夕礼拝

自分の命を献げるために

「自分の命を献げるために」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: エレミヤ書 第15章15―18節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第20章17―28節
・ 讃美歌 : 484、298

はじめに
 本日はマタイによる福音書第20章17節から28節をご一緒にお読みしたいと思います。聖書を読んでおりますと、主イエスというお方は、人々を引きつける力に満ちていた人であると思います。他者を引きつける魅力のある人柄を与えられていたのだと思います。けれども、主イエスの周囲には、特に本日の箇所にもありますように「エルサレム」を目指して進まれる主イエスの周りには、主イエスに強く引きつけられた人だけではなく、主イエスに反発する者たちも多くいたのです。そして、主イエスをエルサレムで待ち受けていたのは、最大の反発でした。自分たちの宗教的な権威を守ろうとする人たちや、慣れ親しんだ豊かな生活を壊されたくないと思う人たちにとって、主イエスという存在は、目障りな存在だったのです。そのような状況にありました。

受難予告
 主イエスはエルサレムへ上っていく途中で、十二人の弟子たちだけを呼び寄せられました。旅の行く手に待ち受けている反発について、主イエスははっきりと予告されたのです。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」(18、19節)この主イエスの受難の予告は3度目です。この主イエスのお言葉は「三度目の受難予告」と呼ばれています。受難予告の内容は回を追うごとにその内容も詳しくなりました。しかし、これを「受難予告」と呼ぶことによって、見落としてしまってはならない言葉があります。主イエスは実は最初から、「三日目に復活する」ということを合わせて予告しておられるのです。弟子たちは最初の内は主イエスの衝撃的な言葉に驚いるばかりであったと思います。3度目となると、少し落ち着いていて主イエスの言葉を聞いたのかもしれません。この「受難予告」と呼ばれる主イエスのお言葉はマタイ、マルコ、ルカ福音書はどれも、三度にわたってなされております。この三度にわたる受難予告は、その語られた場所においても、また内容においても、次第に深められていきます。第一回目の受難予告は第16章21節以下に記されています。フィリポ・カイサリア地方で、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰を告白した、その直後でした。第二回目の受難予告は17章22節以下です。主イエスは「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する」と言われました。弟子たちは「非常に悲しんだ。」とあります。

順位争い
 しかし、今回は少し様子が違います。今回は特に、三日目の復活という言葉が、弟子たちの心に響いたのでしょうか。主イエスが十字架において死なれ、そして復活されるということが心に響いたのでしょう。弟子たちは主イエスの十字架の死を超えて、復活の栄光に心を捕らえられたのではないかと思います。主イエス・キリストがよみがえって御国の支配を確立されたときに、自分は一体その国において、どのくらいの地位につけるだろうか。やがて来るべき神の国における自分の順位のことが気になり始めるのです。もっとも、このメシアの国における順位争いについて記されるのは、これが初めてではありません。案外、弟子たちの間で、しばしば議論されたことなのかもしれません。十字架を目指して歩まれる主の足元で、弟子たちは、誰がいちばん偉いのかという争いに心を奪われていたのです。改めて、人間の罪の姿を思わせられる出来事です。一体、主イエスはどのような思いで、弟子たちの順位争いを見つめておられたのでしょうか。

主イエスと弟子たちとのやり取り
 今回の順位争いのきっかけは、20節から語られていきます。「ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て」とあります。ゼベダイの息子たちとはここには名前は出てきていませんが、ヤコブとヨハネです。ヤコブとヨハネが母親に連れられて主イエスのもとに来て、密かに願い事をしました。この二人の弟子は、ペトロと並んで、主イエスのお側近くに仕えた者たちです。十二人の弟子たちの中で、いつも中心的な役割を担った人たちであったと思われます。やがて来る栄光の国においても、その地位を保証していただきたいと願ったのでしょうか。おずおずと主イエスの前に進み出て、ひれ伏したまではよかったのです。お願いをしようとして、やはり少し気がとがめてためらっていたのかもしれません。そこで、主イエスの方から、声をかけられました。「何が望みか」。促されて、母親は語り始めます。 「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。(21節)この親子が何を求めているのか、よく示されております。主イエスが王として即位されるとき、王に次ぐ高い地位を求めたのです。自分の息子たちの出世を願う母親の気持ちが、率直に表れているのかもしれません。しかし、主イエスは母親の傍らに控えている二人の弟子に向かってお尋ねになります。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。主イエスが飲もうとしておられる杯というのは、まさに苦しみの杯であります。十字架にかけられる前の晩に、主はゲツセマネの園で祈られました。 「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。この杯は主イエスでさえ、過ぎ去らせて欲しいと願われた杯です。その苦難と死の杯を共に飲むことができるかという問いに、ヤコブとヨハネはためらうことなく「できます」と答えたのです。主イエスはそれを受けました。 「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」

新しく造り変えられる
 不思議なやり取りのように思います。明らかに、この二人の弟子たちの中には思い上がりと過信があります。しかし、主イエスは面と向かって咎めるのではなく、むしろ彼らの答えをそのまま受け容れておられるのです。一体なぜでしょうか。それは、主イエスがここでも既に、ご自身の十字架と復活からすべてを見ておられるからではないかと思います。主イエスにとってすべてお見通し、主イエスは御存知であったのではないでしょうか。野心にかられて高い地位を望み、傲慢にも分に過ぎた願いをする弟子たちの中に、主イエスは既に見つめておられるのです。ご自身の十字架の贖いによって、彼らの中に造られる神の子としての新しい存在を見つめておられるのです。やがて彼らが復活の主のもとに召され、福音宣教のわざのために全世界へと遣わされることを望み見ておられるのです。そこで彼らが福音宣教のためにどれほどの苦しみを味わうことになるか、またどのようにして神の栄光を表すことになるのか、主イエスはご存じなのです。その信頼をもって、弟子たちを見つめ、苦難の杯を共にするようにと、彼らを招いておられるのです。この主イエスのまなざしの中で、既に新しい創造が始まっています。私たちの罪も汚れも、その一切をよくご存じである方が、ご自身の贖いのみわざを通して、私たちを新しい存在へと招いておられるのです。

仕える者
 さてしかし、ヤコブとヨハネの抜け駆けを耳にした残りの十人の弟子たちは収まりません。 「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」というのです。結局十二人が十二人とも、その思いに大した違いはなかったのでしょう。ただ、出し抜かれたことに腹を立てているのです。それはまた、私たちの姿でもあるのではないでしょうか。他の人が自分よりも先に立つことに対するねたみの心が燃え上がります。結局は、自分のことが大事なのです。自己主張をしながら、何とか自分を救おうとする必死な形相がそこにあります。確かに、そこには救いを求める真剣さがあります。しかし、その真剣さは、自分の身を案じ、自分の行く末を心配することに留まっていたのです。そこには、他の人たちのことを心に掛ける余裕はありません。言い争っている弟子たちを呼び寄せて、主イエスは静かに語り始められました。 「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。この主イエスのお言葉は大きな転換を迫る言葉です。自分のことばかり考えて、自分の将来のことばかり心配している者に対して、他の人たちに仕える者になれとお命じになるのです。皆の僕になれと言われるのです。「仕える者」というのは、「給仕する者」という意味です。真っ先に自分の食事にありつくのではなくて、まず、他の人たちの食事の世話をするのです。「僕」というのは、「奴隷」と訳すことができる言葉です。一体主イエスは私たちに何を求めておられるのでしょうか。そこに、主イエスご自身の姿が浮かび上がってくるのです。

全てを委ね、他者のために
 主イエスは言われました。 「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(28節)ここで「同じように」とあります。「同じように」というのですから、ここに、仕える者としての模範が示されています。自分の命を与えるほどに、他の人たちに仕えるという手本としての姿が示されているのでしょうか。確かにそういう面もあるでしょう。しかし、それだけではありません。主イエスは私たちに言われるのです。自分自身のことに追い回されて生きている私たちに言われるのです。「私はあなたのために自分の命を献げるのだ。あなたの救いは私が引き受けたのだ。だから、あなたはもう自分のために何も心配する必要はない。あなたは、他の人のことを考えてあげなさい」。これまでは、すべての目標が自分自身のことであったでしょう。自分の人生をいかにして充実させるか。自分の生きる意味をどのようにして実現するか。そうやって、自分のことを求め続けてきたのです。しかし、そのような私たちの人生の中に、主イエスが入り込んでこられました。主イエスが私たちと出会ってくださいました。そして、主イエスが、私たちの命を満たしてくださり、主イエスが私たちの生きる意味となってくださったのです。そこから、私たちの人生の方向は変わります。私たちをめがけてそそぎ込んでいた一切のものが、主によって満たされた私たちからあふれ出していきます。これは何とかして、歯を食いしばって自分を捨てて、他の人に仕える、というのではありません。自分のことは主イエスに委ねてしまった身軽さの中で、私たちの仕える生き方が生まれるのです。私たち自身よりも、私たちのことをよく知っておられる主イエスが、私たちの全ての必要を満たしてくださるのです。

主イエスの食卓
 主イエスは、私たちの前にお立ちになります。私たちにお尋ねになります。「何が望みか」。私たち自身の救いを求め、信仰の成長を願う思いからも高く引き上げられて、主の御心がなるようにと願う祈りの中に導かれたいと願います。主イエスと向かい合いながら、主によって捕らえられた幸いの中に生きるとき、私たちの中に、神のかたちに造られた者としての生き方が生まれるのです。私たちも主イエスに捕らえられ、聖霊の力に満たされるとき、主に向かって生きる者に変えられるのです。本日私たちは聖餐に与ります。主の食卓を囲むのです。私たちのために、主イエスが全てを備えて下さった食卓です。主イエスが仕える者、給仕する者として私たちに振る舞ってくださいます。私たちもまた仕える者、奴隷として、小さき者として、主イエスに従って参りたいと思います。主イエスは僕の姿を取られました。この主イエスを仰ぎ見つつ、感謝をもって、主のもてなしにあずかりたいと思います。

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