主日礼拝

キリストの愛の広さ

「キリストの愛の広さ」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第36編6-10節
・ 新約聖書: エフェソの信徒への手紙 第3章14―21節  
・ 讃美歌:237、442、241

手紙と祈り
 エフェソの信徒への手紙は第3章で一つの区切りとなっております。これまでの1章から3章までという前半の部分では、信仰の教え、教理的な内容でした。そして、これ以降の後半では、実践的な勧めへと入って行きます。前半部分の終わりの箇所が本日の箇所です。本日の箇所には、執り成しの祈りがあります。  私が主日礼拝を担当します時は、ご一緒にエフェソの信徒への手紙を読み進めておりますが、このエフェソの信徒への手紙では、2箇所で、使徒パウロは自分の祈りを記しています。1つ目は、第1章15節から23節です。もう1箇所が本日の箇所である、第3章14節から21節です。この箇所をもって、この手紙の前半の部分は終わります。前回、ご一緒にエフェソの信徒への手紙を読んだのは2ヶ月前ですが、その際は3章の1節から13節を読みました。エフェソの信徒への手紙での2回目のパウロの祈りとは、実は第3章1節から始まっています。この3章1節からパウロは祈りを記そうとしていますが、それを1度止めています。そして、祈りの続きを記すのではなく、キリスト・イエスの囚人となって、福音に仕える自分の歩みに言及しています。本日の箇所では、パウロは一度書くのを中断した祈りを、改めて記しています。本日の箇所はパウロの執り成しの「祈り」と祈りを締めくくる「神様への賛美」が中心的な内容です。  私たちは本日、アドヴェント第3の主の日を迎えております。アドヴェントは主イエス・キリストがお生まれになったクリスマスを待ち望む期間です。クリスマスは救い主イエス・キリストがこの世界にお生まれになったこと喜び祝う時です。主イエス・キリストを与えられた神様を、ほめたたえる、賛美のときです。本日の箇所もまた、使徒パウロが神様の御業を賛美しています。

ひざまずいて祈る
 本日の箇所はまずパウロの祈りですが、14、15節はこうなっております。「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。」(14-15節)この祈りが19節まで続きます。14節に「わたしは御父の前にひざまずいて」とあります。祈るときにひざまずく習慣というのは、一般的にユダヤ教にも、始めの頃のキリスト教会にもなかったと言われております。普通は「ひざまずく」のはではなく、立って祈っていたようです。ですので、ここで「ひざまずく」という言葉が使われているのは、パウロの口から自然に口出たのでしょうが、この意味は神様への深い畏れの念がパウロを襲ったことを推察させます。パウロはここで神様の前にあることの真実の畏れ、畏敬を表しています。この神様以外の何者も、自分の心を支配していないということ、これが祈りの基本の姿勢です。ここでパウロは祈ります。そして、エフェソの人々は祈られているのです。祈りを通して、神様の恵みが示されます。実際に、私たちも自分が祈られていることを知ることによって、私たちが神の恵みを身近に感じるのではないでしょうか。

祈り
 パウロは人のために祈るだけではありませんでした。エフェソの信徒への手紙の第6章18節以下で、パウロはこのように書いています。「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。」(6章18節)パウロはここで、「わたしのためにも祈ってください」と素直に願い求めています。パウロは祈りの力を知っていました。そして、パウロは今エフェソの教会の人々のために祈っています。パウロが祈りの言葉を向けた父なる神について、15節では、「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。」と説明がついています。ここにあります「すべての家族」と記されている言葉は「すべての種族」とも訳せます。口語訳聖書では「天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。」となっています。これらの意味は、祈りの言葉を向けた父なる神様、私たちの神様は、この地上で、あるいは天上でもあらゆるものの源と呼ばれているお方です。それが何であれ、それらに名を与え、その存在を許している神様、そのようなあらゆるものの本当の源である神様ということです。そして、私たちの信じる神様であるということです。

内なる人
 本日の箇所で、パウロの祈りは大きく2つに分けることができます。1つ目は16節から17節です。もう1つは18節から19節です。16節から17節をお読みします。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(16-17節)これが1つ目の祈りです。パウロはエフェソの人々がどのようであって欲しいか、祈っているのでしょうか。まず「御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて」とあります。また「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」とあります。信仰において、私たちの心がその深いところまでキリストにより支配され、霊の力によって私たちの「内なる人」が強められるということです。そのために、パウロは執り成しの祈りをささげています。ここで「内なる人」と言う言葉は出てきますが、「内なる人」とはどういう意味でしょうか。いわゆる精神面、内的に強くなる、ということ指していることではありません。
コリントの信徒への手紙二の第4章16節に、次のような言葉があります。「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」。「内なる人」とは、根底から新しくされた人、信仰によって新しくされたキリスト者としての私たちのことです。根底から新しくされたキリスト者が神様によって、またその聖霊によって力を与えられ、力強くされるようにと、パウロは祈っているのです。「信仰によって心の内にキリストを住まわせる」こと、「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者」となることと結びついています。神様の霊、聖霊が働きかけられて、力を与えられ、心の向きを変えて、新しい生き方へ変えられていくようにと祈っているのです。  私たちの心に内に主イエス・キリストが住まわれ、霊によって心が強くされるということです。聖霊によって私たちの心の内に信仰を起こしてくださいます。私たちが自分の世界にのみ閉じこもることではありません。心の向きを変え、心を開いて、神様を証しし、互いに愛し合い、神に仕えるということです。

神の豊かさに満たされるように
 二つ目の祈りは18節から19節です。「また、あなたがたすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(18~19節)  先ほどの16節から17節の1つ目の祈りでは、「内なる人」が強められることが、祈られていました。18節から19節では、エフェソの人々が、従って私たちが理解し、知ることができるようにと祈られています。では、何を理解し、知るべきなのでしょうか。それは「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」を理解し、「人の知識をはるかに超えるこの愛」を知るようにということです。この「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」という言葉は元の言葉は単に「その広さ、長さ、高さ、深さ」という意味です。また「人の知識をはるかに超えるこの愛」は元の文でははっきり「キリストの愛」となっています。以前の口語訳聖書では、この部分は「すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」となっています。現在、私たちが用いている新共同訳聖書では、19節の「キリストの愛」が人知をはるかに超えていることから、逆に18節に戻って、「広さ、長さ、高さ、深さ」は、このキリストの愛の限りない大きさを表現しているものだと理解したのではないかと思います。それでは、先ほどの口語訳の「その広さ、長さ、」の「その」とは何か、あえて特定するのであれば、主イエス・キリストの救いの出来事です。「広さ、長さ、高さ、深さ」とは元々は宇宙空間の究めがたい広がりを表す表現であって、それを主イエス・キリストによる救いの出来事、人間には究めがたい救いの御業を表す表現として用いたのです。従って、それを「理解する」というのも、もとの言葉の意味がそうなのですが、悟る、つかむ、という意味になります。主イエス・キリストの救いの秘儀を悟るということです。キリストの愛を知るということも、それと同じです。「人の知識をはるかに超えるキリストの愛を知る。」つまり、この「知る」も、私たちの知ることをはるかに超えていることを知るということです。私たちには究めがたいものをすべて理解し、知り尽くすなどということは、そもそも出来ません。キリストの救いの秘儀にしても、キリストの愛にしても、実際、私たちの知る力をはるかに超えたことです。知り尽くすということはできないのです。したがって、それを「理解」する、それを「知る」ということは、私たち人間の知的な能力を駆使して可能になることではありません。それは、人間の能力や、人間のあらゆる業によって理解する、また知ることではないということです。では、何によるのか。19節にありますように「神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされる」ということです。神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかることによって、示されるのです。それは個人の生活だけではなく、教会において起こることです。それは「すべての聖徒たちと共に」悟り、知るということにおいて表されています。これがパウロの2つめの祈りであり、エフェソの人々の目指すべき目標でした。

栄光をたたえる
 本日の箇所、第3章14節から21節は手紙の前半をしめくくる箇所と申しました。20節から21節は、それをはっきりと示しています。「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりするすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、またキリスト・イエスによって、栄光が代々限りなくありますように、アーメン。(20-21節)パウロのこの箇所の祈りは、神の栄光をたたえることで終わっています。主の祈りもまた、最後は神の栄光をたたえることで終わっています。祈りとは、最後に神を賛美し、その栄光をたたえるのです。私たちの祈る、祈りとは、言うならばキリスト教の祈りとは、自分の願いや思いを神様に押し通すことでないということです。自分の願いのために、自分の力だけでは不安だから、神様の力を借りて、実現しょうとするものではありません。私たちの祈りというのは、時としてこのような祈りになってしまうでしょう。けれども、どのような人間の願い、祈りであれ、それを実現してくださるのは神様です。また、実現なさらないのも神様です。神様がその御心によって決められるのです。神様の御心であられるのであれば、そうしてくださるのなら、そうなるのです。20節には、「わたしたちが求めたり思ったりすることすべてを」かなえることのおできになる方とあります。実現なさるのは神なのです。  また祈りが、栄光をたたえることで終わらなければならないのは、同じく20節にありますように、神様は、私たちの願いを「はるかに超えて」かなえることのおできになるお方だからです。その意味で、私たちはここで、主イエスのゲッセマネの園の祈りを、思い起こしてみたいと思います。主イエスの祈られた祈りです。そのゲッセマネでの祈りは、十字架の死の苦い、杯を取り去ってくださいという祈りでした。しかし、それは主イエスの祈りの最後の言葉ではありません。主イエスの祈りの最後は「御心に適うことが行われますように。」というものでした。主イエスはここで、はるかに超えて叶えてくださる神様に主はすべてを委ねております。神の独り子である主イエスご自身がすべてを父なる神に委ねておられるのです。自分の都合、願いではなく、ただ神の御心がなることを祈られています。  宗教改革者カルヴァンの「ジュネーブ教会信仰問答」という改革派・長老派の教会の伝統に生きる私たちにとって、大切な信仰の遺産があります。信仰問答の問一は、「人生の主な目的は何ですか。」と尋ね、「神を知ることです。」と答えます。問三で、「人生の最上の幸福は何ですか。」と問うて、「それも同じです。」つまり「神を知ることです。」と答えるのです。この「神を知る」というのは、神様がいるとかいないとか、そんなことを知ることではなくて、神様をほめたたえる、そういうあり方で知るということです。私たちは、神様をほめたたえるというあり方で神様を知る、その為に神様に造られた、だからそれが私たちの人生の目的となり、最高の幸せとなるのです。神の栄光を表わすことこそが人間の創造された目的です。それは言い換えますと私たちの人生の目的は「神の栄光を讃える」ということです。神が私たち一人ひとりに与えて下さった、私たちの人生の目的です。このことは既にこの手紙の第1章でも見てきました。本日の箇所でも改めて思い起こさせられます。神様の栄光がなるように、これが私たちの祈りであり、教会の祈りなのです。

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