夕礼拝

洪水前夜

「洪水前夜」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 創世記、第4章 25節-第6章 8節
・ 新約聖書; マタイによる福音書、第24章 36節-44節
・ 讃美歌 ; 300、525
 

橋渡しの個所
 創世記第四章の終わりから、第六章のはじめまでの、大変長い個所を朗読していただきました。しかも第五章には、読みにくい名前が沢山出てくる系図が延々と語られていましたから、大変だったと思います。本日の個所は、四章のカインとアベルの物語と、六章から始まるノアの箱船、あるいは大洪水の物語との間にあって、橋渡しをしている所です。聖書を自分で読んでいる時には、あまり面白くもないし、特に重要なことが語られているようにも思えずに、軽く読み飛ばしてしまうことが多いかもしれません。本日はこの個所が私たちに語りかけられているメッセージをご一緒に見出していきたいと思います。

祝福の系図
 先ず第五章に注目したいと思います。ここには、最初の人間アダムからノアに至る系図が語られています。それはこのように始められています。「これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた」。これは、創世記第一章二七、二八節における人間の創造の場面の繰り返しです。神様は、ご自分に似せて、あるいはかたどって、人間をお造りになったのです。人間は、神様の似姿、神様にかたどられた者として生きるというすばらしい恵みを与えられているのです。そしてさらに神様は、人間を男と女として造り、男女が結婚して家庭を築き、そこに子供が生まれるということを祝福して下さいました。その祝福の言葉が一章二八節です。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」。本日の二節に、「創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた」とありますが、その祝福の内容はこの「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」ということだったのです。男と女として造られた人間は、この神様の祝福の下で、結婚し、子供を産んでいきました。そのことが、三節以下の系図において具体的に語られているのです。つまりこの系図は、ただアダムからノアに至る家系の繋がりを語っているのではなくて、神様が人間に与えて下さった祝福がこのように実現していったこと、その祝福によって人間は地上に増え、広がっていったことを語っているのです。系図の語り方にもそれが現れています。基本的に共通して、誰々は何歳になったとき、跡継ぎとなる息子をもうけた。そしてその後何年生きて、息子や娘をもうけた。そして何歳で死んだ、という語り方がなされています。つまり、その人がどのようなことをしたとか、どんな業績があった、などということは全く語られずに、跡継ぎとなる息子を生んだことと、その他にも息子や娘を生んだということのみが語られているのです。だから私たちにとってこの系図は、とてもつまらない、ただ名前と年の羅列に過ぎないものに思えてしまうのですが、しかしこの系図はそのような語り方によって、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という神様の祝福が、それぞれの世代においてしっかり実現していったことを語ろうとしているのです。
 この系図が語ろうとしていることはまだあります。三節の、アダムがセトをもうけた、というところには、「自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた」と言われています。これは明らかに、アダム自身が神様に似せて、かたどって造られたのと同じことがここで起っている、ということです。このことによってこの系図は、神様に似せて、かたどって造られた、その恵みが、アダムから子孫へと受け継がれていることを語ろうとしているのです。アダムの子孫である人間は皆、神様に似せて、神様にかたどって造られており、あの神様の祝福を受け継いでいるのです。この系図はこのことによって、これを読む者たちに、つまり私たちにも、「あなたも、神様の似姿として、神様にかたどって造られた者であり、神様の祝福の下に置かれているのだ」と語っているのです。

父が子を生む?
 もう一つ、この関連で指摘しておかなければならないことがあります。ここには、子供が生まれたことを語るのに、誰々が誰々を「もうけた」という言葉が用いられています。ここは、前の口語訳聖書では、「生んだ」と訳されていました。「出産」の「産」ではなく、「生」という字を使って、「生んだ」となっていたのです。しかしここに名前が並んでいるのは皆男性、つまり父親です。だから出産の産ではなく生という字の「生んだ」が使われていたわけですが、それにしても父親が子供を生むというのはちょっと変だ、ということで、新共同訳は「もうけた」としたのでしょう。これは苦心の訳だと言えます。しかし、このように「もうけた」「もうけた」と連発されると、何がそんなに儲かったのか、という感じもしてしまいます。原文ではここに、「産む」という動詞の使役形が用いられています。つまり直訳すれば「産ませた」です。それは、「妻に」ということです。そういう言葉によってこの系図は、それぞれの人の妻、女性の存在を意識していると言うことができます。この系図には男性の名前しか出て来ないから、女性を無視する男尊女卑の思想がここにはある、とこの翻訳を読むと感じてしまいますし、確かにイスラエルは、父親、男性を中心とする社会でしたが、しかし原文においてはそのように、名前は出て来ないものの、女性の存在が意識されているのです。そもそも人間は、神様に似せて、かたどって、男と女とに創造されたわけで、その男と女がいて初めて、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という神様の祝福が実現するのです。そのことはこの系図においてちゃんと踏まえられています。ただ、これを日本語に訳す時に、それでは「産ませた」と訳すのがよいかというと、これはまた、日本語の語感からして、女性を子供を産むための道具にしてしまうような感じにもなります。ですからここの翻訳はなかなか難しいのです。

二つの創造物語
 さて五章はこのように、一章において創造された最初の人間アダムから、六章以下の洪水物語の主人公であるノアに至る系図であるわけですが、この創世記の講解説教を連続して聞いてこられた方にはここで思い起していただきたいことがあります。それは、創世記には、二つの異なった天地創造物語が記されている、ということです。第一章から第二章四節の前半までと、第二章四節後半以降は、別の物語であり、書かれた時代も背景も違うのだということを以前にお話ししました。二章四節後半からの物語は、四章までずっと続いてきています。つまり、土の塵から造られ神様に命の息を与えられた最初の人間アダムがエデンの園に住んでいたこと。神様が彼に、共に生きる相手として女性、エバを与えて下さったこと。しかしその二人は蛇の誘惑によって、神様に背く罪を犯し、エデンの園から追い出されてしまったこと。二人の間に生まれた兄弟、カインとアベルにおいて、兄が弟を殺すという殺人の罪が犯され、弟を殺したカインは神様の前から追放されたこと。そしてそのカインの末裔たちのことが、二章から四章には語られていたのです。その一連の物語は四章をもって終わっています。第五章の系図はその続きではなく、むしろ二章四節前半の続きなのです。一章から二章四節までには、神様が六日で天地の全てと、最後に人間を創造され、七日目に休まれたことが語られていました。人間が神様に似せて、かたどって創造され、男と女とに創造されたことも、また神様が彼らを祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われたことも、この第一章に語られていたのです。第五章の系図はそのことを受けて、その続きを語っているのです。このように創世記の最初のところには、二つの別々の物語があり、それが結び合わされて現在のような形にまとめられています。それゆえにその二つの物語をつなげる役割を果たしている部分があるのです。それが、第四章の二五節以下です。二~四章の物語は、カインの子孫であるレメクの歌った復讐の歌で終っています。二五節以下は、そこからもう一度アダムに戻り、アダムとエバの間に、カインとアベルに代わる新たな子供セトが与えられたことを語ることによって、五章の系図へと話をつなげているのです。

人間の光と闇
 創世記はこのように二つのもともとは別の話をつなげることによって、独自の世界を描き出しています。一章から二章四節前半までと五章の物語では、人間をご自分の似姿として造って下さった神様の恵みと、そこに与えられた祝福が継承されていくことが語られています。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という祝福が、アダムの子孫に受け継がれて実現しているのです。しかしその間に挟まれた二章四節後半から四章にかけての物語には、人間が神様に背く罪を犯し、その結果として楽園を失い、荒れ野のような世界を苦しみを負いつつ生きていること、またその罪が、時と共に大きくふくれあがっていくことが見つめられています。アダムとエバにおいては、禁じられていた木の実を食べてしまう、ということだった罪が、カインとアベルにおいては殺人へと一気に拡大し、またカインの子孫になると、自分の受けた損害には七十七倍の復讐をする、という宣言にまでなっていくのです。つまり罪が雪だるま式にふくれあがっていき、憎しみが憎しみを、復讐が復讐を生んで止まる所を知らない、という様子が描かれているのです。この二つの話を結びつけることによって、創世記は、神様によって造られた人間の今の現実を、リアルに、また立体的に描き出しているのです。即ち、神様の似姿として造られ、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という祝福によって増え広がっていく人間の歩みは、同時に罪が、憎しみがふくれあがっていく歩みでもある、ということです。人間の歩みには光の部分と闇の部分が同時に存在している、という現実が見つめられていると言ってもよいでしょう。

二つの系図
 そのことは、五章の、アダムからノアへの言わば祝福の系図と、四章一七節以下の、弟を殺したカインの子孫たちの系図を重ね合わせて見ることによってさらにはっきりします。カインからレメクに至る四章の系図と、アダムからノアに至る五章の系図は、一見何の関係もない別のもののように思えますが、よく見てみるとけっこう共通性があるのです。両方に、同じ名前、あるいはよく似た名前があります。五章一二節のケナンという名前は、原語で見るとカインとよく似ています。またカインの息子の名であるエノクは、五章二一節以下のエノクと同じです。また四章一八節のイラドは、五章一八節のイエレドと似ています。同じ四章一八節のメフヤエルは五章一五節のマハラルエルと、メトシャエルは五章二一節のメトシェラと対応します。そしてカインの系図の最後のレメクは、ノアの父と同じ名前です。このように、カインの子孫の系図と、アダムの新しい息子セト以下の系図は、重なり合っているのです。このことによって創世記は、カインの末裔たちの歩みと、アダムに与えられた神様の祝福を受け継ぐ人々の歩みとは、実は同じ人類の歩みの裏表、二つの面を示しているのだと語っているのです。

人間の罪と神の祝福
 先月、カインの末裔たちの系図を読んだ時に、彼らは、技術や芸術という人間の文化的営みの担い手たちであると申しました。そのような技術の進歩によって、同時に憎しみも増幅し、復讐の思いがふくれ上がっていく、ということが語られていたのです。そのことと、四章二六節とはやはり裏表の関係にあります。アダムの子セトにエノシュという孫が生まれたその時代に、人々は「主の御名を呼び始めた」というのです。それは、主なる神様に祈り、礼拝をささげる信仰が始まった、ということです。つまり一方で、技術文明の繁栄とそれによって憎しみや争いが激しくなっていく人間の歩みの中で、神様を信じ、礼拝し、祈るという信仰に生きる者たちもまた現れて来たのです。あるいはまた、五章二一節以下のエノクは、「神と共に歩んだ」と言われており、彼は他の人々とは違って、死んだのではなく「神が取られたのでいなくなった」とあります。これは、エノクは生きたまま神様のもとに連れて行かれた、そのような祝福を与えられるほどに彼は神と共に歩んだ、信仰深い人だったのだ、ということを語っているのだと思います。この話なども、罪にまみれ、憎しみや争いの絶えない人間の歩みの中にも、このように神と共に歩み、そして死ぬことなく神のもとに連れて行っていただけるような人が時として現れるのだ、ということを示していると言えるでしょう。そしてこのような、神様の祝福あるいは信仰と人間の罪の現実との併存、あるいは表裏一体の関係を最終的に代表しているのが、レメクです。カインの系図の最後に出てくるレメクは、四章二三節以下で、あの「復讐の歌」を歌いました。自分に危害を加えようとする者には七十七倍の復讐をしてやる、という宣言です。人間の罪、憎しみがここに極まっているのです。それに対して、五章二八節以下のレメクは、ノアの父親です。この人は、男の子が生まれた時、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、その子をノア(慰め)と名付けたのです。人間は罪によって楽園を追放され、神様の呪いを受けた荒れ野のような大地から苦労して食べ物を得なければならなくなりました。人間の生活は、神様に背いた罪によって、基本的に、苦労、苦しみの多い歩みとなっているのです。その中でこのレメクは、神様の祝福によって子を得た時に、そこに神様からの慰めの実現を望み見ました。罪に満ち、苦しみ悲しみの多い人間の歩みにおいて、神様からの慰めを求め、そこに希望を置く、信仰の姿がこのレメクに描かれているのです。この信仰者レメクと、あの復讐心の固まりであるレメクが同じレメクである、ということが重要です。そこに、人間の赤裸裸な現実があるのです。罪に満ち、憎しみや復讐の思いに囚われていくのも人間の現実です。しかしまた、神様のみ名を呼び求め、神様からの慰めを求めて祈り、神様に希望を置く信仰に生きるのも人間の姿です。それは、こういう人もいればああいう人もいる、というだけではなく、一人の人間の中に両方の面がある、ということでもあるでしょう。私たち自身、自分の中に、この二人のレメクが同時に存在していることを感じるのではないでしょうか。
 そして、このレメクの子がノアです。つまり、いよいよそこから、洪水の物語が始まるのです。神様が、地上に人間の罪と悪が満ちているのをご覧になり、大洪水によって全て者をぬぐい去られる、そういう裁きが下されるのです。二人のレメクによって描き出されている人間の現実は、神様の裁きである洪水前夜の人間の、この世界の姿なのです。

ネフィリム
 第六章から、洪水の物語が始まるわけですが、その直前の六章一節以下には、不思議な話が語られています。「神の子ら」が、人間の娘たちを妻にし、その間にネフィリムと呼ばれる名高い英雄たちが生まれた、という話です。この謎のような話は、神話的伝説に起源を持つものだと思われます。「神の子ら」とあるのは、天使たちのような存在を意味しているのでしょう。天使が美しい人間の娘に恋をして妻とした、ということです。ギリシャ神話などにはよくありそうな話です。このような話がどうして聖書の中に入っているのだろうか、ということは昔から人々の頭を悩ませてきたのですが、この話が洪水物語の直前に置かれていることから、洪水前夜の人間の、あるいは世界の有り様を語る話であることは確かです。つまり創世記はこの話も、洪水という神様の裁きをもたらす原因となった人間の悪の描写として位置づけているのです。そのことは三節からもわかります。「主は言われた。『わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。』こうして、人の一生は百二十年となった」。このことの結果として、人間の一生は百二十年となったというのです。その意味は、第五章の系図に出て来る人々の驚くほどの長命との比較によって分かります。あの系図においては、死なずに神様のもとに連れ去られたエノクを別にすれば、最も短い人でも七百七十七年生きているのです。このような長命は、神様の祝福の印だと言えるでしょう。ところが、六章始めのこの話において、人間の一生は百二十年となったのです。それでも随分長命ですが、五章に比べればずっと短くなっています。神様の祝福がそれだけ失われてしまったのです。「どんなに長くても百二十年」と考えれば、これはだいたい私たちの現在の常識と合っています。現在の私たちの寿命は、人間の罪のために、神様の祝福の印であった長命が失われた結果だ、ということです。そのようにしてこの話も、洪水前夜の人間の罪の様子を描いているのです。しかしどうしてこれが人間の罪の話になるのか、という疑問はなおあるでしょう。ある説によれば、「神の子ら」というのは、王をはじめとする権力者たちのことではないか、と考えられています。そうするとこれは、権力者たちが、好きな娘たちを無理やり妻にする、ということを語っていることになります。「おのおの選んだ者を妻にした」というところには、「好きなのを選んで自分のものにする」というニュアンスがあります。ダビデ王が、部下ウリヤの妻バト・シェバを、ウリヤを殺して自分のものにしてしまったような、権力者の横暴がこのような書き方で暗に指摘されているとも考えられるのです。

洪水前夜
 本日の個所は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを神様がご覧になり、人を造ったことを後悔して、すべての者をぬぐい去ろうと決意された、そのために起った大洪水の直前の世界を描いています。それは人間の罪がふくれあがり、憎しみが憎しみを、復讐が復讐を生む悪循環を止めることができない、権力者の横暴によって弱い者が苦しみを受ける、そのような世界です。しかしまた同時に、そこに生きている人間は、神様に似せて、かたどって造られた者であり、神様の祝福を受け継いで生きている者でもあるのです。主なる神様のみ名を呼ぶ信仰もそこには見られます。神と共に歩んだ人も中にはいるのです。そのように人間の罪と神様の祝福が裏表のように共に存在しているのはまさに、私たちが今生きているこの世界の有り様、私たち自身の現実の姿なのではないでしょうか。そのような世界を、ある日突然洪水が襲い、あのインド洋大津波よりももっと徹底的に、全てのものを押し流してしまったのです。救われたのは箱舟に入ったノアとその家族だけでした。その洪水とノアの箱舟の物語をこの後読み進めていくのですが、そこに、人間の罪に対する神様の怒り、裁きの厳しさと、なおもそこに与えられている救いの恵みが示されています。今私たちは、この恵みによって救われた、洪水の後の世界を生きているのです。この洪水によって何が変わったのか、それはこの後の所を読み進めていくことによって明らかになります。しかし今既に私たちが知っていることが一つあります。それは、私たちも洪水前夜の人々と何ら変わることのない者だけれども、その私たちの罪を赦すために、神様の独り子主イエス・キリストがこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架の苦しみと死とを引き受けて下さったということです。主イエスの御苦しみと死とによって、私たちは、神様の怒りの洪水に押し流されるのではなく、赦されて、神様の祝福を受け継ぐ者として生きることができるようにされているのです。今週は主イエス・キリストの御苦しみと十字架の死を特に覚える受難週です。本当は私たちの上に下されるべき裁きと滅びを、主イエスが代って受けて下さり、苦しみと死を引き受けて下さったことを覚えて、深い感謝の内にこの時を歩みたいと思います。そして来週はイースター、主イエスの復活を記念する日です。死者の中から復活して天に昇られた主イエスは、世の終わりにもう一度この世界に来られます。本日共に読まれた新約聖書の個所、マタイによる福音書第二四章三六節以下には、その人の子の到来の予告が語られています。そしてそこに、ノアの時代に襲った洪水のことが語られているのです。洪水前夜、今の私たちと同じように、人間の罪と神様の祝福が共に存在する世界において、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた人々を、突然洪水が襲って全てをぬぐい去ってしまった、それと同じように突然に、主イエスはもう一度来られる、と言われているのです。けれどもこの主イエスの到来、再臨は、あの洪水のように私たちを滅ぼし去るものではありません。世の終わりに来られるのは、十字架にかかって私たちの罪を赦して下さった主イエス・キリストなのですから、その到来は、滅びの時ではなく、私たちの救いの完成の時なのです。私たちは、あの洪水前夜の人々と同じように、神様の祝福と人間の罪が裏表をなし、共に存在する現実の中を生きています。しかしその私たちを襲うのは洪水ではなく、主イエスの再臨による救いの完成です。主イエスの十字架の苦しみと死とによって、私たちは主イエスの再臨を、喜びをもって待ち望むことができるのです。

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