主日礼拝

安息日の主

「安息日の主」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: サムエル記上 第21章1―7節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第2章23―28節
・ 讃美歌:50、206、356

空腹な弟子たち
 マルコによる福音書第2章23節以下をこの礼拝においてご一緒に読んでいくのですが、最初の23節に「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた」とあります。弟子たちが麦の穂を摘んだのは遊びでしたことではありません。マタイによる福音書の12章1節以下に同じ話が語られていますが、そこでは「弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた」となっています。彼らはおなかが空いたので麦の穂を摘み、殻を取って生の麦を食べたのです。この当時だって、麦をこのように生で食べることは普通ではありません。つまり彼らはとても空腹だったのです。主イエスは弟子たちと共にガリラヤ中を巡って伝道しておられました。その一行には決して十分な食べ物があったわけではありません。先週読んだ18節以下には、洗礼者ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちは断食をしているのに、主イエスの弟子たちはしていないのはなぜか、ということを主イエスに問うた人がいたことが語られていました。先週の説教で申しましたが、主イエスは自分たちを招いてくれる人たちとしばしば食事の席に着いておられ、相手が人々から罪人として毛嫌いされていた徴税人であっても食事を共にしておられたのです。そういうこともあったわけですが、しかしそれ以外の普段の主イエスと弟子たちの食事はまことに貧しいものであり、このようにおなかが空いてたまらない時もあったのです。日々の生活が基本的に断食しているようなものだったと言えるでしょう。

律法違反?
 ところで彼らは、見ず知らずの他人の麦畑で穂を摘んで食べたのです。そのことは旧約聖書の律法において赦されていました。申命記の23章26節に、「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」とあります。「鎌を使ってはならない」というのは、その畑の実りを収穫して自分のものにしてはならない、それは隣人のものを盗むことになる、ということです。しかし「手で穂を摘む」ことは許されています。それは、貧しい人、空腹な人が、他人の麦畑の麦で空腹を癒すことは許されているということであり、麦畑の所有者はそのようにして貧しい人、空腹な人を助けなければならない、ということです。弟子たちは、律法で認められている正当なことをして、空腹を満たしたのです。ところがファリサイ派の人々がそのことで主イエスを責めました。「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言ったのです。彼らが責めているのは、麦の穂を摘んだこと自体ではなくて、それがなされたのが安息日だったことです。麦の穂を摘むことは安息日にはしてはならない、それは、これが安息日には禁じられている「収穫や脱穀」という仕事に当たるからです。そのことで、「あなたの弟子たちは律法違反をしている」と彼らは主イエスを責めたのです。

十戒の第四の戒め
 しかし果してこれは本当に律法に違反することなのでしょうか。そもそも、安息日とは何であり、何のためにあるものなのでしょうか。安息日に仕事をしてはならないと定められているのは、律法の中心である十戒の第四の戒めにおいてです。第四の戒めが語られている出エジプト記第20章8~11節を読んでみます。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。ここに、週の七日目の安息日にはいかなる仕事もしてはならない、とあります。それゆえに、律法を厳格に守ることを教えていたファリサイ派は、「仕事」に当ることは一切してはならないとして、その「仕事」に当たることとそうでないことの区別を細かくしていたのです。このファリサイ派の教えが今日のユダヤ教につながっていますので、イスラエルでは今でも、安息日の生活にはいろいろと制約があります。エレベーターの行先階ボタンを押すことは仕事に当たるので禁じられており、そのために安息日にはエレベーターは各階止まりになるのです。ボタンを押さなくても目指す階で降りることができるにようにということです。

喜びと祝福にあずかるための日
 安息日の律法はこのように「この日には何をしてはいけないか」という方向で受け止められていったわけですが、主なる神様によってこの掟が与えられた理由は、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」ということでした。つまり神様が天地の全てをお造りになった時、七日目には休まれた、そのことを覚え、その休みにあずかるために安息日は定められたのです。神様が七日目に休まれたとはどういうことでしょうか。それは決して、疲れたから休息をとった、ということではありません。創世記第1章の終わりのところに「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とあります。神様はこの世界の全てと私たち人間を、極めて良いものとして造って下さったのです。七日目に休んだというのは、お造りになった極めて良い世界を見つめて喜び、祝福なさるためです。ちょうど私たちが何かの作品を完成し、それが大変良くできた、満足できる出来映えだった時に、しばし手を止めてその作品を眺め、自分でそれを喜び楽しむように、神様はこの世界と人間の存在を喜んで下さったのです。そしてその日を安息日と定めて下さいました。それはこの神様の喜び、祝福に私たちをあずからせて下さるためです。生きるために六日間あくせくしつつ行なってきた人間の働き、自分の仕事をやめて、神様がこの世界と自分とを「極めて良い」ものとして造って下さり、喜び、祝福して下さっている、その喜びにあずかり、自分の生活が神様の祝福と恵みの下にあることを確認する日として安息日が与えられたのです。いかなる仕事もしてはならないというのは、この神様の祝福と恵みをいただくためです。人間の仕事、自分の営みをしている間、私たちの心はそれによって満たされてしまっており、神様の祝福や恵みに思いを向けることができません。自分の営みや働きを休むことによってこそ、神様の恵みのみ業に心を向け、それを喜ぶことができるのです。ですから安息日の目的は「仕事を休む」ことではなくて「神様の祝福、恵みをいただく」ことです。ファリサイ派の人々は、この目的を見失い、手段である「仕事を休む」ことばかりに目を向けてしまっているのです。

真の安息にあずかるための日
 安息日の意味について、聖書はもう一つのことを語っています。申命記第5章に語られている十戒の第四の戒めには、安息日のもう一つの意味が示されているのです。申命記第5章12~15節はこうなっています。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたと おりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」。ここでは、安息日の根拠は天地創造のみ業ではなくて、エジプトでの奴隷状態からの解放です。イスラエルの民はエジプトで奴隷とされ苦しめられていた時には、休みのない、安息のない生活を強いられていました。主はそこから彼らを救い出し、休みを、安息を与えて下さったのです。そのことを覚えて、主によって与えられた救いと、それによる休み、安息にあずかるために安息日が定められたのです。つまり申命記においては、安息日の目的は主によって休みを与えられることです。私たちは、自分からはなかなか休むことができません。それは休暇が取れるとか取れないという話ではなくて、本当の意味での魂の安息は自分で得ることができないのです。それは私たちの魂が、いろいろなものに支配され、奴隷状態になっているからです。魂の安息は、私たちを捕え奴隷としている様々な力から神様が解放し、救い出して下さることによってこそ得られるのです。安息日はその神様による解放の恵みにあずかり、真実の休みをいただくための日です。週に一日、自分の仕事、業を休んで、神様による解放、救いの恵みを記念する時を持つことによってこそ、自分では得ることのできない魂の休み、安息を得ることができるのです。そしてここで大事なのは「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」と言われていることです。私たちが神様のご命令によって休むことによって、私たちの下にいる人々、別に奴隷でなくても、家族であったり、共に生きている人々にも休みが与えられていきます。私たちが休むことができないでいると、周囲の人々もまた休むことができないのです。肉体的な休みにおいてもそうだし、魂においてもそうです。魂の安息を得ていない人は、周囲の人々をも疲れさせます。真の安息を与えられている人こそが、周囲の人にも安息を与えることができるのです。そのように、私たちにも、また周囲の人々にも、真実の休みを与えるために、神様は安息日を与えて下さったのです。

私たちにおける本末転倒
 このように安息日は、神様が私たちに祝福と恵みを与えて下さり、真実の安息にあずからせて下さるためにあるのです。そのことに目を向けるなら、空腹だった弟子たちが麦の穂を摘んで食べたことは、安息日の目的にむしろ適っていると言えます。それをとがめ立てするファリサイ派の人々の律法理解の方が間違っているのです。本日の話を読むと、彼らの律法理解がいかに本末転倒になっているかがよく分かるのです。しかしこれは決して他人事ではありません。私たちは、神様が安息日を与えて下さった目的を本当にしっかりとわきまえているでしょうか。言い換えるならば、神様に従い、信仰をもって生きることは、神様から祝福と恵みをいただき、安息を与えられて生きることだ、ということが本当に分かっているでしょうか。むしろ、神様に従い、信仰をもって生きることは、疲れること、へとへとになることだと思ってはいないでしょうか。それは決して、だから神様に従うのはいやだとか、信仰などいらないと思っているということではありません。むしろ逆です。信仰をもって生きること、神様に仕えることは、疲れてへとへとになるけれども、大事なことなのだ、なすべきこと、良いことなのだ、だから疲れても、へとへとになっても、そのように生きるべきなのだ、いやむしろ、疲れるぐらいに、へとへとになるぐらいにそのために努力するところにこそ、本当に意義ある人生があるのだ、そう思って、へとへとになりながら自分を叱咤激励して教会の奉仕に励んでいる、ということはないでしょうか。もしそうなら、私たちは信仰において本当の安息を見出してはいないことになります。見出しているのは安息ではなくて、有意義な働き、役に立つ奉仕です。平たく言えば、「自分は頑張って立派に奉仕している」と感じることによって平安、満足を得ているのです。それは、神様が与えて下さる本当の安息とは違います。神様からの安息ではなくて、自分が感じる満足や安心です。へとへとになって奉仕することは勿論大変だけれども、それによって満足や安心が得られ、誇りが満たされるのです。そのような思いで歩んでいると、例えば年をとってきて教会でいろいろな働きや奉仕ができなくなると、「何の役にも立てなくなって心苦しい、自分のような役立たずはいても仕方がないのでは」、などと思うようになるのです。それは、自分が何か役に立っていなければ、良いことをしていなければ安息、平安が得られない、ということです。そしてそのような思いの裏返しとして起るのは、あの人は教会で何も苦労していない、礼拝もよく休むし何の奉仕もしていない、何の役にも立っていない、と人のことを裁く思いです。これらの思いはどちらも、信仰に生きるとは、苦労して、疲れる思いをして良いこと、立派な奉仕をすることだと思っていることから生じるのです。それはファリサイ派の人々が考えていたのと全く同じことです。彼らは、信仰とは苦労して、疲れる思いをして律法を守ることだと思っており、それをしている自分を誇り、していない人々を裁いているのです。私たちがもし、教会に集うことにおいて、神様からの安息をいただくことではなくて、有意義な働きや意味ある奉仕をすることを第一とし、自分が役に立つ者となることを追い求め、その結果信仰に生きることは疲れることだと思い、自分より疲れる働きをしている人には心苦しさを感じ、自分より楽にしている人を裁いたりしているならば、ファリサイ派の人々と同じ本末転倒に陥っていると言わなければならないのです。

安息日は人のため
 主イエスは25節以下で、旧約聖書の一つのエピソードをもってお答えになりました。本日共に読まれたサムエル記上21章に語られている、ダビデ王の生涯における出来事です。ダビデはこの時まだ王になってはおらず、サウル王に憎まれて命を狙われ、逃げ回っていました。その逃亡生活の中で、自分と供の者たちの食べ物がなくなり空腹だった時、神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを供の者たちと食べたのです。それは決して無理に押し入ってパンを奪ったということではなくて、サムエル記を読めば分かるように、祭司がそのパンを与えてくれたのです。主イエスがこの出来事をここで持ち出されたのには二つの理由があると思います。第一には、神様は、供えのパン、つまり神様に捧げられ、聖別されて本来祭司しか食べることのできないパンをも用いて、空腹の人、助けを求めている人、安息を失っている人を養って下さる、ということを示すためです。つまりこの出来事は、神様の恵み、平安、安息が、掟の字面を超えて、それを本当に必要としている人に与えられたということなのです。安息日の問題にあてはめて考えるなら、神様は、安息日には何をしたらいけない、という禁止よりも、人間に安息を、本当の休みを与えることの方を大事になさる、ということです。27節で主イエスが「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」とおっしゃったのはそういうことです。安息日が定められたのは、人が神様による安息、救いの恵みにあずかるためなのです。「安息日は人のために定められた」とはそういうことです。ところがファリサイ派の人々はその安息日を、逆に人から安息を奪い、人を裁くためのものとしてしまっている、「人が安息日のためにある」ような本末転倒に陥っているのです。

自己満足や誇りからの解放
 このことをわきまえるなら、私たちの安息日である主の日、日曜日に教会の礼拝に集い、神様を礼拝しつつ神様に仕えて生きる信仰の生活において、自分が有意義な働きや意味ある奉仕をすることを目的としてはならないことが分かります。礼拝を守って信仰者として生きることは、私たちが良いことをし、役に立つ人になるためではなくて、神様が、独り子イエス・キリストによって与えて下さる救いにあずかり、まことの安息、休みを与えられるためなのです。しかもそれは私たちの自己満足や誇りを満たすことによる安息ではありません。むしろ神様は私たちを、そのような自己満足や誇りを満たすことを求める思いから解放して下さるのです。自己満足や誇りを満たすことを求めている所では私たちは、要するに良いことをし、役に立つ者となろうとするのです。そういう歩みの中で私たちは疲れてしまいます。そして自分よりも疲れることをしている人を見ると心苦しくなり、自分より楽に生きている人のことを裁くようになり、いずれにしてもますます疲れ果てていくのです。しかし主イエス・キリストは、そういう疲れから私たちを解放し、まことの安息を与えて下さるのです。神様の独り子である主イエスが、何の役にも立たないどころか、神様に迷惑をかけてばかりいる罪人である私たちのために十字架にかかって死んで下さり、罪を赦し、神様の子として生きる新しい命を与えて下さったのです。私たちは、有意義な働きも意味ある奉仕も何もなしに、何かの役に立つ者であることなどなしに、ただ神様の恵みによって今日を生かされ、明日へと歩み続ける力を与えられるのです。それが神様からの安息です。主の日の礼拝は、この安息を神様からいただく時なのです。

安息日の主
 ダビデのあの故事にはもう一つの大事な意味があります。祭司がダビデに供えのパンを提供したのは、相手がダビデだったからです。ダビデは、神様によってイスラエルの王として選ばれ、油を注がれていた人です。まだ実際に王にはなっていませんが、神様はこのダビデを既に王として定めておられたのです。そのダビデだからこそ、供えのパンを受け取り、供の者たちにも与えることができたのです。主イエスがこの出来事をお語りになったのは、ご自分がこのダビデに等しい者であることを示すためです。いやむしろ、旧約聖書のダビデは、まことの王であられる主イエス・キリストを前もって指し示す者として立てられていたのです。ダビデにまさるまことの王である主イエスが今や来られたのです。この主イエスこそ、神様が私たちを養い、まことの安息を与えて下さるためのパンを、従う者たちに与えて下さる方です。本日これから私たちはそのパンをいただきます。聖餐のパンと杯は、主イエスが十字架にかかって死んで下さり、肉を裂き血を流して私たちの罪の贖いを成し遂げて下さった、その恵みを味わい、それによって養われるために備えられているものです。聖餐のパンと杯を味わうことによって、私たちは、魂の空腹を満たされ、まことの安息にあずかるのです。主イエスは主の日ごとに私たちを礼拝へと招き、ただ神様の恵みによって与えられる安息にあずからせ、そして聖餐によって魂の飢えと渇きを癒して下さるのです。この招きにあずかるために必要なことは、立派な良い奉仕をして役に立つ人間となることではありません。へとへとに疲れるまで頑張っている姿を見せることでもありません。主イエスの十字架の死によって罪人である自分に救いが与えられたことを信じる信仰のみによって私たちは主の招きにあずかることができるのです。主イエスの救いを信じてその招きにあずかることの印が洗礼を受けることです。洗礼を受け、主イエスに従っていく者を、主は安息日ごとにみ言葉と聖餐によって豊かに養い、主の祝福と恵みとを喜び、まことの安息にあずかって生きることができるようにして下さいます。私たちの主イエス・キリストは安息日の主なのです。

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