夕礼拝

富は、天に積みなさい

「富は、天に積みなさい」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第40編1-18節 
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第6章19-21節
・ 讃美歌 : 377、297

イエス様に問われる
 マタイによる福音書を読み進めておりますが、マタイによる福音書第5章から第7章までは「山上の説教」と呼ばれている場所です。山上の説教は、最初と最後のところが対応しております。一番外側の枠を作っており、その内側にさらに何層にも枠があります。その中心には「主の祈り」があります。「主の祈り」を中心にして、「主の祈り」を包み込むように様々な教えが配置されています。その主の祈りを直接包んでいる部分が、6章1節から18節です。ここでは施し、祈り、断食という三つの信仰の行為について語られていました。それらの行為を「見てもらおうとして、人の前で」してはならない、と教えられていました。その第二の「祈り」の教えの部分において「主の祈り」が語られていました。そのような構造から見ますと、本日の19節からは新しい部分に入ったということになります。この部分は7章11節まで続いています。6章19節から7章11節までが一つのまとまりの部分です。ここでは、つまり本日の箇所では神様の下で、神様の民として生きる者、信仰を持って生きる者のあり方が示されております。
 本日の箇所からは信仰を持って生きる者としての生き方が教えられています。本日はマタイによる福音書第6章19節から21節を共にお読みしたいと思います。19節では「あなたがたは地上に富を積んではならない。」とあります。富とは、私たちが頼りにしている財貨、さらに信頼に値する財貨です。頼りにする、信頼をするとはそこに「心」があるということになります。即ちここでの「富」とは、私たちが頼りにし、信頼して、拠り所としているものということです。これがあるから自分の人生が、生活が支えられる、と思って大事にしているもの、これを失うまいと大切に守っているものです。主イエスはそのような、あなたはその「富」をどこに積むか、どこにそれを蓄えているか、と問われているのです。21節主イエスはこう言われます。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」あなたの心はどこに向いているのか、あなたは何を頼りにして生きているのか、と問われているのです。本日の箇所は何に信頼をして生きるのか、何を拠り所とするのか、という生き方が示されているのです。私たちは、その富をどこに積むか、どこにそれを蓄えているか、が問われているのです。

地上では
 主イエスは言われます。「地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」。確かに、地上に蓄えられた富は失われていくものです。主イエスは、「富は、天に積みなさい」と言われます。それはどういうことでしょうか。「そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」とあります。主イエスは私たちに地上の富の不安定で当てにならないことを指摘しておられます。一見、地上の富はいかにも頼りになるかのように見えます。しかし、それは虫が食べたり、さびが付いたり、盗人が忍び込んで盗み出したりして、私たちがいつまでもそれを価値あるものとして保有することが保証されているわけではありません。地上に蓄えられた富と言うものはいずれ失われていくものなのです。
 「そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」とあります。この「虫が食うことも」のこの虫とは、本につくしみのような虫、衣類につく虫、のことだと言われています。「さび」と言うのも、この言葉も「虫」と訳される言葉であります。木を食べる虫、たとえば白蟻(しろあり)のようなものだと言うのです。一生懸命力を注いで建てた家が、そのような虫に家の土台の部分が食われてしまう。あるいは、衣服を入れる箱、財貨を入れる箱が虫に食われてしまうということです。「盗人が忍び込む」とありますが、当時のパレスチナの家は壁を壊すのは何でもなかったようで、窓や戸口を壊して入るなどと言うよりは、入りたければどこからでも壁を壊して入ったようであります。この言葉はむしろ「掘り出す」という意味だと言う人もいます。自分の大切な宝物を誰にも分からないように丁寧に隠しておいたのに、巧みに見つけて掘り出してしまうような盗人のことを言うのであります。いずれにせよ、地上の財貨は虫が付き、さびがつき、朽ちていき、値が下がることがあるのです。私たちは地上の財貨がいつもそのような危険な状態にあることを知っております。「虫が食う、さびがつく」というのは、虫やさびによって見るに耐え得ないものになるという表現です。自分が大切にしていた洋服に虫がついて穴が開いてしまう、見るのも嫌になってしまう。折角建てた家が少しずつ朽ちていくということは、見ていて悲しくなり、辛くなります。このようなことは私たちのよく分かることであります。主イエスに教わることでもないかもしれません。ただ、私たちはそのことを良く知っておりながら、なお地上の財産のために苦労し、そのために努力をしております。そうでなければ生きていけないと思っているのであります。

富は天に積みなさい
 しかし、主イエスは「地上に富を積んではならない。」という否定的なことだけを教えられているのではありません。主イエスは積極的なことを私たちに教えておられます。20節「富は、天に積みなさい。」ということです。「そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」と主イエスはおっしゃいます。主イエスが私たちに積極的に教えようとされていることは、「富は、天に積みなさい。」ということです。そこでは地上のように虫が食べたり、さび付いたり、盗人が盗み出すこともないので、その価値が減ずることもなく、永久に同一の価値を保存することができるからです。主イエスは私たちに過ぎ去るような富ではなく、過ぎ去ることのない富へと心を向けるように勧められているのです。ですが、このように「富を天に積む」ということは、一体どういうことでしょうか。「天」とはどこのことを言うのでしょうか。またこの主イエスの教えはどのようなことを意味するのでしょうか。

本国は
 このことについて、私たちが思い起こすのは「わたしたちの本国は天にあります。」(フィリピの信徒への手紙第3章20節)ということです。「本国」とは「国籍」ということ意味になりますが、国籍を天に持っているということです。私たちは神の国の民とされたということです。この「天に富を積む」ということも、私たちが神の国の民として、ということであって、この地上の他にどこかに「天」という場所が存在するわけではありません。「天」というどこか具体的な場所ではなく、「神様に対して」ということです。天に積む富と言うのも、何か特別なものではありません。私たちが用いているものが「天の富」になることがあるのです。この地上において経済的な価値のあるものの、ないものもの、その使い方、用い方次第で「天の富」ともなり、単なる「地上の富」にもなるのです。
 ルカによる福音書の12章に共通する教えがあります。32節以下にこうあります。「小さな群れよ、恐れるな。あなたのがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」(32-33節)ここでは、擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積むための具体的な道が示されています。それは、「自分の持ち物を売り払って施しなさい」ということです。自分の持っているものを全て、貧しい人にあげてしまう、それが富を天に積むことだと言われているのです。これはすばらしい愛の行為です。貧しい人、困っている人のために自分を犠牲にして尽くす、究極の愛の行為であります。天に富を積むとは、そういう愛の行為をすること、世のため人のために尽くすこと、良い行いをすることだということなのでしょうか。このような良い行いを神様が私たちの富として天に蓄えて下さり、後で豊かに報いて下さる、ということなのでしょうか。ここでは、持ち物を売り払って施せというのは、私たちの富、蓄えを全て捨てよということです。それでは、安心、確かさの基が失われてしまいます。

富を捨てる
 私たちは、自分の富、自分が持っているものを、確保して、自分の人生の土台としたい、しっかりとした拠り所を得たいと思います。天に富を蓄えることでそれが保証されるならそうしようと思います。しかし主イエスがそこで求めておられるのは、自分の富を捨てると言うことです。それは、自分が持っているものや様々な意味での自分の富として信頼しているもの、心の拠り所を捨てると言うことです。主イエスが、「自分の持ち物を売り払って施しなさい」と言われたのは、愛の業、良い行いという富を蓄えなさいという意味ではありません。ここで主イエスは「施す」ことを言われたのでなく、「自分の持ち物を売り払う」こと、つまり、自分の富、財産を捨てることを言われたのです。自分の持っているものにより頼み、そこに安心、確かさを求めることをやめることです。
 天に富を積むとは、そういう地上の富を捨てることです。自分の豊かさを求め、それにより頼むことをやめることです。それではいったい何を拠り所として生きればよいのか。それは天の父なる神様の恵みです。 私たちが持っていると思っているものは全て、自分の物ではなくて、神から委ねられ、与えられているものです。自分に与えられた豊かさにより頼んで生きることをやめ、全てを与えて下さる天の父である神様の恵みにより頼んで生きる者となること。そのことこそが「天に富を積む」ことなのです。私たちは神の恵みによって与えられているものを喜んで用いる者なのです。ただ、神様が与えて下さる恵み、憐れみに拠り頼んで生きるしかない者です。自分の物ではないないのですから、喜んで他人に施すことができるのです。それは与えられているものを自分のものとしないで、神様から与えられた物として用いることになります。私たちが愛の行いをするなどと言うことではなく、感謝をもって、神から託された物を神の喜ばれるように用いたということになるのです。カルヴァンは「富はわれわれの物ではなく、神の物である」と言いました。主イエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイによる福音書25章40節)

あなたの心
 主イエスは続けて言われます。21節「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」何故、天に富を積まなければならないのかと言うと、あなたの富のあるところに、あなたの心もあるからなのだ、と言うのです。地上の富、天における富とは、あなたの心はどこにあるのか、ということが大切なのであります。私たちは私たちの心をどこに置いているのかということです。富のあるところに、どうして心があるのでしょうか。富が何故大事なのでしょうか。富とは何でしょうか。富は私たちの命を守るもの、生活を守るものだ、と考えているからです。確かに、私たちの地上の肉体における生命はそれによって支えられます。いや、究極的には地上の富によって、肉体の生命を完全に守ることは出来きません。この地上の富は死を防ぐことができないからです。これが私たちの限界であります。死さえに打ち勝つ道とは、天に富を持っていることです。神が富と認めて下さるものを持っているということです。神に喜んでもらえるという確信です。その時、死の棘である罪に打ち勝つことができるのです。この地上における、私たちの信頼するもの、拠り処とするもの、頼むものと言うのはいつ形が変わるか分からないなのです。そのようなものにしがみつく生き方ではなく、変わることのない、まこと父である神を頼みとする生き方ができるのです。その神が、地上に御子イエス・キリストとして来られました。主イエス・キリストの十字架と復活の出来事とは、私たちのために、このような、決して失われることのない富が天に蓄えられたということです。主イエスのお言葉は、あなたが富として寄り頼んでいるもの、最も大事にしているもの、そこにあなたの心は向いている、と言うことです。そのあなたが富として寄り頼んでいるものが地上の富、自分の豊かさであるならば、あなたの心はそこへと、つまり自分自身へと向いているということです。もしそれが天の富、神様の恵みであれば、あなたの心は神様へと向いている」、ということです。私たちに問われていることは、私たちが何を本当に自分にとっての富として、拠り所としているかということです。その問いに対してどう答えるか。そこで、神様が主イエスにおいて与えて下さった恵みこそ私の富です、そこにこそ私の拠り所があります、と答えること、それが「富を天に積む」ことなのです。

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