夕礼拝

サウルとダビデ

「サウルとダビデ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:サムエル記上 第18章1-30節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第9章19-29節
・ 讃美歌:

ダビデ、サウルに召し抱えられる
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書サムエル記上よりみ言葉に聞いております。前回、7月は第17章の、ダビデとゴリアトとの一騎打ちの場面でした。ペリシテ人との戦いにおいて、イスラエルの兵士たちの誰も立ち向かうことができなかった大男ゴリアトを、羊の群れを飼っていた一人の少年に過ぎなかったダビデが倒し、イスラエルを勝利に導いたのです。本日の18章の2節を読むと、ダビデはこの武勲によって、イスラエルの王サウルの宮廷に召し抱えられたとなっています。そして5節にあるように、戦士の長となって、軍事的な実績を積んでいったのです。しかしダビデがサウル王に召し抱えられたことは、既に16章の終りのところに語られていました。それは戦争における手柄によってではなくて、サウルが悪霊に悩まされるようになったのを、竪琴を奏でてその心を和らげるためでした。ダビデがそのような働きをしていたことは18章の10節にも語られています。これは明らかに16章の記述を受けてのことです。ですから、ダビデがサウルの家臣となったいきさつは二通り語られています。もともとは別々の伝説だった話が一つにまとめられたためにそうなったのだと思われます。

選ばれた者と見捨てられた者の歩みの交差
 この10節にも語られているように、サウルはしばしば悪霊にとりつかれて苦しんでいました。何故そうなったかは16章14節に語られていました。そこには「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった」とありました。サウルは主なる神に選ばれ、油を注がれてイスラエルの最初の王となりましたが、あることによって主の霊はサウルから離れた、つまり神はサウルを退けて別の王をお立てになる決意をなさったのです。それがダビデでした。16章には、ダビデが預言者サムエルによって油を注がれたことが語られています。その日以来、主の霊、聖霊はダビデに降るようになったのです。そしてサウルには悪霊が降るようになりました。その悪霊は「主から来る悪霊」と言われています。神のみ心においては既に退けられているのになお王位に留まり続けるサウルは、神によって苦しめられるようになったのです。そのサウルの苦しみを和らげるために召抱えられたのがダビデだったのは皮肉な話です。しかしそのように神に選ばれた者と見捨てられた者の歩みが交差することは、聖書にしばしば語られています。エサウとヤコブの兄弟の話がその典型です。先ほど共に読んだ新約聖書の個所、ローマの信徒への手紙の第9章19節以下には、神が怒りの器として滅びへと定めておられる者と、憐れみの器として栄光を与えようとしておられる者とがいるのだと語られています。それは、その前の所に語られているエサウとヤコブのことを受けての話です。エサウとヤコブは双子の兄弟でしたが、彼らが生まれる前に神は、「兄は弟に仕えるであろう」と告げて、長男エサウではなくて弟ヤコブが、父イサクの祝福を受け継ぐことをお定めになっていたのです。神に選ばれたヤコブと、見捨てられたエサウの歩みが交差しつつ、次第にヤコブへの神の選びのみ心が実現していった、というのがエサウとヤコブの物語でした。サウルとダビデの物語もそれと同じような話となっているのです。

栄えていくダビデ
 この18章とそれに続くいくつかの章で、ダビデは神の恵みと祝福を受けてどんどん頭角を現していくのに対して、サウルの運命はどんどん下降線をたどっていきます。ダビデは、軍事的にもすばらしい才能を示していきました。前の章ではゴリアトを一騎打ちで倒した個人的英雄でしたが、18章では5節に「ダビデは、サウルが派遣するたびに出陣して勝利を収めた。サウルは彼を戦士の長に任命した。このことは、すべての兵士にも、サウルの家臣にも喜ばれた」とあるように、ダビデは軍隊の司令官としての力を発揮しています。12節以下にも「主はダビデと共におられ、サウルを離れ去られたので、サウルはダビデを恐れ、ダビデを遠ざけ、千人隊の長に任命した。ダビデは兵士の先頭に立って出陣し、また帰還した。主は彼と共におられ、彼はどの戦いにおいても勝利を収めた。サウルは、ダビデが勝利を収めるのを見て、彼を恐れた。イスラエルもユダも、すべての人がダビデを愛した。彼が出陣するにも帰還するにも彼らの先頭に立ったからである」とあります。ダビデを恐れたサウルが彼を遠ざけようとしたが、ダビデはイスラエル軍の司令官として絶大な実力と人気を博していったのです。それは彼が「兵士の先頭に立って出陣し、また帰還した」からだと語られています。兵士たちは、自分たちの先頭に立って戦ってくれる司令官としてダビデを慕い、尊敬していったのです。「イスラエルもユダも、すべての人がダビデを愛した」とあることにも注目したいと思います。「イスラエルとユダ」という言い方は、後にイスラエルが北王国イスラエルと南王国ユダとに分裂したことを先取りしており、「イスラエルの民全体」という意味です。ダビデは、後に王となって支配することになるイスラエルの民全体から愛されたのです。それは「主が共におられた」からです。主が共におられ、聖霊が降って導いてくださったから、ダビデはこのように頭角を現すことができたのです。

没落していくサウル
 それに対して、サウルはどうでしょうか。彼は表面的にはなおイスラエルの王です。ダビデを戦士の長や千人隊長に任命したのも彼です。ダビデは彼の家臣の一人に過ぎません。しかしサウルの力はダビデと逆転していきます。7節の、ペリシテとの戦いから凱旋したイスラエルの軍勢を迎えた女たちの歌がそれをはっきりと物語っています。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と女たちは歌いました。彼女たちは別にサウル王を貶めようとしていたわけではなくて、イスラエルの勝利を喜び祝ったのです。しかしその勝利において、ダビデの働きはサウルの十倍の輝きを放っていたのです。サウルは王として、家臣がこのような賞賛を受けることを喜べばよかったのですが、それができませんでした。彼はこれを聞いて激怒し、悔しがって、「ダビデには万、私には千。あとは、王位を与えるだけか」と言ったのです。つまりサウルはダビデに嫉妬し、自分の王位を脅かす者として憎むようになったのです。10、11節には、悪霊に取り付かれたサウルがダビデを槍で突き殺そうとしたことが語られています。また、17節以下には、サウルがダビデをペリシテとの戦いに送り出し、ペリシテ人の手で殺そう、つまり戦死させようと考えていたことが語られています。このことは、サウルが自分の娘をダビデに妻として与えるということの中で語られています。それは17章で、ゴリアトと一騎打ちをする者を募った時にサウルが約束したことでした。彼は「ゴリアトを倒した者には王女を妻として与える」と言ったのです。その約束のゆえにサウルは自分の娘をダビデと結婚させなければなりません。しかしここでサウルは、一旦ダビデに「わたしの長女メラブを、お前の妻として与えよう」と言いながら、いざ結婚という段になって急に、彼女を別の男に嫁がせてしまいました。ダビデに対して、約束を破り、恥をかかせるというひどいことをしたのです。これは穿って考えるならば、ダビデをわざと怒らせて自分に反抗させ、滅ぼす口実を作ろうということだったのかもしれません。しかしダビデがこのひどい仕打ちに対して怒ってどうこうしたということは全く語られていません。むしろダビデは、「自分は王の婿になれるような生まれの者ではない」と言っています。ダビデを怒らせようというサウルの思惑は見事にはずれました。それどころか今度は、サウルの娘の一人ミカルが、ダビデを愛するようになり、ダビデとの結婚を望むようになりました。それを聞いたサウルは、ダビデに、娘と結婚するための結納金代わりに、ペリシテ人の陽皮百枚を持って来いと命じます。陽皮というのは、男性の生殖器の先端の皮のことです。イスラエルの民は、生まれてすぐ割礼を受けることによってそれを切り取ります。つまり陽皮があるということは、割礼を受けていない、無割礼の民である印です。サウルは、無割礼の民ペリシテ人を百人殺して、その証拠を持って来いと言ったのです。そう命じたことの下心はやはり、ペリシテ人の手によってダビデを殺そうということだったと25節に語られています。しかしダビデは何日もたたないうちに、二百人のペリシテ人の陽皮を持って来ました。サウルが要求した倍の働きをダビデはいとも簡単に成し遂げてしまったのです。それでサウルは娘ミカルをダビデの妻として与えなければならなくなりました。28,29節にこうあります。「サウルは、主がダビデと共におられること、娘ミカルがダビデを愛していることを思い知らされて、ダビデをいっそう恐れ、生涯ダビデに対して敵意を抱いた」。サウルがダビデを退けようとしてやることなすこと全てが失敗し、ダビデはますます栄え、王の婿という地位をも得ることになったのです。サウルの身内からも、ダビデを慕い、ダビデの側につく者が現われてきたのです。
 サウルの身内でダビデを愛するようになったのは娘ミカルだけではありません。1節にあるように、サウルの息子ヨナタンも、ダビデを心から愛するようになり、二人は無二の親友となりました。次の19章20章には、このヨナタンが、ダビデを憎む父サウルとダビデの間をとりなし、またダビデを殺そうとするサウルからダビデを守り、逃亡を助けたことが語られていきます。妻となったミカルも、父サウルをだましてダビデを逃がしています。サウルの息子や娘もこのようにダビデの側につき、ダビデを支えるようになったのです。このようにして、ダビデはますます盛んになり、サウルはますます没落していく、その二人の歩みの交差がここに描かれているのです。その根本的な理由は、12節にあった、「主はダビデと共におられ、サウルを離れ去られたので」ということです。主なる神はダビデを選び、王として立てようとしておられる、反対にサウルを見捨て、王位から追放しようとしておられる、そのことがこの交差の原因です。主が選び立てて共におられる者は、何をしてもうまくいき、成功していく、反対に主が離れ去り、見捨てられた者は、何をしてもうまくいかず、没落していくのです。

神の選び
 ここには、神の選びという、私たちにとって大変わかりにくく、またつまずきに満ちたことが語られています。神に選ばれたダビデは栄え、神に見捨てられたサウルは滅びていく、それはもう人間の力によってどうすることもできないことなのです。そのことを、本日の新約聖書の個所、ローマの信徒への手紙第9章がとりあげています。そこには、焼き物師は同じ粘土から、貴い器と貴くない器とを造ることができる、それと同じように神は、ある者を怒りの器、つまり神の怒りを受け、滅びていく者として、ある者を憐れみの器、つまり神の憐れみを受け、救われる者としてお造りになるのだ、と語られているのです。そのようになさることにおいて、神には何の不正もない。そのようになさる権利と力を神は持っておられるのだ、というのです。しかし私たちはこのことにとまどいを覚えます。全てが神の選びによって決まっているなら、私たちが何を努力しても無駄だということか。神が選んでおられる者は救われるが、神に見捨てられている者はどんなに努力したって結局救われないのか。それではそもそも神を信じること自体が無意味になるし、そんな神を信じる気にはなれない、と私たちは思うのです。

私たちは憐れみの器とされている
 しかし、今のローマの信徒への手紙第9章19節以下をもっとじっくりと読まなければなりません。ここには確かに、神はある人を怒りの器として、ある人を憐れみの器としてお造りになることができる、と語られています。しかしパウロがここで語ろうとしていることの中心は、24節以下にあるのです。「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」。私たちは、神の民ユダヤ人であっても、そうでない異邦人であっても、「憐れみの器」として召し出されているのだ、とパウロはこの手紙を読む人々に語りかけているのです。次に引用されているホセア書の言葉も、そういう神の憐れみを語っています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる」。「自分の民でない者」とか「愛されなかった者」とは異邦人のことです。その者たちを神が選んで、愛して、「わたしの民」として下さっているのです。次の27、28節のイザヤ書の引用は、イスラエルの民の全てではなく、残りの者だけが救われる、ということを語っていますが、29節の引用と合わせて読む必要があります。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう」。ソドムやゴモラは、神の怒りによって滅ぼされた町です。つまり私たちは本来は、ソドムやゴモラのように滅ぼされなければならない者なのです。その私たちに神が子孫を残して下さった、つまり救われる者を選んで残して下さった、という神の憐れみによる救いをこの言葉は語っているのです。つまりパウロがここで語っている「神の選び」は、救われるか滅びるかは神の気まぐれで勝手な選びによることだから、人間は何を努力しても無駄だ、ということを言っているのではありません。もちろん救いは私たちの力や努力で獲得できるものではなくて、神の選びのみ心によって与えられるものです。しかしパウロはそのことを語ることによって、私たちは、神のみ心によって救いへと選ばれており、憐れみの器とされているのだ、と断言しているのです。神の選びによる救いを信じるとは、自分が選ばれているか見捨てられているか、つまり本日のサムエル記で言えば、自分はダビデなのかサウルなのか、分からない、ということではありません。神の選びを信じるとは、自分が救いへと選ばれている憐れみの器であることを信じることです。自分が救いにあずかるだけの善いことをしたとか、立派な人間だからそう信じることができるのではありません。そんな資格は全くない、むしろ滅ぼされるしかない者なのに、神が憐れみによって自分を救いへと選んで下さった。神の選びを信じるとはそういうことです。つまり神の選びを信じるところには救いの確信が与えられるのです。

選ばれた者であり、見捨てられた者である主イエス
 しかしどうしてそんなことが言えるのか、現にサウルは見捨てられて没落していったではないか、ダビデとサウルと、どちらが自分に似ているかといえば、サウルの方だ、と思うかもしれません。特に人生の様々な苦しみ悲しみを体験する時、私たちは、自分もサウルと同じように神に見捨てられているのではないか、だから何をしても結局うまくいかないのだ、と感じるのです。しかしパウロは、そうではない、あなたがたは憐れみの器として選ばれているのだ、と私たちに語りかけています。彼がそう言うことができるのは、主イエス・キリストを見つめているからです。主イエス・キリストは、人となってこの世を生きて下さった神の独り子です。そういう意味では主イエスこそ、神に選ばれた人だと言えます。ダビデへの神の選びを受け継いでいるのは、その子孫として生まれた主イエスなのです。しかしその選ばれた人である主イエスは、栄光に輝く王としてこの世界を支配なさったのではありませんでした。主イエスは、私たち罪人のために、私たちの罪を全てご自分の身に背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。十字架の死は、神に見捨てられ、呪われた死です。主イエスが十字架にかかって死なれたというのは、主イエスご自身が、神に見捨てられた者の滅びを引き受けて下さったということなのです。ですから、主イエスは、選ばれたダビデの継承者であるだけではありません。見捨てられたサウルの継承者でもあるのです。神に選ばれ、王として立てられようとしているダビデの歩みと、見捨てられ、退けられていくサウルの歩みが交差していると申しました。ここでふれあい、交差している二本の線は、主イエス・キリストの十字架において、再び交わっているのです。クロスしているのです。主イエス・キリストへと繋がっているのは、選ばれて繁栄、上昇していくダビデの線のみではありません。見捨てられ、滅びへところがり落ちていくサウルの線の先にも、主イエス・キリストの十字架があるのです。もう一度申します。主イエスは、選ばれた者であると同時に、見捨てられた者にもなって下さったのです。それが主イエスの十字架の死です。そして主イエスの復活は、神の選びの恵みが、見捨てられて滅びる者のその滅びに打ち勝ち、滅びを滅ぼして、見捨てられた者を選ばれた者に変えて下さった神のみ業なのです。この主イエスの十字架と復活によって示されている神の憐れみのゆえに、パウロは、「あなたがたは憐れみの器として選ばれている」と断言することができたのです。主イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちにはこの福音、喜びの知らせが告げられています。このキリストによる救いの福音の光の中でサウルとダビデの物語を読むことができるのです。その時私たちは、自分がサウルと同じように、何をやってもうまくいかず、滅びへの坂道をころげおちていくように感じる時にも、その自分を神がなお憐れみをもって選び、主イエス・キリストの十字架と復活による救いの中に置いて下さっていることを信じて、希望をもって歩むことができるのです。

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