこそ、わたしたちは周囲の人々や隣人とも、神の御前で、共に正しい関係を築いて生きていくことが出来るからです。
 でも、わたしたちの弱さ、罪深さのために、わたしたちは神を神とする、という当たり前で最も大切なことを、中々出来ないでいるのです。  

 さて、ヘロデの物語ですが、マルコ福音書では、ヘロデの心の動きが丁寧に語られています。ヘロデは自分の思いに反して、残酷な仕方で洗礼者ヨハネを殺してしまうのですが、一方でわたしたちは、そうしてしまったヘロデの思いや弱さに共感できると思います。
 それは、ヘロデの罪の姿は、決して他人事ではないということなのです。

<イエスとは誰か>  
 物語は、主イエスの名がヘロデ王の耳に入ったことから始まります。主イエスの名は評判になって知れ渡り、「この権威ある教えを語り、奇跡や癒しの業を行なう人物は、いったいどういう者なのだろう、どなたなのだろう」と人々が噂をしていたのです。  
 ある人は、「エリヤだ」とか「預言者だ」とか言いましたが、その中でもヘロデに恐怖を覚えさせたのが、14節にあるように「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行なう力が彼に働いている」という人がいたことです。  

 洗礼者ヨハネは、マルコ福音書1章で最初に登場した人物です。ヨハネは、旧約聖書で神が約束された救い主を指し示す者として、世に遣わされました。そして、ヨハネは、主イエスこそ、神が約束しておられた救い主である、と証しをしたのです。  

 そのヨハネが、ここでヘロデ王によって既に殺されていたことが判明します。ヘロデが首をはねたのです。  
 ところが、しばらくして、イエスという力ある人の名が噂にのぼり、それは、あのヨハネが死者の中から生き返ったのだ、と言う人がいる。ヘロデは、きっとその通りだ、と思いました。「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」。それは、ヘロデにとって背筋も凍るような思いだったのではないでしょうか。

<ヘロデの戸惑いと喜び>  
 17節以下に、その出来事を回顧するように、何が起こったのかが語られています。
 ヘロデは、ヨハネを捕えて牢に繋いでいました。それは、ヘロデが自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚したことを、ヨハネが非難したからです。ヨハネは「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と言いました。
 ヨハネの指摘は正しいことです。しかし捕えて牢に繋いだのは、ヘロデとヘロディアにとって、権力者を恐れずモノを言い、自分たちのことを非難してくるヨハネが邪魔だったからにほかなりません。特に、妻のヘロディアはヨハネを恨み、殺したがっていました。しかし、なかなか殺すことができなかったのです。

 その理由は、とても興味深いものです。20節で、それは、ヘロデがヨハネを正しい聖なる人であることを知ったからだ、と言います。そして、ヘロデは彼を恐れ、保護していたのです。一人の王が、自分が牢に繋いだ一人の囚人を恐れ、保護するとは、どういう訳でしょうか。
 それは、ヨハネが神に遣わされた人であったからです。ヘロデが感じていたヨハネへの恐れは、ヨハネが語る神への恐れの表れです。

 ヘロデは、ヨハネが語る教えを聞いて、非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた、とあります。
 ヨハネは、何を教えていたでしょうか。それは、神の御前に立ち、あなたの罪を悔い改めなさい、神のもとに立ち帰りなさい、ということでしょう。
 ヨハネは、ヘロデをバッシングして失脚させたかったのではありません。神の愛を、ヘロデに伝えようとしたのです。もしヘロデのことがどうでもよければ、神に背く罪をそのままにしておいて、ヘロデが勝手に滅びていくのを放置しておけば良いのです。
 でもヨハネは、そうしませんでした。時の権力者であるヘロデとヘロディアの罪を指摘することで、自分の立場が危うくなるのは明らかでしたし、実際に捕まって牢に閉じ込められてしまいました。それでもヨハネは、ヘロデに罪を悔い改めて神に立ち帰るべきこと、ヘロデが神を知り、神に従う者となることを、神ご自身が望んでおられる、ということを語らずにはおれなかったのです。
 ヨハネは、ヘロデを思い、神の御心を思い、神の言葉を語りかけていたのです。

 神に従うヨハネにとって、ヘロデは導くべき人物でしたが、恐れるべき人物ではありませんでした。世間では、ヘロデの機嫌を損ねては大変だと、ヘロデを恐れ、彼におもねる人々も多かったでしょう。しかし、ヨハネが恐れているのは神お一人でした。
 ヨハネは、神こそが愛をもって世界をお造りになり、世も、人も、天も、地も、すべてを恵みをもって支配なさる方だと知っています。だからこそ、ヘロデが気に入らないことを語ることも、牢に入れられることも恐れなかったのです。ヨハネは、ヘロデが神の愛に応えることを願った。それが、神の望んでおられることだったからです。最も恐れるべき方である神の御心を、自分の第一のこととすることが出来たのです。

 これは一方で、わたしたちにも、あなたはこれほどに神を畏れているか、神を第一としているか、ということを問いかけます。
 わたしたちは、目の前にいる人がどう思うか、どう感じるかと考える以上に、そこに共におられる神が何を望んでおられるかを、考えているでしょうか。目に見える目の前の人物よりも、目に見えない、天におられる神をしっかりと見つめ、この方の思いにこそ従うことを願っているでしょうか。

 ただ神のみを恐れるこのヨハネの姿は、ヘロデにも、ヨハネに対する恐れ、ひいては、そのヨハネを遣わしておられる神への恐れを抱かせました。
 ヘロデは感じたのです。自分はヨハネの命を握っているのに、ヨハネは自分のことなど、何も恐れていない。自分よりももっと偉大で、遥かに大きな権威を持つ方を恐れ、その方に信頼し、その方のことを語っている。自分の持っているものが何も通用しない、確かな存在がヨハネと共にある。それはヘロデにとって大きな戸惑いでした。

 さらにそれは、ヘロデに不思議な思いを抱かせました。権力者の自分に、誰も好き勝手言うことが出来ない中で、一人の若い青年が自分の罪を堂々と指摘して来る。自分の痛いところを突いてきて、うるさいし、生意気だし、面倒で仕方ない。邪魔なら消すこともできる。でもなぜか、心の奥底に喜びを感じる。教えを聞いて嬉しく思う。もっとヨハネの語ること、神の言葉を聞きたいと思う。
 ヘロデは「非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」と聖書は語ります。

 それは、まさにヨハネを通して、神御自身がヘロデに語りかけ、悔い改めを迫り、神を畏れて生きるように、神の恵みと愛を知る者となるようにと、招いておられたからです。
 神の御言葉によって、人は自分の罪の姿を突き付けられます。しかし同時に、そんな自分を、神が見つめていて下さっていること。神が自分を愛し、神の方に心を向けるのを待って下さっている、という根本的な喜びを知らされるのです。

<ヨハネの処刑>  
 ところが、ヘロディアに、ヨハネを殺すチャンスがやってきました。この場面は、「サロメ」という戯曲でよく知られているかも知れません。
 ヘロデの誕生日に、高官や将校、ガリラヤ、つまりヘロデが治めている領地の有力者などを招いて、盛大な宴会が催されました。そこにヘロディアの娘、これが戯曲だと「サロメ」という名の少女なのですが、この娘が踊りをおどって、ヘロデや客を喜ばせたのです。
 高貴な身分の娘が人前で踊るというのは、通常では考えられないことでした。この時代、東洋では、宴会で踊るのは、遊女か女奴隷のすることです。このことから、兄弟の妻と結婚したヘロデをはじめ、ヘロデ王家の道徳的な退廃や、男女関係の乱れを見ることが出来ます。

 さて、ヘロデは少女の踊りがたいそう気に入ったので、「欲しいもがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と言って、固く誓ってしまいました。
 少女は母親のヘロディアに相談しに行きました。そこでヘロディアは「洗礼者ヨハネの首を」望むようにと入れ知恵したのです。少女は大急ぎでヘロデ王のところへ行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願いました。
 ヘロデ王はその願いを聞き入れ、ヨハネの首を刎ねさせ、盆に載せて少女に渡し、少女はそれを母ヘロディアに渡しました。こうして、洗礼者ヨハネは処刑されてしまったのです。

<ヘロデの心>  
 ここで、少女がヘロデ王にヨハネの首を望んだ時、26節に「王は非常に心を痛めた」とありました。ヘロデは、ヨハネを殺したくなかったのです。ヘロデは、ヨハネが正しい聖なる人であることを知っていました。ヨハネを恐れていました。ヨハネの教えを、当惑しながらも喜んで耳を傾けていました。彼が語る神の言葉に、心惹かれていたのです。  

 しかし、ヘロデは有力者たちの前で、少女の願いを何でも聞くと、固く誓ってしまいました。安易に口にしたとはいえ、力のある人々に、口先だけの軽い奴だ、約束を守れないやつだ、と思われては困ります。自分の評価が下がり、立場を悪くするかも知れません。
 また「客の手前」、少女の願いを退けたくなかった、とあります。誓いまで立てたのに、それを破った上に、小さな少女の願いさえ聞くことが出来ないなど、王として大変格好悪いことです。ここは見栄を張って、どんな願いでもきいてみせ、さすがは王であると、客に一目置かれたい。評判を落としたくない。
 ヘロデは、このように自分の保身を考え、見栄を張り、人の評価を気にするあまり、自分の心まで偽って、ヨハネの首を落としたのです。喜びを感じていた神の言葉に耳を塞ぎ、神に対して目を背けたのです。

 このヘロデの生き方は、ヨハネと全く対照的です。神のみを恐れ、人を恐れず、御言葉を語り続けたヨハネと、人の目や評価を恐れ、神を心の外へ追いやり、自分の心も曲げたヘロデ。
 ヘロデの姿に、御言葉に心を動かされ、救いへの招きに喜びながらも、神の御心に逆らってしまう人間の弱さ、罪の深刻さを思わされます。神から顔をそむけ、神との関係を拒否することは、人間関係にも破壊をもたらし、自分自身でもどうすることも出来ないような悲惨な状態へ陥ってしまうのです。

 さて、首を落とされたヨハネの遺体は、その弟子たちが引き取り、墓に納めました。
 それから少しして、主イエスの噂がヘロデの耳に入ってきます。神の国の福音と、悔い改めを教えているイエスという人がいる。奇跡を行なっている。あれはだれだ。どういう人なのだ。洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのではないか。
 ヘロデは思いました。そうに違いない。やはり、恐れるべき人物だった。神に選ばれた、正しい聖なる人だった。ヨハネを殺したのに、また同じ言葉が聞えてくる。悔い改めなさい、神に立ち帰りなさいと、また神の言葉が語りかけてくる。
 ヘロデは、恐ろしかったに違いありませんが、同時に、かつて御言葉に心を捕えられた時の喜びを思い起こさせられたのではないでしょうか。そして、その御言葉を無視した、さらに深い自分の罪の姿を突き付けられたのです。
 ヨハネを殺しても、神の言葉は生きていました。そして、ヨハネが指し示した主イエスによって、ますます確かに、ますます力強く、神の言葉はヘロデに再び語りかけて来たのです。

<神の子イエス・キリスト>
 さて、ここに語られてきた洗礼者ヨハネの歩みは、この後の主イエスのご受難の歩みを予告するかのようです。正しい聖なる人であるヨハネが、時の権力者ヘロデによって処刑され、墓に葬られる様は、神の子であり、まったく正しい方でありながら、人々の妬みによって、罪によって、ローマの権力者ピラトの許で十字架に架けられて死に、墓に葬られた主イエスのお姿を映し出しています。

 しかし、主イエスがヨハネと違うところは、この方こそ神の子、救い主であったということです。ヨハネは死者の中から生き返ったと人々が噂しましたが、実際には生き返ったのではありませんでした。
 しかし、神の子である主イエスは、墓の中から、確かに復活させられたのです。
 主イエスは、神に遣わされた救い主です。この方は、罪と死の力を打ち破られます。神の言葉を聞きながらも、神に背き、自分の思いも捕らわれ、人との関係を破壊し、殺すことまでしてしまう、わたしたちが自分ではもはやどうしようもない罪の鎖を、この方だけが絶ち切ることがお出来になります。この方だけが、まことの王となり、わたしたちを罪の支配の中から、神のご支配の中へと移して下さることがお出来になるのです。

 しかも主イエスが王として治められるその神のご支配は、この世の王の権力や暴力による支配とは全く違った仕方で実現します。それは、王である方が、わたしたちを愛し抜き、神に従順に従い抜き、十字架に架かってご自分の命を投げ出されるという仕方によって、打ち立てて下さるご支配なのです。
 ヨハネは罪を告白し、悔い改めるようにと語りましたが、今や、復活の主イエスが語って下さるのは、罪の赦しの宣言です。わたしの十字架の死と復活によって、あなたが赦されたことを信じなさい。神の愛を受け入れないさいと、招かれているのです。

 わたしたちもヘロデと同じです。福音への招きを聞きながら、神の御言葉を聞いて喜びながら、素直に神に立ち帰ることができず、まことの神を恐れないで、世の力に流されてしまう。人の方を恐れて、神の御言葉に耳を塞いでしまう。そんな罪の歩みを繰り返しています。
 しかしそこに、復活の主が、生ける神の言葉が、繰り返し語りかけてくるのです。

 わたしたちは、この救い主であり、生きておられる主イエスの御前に立っています。背いても、離れても、いつも神の愛の眼差しの中にあり、帰って来るようにと何度も何度も語りかけられています。そのことを覚え、ただ神のみを恐れて、神の愛に応えて歩む者でありたいのです。

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