夕礼拝

救いを必要とするのは

「救いを必要とするのは」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編第32編1-11節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第9章9-13節
・ 讃美歌:220、521

 「立ち上がりなさい、そしてその場所から足を踏み出しなさい。わたしの方に来なさい。そしてわたしに従いなさい。」イエス様は今日私たちに言われます。イエス様は罪のただ中からわたしたちを救うために、近づいてきてくださいます。そして、御自身の言葉をもって、わたしたちの罪深さや越えて、また逆に清さや正しさなどをも越えて、わたしたちを招き、救いへと導いてくださります。今日イエス様は、わたしたちが立ち上がること、同時にわたしたちが自分の場所から飛び出すこと、そしてわたしたちがイエス様と共に生きること、イエス様と共にある喜びに生きることを求めておられます。

 本日共に聞きました御言葉の最初の節の9節は、とても短い文の中に、とてつもなく大きな憐れみとイエス様の力強さが書かれています。この9節に登場するのは、イエス様と徴税人のマタイです。徴税人とは、税金を国に代わって取り立てる者のことです。当時のユダヤ社会では、徴税人の務めに就いている者は、嫌われていました。当時のユダヤの国はローマ帝国の属国でした。このローマ帝国への税金を、ローマの支配者たちは、ローマ人に任せるのではなく、現地の者、つまりユダヤ人に徴税の仕事を任せていました。なぜそうしたのかといえば、属国の人に税金徴収の役を任せることで、自分たちが反感を買うことなく確実に税金を得ることができるからでした。支配しているローマ人が直接税金を徴収すれば、ローマ人が反感を買ってしまいます。だから、ユダヤ人を用いたのです。ユダヤ人に徴税する権利だけを与えて、どのようにして税金を徴収するは、ローマは指示したりしませんでした。ですから、徴税する権利を与えられた人は、どんな集め方をしても良く、またどのくらいの額を徴税するかも決めることができました。ですから、多くの徴税人は、ローマが求めていた以上に税金を徴収し、ローマ帝国の定めた額からはみ出していた額を、自分のものにして、私服を肥やすということをしていたのです。つまり、権利を用いて、堂々と同胞の富を盗んでいたということです。敵であったローマ帝国の手先になり、その権威を借りて、同胞から盗み、苦しめる。「あなたは盗んではならない」「あなたは隣人の家を貪ってはならない」の十戒から見ても、明らかに罪を犯しており、また隣人を愛することなく傷つけている、神様を忘れて、ローマ帝国に仕え、その権威を使って自分の思い通りに生きるという罪が明らかとなっている者、それが徴税人だったのです。10節、11節で「徴税人と罪人」という言葉がセットになって出てきますが、これは当時の徴税人理解がここに表わされているのです。徴税人は罪人と同じであるということです。神の民のものを盗み、神の民を苦しめる、神の民を裏切るもの、そのような徴税人は罪人であるとされていて、神の民の中にはいれられないものでした。

 このマタイも、そのような徴税人の一人でした。ですから、このマタイも罪人だったのです。このマタイは、収税所にいました。この収税所という場所は、まさにこの男が、同胞の富を、つまり隣人の富を盗むという罪を犯している場所であり、まさにその罪のただ中にいたということが示されています。さらにこのマタイは、その収税所に「座っていた」とあります。つまり、マタイがこの罪の中に、どっぷりと浸かっていた。しっかり腰をおろしていたということが示されています。収税所にいたということは、税金を徴収するということを、その時マタイは行っていたということです。その罪を犯している真っ最中に、イエス様がそこを通りがかったのです。そして、そのマタイの姿を「見かけた」と聖書は書いております。「見かけた」とありますが、この言葉はただ「見た」という意味ですから、通りがかりに、マタイを「見つめた」と訳すこともできます。この箇所は、イエス様がたまたま「見かけた」ということではなく、罪を犯して罪の真っ最中にいるマタイを「見つけ」そして「見つめた」ということでしょう。このイエス様の発見と、眼差しから、マタイの救いが始まるのです。しかし、これはマタイだけに限った話ではありません。わたしたちにも言えることです。ある人は、この箇所を、「収税所に座っている人間を見た。彼はマタイと言った」と訳しています。つまり、ここで、イエス様は、マタイという人を見たというのではなく。「人間を見つめていた」のです。収税所に座っている人間。それは罪の中で留まっている人間ということです。神様を忘れ、隣人を傷つけ、自分のためだけに生きてしまっている。そのような状態に陥らせた罪の中にある人を、イエス様は見つめられておられるのです。わたしたちも、マタイとは形は違っても、同じように罪の中に留まっているもの、罪の支配から抜け切れないものです。私たちも、それぞれ、自分の収税所に座っている者です。自分の罪の中に座り込み、立ち上がることができずにいる者です。そのわたしたちの、代わり身と言いますか、代表として、この場所ではマタイが取り上げられているのです。

 そのマタイに、イエス様は「わたしに従いなさい」と一言声をかけられました。見つめられ、声をかけられた。ただこれだけのことしか、この福音書は語りません。さらに、その応答として、マタイが返事をしたということも、何も書かず、ただ「彼は立ち上がって」「従った」としか書かれておりません。この9節は、とてもシンプルに描かれています。イエス様が徴税人マタイを見て、「わたしに従いなさい」と言って、そしてマタイが立ち上がってイエス様に従う。ただそれだけを伝えています。徴税人のマタイがどのような思いで、収税所に座っていたかなどは、語ることをしていないですし、また徴税人マタイが、自分の罪を嘆き、悔い改めたいというような敬虔な思いになっていたなどとも書いていません。また逆に、神様を忘れきって、同胞の富を奪おうと企み、自分の私腹を肥やして、満足していたなどとも語っていません。この福音書の著者は、その事柄に関心がないということではなく、マタイの心情を描かないことで、マタイがその収税所でどのような心情であっても、マタイが罪に心が支配されていたとしても、罪を悔いて反省していたとしても、マタイのその特殊な状態が、イエス様の言葉を引き出したのではなく、イエス様が見つめられて、憐れんで下さり、御言葉をかけてくださったことが、重要であるということを伝えたかったのです。イエス様は、マタイが罪のただ中にあるということを知ってくださった、そして、声をかけて、そこから立ち上がらせ、罪をお赦しになり、自分と共に歩むものにしてくださったのです。

 ここから、わたしたちはあることに気付かされます。それは、わたしたちも罪の中にある者であり、そのわたしたちが、罪の中でどのような状態になっていたとしても、イエス様は見つめていてくださり、お声をかけてくださるということです。それは、わたしたちが、罪を悔いていなければ、イエス様は見つめてもくださらず声もかけてくださらないということではないということを意味しています。何もわからない時、ただ罪に心を支配されて、自分中心になってしまっている時でも、イエス様は見つめていてくださり、お声をかけて、ご自分のもとに、引き寄せてくださる。立ち帰らせ、引き戻してくださるということです。

 徴税人マタイは、自分がどれほどの罪の中にいたかを、自覚していたのか、していないのかはわかりませんが、マタイはイエス様に「わたしに従いなさい」と言われ、その収税所という罪の真っ只中から離れ、イエス様に従って歩み始めました。このイエス様の「わたしに従いなさい」という言葉が、マタイを動かしたのです。それまでに、マタイがどれほど、自分の罪を認識していたかなどは関係なく、その言葉によって、彼は立ち上がったのです。前回見た中風の人も、寝たきりであったけれども、主イエスよって、立ち上がりました。あの時中風の人はイエス様から「あなたの罪は赦される」宣言されました。そのイエス様の赦しの権威によって中風の人は立ち上がりました。この徴税人マタイに告げられた「わたしに従いなさい」というみ言葉は、あの「あなたの罪は赦される」と言う宣言を含んだ、イエス様の招きの言葉です。徴税人マタイも、イエス様によって罪赦され、さらに従うものとされました。この「わたしに従いなさい」という言葉は、今わたしたちにも語られています。自分の罪のただ中に座り込み、立ち上がることのできない、わたしたちにも、今イエス様はこの言葉を、与えくださっています。この招きを受けたのが、徴税人のマタイだけでなかったことが10節以下で語られています。10節は、いきなりですが、食事の席、宴の席の場面です。イエス様が弟子たちとまた多くの徴税人と罪人と同じ席に座り、食事をしていたことが書かれています。徴税人のマタイだけでなく、その他の同様に罪を犯していた徴税人、また種類が違うが罪を犯していた人々が、イエス様に招かれ、共に食事をしていたのです。この食卓は、緊張感のある食卓ではないと思います。食事をしながら、イエス様はこの徴税人と罪人を叱ったということではないでしょう。あなたがたの罪は赦されている、だから、わたしに従ってきなさいとイエス様は彼らに言ったのです。イエス様は喜ばれたていたと思います。失われた1匹の羊が、見つかり戻ってきたことを喜ぶと、後にイエス様が譬えられるように、神様から離れていた罪人たち、自分から離れていた多くの羊たちが見つかり、戻ってきたのです。放蕩息子で言えば、息子が戻ってきたのです。たくさんの放蕩息子が戻ってきたのです。ですから、あの放蕩息子の譬えにあるように、宴を開き、イエス様は喜ばれていたのだと思います。わたしたちが、イエス様の「わたしに従いなさい」という言葉に受け、立ち上がってイエス様に従うものとなった時、イエス様は喜ばれます。またイエス様だけでなく天におられる父なる神様も、天にいるすべてものも、またわたしたちと共におられる聖霊なる神様も喜ばれます。宴を催してくださる程に、喜んでくださるのです。それほどまでに、わたしたちのことを、愛しておられるのです。どうしたって罪を犯してしまう、どうしようもないわたしたちを、失ってはならない宝のように、無くしたら見つけ出さなければならない尊いもののように、戻ってきたら抱きしめたいと思うほどの「息子」「娘」のように見てくださっているのです。

 この喜びの宴の近くに、イエス様と弟子たちと罪人たち以外のものいました。それは11節に出てくる、ファリサイ派の人々です。彼らは、弟子たちに「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と質問しました。この質問は、批判が含まれた質問です。食事を共にするということは、最も深い交わりを示す印でした。席についているものは、自分の仲間であるということを示すことにもなります。ファリサイ派の人々は、なぜイエス様が徴税人や罪人の仲間になっているのかと思ったのです。さらに喜びの席であったでしょうから、皆が喜んで楽しんで食事をしているのを見て、イエス様が罪人のしていること、徴税人のしていることを、認めて、それらのことを良しとしているのではないかと疑ったのかもしれません。ファリサイ派の人にとって、彼らは受け入れられる者たちではないのです。ファリサイ派の人々にとって彼らは、律法を守らない、神様を無視し、同胞を苦しめる罪人、悪者たちです。その彼らが、赦されて、その席についているということは理解できなかったのです。ファリサイ派の人々は、決して悪者ではありません。むしろ、ある意味信仰に熱心で、真面目な人々です。当時、神の民であるユダヤ人が、ローマ帝国つまり異教の国の支配のもとにある時、神の民の中で、唯一の神に従うということを忘れ、ローマ帝国に従うものが増えて来ていたのです。ローマの徴税人なってみたり、ローマの軍人になってみたりするものが増えていました。そのような中で、神様に対する信仰を保ち、神様へ節操を貫こうとしていたのが、ファリサイ派の人々でした。律法をしっかりも守り、律法に書かれている通りに、生贄も献金も献げる。この身を神様に献げる。そのように、熱心に生きていました。そのように、まじめに生きているものが、イエス様のされていることを理解できなかったのです。そこには、自分たちが神様に忠実に従うことで、清くなっていなければ、神様の民にはなれない、そのようにできていない者たちは、神の民にはなれないのだと思っていたのです。彼らは、この食卓の席にで、イエス様が、この徴税人たちや罪人たちを叱っていて、悔い改めて、しっかりと律法を守りなさい、そうしなければ救われないのだから、しっかりやりなさいと教えられていたのならば、なんで「徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」とは問わなかったでしょう。そうであれば、納得できたのです。しかし、ただ食事を共にされていたこと、さらにはイエス様が怒っているのではなく、喜ばれていたのを見て、理解できなかったのです。イエス様が、その人達を招き、「あなたの罪を赦される」と宣言し、その人たちの仲間になったこと、彼らは受け止められなかったのです。なぜならば、それを受け止めてしまえば、自分たちが今まで熱心に律法を守っていたことは、なんだったのか、無駄だったのではないかと思えてしまうからです。だから、嫌だったのです。なにもしないで、さっきまで、同胞を苦しめていたものが、このイエスという一人の人に「あなたの罪が赦される」と言われ、イエスに従う者になっただけで、赦されるとは思いたくなかったのです。ファリサイ派の人々は、自分たちが熱心に守ってきた律法が自分を救うということよりも、その律法が求める行いをする自分の熱心さや行いが、自分を救うと思っていました。だから、律法違反している彼らが直ちに赦されるということが納得できなかったのです。さらに言えば、そのようにして、赦ししてしまう、イエスという人を受け入れられなかったのです。

 このファリサイ派の人々は、わたしたちとは関係ないかといえば、そうではありません。わたしたちの心の内にこのような思いは、あります。自分はこれだけやってきたのに、自分はこれほどまでに働いてきたのに、それに比べて少ししか、やっていない人が、同じように扱われるのは納得のいかないという気持ちです。今まで、神様にしっかり向いて歩んできたのに、今までそっぽ向いて、好き勝手に歩んでいた人が、赦されるのは納得いかないという気持ちです。それはあの放蕩息子の譬えに出てくる、放蕩息子の兄の立場です。お父さんが赦した弟を、まじめに父のもとでずーと働いていきた兄は、受け入れらなかった。そして、彼は、その弟を赦したお父さんも受け入れられなかったのです。わたしたちも、この兄のように思ってしまうことがあります。神様がどれほど、自分の隣の人を愛しているか、赦しているかよりも、自分が神様にしたこと、ささげたこと、奉仕したことばかりに心がいって、それに対する報いばかりを求めてしまう。その心は、その罪は、このファリサイ派の人々と根っこで一緒なのです。

 このファリサイ派の人々に向かって、イエス様はこう言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。このイエス様の最初の言葉の「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」これは、健康な人だけならば、医者は必要ない。イエス様は病人のために、医者としてこの世に来たということです。この病人というは、ただ病気にある人のことではありません、罪というだれも治すことのできない病にかかっている人間のことです。この丈夫な人というのは、ファリサイ派の人を指しているのではありません。ファリサイ派の人もまた、徴税人と同じように、罪の内にいる人です。ファリサイ派の人は、神様の御心よりも自分の行いに対しての報いを求めてしまう、自分ばかりを見てしまっている罪の中にいます。その罪は、徴税人が自分の富ばかりを見ていて、神様を忘れていた罪というのと、かわりはありません。同じです。その罪のために、イエス様は来られたとここでいっているのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」この招きを受けた罪人の中にファリサイ派の人々も入っています。13節にある、二重かぎかっこの所は、旧約のホセア書6章6節の言葉が引用されています「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」とあります。イエス様は、神様がファリサイ派の人に求めているのは、いけにえではないのだと言っています。これは、ファリサイ派の人々は善い行いをするなということではありません。これは、病人が医者の所に癒してもらうためには、つまり罪人が救われるには、その罪人たちが、自分で何か献げ物をしなければ、救われないということではなく、神様の憐れみこそが大事なのだということです。なぜ罪人が救われるために献げ物をしなくていいのかといえば、それは、イエス様がわたしたちの罪を赦すための献げ物となってくださったからです。だから、神様はわたしたちからの生贄を求めておられないのです。そして神様の憐れみとは何かというと、それもイエス様です。わたしたちが求めるべき憐れみ、それはイエス様なのです。あの十字架の犠牲にこそ、神様の憐れみが究極の形で示されているからです。イエス様はファリサイ派の人々に、その「憐れみ」を求めることを、「行って学びさない」と言われました。ファリサイ派の人々は憐れみを学ぶために出かけなければいないのです。出て行く場所は、イエス様の催している宴の場所ではなくて、自分がしてきたことが報われない、神様は自分をちゃんと見ておられない、ちゃんとしていないものたちを赦すこと、それらが納得出来ないという、神様のみ心を無視して、神様自体も無視してしまう、そのような罪の場所、そのような収税所から出て、自分のもとに来なさいということです。もっと簡単に言えば、「わたしに近づきなさい」ということです。

 今わたしたちが、ただ一つ求められているのは、罪人を招いて下さるイエス様の招きに応えて、自分の収税所から立ち上がってイエス様のもとに行くことです。それが言葉を換えれば洗礼を受けることです。今日、イエス様は、わたしたちが自分の収税所から立ち上がること、そしてわたしたちがイエス様のもとに戻り、共に喜びの食卓につくことを望んでおられます。わたしたちが戻った時、イエス様も天の父なる神様も、聖霊なる神様も、喜ばれます。それほどまでに、わたしたちは愛されています。今がわたしたちの立ち帰りの時、そして招きを受ける時です。

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